1章 プロローグ
ぽすぽす。誰かが肩を叩き、意識が現実に引き戻される。
先生から寝ているのが見えないように机に立てていた教科書が倒れ、ばたっと額に当たった。
寝ぼけまなこを擦りながら振り向くと、十子が困り眉で僕を見ていた。
「しんちゃん、もうチャイム鳴ったよ?」
周りを見ると確かにみんな帰り支度をしている。僕はあくびを一つ、のろのろと鞄に教科書を詰めだした。
「いやー、つい爆睡しちゃったな。昨日、宝玉がなかなか出なくてさー」
「ゲームばっかりしてちゃダメだよ。もうすぐ私たちも三年生なんだから」
「まだ5ヶ月近くあるって。だいじょぶだいじょぶ」
僕の減らず口に、十子は眉を更に寄せ、むう、と口を尖らせる。
こいつ、背も胸もちっちゃいけど結構かわいいんだから僕なんかに構ってないで彼氏の一人や二人作ればいいのに――。
なんて言ってみるか? いや、本当に彼氏できたらなんかさみしい。10年以上前からの幼馴染だしな。やっぱり黙っとこう。
「わかったわかった。そんじゃ帰ろっか」
「わかったは一回」
「へいへい。あっごめん言い直す。へい」
「へいは一回でもダメ!」
なんてくだらない事を言い合いながら、僕達は帰宅することにした。
10月になってだいぶ涼しくなった帰り道を歩く。
さっき十子に言われたもうすぐ三年生だという言葉を思い出し、そろそろ勉強真面目にしなきゃなあと考えつつも、恐らく僕は家に帰ったらゲームするんだろうなと思っていた。
「じゃあ、また明日ね」
「おう。ばいば……」
僕の家と十子の家への分かれ道、軽く手を振りながら足を踏み出しかけたその瞬間。
どくん、と心臓が跳ねた。
一歩、また一歩と歩くたびに鼓動は激しくなり、視界も暗く狭まってくる。
思わず後ずさる。すると心臓の不快感はなくなり、視界も広くなった。
「しんちゃん、どうしたの?」
十子が不安そうな顔でこっちを見ていた。
もう一度僕の家の方向へ顔を向け、再び歩き出そうとしてみる。
が、ダメだ。心臓が転げ回り、呼吸が浅く速くなる。
どうしてだろう、この道から恐ろしいものを感じる。一歩でもこの先に進んだら何か取り返しのつかないことが起きる気がする。
内心の不安を押し殺し、僕は十子に笑顔を見せた。
「やー、最近物騒だしな。僕が家まで送ってやるよ」
踵を返し、十子の家のほうへ歩き出した。
十子は不思議そうな顔をしながら僕に着いてくる。
「ねえ、本当に大丈夫? しんちゃん、なんか顔色悪いよ」
「大丈夫だって。やっぱ寝不足はダメだな! あはは」
怖い。なぜだか分からないけど、僕の家に向かうあの道から恐怖を感じる。
でもそんなこと十子に言っても不安がらせるだけだ。平然とした顔を装って歩き続ける。
「本当に本当?」
「本当に本当に本当にだいじょーぶ! ほら置いてくぞ」
「え、でも冷や汗かいて……あっ置いてかないでよー!」
とたたた、と着いてくる十子に肩越しに笑いかけ、先導する。
もうすぐ十子の家だ。十子を送り届けた後、もう一度家に向かうか? いや、親が帰ってきてからにするほうがいいかも。
考え事をしながら歩いていると、曲がり角に着いた。ここを曲がれば十子の家だ。
「もう着くな。んじゃあ僕はここで……」
ぐにゃり。
角を曲がった瞬間、視界が歪んだ。
立ち並ぶ住宅が粘土のように形を変え、壁になり、空を覆い尽くしていった。
僕は咄嗟に振り向き、十子を手で制止する。
「とっ、十子! 下がれ!」
「えっ!? なに、どうしたの!?」
グニャグニャとした風景は僕らの前方から始まり、僕らの足元と頭上を通り過ぎて、背後で閉じた。
地面と壁と天井とが波打つのが終わると、いつのまにか僕らは石造りの通路の行き止まりにいた。
何が起こったのか分からず、目をさまよわせる。
「な、なんだよ。どこだよ、ここ!」
突然現実感の無い空間に放り込まれ、僕は思わず見知った人物――十子の手を掴んで引き寄せた。
辺りを見る。まるで中世の建造物のような、レンガを積み上げた壁と床、そして天井で囲まれている。
太陽の光が入ってくる隙間など無いが、壁に設置してあるランプのお陰で視界が確保されているようだ。
「し、しんちゃん。ちょっと痛い……」
「あっ!? ごめん!」
十子の手を握り締めてしまっていたようだ。僕は謝りながら手を離した。
でも十子も不安がっているらしく、再び僕の手をしっかりと握ってくる。
その時、十子の頭の上に緑色の数字が浮かんでいることに気づいた。
2232、と4桁の数字が浮かんでいる。
僕は十子を軽く引っ張った。ととっ、と歩く十子の頭に、数字が着いて来た。
「ゆ、夢か。お前の頭の上、なんか数字が浮かんでるぞ」
「しんちゃんだって。2、8、6、9……にせんはっぴゃくろくじゅうきゅう? って浮かんでるよ」
「えっ!? マジ!?」
頭の上を手で探ってみた。だけど何にも触れない。
ほら、と十子が手鏡を僕に向けた。
鏡に映る僕――その頭の上に、反転した数字が浮かんでいる。
「ほ、ほんとだ……ひっくり返ってよくわかんないけど、数字浮かんでる……」
手鏡を十子から借り、向けてやる。
十子は鏡をまじまじと見ると、「わー、ほんとだ浮かんでるー」などと言いながら、僕と同じく頭の上を手で探っていた。
「な、なんか夢にしては変だな。こういう場合、お前が何でも知ってて僕に教えてくれないと」
「しんちゃんこそ。私の夢なんだから私に何か教えてよ」
「なに言ってんだ。僕の夢だってば」
十子と話しているうちにだんだんと落ち着いてきた。
壁に触れてみる。冷たい硬質な感触が手に伝わってきて、これが夢ではないと主張しているようだった。
僕は意を決して進む覚悟を固めた。
「行き止まりでじっとしててもしょうがない。先に進もう」
「……うん」
十子がうつむいた。さらさらのショートカットにした髪が揺れる。
小さい頃に僕の家に遊びにきた十子が、ゴキブリが部屋に出て泣き喚いていたのを思い出した。あのときは僕が丸めた漫画雑誌でゴキブリを追い払ってやったんだった。
僕も虫は苦手だったが、十子にかっこいいところを見せてやろうと思って半泣きで雑誌を振り回したんだっけ。
「大丈夫だって。何が出ても帰宅部で鍛えたこの俊足で逃げ切ってみせるよ」
「お、置いてかないでよぉ!」
「うそうそ間違えた。この脚力で敵を蹴っ飛ばしてやるよ」
軽口で自分を奮い立たせ、歩き出した。十子が僕の手を握ったまま着いて来る。
二十歩くらい進んだとき、大音量の女性の声が通路に響き渡った。
『ぴんぽんぱんぽーん! セパルトゥラへようこそー! このダンジョンのクリア条件はゴール地点への到達ー! シンプルだねっ? そんじゃ、ゲームを楽しんでねー! しーゆーあげいん! ――ぴんぽんぱんぽーん――』
いきなり流れた女の声に硬直していたがはっと我に返り、十子に向き直る。
「あー、夢じゃなくて何かゲーム? に巻き込まれたみたいだな。もしかして僕へのサプライズ?」
「ちっ、違うよ! ていうかこんな変なとこに……じゃなくていきなり……じゃなくて、もうっ!」
十子のびっくりした顔は本物だ。僕を驚かせてやろうと企画したゲームじゃないらしい。
だけど、最近のVR技術とか凄いらしいしな。道を歩いていたと思ったら謎のダンジョンに来ている現象も再現できてもおかしくない。
「ふっ、ゲームなら任しとけよ。この陀賀野芯太様のすごさを見せてやる!」
いきなり閉じ込められた恐ろしさが反転し、高揚感へ取ってかわる。
意気揚々と僕は歩き出し、十子が慌てて追ってきた。
「ねえ、ゲームにしてもおかしいよ。TVとかだったとしても、私達そんなのに参加するとか言ってないでしょ?」
「ドッキリだよドッキリ」
「おかしいってば! お願いだからもっと慎重に……」
十子の言葉を聞き流し、ずんずん歩いていく。
道々、何度か分かれ道があった。
T字路、十字路、Y字路。適当に選んで進んでいく。
何度目かの分かれ道を曲がったとき、突然道が開けて広い部屋に出た。
そこには天井が無く、空が見える。
真っ赤な空が、そそり立つ壁に四角く切り取られている。
「おおー、すげー。VR技術って進んでんだなー」
何の警戒も無く、部屋のど真ん中を歩く。
すると、背中から胸にかけて強い衝撃を感じた。
遅れて破裂音が聞こえる。
体を見下ろすと、胸の真ん中辺りから赤い液体が滲み出していた。
何かしゃべろうとする。だが、喉がつかえて声が出ない。
代わりにせきが出た。その拍子に口からも液体が溢れ、鉄臭さが口内に充満した。
血を、吐いている。
「――なッ!? ごぼっ! ――なん……!?」
気づくと地面が目の前にあった。前のめりに倒れたらしい。
自分の血で床が見る見る赤く染まっていく。
後ろから悲鳴が聞こえた。長く、悲痛な声。
だんだん視界が暗く、狭まってくる。
そして僕は意識を手放した。
◆◆◆
目を開けた。
石造りの天井が僕を見返してくる。
そっと胸に手を当てる。がびがびした感触が返ってきて、僕は勢いよく身を起こした。
「う、あ! い、きてる……?」
体を見下ろすと、制服は血に塗れ穴が開いているが、傷はないようだった。
念のため背中にも手を回してみる。
痛みはないし、口の中の血の味もなくなっていた。
「ゆ、め? いやでも服が……」
呟く僕の目の前に、緑色の光の粒が現れた。
ぞっとして身を引くと、それは集まって人の形を成し始めた。
光の中から人が出現する。
「うあー! 二人まとめて死ぬなんて! ちーちゃんアイツに気づかなかったの!?」
「ツバサこそー。スナイパーライフルの弾くらい避けられないのー?」
「無茶言わないでよ! 反射神経は上がってないんだから!」
現れた少女の一人は歪な形をした刀を肩に担いだポニーテールの女の子だ。
すらっとした体格の、活発そうな美少女。
もう一人は髪をツインテールにした小柄な少女。十子と同じくらいの背丈だ。
この子はこれまた変な突起が飛び出した、妙な形の拳銃を持っている。
その二人がなにやら言い合いをしながら、僕のほうに気づいた。
「おっ、君血塗れじゃん。死んだ?」
「ていうかすごい驚いてるねー。もしかしてダンジョン来るの始めてー?」
この状況を当たり前のように話しかけてくる二人に気圧されていると、ツインテールの少女の顔に見覚えがあることに思い至った。
「あ、加野田さん……?」
僕の発言に、ポニーテールの少女のほうが反応した。ツインテールの子に肩をすくめ、
「ちーちゃん、知り合い?」
「んー……? そういえばウチの学校の制服着てる?」
加野田さんの方は僕の顔を知らないようだ。まあ目立たないから当然か。
「松倉高校、2-Cの陀賀野です。加野田さんは2-Bだよね?」
「あー、マツ校なのー? ごめんあたし知らないやー」
「いや、僕目立たないんでしょうがないです……」
ちら、と目を向けると、ポニーテールの少女が活発そうに笑った。
「志賀野女子の亜佐間翼です。3年だからいっこ上だねっ。よろしく」
志賀野女子高校っていったら隣の市の高校だった気がする。
なぜそんなことを覚えているかというと、クラスの男子が話題に出していたからだ。
なんでも女子のレベルがものすごく高いらしい。学力も容姿も。
確かに、亜佐間さんはそんじょそこらのアイドルよりかわいかった。
って、そんなことより。
「ここ、どこなんですか? 学校の帰りにいきなり連れて来られて……」
そこで、胸と口から血を吐き出して倒れたことを思い出した。
吐き気に襲われ、口を手で押さえる。
「あー、いきなり死ぬとびっくりするよね。どれどれっと……うお! 君もう一回死ぬと本当に死ぬよ!」
亜佐間さんが僕の頭の上を見て驚いた顔をしている。
そういえばこの二人も頭上に数字が浮いていた。
亜佐間さんは38699。加野田さんは27911だ。
「もう一回って……? あと、その数字は……?」
二人は顔を見合わせ、ふー、と息をつくと僕に説明をしてくれた。
交互に色々言われたのを必死でまとめると、こうだ。
・ダンジョンに呼ばれると、その人の生命力が数値となって可視化される。
・数値を持つ生物を殺害すると、その数値の半分が自分のポイントとなって還元される。
・ポイントが残っているうちは死んでも再生されるが、再生時に消費されるポイントが足りないと本当に死ぬ。再生される場所はダンジョン内にいくつかあるスポーンポイントのどこかにランダムで送られる。
「――んで、生き返るのに使うポイントは変動するけど、最初の頃は大体2000くらい。君最初は2800くらいあったでしょ?」
「あ、はい。十子が言うにはそのくらいあったって……」
「今は802しかないよ。だからもう一回死ぬとほんとに死ぬ」
亜佐間さんが丁寧に教えてくれるが、そのあっけない言い方に僕は恐怖を感じた。
「ていうか十子ってー? 三隅っちのことー?」
加野田さんがこっちに身を乗り出してきた。僕は頷き、
「あ、そうです。僕と一緒にここに来て――」
はっとした。僕が殺された後、十子はどうしたんだろう?
恐らく殺されている。そして僕と同じくどこかに飛ばされて――。
「とっ、十子! 十子を助けないと!」
慌てて立ち上がり、辺りを見渡した。
スタート地点と同じような、通路の行き止まりにいるようだ。
「いっ、色々教えていただいてありがとうございます! 僕は十子を探しに――ぐっ!?」
「はい、すとーっぷ。もう一回死んじゃうよ?」
駆け出そうとしたところで腕を亜佐間さんに掴まれ、緊急停止。
まるで女の子とは思えない腕力で僕を引っ張っている。
「あいっ、てええ! 亜佐間さん、力強すぎじゃね!?」
「しっつれいだなキミ! せっかく能力のこと教えてあげようとしてるのに!」
肩が変なふうにねじれ、悲鳴を上げる僕を無理やり座らせると、亜佐間さんが腰に手をあてた。
「いいですか? このゲームに参加している人物は自分のポイントを消費して特殊能力を発揮することができます。……例えばこのように」
呆然としている僕の前から、亜佐間さんが消えた。
いや、跳躍したのだ。
壁、天井、地面、あらゆるところを蹴り、まるでピンボールのように高速で通路の中を跳ね回っている。
しゅた、と再び僕の前に降り立った亜佐間さんはドヤ顔で、
「どーだ。すごかろう」
「あ、あっぱれでございまする」
「そーだろ! わはははは!」
やれやれという顔で加野田さんがツインテールを振りながらこっちに来た。
「ツバサ、パンツ見えるよー?」
「スパッツ履いてるから大丈夫!」
「そういう問題じゃ……まあいっかー。それでね? ポイント使うとこんな風に自分の身体能力を上げたり、エネルギーを飛ばしたり、物質を変化させたり出来るの」
そういうと加野田さんは地面に手をついた。すると手が石の床に沈みこみ、何かを掴みあげた。
その手にはナイフが握られている。
「これで消費量は……100ポイントくらいかな? 人によって得意なことが違うから、君もやってみなよー」
そういわれても。
亜佐間さんの方をちらっと伺うと、彼女はふんす、と鼻息荒くこっちを見ている。
加野田さんは目を輝かせて僕の手を見つめていた。
「よ、よーし。ハァッ!」
気合を入れて手をかざしてみたが、何も出ない。
ジャンプしてみたけど、いつもと同じく大して飛べない。
セイッ! といいながら地面に手を当ててみても、ナイフは出てこない。
あれ?
「な、なにもできないんですけど……」
「んぅー、コツを掴んでないからかな? にしてもちょっとくらい変化があるものなんだけどなぁ」
「才能ないっぽいねー。あたしが始めて来たときは床が勝手に変化してどろどろになったから大変だったよー」
亜佐間さんも加野田さんも一様に呆れ顔。僕はなんだか情けなくなってきた。
「あ、あの……一緒に十子を探してもらえませんか?」
「最初からそういえばよろしいのだ。しゅっぱーつ!」
「えー。めんどくさーい」
乗り気の亜佐間さんと、やる気のなさそうな加野田さん。
僕は内心、十子の心配をしてくれない二人に対して不信感と反感を持っていたが、僕一人でこの意味不明な場所から十子を助けることは出来ないと判断しプライドを捨てることにした。