――黒い影とは
「ここがその……件の場所ですか?」
校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下が横断する、建物に挟まれた細長い一画。あまり日が差さないその場所は、昼間でも薄暗かった。
宗介は、そんな場所を軽く上体を曲げてじっと見やる。和祢も周囲を見てみるが、別段変わった所は無い「よくある風景」と言った所だ。
校舎側には壁に沿うように低木が並べて植えられており、体育館側は古い壁と言う以外はこれといって気になる部分は無い。しかし、だからと言って宗介が油断する事は無いと和祢は知っていた。
和祢が気付かない小さな事も、宗介はたちどころに見つけてしまう。
一応探偵と自称しているのだから当然なのかもしれないが、しかし、一般人としての視点しか持ち合わせていない和祢にとって、宗介のそう言った鋭い観察眼はとても不可思議な物だった。
その探偵として発揮される能力をもう少し仕事に使えていたら、こんな怪しい仕事をしなくても良かったのだろうが……まあそれはともかく。
宗介はふらふらと周囲を歩き回ったが、やがて子供が戯れるかのように、校舎と体育館の間にあるマンホールにトンと立って、ぼりぼりと頭を掻き回した。
「特におかしなところはありませんねえ」
ボリュームのあるヒジキ頭を片手で乱す宗介に、萱谷は依然として困ったように眉をハの字に寄せながら頷く。
「そうなんです……おかしい所はまるでないのですが……しかし、あの“黒い影”をここで見失う事が多かったので……」
「うう……。黒い影……か……」
先程聞いた話を思い出して、和祢は身震いする。
萱谷が「石野優美が呪われて自殺したと信じるだけの根拠をお話しいたします」と言って説明した内容は、この場所で目撃した“黒い影”についての事だったのだが……その話は和祢にとってはあまり快くないものだった。
(萱谷先生は、ここで黒い影が消えるのを目撃した。その後にムラサキカガミの噂が湧いてきた。そしてその後も黒い影は時折出現してたのに、石野優美が自殺した後は……ぱったりと出現しなくなってしまった。……それってやっぱ……)
女生徒の幽霊なのだろうか、と考えそうになって、和祢は青い顔で頭を振る。
オカルトな存在に何度か触れた事のある和祢だが、しかし元々霊感もなく「霊などいない」と否定していた側の人間だったがゆえに、未だにそのような話を素直に信じられないでいた。
宗介には「いい加減、オカルトを肯定したらどうだい。受け入れた方が楽って事も有るんだよ」といつも諭されているが、怖がりなくせに意地っ張りな性根の和祢には、まだその案は受け入れられそうにない。
寧ろ、酷い目に遭えば合う程「今度こそ嘘であってほしい」と願わずにはいられなくなっていた。だからこそ、今回もただの噂で終わればいいと思っていたのだが。
(幽霊がいるとか信じられないけど、この先生が嘘をついてるとは思えないし……。そんなタダのほら吹きな先生だったら、生徒に慕われたりしないよな……)
ここに来るまでに、萱谷はかなりの生徒に気軽な挨拶を受けていた。
クラスの担任でも無いのに様々な生徒に慕われているのだから、彼が実直で優しい先生だと言う事はゆるぎない真実だろう。上っ面だけが良いただの嘘つきであれば、生徒達にあれほどフレンドリーな扱いを受けたりはしないはずだ。
だからこそ、今回は余計に「嘘だ!」とか「見間違いでは?」などと言えず、和祢も困り果てているのであるが。
「ははは、和祢ったらまた顔が青いね。幽霊の話をちょっと聞いただけでそんな風になっちゃうなんて、本当に面白いなあ」
「う、うるさい! さっさと話を進めろよ!!」
こっちに構うな、と歯を剥き出しにして威嚇する和祢に、宗介は楽しそうに笑んだまま、大げさなジェスチャーで「やれやれ」と肩を竦めて手を上げ、マンホールの上から降りてこちらへ近付いてきた。
「じゃあまあ、怒られましたから話の続きをしましょうか。……それで、萱谷さんは『奇妙なムラサキカガミの話』が流行る前に黒い影を見ていたから、石野優美と言う女生徒がその噂に関わっていると確信したんですよね?」
「ええ……。踊り場の鏡に異変が起きる前から、私はその黒い影を見ていましたし……なにより、彼女が亡くなってしまってからは、その影も全く見なくなりましたので……あるいはと思いまして」
「不審者と言う可能性は?」
まず現実的な可能性を問いかける宗介に、萱谷もさもありなんと言った様子で軽く頷いたが、その問いをはっきりと否定した。
「有りませんね。私は数十年宿直を担当していますが、遊びで忍び込んできた生徒や酔っ払いなどの“生きた人間”は、突然消えたりなどしません。それに、この一直線の道に逃げ込むのは逃げ場をなくすのと同じ事ですし、そもそも、この辺りの学校を囲む壁には、稼働している監視カメラがついておりますので……」
「犯人の後姿くらいは解る……と言う事ですか。まあ確かに、逃げようとしてこんな所に来るのは変ですけどね。わざわざこんな場所に来なくても、運動場を突っ切ってすぐに塀を越えた方が楽に脱出できますし。……例え、塀に設置された監視カメラに自分の姿が映ってしまうとしてもね」
確かにそうだ。生きた人間なら、警備員に見つかった時点で最短ルートで逃げようと無意識に計算しだすだろう。
なのに、その人影は手っ取り早い方法を選ぶ事も無く、わざわざ距離を詰められる可能性のあるこの場所で、忽然と消えてしまったのだ。
――追手の目の前で角を曲がり、この一直線の場所で姿を消す。
さすがにこれは人間とは言えまい。
「だけど……その謎の黒い影が女生徒の霊だって確証も有りませんよね?」
言い辛い事だったが、指摘せねば納得できない。
萱谷もそんな和祢の気持ちが解っているのか、頷いて答えた。
「そうですね。それだけなら、私も幻覚か何かだと思ったに違いない。……しかし、私は見てしまったんですよ。初めてあの黒い影を見た時に……影が『カガミ』と呟きながら、泣き声を漏らして鏡を探していたのをね……」
確信めいた響きを持つ萱谷の言葉に――――和祢は、一気に鳥肌を立てた。
カガミ。
……カガミと呟きながら、何かを探していた?
それがもし本当なら、噂が流行る前に、萱谷は“死んだ女生徒”の姿を見ている事になる。噂の根拠を見てしまっている事になるではないか。
思わず目を見張った和祢と宗介に、萱谷は口惜しそうに顔を歪めた。
「……最初に見た時は、生徒だと思って近付いたんですよ。その悲痛な声からして、いじめに遭っているんじゃないかと思ったので……。ですが、彼女は私が近付く前に校舎の裏……この場所に入り込んでしまい……私が後を追った時には、もう影は消えてしまっていました。だから、その時は幻覚を見たと思っていたのですが……。少ししてからまた黒い影が現れ、そして奇妙なムラサキカガミの都市伝説を知った時に、確信したんです。ああ、その都市伝説は本当にあったことなのだと。そして……自殺してしまった石野は、その彼女と何らかの関わりが有ったのではないかと……」
拳を握りしめる萱谷の心境は、推し量れる物でもあるまい。
宗介は勿論、和祢にすら彼のやるせなさや悔しさを理解する事は出来ないだろう。何を悔やんでいるのかすら、部外者の人間には解らないのだ。けれど、その感情の中に生徒の自殺を悲しんでいる思いが有る事だけは、和祢には伝わっていた。
(……こんなに良い先生が傍に居たのに、どうして自殺なんてしたんだろうな……その石野優美って女子……)
男の教師には話し辛い事だったのだろうか。
もし本当に女生徒の呪いで死んだのだとしても、誰かに助けを求める猶予はあっただろうに。親身になってくれる存在は、沢山居ただろうに。
これほどまでに悔やむ萱谷の姿を見ていると、石野優美のことも哀れに思わずにはいられなかった。
けれど、宗介はそんな感傷すらも持ち合わせていないようで。
「ふむ、なるほどね。石野優美と言う生徒の自殺がどのような物であったとしても、まあ、僕達には関係ない事ですが……。一般的な都市伝説とは異なるムラサキカガミの話は実に興味深い。……調べてみる価値は充分に有る……。解りました、出来る所まで調べてみましょう」
まるで「生徒の自殺など心底どうでもいい」と言わんばかりの台詞に、和祢は慌てて萱谷に向き直ってフォローを入れた。
「お、おじさん……! す、すみませんこんな言い方しか出来なくて……」
「いえ、名切谷先生のことは、小説を拝読して充分に理解しているつもりですので、そんなに恐縮しなくても大丈夫ですよ。伊加土君、ありがとう」
「萱谷先生……」
実の所、和祢は宗介の小説を読んだ事がないのだが(怖いので)、この名切谷宗介と言う人間は、一体自分自身をどのように小説に落としこんでいるのだろうか。
客観的に己の人非人な様子を描いているとしても、それはそれで恐ろしい。
幽霊に対する恐怖とは別の理由で背筋が寒くなる和祢だったが、宗介はニコニコと微笑んで手を叩いた。
「それでは、まずはその噂の出どころを突き留めなくてはね! ムラサキカガミの噂が流行った原因はなんなんです?」
「ああ……。確か、校内新聞の特集で都市伝説を扱った事で広まったんですよ。それが噂の大元かどうかは、私には解りませんが……」
「なるほど、校内新聞」
「今日は月曜日に張り出す新聞の記事を作成してると思います。まだ帰ってないと思うので、新聞部までご案内しますね」
二人とも何事も無く話して、歩き出す。
和祢としては、萱谷も「生徒が死んだんですよ!」とか怒るべきだと思うのだが、宗介も萱谷も先程の会話で納得したのか、喧嘩する素振りすら見せなかった。
大人と言う物は、相手の心情を慮って「それはそれ、これはこれ」と分ける事が出来るものだが、まだそれに納得できない年齢の和祢としては、あれほど生徒思いな萱谷が宗介の悪い部分を見逃すのは納得できなかった。
(やっぱあの雑誌って、読者も変な人ばっかだ……)
それは当たらずとも遠からずの感想だったが、しかし、そんな存在に関わっている和祢もまた変人であると言う事は、誰も指摘してはくれなかった。