壱―ムラサキカガミとは
ムラサキカガミ……または、紫の鏡。
この都市伝説には様々なパターンがあり、また、その伝説の由来とするエピソードも、「紫色」と「鏡」が出て来る事以外は話ごとに展開が異なっている。
最も一般的な話は、ムラサキカガミか紫の鏡という言葉を二十歳になるまで覚えていると、死んでしまう……というかなり迷惑なものだ。
だが、この話にはいくつかの救済措置があり、二十歳前に忘れていれば助かるし、忘れられずとも『白い水晶』という言葉を一緒に覚えておけば呪いが無効化されると言われていた。
救いの言葉は地域によって変わるが、この噂は基本的にこの短い説明と救済措置を語られて終わる事が多い。都市伝説としては、比較的簡潔な部類である。
しかしその為か、ムラサキカガミの由来は未だにはっきりしていなかった。
ムラサキカガミにも“呪いをかけられる理由”のエピソードは有るのだが、それらは多種多様で、紫色の鏡によっての死以外に共通点はない。そして主人公も、老婆になったり少女になったりして、決まった登場人物は居なかった。
また、ムラサキカガミの話自体、大元となる話や正確な発生地も解っていないと言う。噂は昭和の頃まで遡れるのに、誰もその起源を確認できていないのである。
そもそも、都市伝説と言う物はどこで発生したのかも解らないのが常だが、それでも年代すら把握できないと言うのは稀な事だ。
だが、この話が伝えられ、嘘と疑われつつも長く大流行し、多くの子供を恐怖に陥れたことは間違いない。
大人になってしまえば「ムラサキカガミ」はただの「くだらない単語」になるが、漠然とした理不尽さを突き付けられた子供にとっては、嘘だと思い込もうとしてもその恐ろしさは中々ぬぐえない物だっただろう。
なにせ、大人になる事なんて、子供には遠い未来の話でしかないのだから。
……無論、和祢も「怖がるこども」の内の一人だった。
「……なあ、ムラサキカガミって嘘話だろ? 今から行く学校のだって、ムラサキカガミのせいで事件が起こったって訳じゃないのに……なんで調べに行くの」
電車で二時間、バスで三十分。
都市の中心部からだいぶん離れた人気のない街を歩きながら、和祢は隣で歩く宗介に問うた。
シャッターを締めた店舗が目立つ商店街は、その左右に並んでいる店の古さも相まって、ずいぶんと怖気を誘う。今から向かう場所の話を聞いた後だと、より一層恐ろしい物が潜んでいるように思えて、生来臆病者の気がある和祢はぶるりと身震いをしながら宗介の傍を離れずに周囲を窺った。
そんな和祢とは全く正反対の態度である宗介は、目の表情が見えないサングラス越しに和祢を見ながら、気怠そうにぼりぼりと頭を掻く。
「和祢、もう何度も口が酸っぱくなるほど言ってるけどね。僕達はその噂話を面白おかしく誇張して、読者にお届けするのが仕事なんだよ。だから、噂話の真偽は関係ないんだ。荒唐無稽な脚色が出来ればそれでいいのさ」
「とか言っちゃって、事件性のないモンだったらネタにもしないくせに」
「そりゃそうだろう。僕の連載とやらは、陰惨な事件が目玉だからねえ」
うんざりした口調で言いつつ、宗介はサングラスの奥にある目蓋を指で擦る。
そう、宗介の連載している『新説・都市怪奇譚』は、これまでの数度の連載で尽く陰鬱でむごたらしい事件を取り扱っており、それが人気の一因となっているのだ。
目を覆いたくなるような生々しい死体の描写に、事件が解き明かされた時の胸を締め付けるような真実。そして、それらを虚実を交えて描き出す宗介の独特な世界観が、マイナー雑誌を愛読する読者達に受けているのである。
宗介のうんざりした口調は、そのウリを快く思っていないからなのだろう。
――しかし、和祢は知っている。
この名切谷宗介と言う男は、ただのしがない変人小説家探偵ではないと。
「偶然陰惨な事件に遭遇する」のではなく、「あえて陰惨な事件を好んで選ぶ為に、連載される事件が尽く惨い物になっている」のだと……。
(嫌そうな顔をしてるけど、怖そうな事件になるとすぐに首を突っ込むし、嬉しそうにしてんだぞ。この人ホントにヤバいよ。出来れば一緒にいたくねえ)
助手と言う立場でなければ、和祢とて逃げ出してしまいたい。名切谷宗介は、そう思ってしまう程のきち……いや、奇抜な人間なのである。
しかし、そんな宗介の本性を知っているのは、ほんの一握りに過ぎない。
このとぼけた雰囲気と人懐っこい笑顔のせいで、大多数が騙されているのだ。
だから、事件となってようやくこの中年の変人っぷりに人々は驚愕するのである。そして、必ずこう嘆く事になるのだ。
“なんて非常識で常軌を逸した人間なのか”と。
……大げさと言われるかもしれないが、和祢はそれを嫌と言うほど知っていた。
身内以外の他人には興味も湧かない冷淡な性格で、ひとたび不可解な現象や猟奇的な事件が起こると、目を輝かせて取材を始める。そこに配慮など何もありはしない。
これなら、事件現場を荒らす探偵の方がよっぽど礼儀正しい。そう思ってしまうほど、この名切谷宗介という存在は害悪に近い存在だった。
(……なのに、このオッサンは事件じゃない時は常識人ぶるから始末が悪い)
自分であんな小説を書いておいて、なにをうんざりしていると言うのだろう。
己の所業を憂いていると言うのなら、そんな恐ろしい事件に撒き込まれる和祢の方がよっぽどこの状況に憂えていると言える。
なにせ、自分達が遭遇する事件は、ただ陰惨なだけではなく……「都市伝説」という性質上、妙な現象に巻き込まれる事もしばしばあるのだから。
(これまでも酷かったもんなあ……。ベッド下の男や偽物の警官……それに、“夢と違う”……どれもこれもヤバい奴ばっかりだったし……ああちくしょう、物凄く嫌だ思い出したくもない……)
今までの事件と、それにまつわる不可思議な事象を思い出し、和祢はまたもや身震いをして自分の体をぎゅっと抱きしめた。
和祢は、説明できない事象と言う物が苦手だ。
……簡単に言えば、お化けが怖いのである。
だから余計に都市伝説を扱うこの隣の中年が恐ろしかった。……不可思議な事象、むごたらしい事件と聞けば、すぐに駆け出してしまうこの中年が。
「はぁあ……。今回は空振りだといいね、おじさん」
心の底からそう言いながら長身の宗介を見上げる和祢に、宗介は眉を上げると大げさに肩を竦めた。
「そうなればまた他の都市伝説がやってくるだけだけどね」
「あぁ……」
その言葉に、和祢は一気に力が抜けそうになる。
確かに、この都市伝説がただの「噂」であれば、自分達の出番はないだろう。
しかしそうなると、自分達がこの街にやって来たのは完全な無駄骨となる。貴重な休みの日も、ただ用事もなく不審者のような中年男と歩き回っただけという虚しい結果に終わってしまう。
「まあ……今回の都市伝説には、ちゃんと実際の事件が絡んでるから……空振りと言う訳にはいかないだろうけどね」
先程までうんざりしていたはずの宗介は、いつの間にか楽しそうに笑っている。
きっと、ダークブラウンのサングラスの奥にある目は、笑みに歪んでいるだろう。
あの話を聞いた後でよく笑える物だ。そう思いながら、和祢はブンヤから事前に聞かされた「事件」を思い出し、また軽く身震いしたのだった。
◆