序 うわさばなし
ねえねえ、知ってる? あの噂話……。
そう、あの噂話ね、本当だったんだって。だって、あの子死んじゃったんだよ。
私達お通夜にも呼ばれなかったでしょ、絶対何かあるんだよ。
普通じゃない何かが。
だから、これは絶対に「ムラサキカガミ」の呪いだって……。
……えっ、ムラサキカガミの話、しらないの?
ムラサキカガミって言うのはね……呪いの言葉なんだよ。
二十歳までに忘れないと、ムラサキカガミのせいで死んじゃった人達に殺されちゃうんだ。すごく怖い、呪いの言葉なんだよ。
でもね、大丈夫。
『白い水晶』って言葉も覚えておけば、呪いが回避できるんだって。
ネットに書いてあったから。
うん……どうしてムラサキカガミで、白い水晶なのかって?
…………なんでだろうね。
ネットにはこの話はウソだって書いてあったし、白い水晶の理由も解らないの。
でも、この学校のムラサキカガミはの呪いは本当なんだよ。
しかも、他の話よりもっと怖いんだって。
ほら、だってこの前、あのこ死んじゃったじゃない。
あの行方不明になった子も、絶対にムラサキカガミに関わっちゃったんだよ。
それに、この話が嘘だったら……この学校に、幽霊が出るはずないもの。
だからね、教えてあげる。
この学校の――――ムラサキカガミの、怖い話を。
◆
流行という物は、酷く移ろいやすく、頭に残りにくい現象である。
一億総テレビ時代であった昭和の頃ならまだしも、閉じたコミュニティが星の数ほどある現代では、新しい流行が起ころうともそれはすぐに消えてしまう。
今の時代の流行では、過去の流行のようには記憶に残らない。
年月が経てば経つほど極致的な流行が起きては消えて行き、それを知る人と知らない人の境界が顕著になっていく。
そして、それはやがて、日常の不均衡を生み出すのだ。
もしその不均衡が、自らの首を絞めるとすれば……――――
「……はあ、駄目だなこりゃ」
筋張った武骨な手が、原稿用紙をぐしゃぐしゃと丸めて放り投げる。
何投目かの紙の玉は放物線を描き、見事に和祢の頭にヒットした。
「……おじさん、お茶入ったって言ってんだけど」
二階の和室、本と原稿用紙の書き損じが広がった部屋で唸る中年に、和祢は睨みを利かせながら再度声を投げる。
これで三度目の呼びかけだが、と少々怒った声を荒げると、件の相手はやっとこっちを向いた。煤けた色の黒い癖毛の中から、丸眼鏡越しの目が和祢を見やる。
「あ、お茶。さんきゅう」
「さんきゅう、じゃないよ。俺三回くらい呼んだんですけど」
「そうだったっけ。聞こえなかったよ、ごめんごめん」
全然謝罪が感じられない気の抜けた声音に、和祢は呆れて溜息を吐く。
人を小ばかにしたような謝り方をするのが、この男……名切谷宗介の特徴の一つである。それでいて、この男には恥と言う物がない。
和祢よりも二十、正確に言うと二十一も年上だと言うのに、このような態度で平気で人をこき使うのだ。お蔭で和祢はすっかり家事に慣れてしまった。
十七歳の高校生が「知り合い」と言うだけのオッサンを世話する、というのも随分と気持ちの悪い話だが、居候させて貰っているため仕方がない。
諦めの境地にいる和祢が、ぶっきらぼうに湯呑の乗った盆を差し出すと、宗介はのろのろと起き上がって湯呑を取った。
「ところで、駄目だこりゃって何? また小説行き詰ったの」
「うん、まあね。……まったく、自分らしくない切り出しってのはやるもんじゃないよ」
ずるずると音を立てて茶を啜る宗介を横目で見ながら、和祢は自分の頭にぶつかった紙の玉を開く。そこには、世相がどうのという汚い文字がざっと書き記されていた。読んでみると小説のようだったが、作者の主張が強いため、小説と言うより檄文やら抗議文のようにも見える。
もちろん、檄文などと言う言葉は今時の高校生である和祢には思い浮かばないので、思った事を口にした。
「なんか演説くさい。くどい。全然頭に入らない」
「だよねえ。僕もそれ、次の話にどう繋げていいか解んなくて捨てちゃったよ」
「小説家って、自分の文章が解んなくなるもんなの?」
「そりゃそうさ。和祢だって、読書感想文とか書いて『自分はなんでこんな感想を書いたんだ』って思う事があるだろう。文章を最初から客観的に見れて、一発で面白い物を書けるってんなら、僕は今頃億万長者だろうさ」
「ああ、ねえ……」
不貞腐れたかのような宗介の言葉に、和祢は深く頷く。
そう、この男は小説家でありながらも全く知名度のない三文作家なのである。
昔一度だけ世間に絶賛された小説を書いたというのだが、それからは鳴かず飛ばずで、細々と代替え原稿だとか紀行文などで食い繋いでいる。
そういった仕事があるのは、宗介の才能を高く買ってくれている編集部のお蔭に他ならない。
和祢がこの家に居候してずいぶん経つが、宗介が作家としての面目を保っていられるのは、間違いなくその健気で善なる担当編集者の力なのである。
彼が居なければ、宗介は今頃飢え死にしているに違いない。
まあ、宗介はそれに恩など微塵も感じておらず、その編集を雑に扱っているが。
(本当このオッサン、他人への感謝ゼロだよなあ)
そんな事を考えながら呆れていると、一階から玄関の引き戸をガラガラと開ける音がした。誰が来たのかと思う間もなく忙しなく靴を脱ぐ音がしたかと思うと、すぐにどたどたと二階へ足音が駆け上がってくる。
それが誰かはもう解っていて、和祢と宗介はふすまの向こうを見やった。
「ちゃっす先生っ、と、カズちゃんもいたか。ちょうど良かった!」
勢いよく開いたふすまの向こうから、遠慮も無く元気な声が飛び込んでくる。
家主の都合などお構いなく上り込んできた相手は、活発を絵に描いたような容姿をしていた。
さっぱりと短く刈り込んだ黒髪に、男らしく爽やかな容姿。首も太く肩幅も広いその姿は、スポーツをやっていたと言わんばかりの健康美に溢れている。
女に縁のない容姿である和祢や宗介と比べるまでもなく、この男は女性に苦労しないタイプの伊達男だった。
そんな彼の名は、原分弥太郎と言う。仕事は編集者で、うだつの上がらない宗介の原稿を拾い、逐一雑誌に載せてくれると言うありがたいお人である。
そう、件の「健気で善なる担当」とは、彼の事なのだ。
容貌良し、性格良し、体格良しでまさに優等生な人間ではあるが、彼もそこそこ欠点はある。が、今はそれを取り沙汰する場合ではない。
彼が来る時は、仕事の要件か厄介事の持ち込みと相場が決まっている。
和祢と宗介は若干警戒しつつ、相手の顔色を窺った。
「ブンヤ、今日はどうしたんだい」
宗介のおざなりな歓迎に、原分弥太郎……通称ブンヤは、ニコニコと笑いながらどっかと座りこむ。座ると言う事は、話が長くなる合図だ。
和祢は素早く茶を汲んでくると、ブンヤに出して適当に座った。このような時は、部外者の和祢も話に参加する事になる。いつもの事なのだ。
こちらの迅速な対応に頷いたブンヤは、茶を啜りつつ話し始めた。
「いや、実はですね……今回はまたアレの話でして」
ブンヤがそう言うと、宗介の顔が嫌そうに歪む。
「またか……。もういい加減、最終回にしない?」
「ダメダメ! 先生の連載、すげー評判いいんですから!」
興奮して鼻息荒く主張し、ブンヤが勢いよく畳にたたきつけたのは、自分が編集者をしている雑誌の今月号だ。
その雑誌に、宗介の例の「アレ」が掲載されているのである。
「先生の『新説・都市怪奇譚』……人気なんだから、続けて貰わなきゃ困りますよ。なんてったって、変人小説家探偵が挑んだ【都市伝説にまつわる事件簿】なんて、今時のアニメや小説みたいじゃないですか! それが実録カッコ脚色ありって宣伝付きなんですから、読者にウケて当然ですよ」
「本人を目の前にして、いい度胸だね君は」
「俺正直な事しか言えないんで。なあカズちゃん」
「こっちに話しを振らんで下さいブンさん」
とばっちりはごめんだ、と渋い顔をする和祢に苦笑して、ブンヤは我に分が有りとばかりに己の胸を叩いて息を吐いた。
「今じゃ雑誌はどこも落ち目ですからね、マニア受けする小説をガンガン乗せて、先生には【奇節】の販売数を上げて貰わなきゃ。今まで拾ってあげた分、俺にしっかり恩返ししてくださいよ、セ・ン・セイ」
「はあ……和祢、なんとか言ってやってよ……」
うんざりだとでも言わんばかりに溜息を吐く宗介に、和祢は半眼で口を尖らせる。
「仕事断って、俺の仕送りにタカるつもり?」
「…………」
さすがにそれは大人としてどうかと思ったのか、宗介も黙り込む。
沈黙を了解と取ったのか、ブンヤは早速持ってきたものを広げ始めた。
「さて、今回の『新説・都市怪奇譚』のネタなんスけどねえ……今の流行に乗っかって、ちょっとレトロを感じさせるコレで行きましょう」
「レトロ?」
「今じゃこういうのもネットでウソだって言われちゃってますが……今回俺が仕入れてきた『新説』は、なかなかのモンなんですよ?」
そう言ってブンヤが広げたいくつかの資料には、ある一文が必ず記されていた。
都市伝説、ムラサキカガミ――――そんな、不可解な一文が。