伊加土 和祢という少年
今日もまた、拠る辺ない話がどこかで紡がれる。
『なあ、怪談とか都市伝説について語ろうぜ』
『こんな話知ってる?』
『これはある人から聞いた話なんだけど……』
『今から話すのは、俺が体験した話。信じても信じなくてもいいが……』
その言葉達を合図に始まる話は、今やどんな場所にいても画面を通して見る事が出来るようになった。
ある時はディスプレイの向こう。ある時は小さな液晶画面の向こう。そしてまたある時は、趣味人のみが集う小さなコミュニティの中。
電子の網は様々な場所に根を張り、夜ごとどこかで語られる真偽のつかない話を人々に流布し続ける。
怪人アンサー、ベッド下の男、口裂け女、こっくりさん、公衆電話の女……――。
口伝によって発生する、本当にあったかもしれない、本当は嘘かも知れない話。
話の真実を考えれば考えるほど心の中には不安が渦巻き、人はいつの間にかその話が真実であるかのように恐怖を覚えてしまう。
例えそれを嘘だと確信していようが、人は不安に抗う事など出来ないのだ。
未知の物を恐れる……それは、人間としての正しい本能なのだから。
だからこそ、我々は恐れ続ける。
真実と虚構、現実と夢想、実在と架空。
その狭間を語る物が生まれ続ける限り――――永遠に。
◆
十七年両親に守られ楽々と生きて来て、そこから唐突に突き放される時の気持ちと言ったら、なんと表せばいいだろう。
伊加土和祢はそんな事を延々と考えながら、色も褪せたおんぼろの日本家屋を見上げていた。
「やっばい……超ボロっちい……」
木造二階建て。雨に濡れないベランダ付きで、一階には縁側なんかも有る。昭和を舞台にしたドラマなどでみたような、典型的な日本的近代家屋だ。
だが、この家は真新しい和祢の家とは全然違う。一言で言ってしまえば、古臭くてぼろっちい。過去には「ニュータウン」と呼ばれた新興住宅地に住んでいた少年にとって、その家はあまりにもみすぼらしく見えた。
「……倒壊とか……しないよな?」
ぽつりと呟く声は、疑念と不安に満ち溢れている。
それもこれも、今現在和祢が置かれている理不尽な立場から来るものだが――今となっては、今日から世話になる家の強度への不安の方が強い。
このご時世、古い板壁が外装だなんていう家に誰が好き好んで住むのだろう。
家主がマニアだからだの格安だからだのという理由の他に、何かのちゃんとした理由があるのなら、是非とも教えて欲しいものだ。
そんな悪口に近い感想が、和祢の心内で去来する。しかしずっと立ち止まっていても仕方がないかと溜息を吐き、和祢は意を決して歩を進めた。
「うわ、玄関先の地面が土かよ……つーか石の道邪魔っ、玄関なんだこれ、ガラスと木って……ドア押すんじゃないのかこれ。鍵は? 防犯平気……? いやここ、インターホンもねーのかよ!」
瓦が乗った門も短い前庭の飛び石も、和祢にとっては現実で見た事のない物だ。キャリーケースの車輪を汚す土の地面も初めてだし、防犯意識の薄そうな年代物のガラス引き戸すら、和祢には奇妙に見える。
今時インターホンもない家の方が珍しい。叩いて壊れやしないだろうかと不安になったが、和祢はガシャガシャと音のなる引き戸を叩いた。
「おじさーん。あのー、名切谷さーん?」
なんとも呼びにくい苗字だが、かまぼこ板のような小さな表札にしっかりと「名切谷」と書かれているので、本名には違いない。
和祢は、今日からこの名切谷の家に世話になるのだ。
しかしこの名切谷という人物、和祢が幼い頃に何度か会った事のある人物なのだが、つい二週間前まで和祢は名前どころかその存在すらも忘れていた。
なにせ、最後に会ったのは十歳くらいの頃だ。
家に上がり込んで両親に金を貰っているのを見たのが最後で、その情けない姿は今でも和祢の頭の中に「黒いひじき頭の巨大なバケモノ」として記憶されている。
幼少期の頃の記憶が改竄されるのは良くある事だが、そんなおかしな印象になるほど、和祢にとって名切谷の容姿は特徴的だったのだ。そう、容姿だけは。
だから、名切谷が禿げ上がってさえいなければ、見知った人だと判り少しは安心できるのだが。
「…………出てこないな……って開いてんじゃんか。あのー、入りますよー?」
試しに引き戸を開けてみると、ガラガラと煩い音を立てて開いてしまった。
鍵もかけてなかったらしい。幾ら貧乏そうな様相の家であっても、これはさすがに危ないのではないか。これでは強盗が押し入っても仕方ない。
心配になりつつも、車輪が汚れたキャリーケースを玄関に置いて、家へと上がり込む。
外観で覚悟はしていたが、中もやはり昭和レトロそのままの様相だった。
玄関すぐの所には段差が高い木の階段があり、その階段の左側には、人一人がやっと通れる廊下がある。廊下の壁には、ぽつぽつと木製のドアが付いていた。
真正面に見える廊下の突き当たりは、どうやら台所のようだ。
「なんか古いドラマで見た事有るような間取りだな……」
階段下は倉庫にでもなってるのだろうか。
考えつつも、とにかく家主を探すべく、ぎしりぎしりと音が鳴る廊下を歩く。
近い場所から順に応接室、居間、台所、と探すが名切谷は見当たらない。
玄関に戻って階段側にあるトイレや風呂も探してみたが、人の気配はなかった。
「つーか、なにあの風呂場のモザイクっぽく石埋め込んだ床……アレもタイル? 床暖房ついてなくない? 俺、ここで生活すんだよな……大丈夫かな……」
和祢は、昭和の頃には当たり前だったモザイクタイル張りの風呂場を知らない。学生が見るタイル張りの場所と言えば、多くは学校やトイレくらいだし、見かけたにしろ真四角のタイルが整然と並んだ床くらいがせいぜいだ。
少なくとも、和祢は風呂場に冷たい玉石タイルが敷いてある所など見た事がないのである。
この違いだけでも和祢には衝撃的だった。
和祢は容姿からして「田舎のガキみたいだ」と言われる事は良くあるが、それでも現代っ子には違いない。真新しい物で揃えられた家に住んでいれば、不安になるのも仕方のない事だった。
だが、和祢は嫌でも今日からこの家で暮らさなければならないのだ。
何故なら、和祢の家にはもう誰も帰って来る事がないのだから。
「……親父も母さんも、何を思ってこんな家に俺を預けるかな…………どうせなら、可愛い家政婦さんとか雇ってくれても良かったんじゃない? 旅行するカネが有るんなら、家政婦くらいワケないだろ……」
そう、別に両親は死んだわけではない。事故に遭ったわけでもない。
和祢を置いて、八か月間の世界一周旅行に旅立っただけだ。
唐突に「抽選に当たったから行って来る」と言われた日には驚いたものだったが、今となっては溜息しか出てこない。夫婦二人、仲がいいのは結構なことだが、せめて家族分の応募をしておいて欲しかったと思う。
両親の仲が“良好過ぎる”事は今に始まった自体ではないので最早諦めているが、それでも子供を仲間外れにして二人で楽しい旅をするのは、なんだか納得がいかなかった。
旅行のせいで和祢はあっという間にこの家に居候する事に決められてしまったし、学校に通うのに電車を使わなければならなくなったのだ。
オマケに殆ど面識のない相手と同居生活なんて、いくら未成年だという事を考えても薄ら寒い。高校生と言えば、最早大人も同然だ。なのに、何故得体のしれない人間を保護者に据えてまで、未成年として扱われなければならないのだろう。
見ず知らずの他人とシェアハウスなんて、どう考えても窮屈なだけである。
こんな事になるなら、一人暮らしの方がよほど気楽だった。
「つーか普通一人暮らしだろ。光也とか一人暮らしだし。なんで俺だけダメ?」
友人の事を例にして不満を言うが、和祢自身その理由は解っている。
理由は恐らく、自分の容姿だ。
和祢は、周囲に「田舎っぽい」と言われるだけあって童顔であか抜けない。
それに加えて太い眉に、なんの工夫もなく首辺りまで伸ばした黒のざんばら髪とくれば、高校生としては未熟と取られても仕方ないだろう。
いくら服装が今時の男子であっても、顔つきや声が落ち着いていなければ、バスの運賃も子供価格で通ってしまう。
昔は年上の女性に褒められていい気になっていたどんぐり眼も、今となっては己の幼さを無意味に主張する厄介者だ。
童顔でも素敵、好き、なんて言われれば良いのだろうが、生まれてこのかたそのような褒め言葉は受け取った事がない。つまり、和祢の顔は良くて「中の上」程度なのだ。もちろん女性にモテた事も一度もない。
和祢はただ「子供っぽい」だけなのである。
そんな和祢の容姿を見れば、親が心配するのも仕方ないだろう。
庇護欲をそそる、と言えば聞こえはいいが、それも耳障りな言葉で言えば「子供じみていて危なっかしくて心配だ」と言える。しかし、親元を巣立ちたい盛りの思春期の男子にとって、そう言う愛情の押し付けは迷惑なだけだった。
「俺だってちゃんと一人暮らし出来るんだけどなあ。金さえ貰えたら、スーパーの惣菜とか買えばいいし。洗濯物だって洗濯機あるし。俺だってやれるっつーの」
そう思って疑わない和祢にとっては、未だに子ども扱いをしたがって過保護になる両親に憤りを禁じえなかった。
だが、いつまでも怒っていても仕方がない。
溜息を吐いて、和祢は階段の先を見上げた。
「チクショー……後は二階か? 段差凄すぎなんだけど……途中でコケそう」
荷物は置いて行った方が良いだろうか、と和祢が考えたと同時。
どたん、と勢いのいい大きな音がどこかから聞こえてきた。
……どうやら居間の奥から聞こえたらしい。慌てて居間から外廊下へと出ると、庭の奥の方に小さな小屋のようなものが見えた。狭い土地だと思っていたが、奥は随分と広かったようだ。
近いには近いが、それにしてもここまで聞こえる音とは尋常ではない。
つっかけサンダルを履いて、煉瓦で舗装してある道を駆ける。何も考えずにどんと扉を開くと、そこには思っても見ない光景が広がっていた。
「うわ……」
木製の小屋の中に溢れる、本、本、本。
分厚い本から薄い情報誌まで、幾つもの本棚に収められた本の種類は多岐に渡る。壁には古地図やら訳の分からない南国っぽいお面やらナイフやら、とにかく色々と飾り付けられていて、それを橙色の裸電球が照らしていた。
まるで、秘密基地のようだ。
思わず息を呑んだ和祢の足元で、積み上げられた本がばさりと蠢く。
「う……うぅ……」
「うわっ、そ、そこっすか!? え、大丈夫!?」
どうやら、誰かが本の雪崩に呑みこまれてしまったらしい。
良く見れば、本の山からは蟹股の足が情けなく飛び出ていた。なんとも間抜けで、漫画のような姿だ。ちょっと面白く思いつつ、和祢は本をどけてやる。
するとそこには、黒い毛玉が埋もれていた。
「え……あの……もしかして、名切谷、さん……?」
黒い毛玉と言うだけで判断してしまったが、相手はその通りとでも言うかのようにのろのろと体を起こす。肩にまで付きそうなうねった黒髪は、まさに昔目撃した「ひじき頭のバケモノ」であった。
どうやら本当にこの男が、ここの家主――名切谷宗介らしい。
「ああ、きみが和祢か……。すぐわかったよ、大きくなったね」
分厚い丸眼鏡越しに目が優しく歪んだのを見て、和祢は息を呑んだ。
眼鏡に掛かるうざったい前髪。その前髪の奥にある眠たそうな半開きの目は、稀な青丹色に染まっている。和祢は彼のその瞳に息を呑み、瞠目した。
「…………」
――昔、自分はこの男と親しかったような気がする。
ずっとずっと、昔。自分が意識してない程の昔に……。
そう思った途端、まるで旧知の仲であるかのような懐かしさが込み上げて来て、和祢は困惑に眉を顰めた。
(でも……俺、このおっさんの事なんて、ほとんど覚えてなかったよな?)
何か、忘れている事が有るのだろうか。
自分自身すら知る事のない、何か大事な事が。
名切谷宗介の人懐っこい笑顔には、そう思わせるような不思議な何かがあった。