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相貌失認

ある朝、男の子が目を覚ますと、家族の顔がみんな同じ顔になっていました。

同級生も、街を歩く人々も、みんな同じ顔。

恐怖におののく男の子は、しかしそれを相談することができませんでした。

 お母さんの朝ご飯を告げる大声で、男の子は目を覚ましました。

 鳥の巣のようなくせっ毛に、大きなくりくりとした目、小指の先ほど小さな鼻と口の、まだ幼い男の子は、しばらくぼうっとベッドの上に座っていたかと思うと、にわかに立ち上がって、1階のダイニングへと階段を駆け降りました。

 鍋をお玉でかき回すお母さんの背中に「おはよう」を言いながら、男の子はダイニングテーブルの特等席、リビングのテレビを向いた椅子によじ登り、スプーンでスクランブルエッグを掬いました。

 さて、そのスプーンを口に運んだ時のことです。

 お玉を持って振り返るお母さんの顔を見た男の子は、目を見張りました。あまりの出来事に、スプーンを口にくわえたまま、動けなくなってしまいました。

 お母さんがまた鍋のほうを向いたので、男の子ははっと我に返り、目をこすります。今のは見間違いだったのではないか。もしかしたらまだ寝ぼけているのではないか。

 しかし、男の子の予想は、遅れてやってきたお父さんとお兄ちゃんによって、裏切られます。お父さんとお兄ちゃんの顔を見た男の子はいよいよ驚きと恐怖に、体を強ばらせてしまったのです。

 男の子は、まるでゴルゴーンの目を見て石になったような様子でした。まさしく男の子は、三人の目にゴルゴーン三姉妹のそれと同じくらいの恐ろしさを感じたのです。

 つまり、お母さんとお父さんとお兄ちゃん、三人の顔は、目も、鼻も口も耳も眉毛も、さらには輪郭すらもひとつとして違うところのない、全く同じ顔をしていたのです。

 男の子はあまりに驚きました。家族の顔が寸分違わずみんな同じ顔になっていることに、身震いして慄きました。

 三人の顔から目をそらすようにそっと視線を落とすと、スプーンの凹んだ面に男の子の顔が歪んで映っていました。男の子は半ば期待するように――自分の顔が、三人と同じ顔になっていることを期待して、なのか、はたまたいつも通りの顔であることを期待して、なのかは、自分でも分かりませんでしたが――覗き込みましたが、男の子の顔は、見慣れた大きな目の可愛らしい顔でした。



 冷や汗をかき、一言も発することができないまま朝食を取り終えた男の子は、スクールバスに揺られながら、窓に映る自分の顔を眺めていました。隣の座席に座る女の子も、運転手のおじさんも、みんな同じ顔をしていました。着ている服や、体格などから、その人が誰だったのかを見分けるしかありませんでした。

 男の子は次第に、自分はまだ夢の中にいるのではないかと思い始めました。なんだってこんな恐ろしい夢を見るのだろう。それにどうして皆はこのことに気づいていないのだろう。男の子は、窓の外を歩く、クローンのような人々を眺めます。

 男の子はいつかテレビで見た、あらゆる人の顔の平均を予測して作った顔を思い浮かべました。特徴らしい特徴は見えず、のっぺりと薄ら笑いを浮かべるようなその顔は、その時分は気味悪がったものですが、今男の子を取り囲む数多の同じ顔のおぞましさよりは、よっぽどましなものに思えました。



 さて、教室に入っても、男の子の他はみんな同じ顔をしています。男の子はひきつった顔をしながら、同じ顔たちに挨拶を済ませ、自分の席に座りました。

 授業を受けながら男の子は、だんだん自分が同じ顔に慣れ始めてきたように感じました。もちろん恐ろしさや気持ち悪さは感じていましたが、少なくとも朝よりは落ち着いて見られるようになってきたのです。そうすると、今度は途端に、自分がみんなとは違う顔をしていることが恥ずかしくなってきました。

 もしかすると、間違っているのは僕の方なのではないか。もしかすると、今日からみんなで一斉に同じ顔にする予定だったのかもしれないのではないか。

 男の子は気恥ずかしさから、結局その日一日中、誰にも顔のことを相談することができませんでした。



     ※



 時が流れ、男の子は立派な青年になっていました。

 今ではもう、奥さんがいて、さらには子どもにふたりの姉妹がいます。

 もちろん奥さんも、二人の子供も、同じ顔をしています。ですが青年は、もはや恐怖など感じておりません。奥さんの顔は、世の中の他の女性と全く同じ顔をしていますが、青年の愛する奥さんの顔は、奥さんの顔だけです。時折見せる慈愛に満ちた目尻の柔らかな曲線は、まさしく奥さんだけのものだと、青年には思えたのです。ですから青年は、むしろみんなが同じ顔になって良かったとすら思う時があるのです。



 二人の子供のうち、妹の方は、そろそろあの時の男の子の年齢に近づいてきました。

 ふと青年は考えます。そういえば、姉の方があの時の男の子の年齢になった頃のある日、突然よそよそしくなったり、物思いに耽るようになったりしたときがあったな、と。

 もしかしたら――。

 青年は思わず身震いをしました。ソファの隣に腰掛ける彼の奥さんが、青年の顔を心配そうに覗き込みます。「なんでもないよ」と笑顔で取り繕う青年は、奥さんの瞳に映る自分の顔が、奥さんの顔、みんなの顔と同じであることに、とうとう気づきませんでした。

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