2-20 限界という概念への予感
漁港サリア。
それは今まで巡ってきたわずかな村や町と違い、立派に発展した街であった。
広い漁港。数多の船。そして出迎える建物の数々。それら全ては潮風に耐えうる煉瓦製であり、フェトラスは口をぽかんと開けたまま、視線だけをグルグルキョロキョロと動かしていた。
「ね、ねぇお父さん……」
「なんだ」
「これ、なに?」
「何って言われてもな」
思わず苦笑してしまう。
まぁ都会に憧れていた田舎者、ってレベルじゃなく、そもそも自然しか無いような所の育ちなのだから、この程度の文明でもフェトラスにとっては衝撃的だったのだろう。
船が桟橋につくなり、フェトラスは無言で甲板を駆け抜け、桟橋に飛び降りた。
風が吹く。
シリックにまとめてもらった黒い髪がたなびいて、フェトラスは両手を広げた。背中しか見えないが、きっと目を閉じて街の喧騒を聞き取っている最中なのだろう。
その静かなハシャぎっぷりを微笑みつつ見守り、ドラガ船長の方に向き直る。
「長い間世話になった。死ぬほどコキ使ってくれてありがとうよ」
「……おう」
ドラガ船長はこちらを振り返ることなく、じっとフェトラスの方を見つめていた。
「お前達、こっからユシラ領を目指すんだよな」
「ああ。まぁ割と近いから歩きで行ってもいいかな、と」
「そうか。単刀直入に言うが、その仕事とやらが終わったら俺の船で正式に働く気はねぇか?」
「…………」
「そうか」
静かな対話だった。
船員達がはしごをかけ、積み荷を降ろす準備を始めている。俺は先だって賃金を頂いており、その労働に加わることはない。
「少しだが、話してもいいか」
「ああ。どうした?」
「あの子は、本当にお前の子か? 血筋的な意味で」
「……違うよ」
「だろうな。全然似てねぇし。……だけど安心しろ。お前等はちゃんと親子だよ」
「そう言われると、救われた気になるよ」
だが、とドラガ船長は口調を変えた。
「あの子は……何なんだ?」
「なんだ、とは?」
「普通に育ったガキじゃないらしいから変わった所もあるようだが、素直で良い子だよ。本気でそう思う。だけど、違うんだ。あの子を見ていると……どうしようもない気持ちになる」
俺の背筋が、冷たい剣で垂直に貫かれたような気持ちになった。
ちらりとドラガ船長は船員達の様子をうかがいつつ、声を潜めた。
「俺にとっちゃ短い航海だったが、まぁ食うと寝るを同じ船で過ごせばそいつがどんなヤツかは大体分かるもんさ。だが、あの子だけは違った。見ていると、言いようもない……本当に、名前の付けられない感情を俺はうっすらと覚え始めた。だいたい三日ぐらい経った頃か」
「それは……悪い感情か?」
「それすら分からん。ただ、うん。正直に言うと俺はこう思っている。『この子はこの船で一生を過ごすべきだ』と。何故か分からんが、そうするのが一番良いことだと、俺は今も思っている」
「……あの子はまだ幼い」
「そうだな」
「だから、嫁にはやれない」
「ブッ殺すぞテメェ」
冷や汗を流しながらドラガ船長を茶化してみたのだが、彼はずっと静かにフェトラスを見守っていた。
そしてフェトラスがこちらを振り返った。
「おとーーーさーーーん!」
くるりとターン。同時に長い髪が流れる。
青空によく映えたそれは、時の流れを殺したが如く、ゆっくりと美しさを輝かせた。
彼女はこちらを向いて、俺を呼んだだけだ。
幸せそうに、嬉しそうに、楽しそうに、満面の笑みで。
「ああ」
それを見たドラガ船長が短い声を発した。
「なんとなく、分かった」
「何がだ?」
「あの子が変わってしまうのが恐ろしいんだ」
そこで俺たちの会話は終わりだった。
ドラガ船長達はこの街に少し滞在するらしいのだが、俺たちと行動を共にはしない。
「じゃーなフェトラス! またどっかで会ったら飯でも奢ってやるから、たくさん食えるようになっとけよ!」
「うん! ドラガ船長、いままでありがとう!」
「おう!」
別れはアッサリとしたものだった。
フェトラスは「早くはやく」と街のレストランに行きたがり、俺の手をにぎる。
シリックは既に完璧に「シリック」として振る舞えるようになっていたので、世話になった船員などに丁寧に礼を述べつつ、その姿からは貴族の気配が漂っていた。
こうして俺たちは本格的に漁港サリアに到着したのであった。
『言いようのない気持ちになる』
『三日ぐらい経った頃か』
『この子はこの船で一生を過ごすべきだ』
『あの子が変わってしまうのが恐ろしいんだ』
――――船上でのフェトラスは、魔王の気配を完璧に隠していたように思える。
だが確かに、思い返せば、ドラガ船長を始めとして何人かの船員達も、途中からフェトラスを可愛がることを控えていたように思える。
それは何故だ? 子供という「ちょっと珍しいもの」に飽きたからか?
……違うだろうな。
フェトラスが無邪気に近寄れば、みんな良くしてくれた。だが――――遠巻きに見る時。その視線はどんな色で、どんな温度だった?
働いていたせいか明確に気がつくことは出来なかったが、こうして振り返ってみると。初日と最終日を比べてみると。確かに微妙な変化がそこには生じていた。
それはもしかしたら「俺の娘」の限界なのかもしれない。
魔王フェトラス。
銀眼を抱く、殺戮の精霊。
「フェトラスは、フェトラスなんだけどな……」
小声でそう呟いてしまった。
思ってしまった。
彼女が魔王であることなんて、誰も望んでいないのに。
妙に心臓が高鳴って、眩暈がした。
レストラン。
「うまーーーーー!!!」
眩暈が治った。
田舎には特有の「よそ者を嫌う」性質がある。
だがそれは裏を返せば「近しい者には良くする」という現れでもある。
フェトラスは持ち前の明るさと食いっぷりでその垣根を越え、色々な人によくしてもらえた。
しかし都会ともなると、そこには「よそ者」「住人」という区別が曖昧になる代わりに「無関心さ」という性質が台頭してくる。
フェトラスは何も変わらなかったが、先日のように人が寄ってくるということは無かった。微笑ましい視線は多数いただいたが。
(この子は、人の世でも生きられるかもしれない)
そんな期待を俺は抱いていた。そしてそれは事実、成功している。
しかし、やはりドラガ船長の言っていた言葉がどうしても俺は気になった。
三日で彼は違和感を覚えた。
めざとい男が、自身のフィールドで、三日。
それは通常の人間だったら、何日分ぐらいの事なのだろう。
一週間か? 一ヶ月か? あるいは一年か?
だが、いずれにせよ「制限時間」があるような。
一定の場所に留まり続けることは、もしかしたらフェトラスには難しいのかもしれない。
暗鬱である。
ため息を押し殺しつつ、豚肉を口に運んだ。
「……お父さん、さっきから変」
「船酔いならぬ陸地酔いなのかもな」
「こんなに美味しいのに、もったいないね」
「ちなみに黙ってたけど、お前が食ってるそれ、豚肉な」
「ブー!? どうりで食べたことのない素敵なお肉だと!」
はわわわわ、と狼狽えるフェトラスは自分の腹をなでた。
「と、取りだしてもう一回食べられる身体が欲しい」
「やっ、やめろバカ! あんま妙なこと言うな!」
「だ、だって!」
「ドラガ船長が気前よく給金をくれたから、お代わりぐらいしていいよ。だから、頼むからそういう奇天烈な発想を抱くな」
苦笑いしつつ、ウェイターを俺は呼び止めた。
とりあえずこの腹ペコ娘のことは一旦置いておこう。こういう考え事は、静かな場所でするもんだ。
静かと言えばシリック。サリアについてからは妙に静かな気がする。
「どうしたシリック。お前も様子が変に見えるが」
〈……魔王テレザムについて考えてました〉
「ああ……そういう……実際どんなヤツなんだ?」
〈私は直接対峙したことはないのですが、聞き及ぶ限り、まだ弱い部類かと〉
「そいつは朗報だ。しかし……手負いなんだよな」
〈ええ。とっくに傷は完治しているでしょう。そして、憎悪は十分に高まっている頃合いかと〉
ふぅ、とため息をシリックはついた。
〈どう戦うか、という事を考え出すと止まりません〉
賑やかな食事処。
俺たちのテーブルだけが一気に冷え込んだ。
そんな気配を察したのか、フェトラスが片手をあげた。
「えーと、ちょっと聞きたいんだけど……」
「どうしたフェトラス」
「そのテレザムさんって、倒さないとダメなの?」
「はい?」
「わたしみたいに、人と仲良くは出来ないのかな」
無邪気で、残酷な質問だった。
「無理だ」
〈無理ですね〉
そろって同じ結論をフェトラスに告げる。
しかしフェトラスは食い下がった。
「で、でも。こういう美味しいご飯を一緒に食べたら、話しぐらい聞いてくれそうじゃない?」
「そりゃお前は食うことが好きだからだな。そして魔王ってのは……あー。待て。言葉を選ぶ。つーかこういう誰が聞いてるか分からない所で話す内容じゃないんだが。とにかく、だ」
俺はうーん、とかえーっととか言いながら、なんとか言葉を絞り出した。
「お前と殺戮の精霊は、違うんだよ」
「どう違うの?」
「…………どう、って言われるとな。全部違うが」
俺が言葉に詰まると、スムーズにシリックがそれを引き継いだ。
〈フェトラスにはロイルがいたでしょう? でも、普通の魔王にはお父さんやお母さんがいないんですよ。だから、彼らは、あなたとは違うのよ〉
「お父さんが、いない……」
「うん。まぁ、理由の一つになると嬉しいかな」
「もしわたしがお父さんと出会わなかったら………………」
フェトラスはカチャリとフォークを置いた。
「もしわたしがお父さんと出会わず、普通に育ったとしたら。いつかどこかで、お父さんを……お父さんと……」
殺し合ってたのか、と。
フェトラスはそれを言葉にせず、涙で表した。
彼女は俺に駆け寄り、ギュッと俺の腕に抱きついた。
「…………」
「……まぁ、とにかく俺とお前は出会ったし、そんな意味の無い仮定にビビるこたぁねぇ。大丈夫だ。心配すんな。フェトラス。俺を誰だと思ってやがる」
優しく声をかけると、フェトラスは腕から顔を離して真っ直ぐに俺を見つめた。
「お父さんは、わたしのお父さんだよぅ……」
「その通りだ。だから、大丈夫なんだよ」
「……うん!」
人前だが、俺はこらえきれずに彼女を抱きしめた。
どうかこの子が、ずっと笑っていられますように――――。
「って、お前! 俺の服で口元拭いてんじゃねーよ! ソースでベッタリじゃねぇか!」
「あ! 本当だ! えへっ、やっちゃった!」
「笑ってんじゃねーよ!」
こうして、平和な俺たちの日常が過ぎていく。
不安を一つ消せば、更に多くの不安が訪れる。
一つ消し、二つ消し、四つ消して、八つ消す。
その果てに広がるのは絶望だろうか。
あるいは、全ての不安が消え去った楽園か。
答え合わせは当分先だが、忘れてはならない。
不測の事態が起こりえれば、銀眼の魔王は権利を行使するのだ。
この日の晩、俺は初めて「フェトラスが普通の人間だったら」という事を考えた。
俺は即座に、そして静かに自分の唇を噛みきり、それを戒めとしたのであった。