30 「幸せなふたり」
突然発せられた彼女の大声のせいで耳がキーンってなった。だが、俺の聴覚は体感で二ヶ月くらい前に死んでいるので何と言ったのかは分からない。
「つっ……おおぉぉ…………ッ!」
良く分からないけど、とりあえずフェトラスを抱きしめる力を強めた。
俺からの最後のイヤガラセだ。絶対に離さない。
視界はとうに真っ暗だ。どうやら能力を酷使しすぎたらしい。目が見えない。何の匂いも感じられない。口の中は綿を詰められたみたいだ。生き残っているのはわずかな聴覚と触覚だけ。雑音とフェトラスしか感じられない。
そりゃそうだ。こんなに長時間に渡って脳みそをブン回してりゃ限界も来るわな。カウトリアを持ってた頃だって、こんなに能力を発動し続けた事は無い。
――――だけどもう能力は必要ない。命乞いせず、ただ彼女を抱きしめながら死を受け入れればいいだけだ。それはとても簡単なこと。この現状を維持するだけで俺の目的は達成する。
「び、びっくりしたぁ……」
だけど死はいつまで経っても訪れず、代わりに彼女のスッ惚けた声が聞こえた。
(え。なんで聞こえるんだ?)
と不思議に思ったが何てことはない。密着してるせいで、音声ごと身体が震えるからだ。かすかな触覚と聴覚。合わせ技で、なんとか彼女の声が感じられた。
「……いま、なんて言った?」
「えっと……その言葉は……ちゃんと口にしてほしいかな、って。えへへ」
真っ黒い視界の中、フェトラスの意味不明な言葉が続く。
「…………何言ってるんだお前?」
「わたしのこと、どう思ってるって?」
「はぁ? ごめん、意味わからん」
「だ、だから……わたしを、どう想ってるのか、って」
そこまで言って、直感的に感じた。能力はもう止めてある。俺は一言分の思考を心に浮かべた。
(やべ、まさか心読まれてる?)
「うん。読んでる」
心の声に対して、返事があった。
俺は無意識のうちにザザッっと飛び退いた。『目的』とかどうでもいい。
慌てて下がったのだが、瀕死の体はそれについて行かず、尻餅をつく形になった。
(つーか即死の竜巻がすぐ後ろにあるんじゃね!? うわあああああ死んだあああああ!)
だが死ななかった。
彼女の楽しそうな、本当に楽しそうな笑い声が聞こえた。
「あはっ、あははははは」
ノイズなんかじゃない。聞きたかった、笑い声だ。
死んだ聴覚にすら届く、もしかしたら幻聴。心の底から欲していた、フェトラスの笑い声。
嗤うと笑うは別だ。
フェトラスは、いま、笑っていた。
「……いつからだ? いつから読んでた」
「うーんと……ああ、離れちゃったら読めなくなった。お父さんに抱きしめられた時だけだよ」
「…………そこだ。そこが一番マズイ。忘れろ」
「無理。っていうか、絶対イヤ」
「覚えておけ。人間はパニックになったら、ワケの分からないことを考える生き物なんだ」
「嘘つき。お父さんすごく冷静だったじゃん。さっきも、今も。あ、今は少し動揺してるかな?」
一番に気がついたこと。
お父さん。彼女からの呼び名が、元に戻った。
二番目に気がついたこと。
俺はまだ生きてる。
だけど視界が真っ暗でよく分からない。あえて目を閉じて辺りの様子をさぐってみる。すると、魔法の気配はドコにも無いということが分かった。
ザク、ザク、ザク。闇ではなく砂を踏みしめる音が聞こえてくる。
そうして、俺はフェトラスに抱きしめられた。
「ごめん……ごめんなさいお父さん……」
彼女は泣きながらそう言ってきた。
「フェトラス……」
「酷いことしてごめんなさい……」
聴覚の次に、視界が戻ってくる。
俺の胸に飛び込んできたフェトラスの頭には、不似合いなまでに大きな双角が。そして月眼からは透明な涙がポロポロとこぼれていた。
そっと頭を撫でてやる。何故だか俺まで泣けてきた。涙が一滴流れると、あとは早かった。俺の顔は汗と涙でぐしょぐしょになる。
熱い日差し。
互いに疲れ切った体。
俺達はずっと泣きながら抱きしめ合った。
ずっと、ずっと。
もう時間の流れ方なんて分からない。
ただ世界で一番近い所にフェトラスがいる。
もうそれだけでいい。
「……ところで、わたしのことどう思ってるの?」
(愛してる)
反射的に想ってしまった。
そういえば、こいつは密着状態において俺の心が読めるとかなんとか。
「バッ、馬鹿かお前は!!」
慌てて叫んだが、俺は彼女を離さない。
もう、絶対に離さない。
「ふふっ……ねぇ、お父さん。わたしのこと好き?」
(大好きだ。当たり前のこと聞くなタコ)
「ぬがああぁぁぁぁぁぁ!!」
「えーっと、じゃあ……」
「はっ、離せ! 近寄るな!!」
(抱きしめておきながら何を言ってんだ俺は)
「わたしのこと、どれくらい好き?」
(お前がいてくれれば、他に何もいらない)
フェトラスは甘えるように俺を抱きしめた。
「えへへ……」
いかん。この流れはマズイ。なんというか、非常に遺憾だ。
俺が動揺していると、小悪魔チックに魔王たる娘はこんなことを言った。
「好きって……そう思うなら、ちゃんと口にして?」
俺は疲れ切った脳を再びフル稼働させた。
(美味しいオニオンスープの作り方。材料は玉ねぎ、バター、小麦粉、ブイヨン、色合いに緑色の野菜を少々)――――「ちょ、ちょっと!!」――――(まずは玉ねぎを薄く切ります。涙が出るけどくじけない。バターをフライパンに落として、玉ねぎを焦げない程度に熱する。色合いの緑野菜も忘れるな)――――「ひきょうだ! お父さんはずるい!!」――――(んで小麦粉を足して、良い具合になるまで炒める。そしたら水とブイヨンを足して、煮る。調味料を調節しながらブッ込めば完成だ)――――「美味しそうだけどさぁ! いまは違うの! そうじゃないの!! お腹すいてないってば!!」
(いつかフェトラスにも食わせてやりたいな。……よし、そろそろ限界。おやすみフェトラス)
「お、お父さん!? お父さん!」
遠退く意識。限界を超えた能力の使用のおかげで全感覚がカットされる。
ざまぁみろ。俺はすこし休むぜ。
こうして、俺はハッピーエンドにたどり着いたのだった。