あなたのお名前は
それは雪が降る夜のことだった。
少しばかり改築して、家具が増えたログハウスの中。
俺とフェトラス、そしてスヤスヤと眠る災害の魔王と一晩過ごしていた時のこと。
「む」
「……ん?」
俺は起動させていた観察眼によって。
そしてフェトラスは天性の勘で。
ログハウスの周辺に、なんらかの生き物が訪れたことを俺達は知った。
「フェトラスの結界とやらをスルーするってことは、モンスターじゃなくてなんかの動物かな」
「それでもここまで侵入してくるって、結構すごい事だと思う」
たまに弱いモンスターが紛れ込むこともあるが、この山は普通に危険地帯。だから俺の観察眼の判定内にまでたどり着く事はほとんど不可能だ。
ただ動物の場合は戦闘意欲旺盛なモンスターを見た瞬間に逃げ出すから、あれよあれよと迷い込んできてしまったのかもしれない。……分かりやすいのだと熊とかなんだが、どうも複数体いるっぽいな。
そして群れ方が熊のソレじゃない。あらためて観察眼の機能を拡張した俺は、周囲にいる動物が六体であることを知った。
――――余談ではあるが、俺は基本的に観察眼の機能を制限しながら使っている。
全開だとめちゃくちゃ激しくすごくとっても疲れるのだ。視界内が文字やゲージとかグラフで埋め尽くされてしまい、カウトリアが無けりゃ情報過多で呆然としてしまう。なので、多分そこら辺のモンスターが相手でも普通に死ぬと思う。
だから通常時では八割ぐらいの機能を切ってある感じだ。
カウトリアに全力で助けてもらって、やっと使える。観察眼とはそういう代物だ。
余談終わり。周囲には六匹の動物。
「あんまり強くはないな。パワータイプじゃないって意味に過ぎないけど。……放っておいてもこのログハウスが壊されることは無さそうだ」
「そっか。じゃあ無視する?」
「んー。危険性はないけど、この山に動物が入り込むのは珍しいんだよな。もう火山じゃなくなって久しいし、生態系が変わってきたのかもしれない。どうでもいいけど調査しておこう」
「りょーかい」
野生動物。武装していない人間が襲われれば、場合によっては普通に負ける。この山にそういう人間が立ち入ることは滅多に無いが、万が一いたら危ないのだ。
それに知らないことを放置する程忙しくはない。はっきり言えば俺達はヒマだった。
外にいたのは狼だった。
珍しい。わざわざこんな山奥にまで入り込んできたということは、旅をしているのか、大きな群れから独立したのか。
雪で白く染まりつつある山。
このログハウス内の灯り以外に光源が存在しないため、ある程度の距離から先は完全な闇色だが、近い場所だと割とよく見える。
狼がいることは分かっているのだが、彼等が潜んでいるのは闇の中。観察眼で位置こそ把握出来ても、目視し辛い。なので俺は観察眼の機能の一つである「夜でもよく見えるモード」を採用した。
地肌が雪で化粧をされていく最中。そしてログハウスから漏れる灯りのギリギリ範囲外で、闇に紛れた五匹の狼を俺は確認した。
「灰色のオオカミ……痩せてんなぁ……」
そして残る一匹、白い狼。どう見ても群れの長だった。痩せ気味の部下たちよりも立派な体躯をしている。
「白毛か。それで群れのリーダーになるのは凄いな?」
言葉を投げかけても狼は何も答え無い。警戒しているようにも見えない。腹が減っているようにも見えるが、俺を襲うつもりは無いらしい。
ウロウロとはしつつ、こちらを見ているような、見ていないような。そんな不思議な距離感だった。もしかしたらテリトリーに侵入してきたのが狼達の方だから、ちょっと遠慮気味なのかもしれない。
「フェトラス。真っ白いオオカミがいる。しかもデカい」
俺がそう声をかけると、ログハウスの中から災害の魔王を抱いたフェトラスも出てきた。
「どこ?」
「あそこ」
指さした先は漆黒の闇。空間なのか岩影なのかも分からない。
「見えるわけないよ。……【宙宴】」
ふわりと、優しい灯りが浮かぶ。
舞い散る白い雪がはっきりと見える。
このままだと明日には白銀の世界が広がるな、と俺は思った。
そして。フェトラスの魔法で照らされた白狼の姿が照らされていた。
「うわ~。本当に大っきい」
「灰色オオカミの群れで白毛が生き残るのは中々珍しいんだが、しかもリーダーか。さぞ苦労してきた事だろう」
「え? ……白毛だと何か問題があるの?」
「まぁな。白毛ってのはシンプルに目立つから敵に攻撃されやすい。そして残酷なことに、身内からも攻撃されることが多々あるそうだ」
「……家族なのに、嫌われるの?」
「あー……夜でも星明かりで目立つから、敵に襲われやすくなるんだよ。いくら隠れていても『ここにいまーす!』って宣言してるに等しいからな。だから他の家族を護るためにその目立つ奴を……って事なのかもしれない」
「……分かるけど、分かりたくない」
深刻な口調ではなかったが、フェトラスはそこで口を閉ざした。代わりに災害の魔王を抱き直す。
「立派な体つきしてる。それにこの雪景色の中じゃ、一体化してパッと見じゃ居場所が分からない。そういう意味じゃ、今日は奴がリーダーであることに文句は言うヤツはいないさ」
総合的に見て、強い。
格上とは決して戦わず、生存を最優先においている集団だ。逃げることが誇りですらある。しかしその牙は鋭い。
このロケーションであれば、ちょっとしたモンスターが相手でも勝てそうだ。五匹の部下に敵の意識を集中させておいて、ボスの白狼がガブリ、って作戦で。
そんな彼等だが、疲れていて、汚れていて、空腹そうにも見える。
エサを求めて徘徊を続けて、モンスターを避けて、ここにたどり着いたのだろう。
その生き方には応援(具体的に言えば食料を分けてあげるとか)したい所ではあるが、その慈悲はただの自己満足で、一過性の施しだ。しない方がマシですらある。
だけど、俺達はこの距離で見つめ合っている。
彼等とはなんの接点も無いけど、その在り方に何か答えたいと思ったのも事実だ。
そしてフェトラスは片手を上げた。
「……【退汚】」
旅路で付着した不衛生な汚れを排除し。
「【火護】」
その汚れを燃やしながら、体温を保持する魔法を施した。
流れ的にはフォースワードのようだったが、フェトラスはあえて分割したように思えた。まぁ、俺は魔法が使えないので正直に言えば「よく分からんけど」と付け足すのが適切な感想なんだろうが。
――――カウトリアのおかげで思考が及ぶ。
おそらくフォースワードにすれば確実に攻撃魔法になるからだ。汚れを退ける+火の加護で寒さを殺す = その周辺一帯を炎で焼き殺して浄化し、命が立ち入れない場所を作成する。……環境破壊型の魔法としか言いようがない。
そうならないように、フェトラスは分けた。
優しい。超優しい。優雅でジェントル。まぁ正確に言うなら淑女だけど。そして魔法の天才か? 瞬時によくこんな呪文を思い付くなぁ。
狼たちは当然魔法の存在なんて認知していない。汚れが落ち、その体温が雪に負けないようになったコトなんて気がついていないようだった。
だけど。
「わぁ」
汚れが落ちた白狼を見てフェトラスは感嘆の声を上げた。
「びっくりするぐらい綺麗……」
灰色と思っていた狼たちは毛艶が増して銀狼にも見える。
そして白狼は、雪よりも白い毛色を示した。汚れが落ちて存在感が増した白。
美しくて、儚げで、だけど強固な。……そんな矛盾を含んだ非現実感。
そんな幻想的な毛色の中、浮かび上がる琥珀の瞳の色がとても目立った。
(月眼みたいな色合いだな……きれいだ)
素直にそう思った。
美しいという価値よりも柔らかくて、
可愛らしいという評価よりも荘厳で。
そのちょうど中間地点。
その白狼は、俺にとても味わい深いため息をつかせてくれた。
「……きれいなオオカミだな」
「うん。本当に」
親子揃って同じ感想を抱く。
そして、彼もまた。
「あっ、あー。…………ああ、あぁ……」
フェトラスに抱かれた災害の魔王も、強い反応を示した。
「あっ、あー、あああー」
一生懸命に……いや、それを超えて必死に、狼たちに向かって手を伸ばした。
「おっと。よしよし。どうしたの? あの子たちが気に入った?」
「あう、あー。あー」
コイツはまだ赤ん坊状態だが、目がいい。かなり遠くにいるフェトラスの姿がきちんと視認出来る程度には見えている。
ルビーのような緋色の瞳。それが見た事ないくらいの熱を帯びて、災害の魔王は狼たちに手を伸ばし続けた。
必死に。届かない星に手を伸ばすように。焦がれるように。
まぁ気持ちは分かる。あの狼たち、とんでもない美形揃いだしな。フェトラスのおかげで毛並みは艶やか。雪が舞い散る中、絶好調で飛び跳ねられるぐらいの体温も維持出来ている。
こうなるとエサを与えて満腹にしてみたくもなるが、それはまぁ、俺のエゴでしかない。やっちゃいけない行為の一つだ。――――気まぐれな優しさの正体は「傲慢」なのだから。
なんてことをカウトリアと一緒に考えていたのだが、災害の魔王は傲慢以外の情動で狼に手を伸ばし続けた。
「あっ、うー……あぁ……あぁ……」
一生懸命に。
必死なように。
それが欲しいと、あるいは必要であると訴えるかのように。
災害の魔王――――つまり殺戮の精霊が、彼等に執着を示したのであった。
「……どう思うコレ」
「うーん……まだちょっと分からない」
『執着の極地』の別名が『愛』だったりするケースもある。
そして殺戮の精霊が、殺戮以外に執着するということは、ナニカの芽生えでもある。
……近寄ってみたい所ではあるが、狼たちは普通に警戒していて、それを許してくれそうにない。
もし災害の魔王を地面に降ろせば、彼はハイハイしながら狼に向かうはずだ。
そして殺される。
彼はまだ魔法を使えず、満足に両足で立つことも出来ない、野良犬並みのステータスのまま。六匹の狼に勝てるはずもない。
(そりゃ筋力とかは確かに成長してるし、モノを噛み砕く力も上がってるけど……弱いんだよなぁ……)
まだまだ保護しなければならない対象だ。
しかしそんな彼が、どうしてここまで狼に執着を示しているのかは分からない。
……てな感じで、考えてもしょうがない事をずっと考えているとフェトラスが「はい」と片手を上げた。
「はい、フェトラスさん。どうぞ」
「あのオオカミさん達、このまま山にいたら危ないよね?」
「……まぁ、そうだな。あいつらが食えるようなモノもあんまり無いし」
「だったら山から降ろしてあげる方が親切?」
親切。親切と来たか。
それは狼たちにとっては親切なことかもしれないが。
「……難しいラインだな。この山だとコイツ等は弱者だが、普通の森とかだったら強者だ」
ぽつりと呟くと、フェトラスは天を仰いだ。
「……なるほど。ここで殺されるか、ここ以外で何かを殺すかって事かぁ」
生きることは殺す事。
ここで狼たちに保護めいたことを施せば、この狼たちは必ず何かを殺すのだ。
それを正確に理解したフェトラスに、俺はこくりと頷いた。
「お前が手を出さなければ、コイツ等はただ運命に従うだけ。だけど介入してしまえば……どうなんだろうな。それもまたコイツ等の運命と呼んでいいかもしれんが……」
小さな親切は、大きなお世話。
誰かが喜べば、誰かが哀しむ。
生きるために食う者と、ただ食われる者。
命の価値はイコールじゃないけど、繋がってしまっている。
「だから二択だ。全責任を持つか、徹底的に無責任にやるかだ」
「へぇ、新しい考え方。無責任にやるの?」
「そうだ。気まぐれに、傲慢に、ただの興味本位で、結末の確認もせず、自己満足で」
「………………」
「コイツ等が生きれば、なにかが食われる。だからどうした。コイツ等が食われようが、逆に食おうが、俺達には関係無い。そうだろう?」
「………………」
フェトラスがじっと考え込んでしまったので、俺は幾度目かの反省をした。
カウトリア使ってる俺は、独り言みたいにツラツラと喋ってしまう悪癖があるのだ。話しがそれるし、小難しくなる。結果、よく分からなくなる。たまに注意されてるんだが、コレが中々直らない。
だから俺は咳払いを一つした。今から要点を押さえますよ、という合図だ。
「まぁ俺達とコイツ等は別に敵対してるわけじゃない。だけどこのままじゃ災害の魔王が危ないから、ちょっと遠い所にやった方がいいだろうな。お互いの安全のために」
「…………うん、まぁ、確かに」
「ついでに、なんで災害の魔王がコイツ等に反応してるのか調べてみるのもいいかもな」
「ああ、確かに」
フェトラスは先程とは違う発音で、明るい口調で同じ言葉を繰り返した。
「えっと、それじゃあ私が少し離れた森の中に連れて行こうかな。お互いの安全のために」
世界に対する影響はさておき。災害の魔王を保護する、という目的と責任を果たすためにフェトラスは片手を上げた。
「暴れられても困るし……えーと……【静侵】、からの【繋鎖】」
狼たちの気配が静まり返る。そして彼等はやんわりと鎖で繋がる。
「じゃ、行ってくるね。ついでに欲しいものとかある?」
「無いよ。ただ気を付けて行ってくれ。いってらっしゃい」
「りょーかい! それじゃ【飛翼連理】」
多人数で空を飛ぶ時の魔法を唱えたフェトラスは狼たちと共にゆっくりと上昇を初めて、やがてふわりと風に乗って雪夜の中に消えていったのであった。
本でも読んで待つか、と。
ここ最近の暇つぶしである読書に俺はいそしんだ。
まぁそうは言っても簡単な本ばかりだ。
あんまり字が読めない出自ではあったのだが、兵士になる時に最低限学んではいた。だけど知ってる単語に偏りがありすぎる。戦闘関係のことばっかりだ。
なので、今の生活は待機時間が多いから改めて文字を勉強中の俺なのであった。
もちろん本は中古品。新品なんて買えるか。紙の製法は広く知られているが、割と貴重品の部類だ。店先の値札は木板であることが多い。
余談。
この世界は魔王が優遇される世界ではあるが、文明の点においてカミサマの意向が含まれている点が結構多い。
紙なんて特にそうだ。誰がこんなもん考えつく? 木をぐちゃぐちゃにして薄く固めるとか、変態の発想だろ。
一番顕著なのが、食事のレシピだ。
天使になって色々と気がついた事なんだが……文明が浅いはずのこの世界で、食事に関する文明だけが異様に洗練されている。
誰が毒物を食えるように加工しようなんて思うよ? どう考えても正気じゃない。毒蛇を酒に漬けるとか、猛毒の魚を無毒化する方法とか、食ったら必ず腹を下す草を安全に食う方法とか。あとは死ぬ程まずい雑草を、特定の料理方法だったら絶品野菜に変える方法とか。灰と一緒に煮込むってどーゆーこと? 拷問の過程で得た知識としか思えない。
この星においてカミサマ達が強く制限しているのは、武器関連の技術だろう。聖遺物以上の武器が作られないように、かなり厳密に管理されていたようだ。
料理における『解毒』に関する知識は深いが、その毒を強化するという発想が……毒を武器として用いるという発想が、この星では許されていない。
逆に、ヒトが豊かに暮らすための文明は、なんだか促進されているような気がする。誰も気がつかないだろうけど。
紙とか。料理とか。ああ、調味料なんかもそうだな。ただの苦い果実を干して粉砕すると『すごく香りがいい』とか、どこで思い付くんだよ。一個か二個ならまだ分かるが、この星ではそういう調味料がたくさんあるのだ。小さな木の実を乾燥させて燃やしてスープや酒に入れるとか、偶然じゃ起こりえない発想だ。
きっと他にも俺が知らない『優遇されている文明や技術』ってのは、たくさんあるんだろうと思う。
魔王のための世界のくせに、そういう楽しい事には結構目こぼしされてる印象があるんだよなぁ。
……誰の意向だろう。カミサマというよりは、その奥にいる誰かさんの意向な気がする。案外月眼の魔王の誰かかもしれない。
紙に関しては、図書の魔王メメリアとか。
料理に関しては、えーと、誰だっけ。なんでも食う魔王とか。
そういう月眼の魔王達に、新たなご褒美として『歴史が繰り返されているセラクタルという星』で発生した突然変異的な文明は輸入されているのかもしれない。
ロキアスに聞けば多少の答えは得られるかのかもしれいが、当分は聞かないつもりだ。
浪漫ってのは、はっきりさせないから良いのだ。
「ただいまー」
「おかえり」
考え事と読書を同時にこなしている内にフェトラスが帰宅した。
「遅かったな」
「…………うん。届けるだけのつもりだったんだけど。ちょっとだけあのオオカミさん達と遊んできた」
「……そいつが?」
「この子が」
そう言って彼女は抱いている災害の魔王の背中をポンポンと叩いた。
強者の部類である肉食動物、狼と戯れる。
不可能っぽいんだが。
「まぁわたしが魔法で大人しくさせてたし、ちょっと触る程度だけだよ」
「あー。まぁ、そうか。それで? 何か変わったことはあったか?」
「…………ん……なんて言ったらいいんだろう」
歯切れ悪く呟いて、フェトラスは腕の中にいる災害の魔王を見つめた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
夜空を飛び続けて、わたしは森に到着した。
山から離れていて、そこまで危険なモンスターがいない区域。
ここから先は彼等自身の選択だ。旅を続けるもよし、ここを縄張りにするもよし。あるいは何かの巡り合わせで再びあのムール山に来ることもあるかもしれないが、それはそれだ。
静けさに侵入されている狼たちはとても大人しい。
このままだと狩りをする気力も沸かなくて飢え死にするかもしれないからさっさと解除してあげたい所ではあるけど、わたしはまず災害の魔王に聞いてみた。
「ほーら。オオカミさんですよー。綺麗だねー」
「あうっ、だー」
明確な執着を示し続けている災害の魔王。
そんな彼は白狼がとても気になるようだった。
わたしはけっこう緊張しながら、彼の手を取って一緒にその白い毛皮をなでさせた。
「わっ、けっこう体毛も鋭いんだね。太くて、硬くて、毛先がチクチクしてる」
寒い時期だからか、毛がこんもりとしている。
水を浴びせたらもっと痩せて見えるだろう。
災害の魔王と一緒にその毛をなで続けるうち、彼の呼吸が少しだけ荒くなりはじめた。
「はぁ……すー、はぁ……」
「…………なに。どうしたの?」
「うう。……うー…………うううう!!」
毛を撫でる手つきが、叩き付けるような、鋭く引き裂くようなモーションに変わる。
その瞬間、わたしは後ろに倒れ込むようにして災害の魔王を狼から引き剥がした。
「うう! うううー!!」
「あらあら」
じたばたと、まるで、狼を殺したいと訴えるように。
それは確かな凶暴性だった。
「うううっ、うー!」
「…………」
必死の形相だ。
その緋色の瞳が、マグマのように鈍く輝き、ゆっくりと動き回る。
「うう」
「黙りなさい」
立ち上がり、両手で彼を大きく掲げて、告げる。
「私を見なさい」
「う……」
その二つの指示は完全に通った。
緋色の瞳が、わたしを見つめる。
「…………」
「……」
ほんの少しの威圧。
それは赤子にとって命の危機を覚えて当然の災禍。
「…………」
「……う、あにょ……」
「……なるほどね」
「……」
「分かった。――――いつからだ? なんて怖い問い詰め方はしないでおく」
「……あい」
「でもはっきりと聞いておくね? ソレはお父さんを油断させておいて、いつか魔法で完璧に殺すため?」
「め、滅相もございましぇん」
災害の魔王は、ガタガタと震えながら喋ったのであった。
「そう…………じゃあ、信じるね?」
「あ、あい……」
改めての認識確認。
災害の魔王は、ヴァベル語を会得した。
「脅しじゃなくて純粋な好奇心で聞くんだけど、いつから喋るようになったの?」
「……ほ、ほんとうに、ほんとうに、ついしゃっきでしゅ……」
「――――へぇ?」
「ほんとうでしゅ! いまの、今しがたでしゅ!」
「…………」
「きゅうに! きゅうにアタマが! わー! って!」
最早命乞いですらある。それぐらい災害の魔王は真剣で、うっすらと涙を浮かべながら言葉を重ねた。
「……まぁ今まで喋れなかった方がおかしいんだけど。……急に喋るのも、ちょっと不気味ね」
お父さん、マジでどうやってわたしを育てたんだろう?
赤ん坊がいきなりしゃべり出すとか。はっきり言えば怖すぎると思うんだけど。無理じゃない? キモくない?
我ながら、魔王という名の精霊は……殺戮の精霊は、常軌を逸してると思う。
成長速度が段違いだ。ティザリアとキトアもそうだが、他の動物達とも比較にならない。命のスピードとは明確な差がある。魔というのはここまで度しがたい存在なのだろうか。
……わたしの初めての言葉は「おとうさん!」だったらしいけど、この子は「滅相もございません」だ。記録に残すにはちょっとあんまりかもしれない。
でもよく考えれば、この子は拾った日に銀眼化して、命乞いまでしたっけ。
あの日から一年以上の月日が経過している。
……なぜ、いまさら。
というよりも、何故このタイミングでヴァベル語を習得したのだろうか。
「ところで今、このオオカミさんに何をしようとしたの?」
「な、なにを……にゃにを……うう?」
「オオカミさんを殺そうとしなかった?」
「殺す……?」
本当にきょとんとした顔つきだった。
「…………あなた達。もう行っていいわよ。元気でね」
プツリと魔法の効果が切れる。狼たちはゆっくりと立ち上がり、そのまま夜の闇に消えていった。
「ああっ」
それを受けて災害の魔王が情けない声をだす。わたしに掲げられた彼は、名残惜しそうにその後ろ姿を見送った。
「……さて。自分で立てる?」
「う、え、あ……が、がんばりましゅ……」
「うん」
そっと地面に降ろすと、彼はガクガクと膝を震わせながら両足で立った。だけどすぐに尻餅をついてしまう。
「あうち」
「…………うーん。危ないのか危なくないのか」
全然分かんない。だけどまぁいいや。
「まだちょっとキツそうだね。ほら、おいで」
「あい。ごめんなしゃい……」
両手を広げると彼は恐る恐る、そしてノソノソとわたしの腕の中に収まった。
「ありがとうごじゃいましゅ……」
おずおずとお礼を言う災害の魔王。
その丁寧な言葉に、わたしは思わず笑顔を浮かべた。
「あはっ。本当に喋れてる。なんかちょっと嬉しいなぁ」
「……うれちい、でしゅ?」
「うん。ようやく自己紹介出来るね。……あ。わたしが誰か分かる?」
「ふぇとらしゅおねぇしゃま」
割と即答気味ではあったが、早口でろれつが怪しい。
だけど言った。確かに言った。絶対言った。
「もう一回」
「フェトラシュ、お姉しゃま」
おお~。
なるほど――――。
これは、いい――――。
「うふふ。そうよ。あなたのお姉ちゃんですよ~」
指先で脇腹をくすぐると、災害の魔王は「キャッキャ」と楽しそうにもがいた。
「わー。本当に喋ってる。すごい」
思わずさっき言った感想を繰り返してしまう。それぐらいわたしはびっくりしていた。
ちゃんと成長してくれて嬉しい。
――――そして同時に恐ろしい。
いきなり喋り始めたのは不気味だけど、わたしもそうだったみたいだし。
――――そして近いうちに魔法が使えるようになる。
嬉しくて、楽しい。ワクワクする。
――――その数万倍の恐怖。
ここから先はお父さんが害される可能性がある。
災害の魔王。
その殺戮性能は、いま芽吹いた。
「あ」
「あう?」
「そうだ。自己紹介しよう。改めましてわたしは魔王フェトラス。ロイルの娘にして、あなたのお姉ちゃんです」
「あい。フェトラシュお姉しゃま」
「うふふ。様なんて付けなくていいよ。家族だもん」
「……あい」
「それで、あなたのお名前なんだけど」
「……なまえ」
「わたしが付けてもいいかな?」
「えぅっ、え? あー、うー…………うん。いいでしゅ」
何か妙な躊躇いがあったが、災害の魔王はうなずいた。
とは言ってもノープラン。
彼の名前についてはお父さんから「お前が付けろ」とは言われていたけど、ピンとくるものは今まで浮かんでいない。
だけど、何故だか、わたしは彼のことをこう呼びたくなった。
「ディアウルフ」
「……うるふ?」
「どっちかっていうと、愛称はディアかな。ディアウルフ……うん。ディアウルフ。どうかな?」
「あい」
「いやハイじゃなくて。えっと、このお名前の響きが好きか嫌いかを聞いてるつもりなんだけど……」
「……? でもフェトラシュお姉しゃ、お姉たんは、ボクのことをそうよびたい? だったらそれがボクの名前……じゃないかなぁ、って……?」
思いっきり首を左右に傾げながらも、彼はそう答えた。
その答えにある種の真理を見たような気がした。
名前。
自認の一歩目。
そして同時に、他者が読み上げる己のラベル。
わたしはわたしだという自己認識を足がかりに、世界に繋がる唯一の方法。
名付けた後で気づいたことだが、かなりゾッとした。
わたしはこの子の運命を、無限の可能性をある程度絞ってしまったのだ。
……この名付けが、彼にとって幸福なモノでありますように。
そんな密やかな願いを、わたしはグッと飲み込んで微笑んだ。
「いいの? ディアウルフって、一生そう呼ぶけど」
「あい」
躊躇いのない即答。
彼の無垢なお返事を受け入れて、わたしは優しい気持ちのまま頷いた。
「……そっか。ふふっ。好き嫌いの是非はおろか、名前の理由まで聞かれないとは思わなかったけど……ま、いいや! それじゃあ貴方はディアウルフ。ディアって呼ぶね」
「あい」
「それじゃあディア。さっそくだけどお願いごとがあるの」
「あい」
「そのお願いのために、まずは一つ質問するね」
「あい」
[ロイルお父さんのこと、どう思う?]
世界が凍る程の圧を、私は放った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
(ログハウス内)
「……なんだよ」
歯切れが悪いまま黙り込んだフェトラスに声をかけると、彼女はゆっくりと顔をあげた。
「とても、とても大事なお知らせがあります」
「分かった。聞こう」
俺はすぐさま本をベッドに放り投げ、背筋を正した。
それを見てフェトラスも凜とした表情を浮かべる。
「この子の名前が決まりました」
「ほう。なんて名付けた?」
「ディアウルフ」
「……なるほど。さっきのオオカミ達と何かあったのか?」
「そうだね。そうして、ここから先が本当に重要なお話し」
「ああ」
「この子は、もう喋れます」
「…そうか」
「はい、自己紹介して」
フェトラスがそう促すと、災害の魔王がこちらを見つめてきた。
「……こ」
「……こ?」
「……こんにちわ」
――――な、なんかすげぇ怯えてる様子なんですけど。
「えーと……うん。こんにちはディアウルフ。丁寧な挨拶をどうもありがとう」
「い、いえ……こんご共、よろしくお願いしましゅお父しゃま」
「お父様ってなに?」
「わ~! すごいね~上手に言えたね~! そうだよ、このヒトがわたし達のお父様ですよ~!」
「いや、お父様ってなに」
「この子ね、最初はわたしの事も『お姉様』って呼んできたの! すごくない? 尊敬の心があるんだよ。素敵だよね!」
ある……のか?
ないだろ……。
フェトラスに対してはともかく、どう考えても人間に対して尊敬の心は無いだろ……。殺戮の精霊やぞ……。
「でもわたしはお姉ちゃんだから、様は外してもらったんだ~。でもお父さんは、お父様って呼ばせるの~。かわいくな~い?」
ニコニコと、そんなことを楽しそうに口にするフェトラス。
俺はたっぷり悩んで、やがてこう言った。
「ところでフェトラス。こいつが喋れるようになったから、お祝いに甘いものをみんなで一緒に食べたいな。雪の中で本当に、本当に申し訳ないんだけど、何か用意出来ないかな」
一秒だけ真顔になったフェトラス。
「……あ、いいね。お祝いパーティー。それじゃあすぐ戻ってくるから、
ちょっと二人でお話ししておいてね」
一センチだけ頷いた俺。
そんなやり取りを経て、フェトラスは災害の魔王……ディアウルフをベッドにそっと置いて、テクテクとログハウスから出て行った。
こうして残される俺と、殺戮の精霊/災害の魔王。
シンシンと雪が降り注ぐなか、フェトラスが飛び立つ音が聞こえた。
「おい」
「あい」
「……お前、大丈夫か? フェトラスになんか脅されてない?」
そう声をかけると彼は一瞬だけ呆けて、ブワッと瞳に涙を浮かべた。
「し、し、しょ、しょんなこと、ありましぇん。だいじょうぶでしゅ。元気いっぱい」
「お、おお。そうか……」
めちゃくちゃ可哀相な子に見える。
なんだその涙目に涙声。完全に脅迫されてるじゃねぇか。
だがそれはさておき、彼は俺に告げ口しなかった。であるのならば問いただす前にすることがあるだろう。
「……あー。そうだな。改めて自己紹介をしておくか。俺はロイル。フェトラスの父で、英雄だ。魔王を殺す者と言った方が伝わりやすいかもしれないが」
「あ、あい」
「んで、俺は普通にお前が怖いから聖遺物持ってるけど、あんまり気にしないでくれ。とりあえずお前に向ける気は今の所無い」
「あい……」
「オーケー。それじゃ、まずは握手からいこう」
「え」
ほい、と片手を差し出すと、ディアウルフは俺の顔と手を交互に見つめながらも同じように手を差し出してくれた。
「これからもよろしくな。あ、別にお父様なんて堅苦しく呼ばなくていい。好きに呼んでいいぞ。ただ、お前とか貴様とか、人間風情がとか言われたらちょっとイラッとするかもしれない。だけどロイルって呼び捨てにするぐらいなら全然構わない」
「……で、でもっ、でも……うぅ……」
マジでなにやったんだフェトラス。こいつ、ガクブルじゃねーか。
思わず遠い所を見てしまう。
現在コイツの安全性は保証されている。
フェトラスがコイツを置いて行ったのがその証拠だ。
殺しを封じられた俺でも、対処が出来るとフェトラスは確信している。そして彼女の確信とはイコールで『絶対』だ。
俺がカウトリアを持ってるからじゃない。
たぶんディアウルフは、既に躾け済みだ。
もちろん油断なんてしないけど。
というわけで。
災害の魔王に対してではなく『ディアウルフ』という個性に対して俺が抱いた第一印象は。
『ちょっと可哀相な子』なのであった。
躾けの内容次第では『めっちゃ可哀相な子』なのかもしれない。
最初に求めたものはオオカミ。
それを殺そうとした、原始の衝動。
それが優しい在り方になりますように、なんて。
そんな願いを込めて、わたしはあなたの名前を呼ぶ。