必要な苦み
魔王の誘い。
それは空腹を覚えた魔王が――――というよりも、
世界が魔王の空腹を感知したら、エサ箱からモンスターが転送されてくるというシステム。召喚という技法の応用だそうだ。
これを制御するには魔王本人が成長するしかない。つまり自力での狩りだ。腹が減る前に、自分で殺して食うってわけだな。
そのために必要なのは質の高い暴力……殺傷能力だ。
命を奪う者。ナニカを殺す者。
そして必要以上にその力を行使する者。つまりは殺戮者。それこそが魔王。
さて。幼少の魔王が野良犬並みだとしても、モンスターが召喚されるので危ない。
そしてモンスターが召喚されなくなった魔王とは、つまり戦えるようになった者。殺戮を行う者。保護を必要としない者。そんなの、もっと危ないに決まってる。
弱くても危ない。
強くなればもっと危ない。
そしてこの世界は、魔王がその先の危険性を獲得するために運用されている。
月眼。つまり対・天外の狂気における兵器として育ちますようにと、願われている。
この星はどこまでいっても魔王が優遇される場所なのだ。
「というわけで、その子をここで育てることは出来ません」
苦笑いを浮かべつつそう断言する妻に、俺は同じく苦笑いを返した。
「仰る通りだよ」
「……そもそも命と魔王は相容れない。フェトラスちゃんだけが特殊で例外。そんなこと今更言わなくても分かってるだろうに、どうして連れて帰ってきたのかしら」
ユリファの眼差しは呆れこそ含んでいるが、睨み付けているわけじゃない。どうやらこちらを責めているわけじゃないらしい。ただしっかりと言語化することによって、状況の確認と、よりより未来を模索しようとしているようだった。
そんなユリファの「なぜ?」という問いに、フェトラスがおずおずと答える。
「どうして、って聞かれると……この子を殺したくないから、としか……」
「それはフェトラスちゃんが強いからよ。……ああ、だから保護してしまったのね」
「う」
「あのねフェトラスちゃん。普通の人間にとって魔王は強くて怖くて、命を脅かすものなの。間違っても保護しようだなんて、上から目線では接することが出来ないの」
「はい……」
「殺したくないというのは優しい感性だし、フェトラスちゃんらしい素敵な意見だと思うわ。でもそれは私達家族以外の人間からすれば『強者の憐れみ』とか『傲慢な施し』って呼ばれる種類の優しさよ。……悪いことでは、ないんだろうけど。それでも」
「……人間は、魔王を怖がるもんね」
「私達、家族以外の人間は、ね」
絶対に誤解なんてさせない、という強い意志と共にユリファはその言葉を繰り返した。
そしてそれはちゃんとフェトラスにも伝わっている。彼女たちは小さく微笑み合った。
しかしそれでも、楽しくない会話は続いていく。
「その赤ん坊と私が今戦ったら、それは一方的なことになるでしょう。ミトナスの力を借りるまでもなく、この両手だけで終わらせられる」
「…………」
「だけど私が見ていない所で、その赤ん坊がキトアに襲いかかったとしたら? ……考えたくもないわね。気が滅入っちゃう」
ふぅ、とため息をついてユリファは俺の方を見た。
「それでロイルとしてはどうなの? ああ、分かりきったことは口にしなくていいわ」
ティザリアとキトア。そしてこの赤ん坊。大切なのはどっちか、だなんて。本当に分かりきっている。
俺としては省略したくない重要な部分ではあるのだが、今は大人しく彼女にしたがって言葉を紡ぐ。
「……この家からは遠い所で、様子を見ようかと思っている」
「ふぅん……なるほど。では、その赤ん坊は私の家族にはならないのね」
血縁関係無し。ふれあい皆無。思い入れゼロ。そりゃ家族とは言えない。
「……親戚みたいなモノと思って貰えたら助かる」
「…………この世界はそんなにお優しい場所かしら?」
再び苦笑い。
だけどこれは必要な会話だ。
いきなり一方的に結論を突きつけても、人間ってのはそれで納得がいく生き物じゃない。分かり会うためには多少なりとも時間と情報が必要なのだ。
「遠方で魔王を育てます。理由は殺したくないから。――――じゃあ、目的は? その子を育ててどうしたいの?」
「……正直に言う。コレだ! っていう明確な目的は無い」
「なるほどね」
「しかもコイツ自身がソレを、つまり人間に育てられる事を良しとするかも分からん。詳細は省くが、ゴリゴリに戦闘系の魔王だしな」
「ハイリスク・ノーリターンにしては賭けるモノが大きすぎないかしら?」
見返りなんていらない。殺したくないから育ててみるだけ。
そんな傲慢すぎる俺達に対して、とうとうユリファは愛想を尽かしたようなため息をついた。
「……まぁ、どうせ私は口を出すだけで、実際に出来ることなんて何も無いのよね」
そう言ってユリファは、俺とフェトラスを、この世界でも最上級の戦闘力を有する家族を見つめた。
「あなた達と違って私はもう戦えない。身体もなまっちゃったし、戦闘目的でミトナスに身体を貸すことも出来ない。だって、怖いもの。ティザリアとキトアを守るために魔王と戦うよりも、家族みんなで一緒に逃げ出したい」
「……もちろん、そんな事にならないように全力を出すよ」
「ええ、知ってる。信じているし、安心してる。ちっとも疑ってないわ。でも魔王を育てるっていうのは……フェトラスちゃんのことは家族だと思ってはいるけど、その子とフェトラスちゃんは違うの」
これもまた分かりきったことだ。だけどユリファはあえて口にした。正しい苦言。避けては通れない、きちんと受け止めなくてはならない正論。
「黙って育てられるよりずっとマシだけど、言われた所で私に出来る事ってあるのかしら?」
ここでおずおずとフェトラスが口を挟んだ。
「あのね、えっとね……わたし達、お母さんに迷惑をかけるつもりは全然なくて……でも、隠し事したくなかったの」
「……そうね。気を遣ってくれたのは分かってる。そこはありがとう。でも、普通の人間にはちょっと重すぎるかなぁ」
そう言ってユリファは椅子から立ち上がり、コツコツと足音を立てながらフェトラスに近づいた。
「貸して」
彼女が指さしたのは、災害の魔王。
一瞬で緊張感を高めた俺とフェトラスだったが、ユリファの指示通りに災害の魔王を手渡した。
満腹になっているベイビーはすやすやと眠っている。人間に抱かれたとて、目を覚ます気配は無かった。俺達の警戒心は最大級のままに維持してあるが、ナニカが起こることは無かった。
そして、ユリファが赤ん坊を抱く姿は――――とてもじゃないが、見ていられなかった。
「……キッツいわね」
俺達と同等以上の緊張感をユリファは放っていた。分かりやすく顔を歪めている。
「魔王に対する生理的嫌悪感……どういう種類の本能なのかしら……ただの眠っている赤ん坊なのに、どこからどう見ても魔王。出会った頃のフェトラスちゃんよりも格段に弱いはずなのに、こんなにも怖い」
ユリファは赤ん坊を地面に叩き付けることなく、そっとフェトラスに返した。
そして「あーあ」と深いため息をついた。
「まだ自我なんて無いだろうに、自分が魔王であることは認識しているのかしら? えっと、ボトルとラベルと中身の話しなんだけど」
「……それは、答えられない問いかけだ」
「やっぱりかぁ。もどかしいわ」
ユリファに神理の事を説明するわけにはいかない。今の俺なら上手に対処出来るかもしれないが、不測の事態――たとえばいきなり地震が起きたり、隕石が落ちてきたり、異様な魔王が襲ってきたら――という具合で突発的に『対処するヒマが無い状況』が起きたら致命的だからだ。考え過ぎだって? でも完全なる危機回避とはそういう事だ。俺は家族の安寧を死んでも護る。だから絶対に油断なんてしない。
この辺の神理に対する線引きは曖昧だが、ユリファは滅多にそのラインに触れてこない。俺が困った顔を浮かべるだけで話しが終わるからだ。
だけど、言葉と時間を積み重ねていく内に、ユリファの表情に落ち着きが戻っていったようにも見えた。
「まぁ、いいわ。どうせ私は非力な、ただの人間。どう足掻いても関われないもの。……改めて言うけど、二人とも気を遣って話してくれてありがとうね」
「いや、礼を言われるような事じゃない。むしろ俺達が謝る方っていうか」
「そうだよ! お母さん何にも悪くないし、本当に困らせちゃってゴメンねって感じだもん!」
「はいはい」
ユリファは自分の椅子に戻って、ゆっくりと座り直した。
「それじゃあ、これからは二人でその子を育てるのね」
「……ああ。基本的にはフェトラスがお姉ちゃんとして育てる。そんで俺がたまに様子を見るぐらいのつもりだ」
「そう……ん? 基本的に育てる役割なのに、お姉ちゃんとして?」
「本当はわたしがママになりたかったんだけど」
「黙りなさいフェトラス」
「お父さんが『俺の嫁はユリファだけだ』っていうから、お姉ちゃんになった」
「……言うなよ!」
照れくさくて顔を赤らめると、ユリファがちょっと驚いたような顔で俺を見つめてきた。
「…………えっと」
「……はい」
「……ふふっ。ありがとロイル」
「……おう」
「そしてごめんなさいねフェトラスちゃん。ロイルは私の夫よ。絶ッ対にあーげない」
挑発的なセリフにも聞こえるが、ユリファの表情がとても幸せそうだったのでフェトラスも微笑んだ。
「えへへー。やっぱり言って良かった。うんうん。お父さんも良かったね!」
「何がだ! いや、いい。説明すんな。水風呂に入りたくなる」
ほのぼのとした空気が流れる。次の瞬間、フェトラスはベイビーの口に干し肉を突っ込んだ。電光石火の行動に思わず身体が固まってしまう。
よく見ると、眠っていたはずのベイビーがいつの間にか目をカッ開いていた。
「……すげぇ反応速度だな。俺よりも早いとはどういうことだ」
「抱っこしてるし、実はかなり集中してるからね」
泣くより早く、空腹を実感するよりも早く、エサが与えられたのだ。赤ん坊としては文句の付けようも無いのだろう。彼は嬉しそうにモグモグと干し肉を食んでいた。
「まぁこんな感じで、しばらくは一緒に生きてみるよ。何も事件が起きないように頑張る。そしてそれを月眼に誓う」
世界最悪の担保ではあるが、相当な覚悟があることは伝わる。その重い発言に少しだけ俺とユリファは表情を硬くしたけど、フェトラスがふにゃりと笑ってこう言った。
「……でも寂しいから、このお家にはちょくちょく帰って来るつもり」
ただの捨て子を育ってるってだけなら、俺達はこんな顔つきで話し合ったりしてない。
だけど俺達は異常だ。世界という枠から外れて、歴史を紡ぐ側に立ってしまっている。
……いいや。せっかくフェトラスが気を遣って空気を柔らかくしてくれたんだ。小難しいことは置いておいて、今はフェトラスの流れに乗っておいた方がいいか。
「フェトラスが家に帰ってくる時は、代わりに俺が面倒を見るつもりだよ」
余裕余裕。だから一端、シリアスな空気を抜いて楽しく会話しようぜ? という表情を浮かべた俺だったが、ユリファは引き続き真剣な表情を浮かべていた。
「……それロイルが危ないんじゃない? この子がいきなり至近距離で魔法を撃ってきたら、流石に対処出来ないかもしれないじゃない」
月眼と天使と人間。
ユリファの危機感は、正しい。俺達が異常で異様で意味不明なだけだ。
前言撤回するには早すぎるが、俺はシリアスな空気を呼び戻した。
「カウトリアがいればなんとかなるし、最悪の場合――――」
殺す。
一瞬、口にするのを躊躇った。
それを察知したフェトラスは、静かに頷いた。
言って良いらしい。
あるいは、言うべきらしい。
だから俺は口を開いた。
「最悪の場合は」
「ストップ。ロイル。それは口にしちゃダメ」
それを制したのはユリファだった。悲しそうな顔で。
「……少なくとも今から育てようって子の前で、そんな最悪なんて想定しないで。そうならないように、して」
「しかしだな」
「もちろんロイルが怪我してほしいわけじゃないの。でも、子供を育てるのなら……ああ、説明が難しい…………その子は殺戮の精霊、魔王……なのよね……」
ふと思い返す。
そういえば幼少期のフェトラスですら、俺をエサ扱いしていたっけな。
虹の精霊。七色で構成された一。
七分割された殺戮の資質。
……それはつまり。この赤ん坊は、あの頃のフェトラスの七倍の殺意で俺に襲いかかってくるかもしれない、ということだ。
しかしどうだろう。あの頃のフェトラスが七倍の勢いで襲ってきたとしても、俺は彼女を害しただろうか? …………いやー、多分ねぇな。あの時の俺は死に物狂いで話し相手を探していた。
逆に言えば。
その死に物狂いの覚悟があったからこそ、なのかもしれない。
子育て中の事故で死ぬつもりは毛頭ないが、怪我を負うぐらいの覚悟はあってしかるべきだろう。
そういう結論を出した俺は、そっとカウトリアから指を離して両手を広げた。
「……分かった。こいつが魔法を唱えようとしたら、指でも突っ込んで黙らせるわ」
「えっ。お父さん、噛まれちゃうんじゃない?」
「噛まれるぐらいどうってことないわ」
「……カウトリア発動中の天使を食べちゃった魔王かぁ」
「ごめんやっぱなし。前言撤回。……ずっと干し肉しゃぶらせとくよ」
思い付かなかった自分が恥ずかしい。そうだよ。こいつ普通の魔王よりもヤベーんだった。
魔王は食ったモノを経験値化する。フェトラスを食って、既に銀眼化した経験を持つコイツが、更に俺みたいなレア物を食ったら――――むぅ、どれだけ自己領域が拡大するか分からん。
「いっそ、口を封じておくべきか……?」
「うーん。完全なる児童虐待の絵面なんだけど、言葉を喋るようになったら仕方ないかもねぇ……」
「子供に変な我慢させると、将来的に変な発散の仕方を覚えるらしいわよ」
「…………」
「…………」
俺とフェトラスは黙り込んだ。
子育てに関してはユリファが一番の経験者だし、その言葉には強い説得力があった。
「とりあえず。やってみるしかないとは思うけど……私からのお願いは三つ」
「少ないな。是非言ってみてくれ」
「一つ。二人とも怪我しないでね」
「その約束は全力で守る」
「二つ目。そもそも最悪の事態にならないよう、気を付けてね」
「ああ。その約束も、全力で守ろう」
「三つ目。私が気に入らないと判断した場合、あなた達が何を言っても私はその魔王を討伐するから、その時は邪魔しないでちょうだい」
「……ん?」
「……え?」
「情が移る、って言葉があるわよね。将来あなた達が親バカみたいな状態になっても、あなた達がその子の事を守ろうとしても。例えあぃ……」
不自然に言葉を切って「……いえ、その場合はもういい……」 と小声で何かを呟いたユリファは確たる決意を持って顔を上げた。
「とにかく、その子が何か問題を引き起こした時――――私が気に入らない事件が起きた場合、私とミトナスはその魔王を殺す」
それは俺の生涯において、初めてみた種類の凄みだった。
まるで真剣に星を砕くことを検討しているような。でも狂人の発想ではなく、聖人の誓約のような。そんな命以上の何かを賭ける者の静かな圧がユリファからは発せられていた。
「…………」
「…………」
その圧に俺とフェトラスは呑まれた。
ユリファは、本気で言っている。激情ではなく、冷徹な決意で。
育てるつもりなら殺すなと言ったけど、ユリファはコイツを育てない。だから、いざとなったら自分が世界の防波堤になるのだと。
すげぇ女だ。覚悟が違う。ただの人間にしておくのが惜しい。
俺はそんな世迷い言を思い浮かべてしまうぐらい動揺していたが、途端にユリファは圧を解き放って、フッと小さく笑った。
「まぁ普通に返り討ちに合うんでしょうけどね」
それでも、と顔に書いてある。
「……ち、ちょっと待ってくれ。ユリファ、お前の言っていることがよく分からない」
「そうかしら? 割と単純明快なことを言ったつもりだったけど。……一番目と二番目の約束が守られるのなら大丈夫だとは思う。だけど、もしも育てていく内で、あなた達に限らず誰かを傷つけるような事があったら、私は戦う。それが私の誓いよ」
「説明してもらってもまだ分からない。なんでお前が?」
「だって私はその子の事を知ってしまったんですもの。責任があるわ」
「いやお前には何の責任も無いんだが……」
「あるわよ。魔王を見逃すなんて、人類からすれば立派な犯罪行為よ?」
魔王を見逃す責任?
それは魔獣の感性だぞ。イリルディッヒが似たような事を言っていた。
「そして、あなた達は私に隠し事をしないらしいわね? ええ、それに関しても信用するわ。だからちゃんと、その子の育ち具合を報告してね」
「――――お、おう。任せとけ」
俺はそういう言葉を絞り出した。
やっべぇ。なんかすげぇハードル上げられたぞ。
とは言うものの。
ユリファから見たら、俺達はとんでもない異常者に見えるはずだ。
普通の人間だったら狂乱して王国騎士に通報しているだろうし、いくらフェトラスで耐性があるとはいえ、限度はある。
カルン(魔族)も。
イリルディッヒ(魔獣)も。
ザークレー(英雄)も。
月眼の間から帰還した後に襲ってきた王国騎士団のヤツ等も。
俺がフェトラスを拾って育てたと言ったら、例外なく全員が俺のことを狂人扱いしたっけ。ユリファ……シリックだって、初めて知った時は半狂乱になってたし。
そこに関しては「ん~まぁ~~そうだよな~~~ぶっちゃけ俺自身もそう思う」ぐらいしか返せない。
フェトラスはともかく、俺は頭がオカシイ部類だ。マジで。
今は人間じゃない、ってのは言い訳にならない。何だかんだ俺は自分の事を人間に属していると考えているからな。やってることが人間離れしすぎて、若干キモいけど。
だけど何とかなるし、何とかしてみせるという自負がある。
(これは油断なのか、慢心なのか、あるいは本当に頭がイカれてるのか……)
だがいずれにせよ、この赤ん坊を殺すことを禁じられたわけだ。
俺が持つ覚悟と武力が使えなくなってしまう。その上で二人目の魔王を育てることは可能だろうか?
……無理な気がする。というか実際無理だろう。
育てられなかったら殺す、だなんて。傲慢という言葉の領域を超えている。そしてそれに相応しい言葉を俺は知らない。
そして改めて気づかされる。
殺すどうこう以前に、シンプルに俺では無理だ。
――――だからやはりフェトラスが、メインで育てる事になってしまう。
だけどコイツが「ママ」になるわけにもいかない。しょうもない理由ではあるが、本当にしょうもない理由ではあるが、俺がこいつのことをママと呼びたくないから。
(と、とんでもねぇエゴだな……)
あっ。やべっ。なんか怖くなってきた。すっごい不安。
その程度の覚悟で魔王のパパになれるのか?
殺戮の精霊を、フェトラスのように育てられるのか?
たったこれだけのやり取りで、少し他人事のように思ってしまったんじゃないか?
フェトラスにほぼブン投げるような浅くてぬるい覚悟で、一体何を護れる?
――――俺が心の中で右往左往していると、ユリファがじっと俺を見つめている事に気づいた。
「な、なんだよ?」
「……ふふっ」
ユリファは特に語らず、ただ微笑むばかり。
その表情を俺はよく知っている。俺の内面を確信を持って推測した時に、ユリファはこんな風に笑う。優しく、いたずらっ子のように、可愛らしく。そして美しく。
「フェトラスちゃん。あなたが造ってくれた氷室に果物がいくつか置いてあるわ。その子も干し肉ばかりじゃ喉が渇くでしょう。食べさせてあげたら?」
「あ! そうだね。水分もいるよね……ちょっと行ってくる!」
トテトテとフェトラスが去って行く。
そして二人きりになった瞬間、ユリファは立ち上がって俺に近寄ってきた。
それから無言のまま、抱きしめられた。
「…………」
「…………」
「……別に、フェトラスちゃんをママって呼んでも気にしないわよ?」
「…………ヤだよ。あいつにはお姉ちゃんとして頑張ってもらう」
「どうして?」
「…………言うの恥ずかしい」
勢いでプロポーズした時よりも、この感情は重みを増している。
それを簡単に説明するのは、難しいのだ。
複雑に説明していいなら出来る気がするけど、長くなっちまう。フェトラスが戻ってくるまでに全部を伝えきれるとは到底思えない。
あと本当に照れくさいから、言葉にしづらい。
ギュッと、抱きしめられる力が強くなった。
「……なんかロイルって、歳を取る度に可愛らしくなってくるわね」
「お前ほどじゃないよ」
「…………真剣に考えてくれて、ありがと」
「……ユリファ。ありがとう。愛してる」
飾り気のない感情を口にすると、ユリファは今までで一番美しい笑顔を見せてくれたのだった。
こうして、魔王による魔王のための子育てが始まった。
俺としてはパパの地位を早々に降りた(その役目が果たせないから)つもりだったが、フェトラスが頑なにそれを許さなかった。
「だってお父さんがパパをやめて、わたしが本格的にママになるんだとしたら、お父さんが『おじいちゃん』になっちゃうじゃない! やだやだそれやだ絶対ヤダ!」
さもありなん。
俺もお前の事をママと呼ぶのには強い抵抗がある。
だが地位を降りたとしても、責任を放棄したつもりはない。
なので俺は一つ目標を立てることにした。
『いつかユリファのことをお母さんと呼ばせてみせる』だ。
もしもそれが叶うのなら、きっとその未来は明るくて幸せだろうと信じながら。
無力なお父さんは、全力で頑張るぞ。だから助けてカウトリア。いつもありがとう。
――――あとは特に語ることはない。
しばらくの間はムール火山で育てていた(ご飯を与える、話しかける)のだが、災害の魔王は全然成長しなかった。
魔王がどれぐらいの速度で成長するのかは全然知らんが、本当に成長が遅かった。
なにせ人間よりも成長が遅いのだ。全く大きくならない。
半年経っても魔法はおろか、言語すらあやつれない。なんなら二足歩行ですら危うい。
「フェトラスは出会って三日ぐらいで立ち上がったんだけどなぁ」
「そうなんだ。……喋ったのはどれぐらい?」
「どんぐらいだっけ……もうかなり昔の話しだし、あの頃の俺は実際の時間と、体感時間でかなり差があったからなぁ……えーと……日数もカウントしてないし……たぶん……二週間ぐらい? だと思う」
「そっか。ティザリア達に比べるとめちゃくちゃ早いね」
フェトラスは災害の魔王を高いたか~いしながら考察を重ねた。
「運動が足りてないのかな? もっと具体的に言えば、戦闘行為なんだけど」
「たぶん関係ないな。何故なら俺は、幼い頃のお前に戦闘行為をさせたことが一切無い」
そう断言すると、フェトラスはふにゃりと笑った。
[……ずっと護っててくれたんだぁ]
「おう。カッコイイだろ」
[最高]
実はこういう会話は未だに照れくさい。たぶん慣れるとか聞き飽きるとかじゃなくて、いつも本気だからだと思う。
げふん、と大げさな咳払いをして俺は話しを戻した。
「まぁとにかく成長に関してだ。お前が早すぎるのか、それともコイツが遅いのか。……まぁおそらく後者ではあると思うけど」
「なんで?」
「こんだけ成長が遅いのだとしたら、この世界じゃ生き残れない」
「うーん……そうかなぁ。お腹空いたら〈魔王の誘い〉が出るんだし、運が良ければ生き残れるんじゃない?」
それは確かにそうかもしれんが。
「運だけじゃ限界あるだろ」
ギリギリ勝てる程度のモンスターが召喚される、というのがエサ箱システムなんだが、ギリギリなのだ。運が悪ければ初戦で死ぬ。
逆にいくら運が良かったとしても、コイントスを連続で百回当てることはほぼ不可能だ。
魔王に必要なのはコイントスを当てることじゃなく、コインを奪う暴力性能だ。
「つーかそもそも普通は魔王ってのはどれぐらいで〈魔王の誘い〉を停止させられるんだろうな……。人間からすれば魔王の年齢なんて把握出来ないし、魔王自身も、自分の年齢なんか気にしないし……。人類の敵として台頭するような魔王はある程度デカくなってるけど、十年も二十年も隠れ住むような性質してないのは確かだ」
「ふ~ん……理論的に考えるなら、人間よりも、なんなら魔族よりも成長は早いはずだよね。だって魔族達の成長が早いのは『命だけじゃなく、精霊としての魔』みたいなのを半分持ってるからだし。……魔王だったらなおさらじゃない?」
「確かに」
「まぁ考えても分かんないから、今度ロキアスさんにでも聞いてみたら。あのヒトならそういうの詳しいでしょ」
こんな感じで、本当に成長が遅くて。
一年経っても、赤ん坊は赤ん坊のままだった。異様すぎる。
ちなみにロキアス曰く『魔王の成長スピードは個体差が激しい。もちろん属性に依存するんだけども。例えば火・水・木・風・土・光・闇みたいな普遍的に存在する概念に近い属性持ちは成長がかなり早い傾向にある』だそうで。
『……災害の魔王だから、成長が遅い?』
溜め込んで、ためこんで、ドーン的な属性だから、成長が遅い?
『多分ね。絶対とは言わないけど。……ああ、でもある日急に大人になるってワケでもない。幼少期を突破したら普通に大きくなるんじゃないかな?』
とのことだ。
それから、彼が初めて言葉を喋るまで、日常にあまり変化は無かった。
一日ごとに、一滴の水ぐらい重くなっていく災害の魔王。
試行錯誤を繰り返し、生活のリズムが安定しだした俺達。
滅多にはしないが、ユリファに災害の魔王の成長具合を直接見せたり。(もちろん最大警戒の上でだ)
まぁそんな感じの日々だった。
拍子抜けするぐらい、なんだか普通の日々だった。
だから彼が言葉を操れるようになるまでの期間で、特筆すべき事はたった一つ。
災害の魔王に対して、フェトラスが「ディアウルフ」と名付けた日のことだ。
それは雪が降り注ぐ夜だった。