失楽園
「どうしてあのログハウスの絵に興味を持ったのか?」
と尋ねたら、人生丸ごとを語られた。
ポーテンスフさんはあまり説明が上手くないので、私が勝手に想像で補完した部分も多々あるけど、おかげでわたしは彼についてより深く知ることが出来た。
さて、感想はいったん置いておいて、まずは冒頭の問いについて言及しよう。
――――要するに彼は、絵に興味を持った理由が今も分かっていなかった。
殺戮の精霊として産まれて、魔王として生きて、月眼に至ってなお。
全てを語った理由がそれだ。だが全て語った上でも、彼は自分の起源を理解していなかった。
だけどそれはそれでいいんだと思う。わたしだって、どのタイミングでお父さんのことが好きになったかなんて全然覚えてない。なんなら赤ん坊の頃はお父さんを食べようとしてたぐらいらしいし。
覚えている部分で、一番古い記憶を探ってみても時系列がかなり怪しい。
ごはんを持って帰ってきてくれたお父さんの笑顔。
変なダンスを披露したら、それを真似してくれたお父さん。
一緒に遊んで笑い合っていた時間。
森の中で、手をつないで歩いた日。
いつから、なんて全然分からない。けど気がついた時には好きだった。好きという感情の名前を知らなかった頃から、きっとすきだった。
あの無人島で月眼化した時、わたしはカウトリアの影響下にあった。
だから最初は、月眼でありながら愛が何なのかはよく分かってなかった。気付きを得たのは終盤だ。
お父さんと……アレして……ちょっと大げんかして……それでも最後に抱きしめられた時に、わたしはお父さんから「愛してる」って言葉をもらえたんだ。実際には口にしてなくて、カウトリアがわたし達を繋げてくれてたおかげで伝わったんだけど。
とにかく、わたしはそこで愛を識った。
最初はお互いに想うだけで口にはしてなかったっけ。
わたし達が初めて言葉で表現したのは、実はけっこう後のことだ。場所はユシラ領の宿屋。魔王テレザムとの戦いの後で、ボロボロになったお父さんが帰ってきた後のこと。
愛してる、って。
初めて直接言ってもらえた日。
可愛いとはよく言ってもらえてた。
想ってくれてることは何となく分かってた。
でも目を見て「愛してる」って言ってもらえたのは初めてで。
すごく嬉しかった。
あの日のわたしは「ちゃんと大人しく待ってたら、わたしのお願いを一個聞いてほしいの」なんて約束をお父さんと交わしていた。
お願いごと――――「愛してる」って直接言葉でいってほしかった。
だけどそうお願いするよりも先に、お父さんは言ってくれた。
信じられなかった。どうしてわたしのことをそんなに分かってくれているんだろう、ってビックリした。
すごく、すごく、すごく、嬉しい以上の感情を覚えた。
あの時のお父さんは疲れてたからすぐに寝ちゃったけど、わたしは逆にどんどん目が冴えてしまって、ギュッとしたくて、泣きながら布団に忍び込んで――――。
愛を識ったわたしは、そこから本格的に愛を理解し始めたんだと思う。
結局あの約束の件はあやふやなままに消えてしまったけど、わたしはもうお願いを叶えてもらった後だったのだ。
たまに「あの時の約束があるでしょ」みたいな使い方を冗談でやったことはあるけど……でもお父さんなら、別にそんな脅迫じみたことしなくてもわたしのお願いはいつも聞いてくれてたし。
あ、だめ。
会いたくて泣きそう。
[……いかがされました?]
[ううん……なんでもないよ……]
[ふーむ。そうですか]
そんなポーテンスフさんの言葉に耳を傾けて、わたしは深呼吸を一つする。
「ごめんね。話しを戻すよ。……ポーテンスフさんは月眼の間に来た当初、月眼状態ではなかったんだよね?」
[あまり自覚はありませんでしたが、そうなのでしょうね]
「でも今はずっと月眼のまま」
[……そうですね。ですがあの時と私と今の私、何がどう違うのかはあまり理解していません]
「そうなんだ。……でもわたしは、ポーテンスフさんが色々と自分のことを教えてくれたおかげで、よりよいヒントが出せそうだよ」
[本当に?]
その瞳は真っ直ぐだった。
[期待しても、良いのですか?]
プレッシャーがすごい。絵の改変をお願いされた時よりもひどい。
それでもわたしは大きく頷いた。
「大丈夫だよ。……でもね、わたしには『貴方の愛はコレです』なんて言える資格がないんだ。だからヒントだけになっちゃう」
[ふーむ。まぁいいでしょう。というよりもむしろ、そのスタンスの方が好ましい]
そりゃそうだよね。わたしはニッコリと笑って、居住まいを正した。
今からわたしは、責任重大な行為に手を染める。
「きっかけはログハウスの絵。……そこで貴方は何をしたんだっけ」
[……なにも。ええ、ただ足を止めただけです]
「そうだね。じゃあ逆の質問。
そこで貴方は、何をしなかった?」
最初は思い付かなかったヒントだ。彼の人生を聞いたおかげで紡げたヒント。
[何を、しなかったか……何もしなかった……としか言いようが……]
わたしは無言で答えを待つ。
ポーテンスフさんはそんなわたしを見て[ふーむ]と呟いた。
[……しなかったこと…………こじつけるように言うと、私は殺戮をしなかった?]
「そうだね」
[ふーむ…………なるほど。ただの言葉遊びかとも思いましたが、確かに。全てを殺戮する魔王が、害さなかったモノ]
「もう一つヒント。貴方はかつて殺戮の精霊だった。魔王だった」
強調してそう言うと、ポーテンスフさんの目がゆっくりと、大きく開かれた。
[干渉の魔王が、干渉しなかった……ということですか]
「うん。これは揺るぎない事実だよね」
[ふーーむ! なるほど。確かに。然り。その通り]
ポーテンスフさんは長い指先を顎に当てて、少しうつむいた。
[全てを統べる魔王。その大きなカテゴリーの中で、私の役柄は『干渉する者』だった。でもその役柄は『殺戮の資質』という神々の意志で私は汚染され……汚染されて……]
呆然と顔を上げたポーテンスフさんはゆっくりとまばたきをした。
[――――ああ、私の意志は、自我は、あの瞬間に生まれたのか]
例え話をしよう。炎の魔王がいたとする。燃やすことしか知らず、ただ全てを燃やそうとする魔王だ。
でもそんな彼が、何かを燃やさなかったとしたら。
それは殺戮の資質に対する反逆の第一歩。
月まで届く種は外界を知らぬまま、まず最初に地中で目覚める。
「そうだね。ログハウスの絵を見た時に、貴方は何もしなかったんじゃない。干渉しないことを選んだんだ」
[なるほど。……その発想はありませんでしたね]
「もちろんわたしには理由がわかんない。そしてポーテンスフさんも、別にその理由は知らなくてもいいんだよ。それはあくまでキッカケであって、今の貴方には重要なことじゃないと思うから」
[そうですか?]
「真っ白なキャンバスに初めて入れた一線よりも、出来上がった絵の方が大事でしょ?」
[……仰る通りですね]
ここでポーテンスフさんは大仰にのけぞった。
[参りました。まさかここまで有意義な会話が愉しめるとは]
「そう?」
[ええ。いつぞやは飽きて創作活動に戻ろうともしましたが、どうやら貴女と出会えたことは私にとって幸運だったようだ。現状、私はとてもワクワクしていますよ。貴女のヒントがあれば、私は愛を実感出来るかもしれない]
期待がさらに重くなった……!
でも残念ながら、ポーテンスフさんが愛を実感するのは難しいんだよなぁ!
[なるほど。ふーむ。なるほど。思えば確かに。殺して、食って、寝て。それ以外での明確な自発的行動はあまり行ってこなかった。干渉の魔王であった私が、干渉を拒んだ。ふーむ]
ポーテンスフさんの口数が増えていく。
[…………ふーむ。理由は相変わらず分かりませんね。もしかしたら、理由なんて無かったのではと思えるぐらいには]
「実際そうなんじゃないかな? わたしだって、お父さんを好きになった理由なんて思い付かないよ。色んなものが積み重なって、ようやく完成したものだし」
[なるほど。積み重ね……線と色を描き足していくように……]
ふとポーテンスフさんは壁に並んでいる絵を眺めた。
[……ここに展示してある絵は、私の描いたものではない。私の絵に展示する価値は無い。そして――――先ほど、私は展示してある絵に干渉した。初めての出来事だった]
「そうだね」
とだけわたしは返した。(あそこまで荒ぶるとは思わなかったけど)という本音は言わないでおこう。
[干渉の拒否から全ては始まった。そして長い時を経て行われた干渉……おや、矛盾してますね。干渉したくないはずだったのに、先程の干渉行為はとても愉しかった]
わたしはそこでも黙った。別に誘導の必要も無かった。
[矛盾――――そこに答えが?]
ゆっくりとポーテンスフさんは立ち上がり、並んでいる絵を一つずつ眺めていった。
放っておくと最後まで進んでいきそうだったので、わたしは待つんじゃなくて付いていくことにした。
「たくさん絵があるけど、どういう理由でこの順番になってるの? 出会った順?」
[そうですね。あのログハウスの絵から始まり、ある程度の作品までは出会った順です。途中からは魔族達が仕入れた絵もあって、並び順に理由は無くなりますが]
「……この絵、何が描いてあるの? 青いリンゴに赤い手?」
[指の数が異常ですが、そうだと思いますよ。まぁ描いた本人にしか分からないことかもしれませんが]
「うわ。小さい。なにこれ」
[小さい絵ですね]
「爪よりも小さいサイズなのに、人が描かれてる……どんな筆で描いたんだろ。凄すぎて笑っちゃう」
色んな絵を見た。ポーテンスフさんの足取りはほぼ一定だけど、時々立ち止まる。そのタイミングで声をかけたり、かけなかったり。逆にポーテンスフさんが素通りしかけた絵に対して質問してみたりとか。
そうしてたどり着いた絵は、とてもシンプルな絵だった。
真っ白なキャンバスに描かれた、真っ黒な点。●の絵。
「……うーん。さっぱり分からない」
[何がですか?]
「なにもかも。なんでこれを描こうと思ったのか、どんな人が描いたんだろうとか、この絵の価値って人間達が換算するといくらぐらいなんだろう、とか。それとこの絵のタイトルとか」
[ふむ]
ポーテンスフさんは立ち止まってくれた。
[――――私の流儀には反しますが、良い機会なのかもしれませんね]
「というと?」
[いくつかの絵には、裏側に制作者の走り書きのようなメモがついていることがあります]
そう言いながら慣れた手つきで壁から絵を取り外す。
●の絵。裏側には制作者のサインと、タイトルらしき記述が。
「こっちが作者さんのお名前で……この絵のタイトルは『最小』かな?」
[ふーむ……かなり今更ですが、そういう意味の絵でしたか]
ポーテンスフさんは[フッ]と笑い声をもらして壁に絵を戻した。
「最小。……最小? わたしには大きな黒点にしか見えないけど」
[ふーむ……ああ、だめだ。タイトルを知ってしまった以上そうにしか見えない。おっしゃる通り、これはただの黒点なんでしょう]
「以前は違うものに見えてた?」
[ただの黒点とは言いますが、実は『完全なる円』というのは存外に描くのが難しいものですよ。何か道具を使えば別なのでしょうが]
「……技術を見せつける絵ってこと?」
[……きっと、色んな意味があるのでしょう。この作者の名前は知りませんが、真円を描く技量があり、黒の塗り方も高水準の技術力を感じられる。そして付けられた『最小』のタイトル。――――あまりしない想像ですが、この絵は、もしかしたら色んな絵を書いた老練の作家がイタズラ心で作ったものなのかもしれませんね]
イタズラ心で作った絵。わたしには感じられなかった印象だ。
強いて言うなら黒い太陽? ぐらいにしか思えない。
ただ言われてみれば確かに。とても美しい円だとは思うし、塗り方も完璧だ。
「最小って、どういう意味だと思う?」
[その通りの意味だと思いますが]
「……か、解説してほしいです」
[ふーむ……絵を描く際、筆に絵の具を付けます。そしてその筆の最先端が絵に触れる時、きっとこの点が描かれる――――そういう意味の絵ではないでしょうか]
「おお~なるほど。そういうことか」
[もっと言うならば、黒色を選んだ理由は下書きの際に用いた炭棒が触れた瞬間、という意味を含んでいるように思えます]
「なるほどぉ……」
[深く考えるならば、最小という言葉が表しているのは絵だけではなく、全ての事柄に対してなのかもしれませんが……あの時代の人間が物質の最小単位の概念を理解出来るとは思えません。なので、これは絵の最小単位としての黒点を拡大して描いたものではないかと]
「はー、なるほど。そういうことかぁ。やっぱりタイトルって重要だね」
[……そうでしょうか?]
「え。だってタイトルがあった方が分かりやすいじゃん」
[……ふーむ。なるほど。タイトルは解釈の邪魔だと思っていたんですが]
ソレは、なんだか致命的な誤差のような気がした。
わたし達は絵から視線を外し、互いの顔をじっと見つめる。
[……もしや、コレも?]
「どうだろう。……ほんの少しだけ、かな?」
[ふーむ……]
タイトルが必要か不必要か。
つまり、絵を見るのか、絵の品評を見るのかに少し近い。
実物か、実物以外か。
結果か、結果から得られるものか。
だが、これがポーテンスフさんにとっては重要な事柄だとしても、わたしにとってはあまり重要なポイントではなかったりする。なのでわたしはそっと話題を誘導した。
「ちなみにこの絵に干渉するなら、どういう干渉になるの? あっ、酷いことはしないでね。この作品がもっとハッピーになるのだとしたら、という前提で」
[恐ろしいことを仰いますね]
ポーテンスフさんは初めてわたしに向かって驚愕の表情を示した。
[この絵に……干渉……? 最小を……うーむ…………しかも、ハッピーとは何だ……]
「基本的に、貴方が今まで“こちら側の絵”に対して行ってきた干渉は『蹂躙』だった。破壊的というか何というか。そういう意味で、この絵にわたしが干渉するんだとしたら簡単だよ。何かをちょこっと書き足すだけで、この絵のタイトルは意味不明になって、全部台無しになる」
[ふーむ……うーむ……]
「というわけで、問題です。この最小の絵をもっと良く……いや、良いとか悪いは個人によるか……ええと、フェトラス好みに干渉するとしたら?」
こうしてポーテンスフは静止した。
足を止めるどころではない。心臓さえも止まってしまったんじゃないかっていうぐらい、凍り付いた。
そしてかなりの時間を置いて、彼は震えながらようやく答えた。
[それは、干渉という表現から、逸脱しているように、思えます]
「そっか」
彼はすぐさまきびすを返し、廊下を戻り始めた。わたしは黙ってそれに付いていく。
やがてポーテンスフさんは、自分が『改変』していた絵にたどり着いた。
巨人が現れた村。腐ったリンゴ。可哀相な猫。燃やされたログハウス。
本当なら地獄のような絵が飾られている“あちら側”にも行きたいんだろうけど、彼はその場で膝から崩れ落ちた。
「………………」
[――――胸が、痛いものです]
「そっか」
[私は何も分かっていなかった]
「そうかもしれないね」
[干渉の魔王が干渉を拒絶し、そして先程行われたのは干渉ではなく改変だ]
「絵を書き換えちゃったからね」
[……干渉すべきだったのは]
ハッと、こちらにすがりつくような視線をポーテンスフさんは送った。
「ちなみに今度またカレーを作るつもりなんだけど、どんなカレーが食べたい?」
[……魚の入ったカレーを]
「その干渉、受理しました――――入れて煮込むと思った? ふふん。揚げた魚にカレーをかけてあげるよ」
[ツッ!]
干渉を受け、その予想を超える。
わたしはにっこりと笑って、ポーテンスフさんがカレーを食べる姿を想像した。
そう、つまり。
ようするに。
実は。
「ポーテンスフさんに最後のヒント」
[…………はい]
「……いらないようにも見えるけど?」
[いえ。必要です。私に教えてください。
私は……どこから間違えていた?]
「間違いではないけれど。強いて言うのならば
――――この楽園を設定した時から、だと思うよ」
この楽園でポーテンスフさんが愛を実感するのは、とても難しい。
私の言葉を耳にして、ポーテンスフさんは少しだけ泣いた。
そう、つまり。
ようするに。
実は。
ポーテンスフさんの楽園は、彼のためにつくられたのに、彼を幸せにすることが出来ないのだ。
その理由、いや、原因は彼が高潔なせい。
『実は私、自分でも色々と作品を製作してるんですよ。ですがとても難しい。何を作っても満足出来ないんです。作品が完成した時は達成感のような清々しさを覚えますし、我ながら上手い物が作れたと笑みを浮かべる事も稀にあるのですが、納得したことは一度も無いのです』
主が幸せを実感できない楽園。
問い。そんな楽園あるのだろうか?
答え。あってたまるか。
彼は愛を消費する者じゃない。彼は愛を創造する者だ。
ナニカを愛するよりも、誰かにナニカを愛させる方が向いている。
愛を語れないんじゃない。
彼は、自分の愛を騙れないのだ。
「足を止めること。それが貴方の中での判断基準の一つ。……でも貴方はこの広大な美術館を彷徨って、アトリエで創り続けて、それでも貴方の彷徨いは止まらなかった。与えられた楽園に、貴方の欲する物はなかった」
静かに声をかけると、ポーテンスフさんは涙をぬぐって立ち上がった。
[ですが、この楽園に名を付けたのは私自身だ。そしてその願いには、きっと……愛のようなものが……]
「そうだね。きっと、ポーテンスフさんにも、その願いにも、資格はあった。だけど」
ここから先は言葉に直すのが難しい。
でもわたしは伝えなくちゃいけない。背筋を凜と伸ばしているこの先輩に、わたしは心からの尊敬を伝えなくちゃいけない。
「――――誤魔化せば良かったのに。妥協すれば良かったのに。ただ溺れていれば良かったのに」
[………………]
「でも貴方はそうしなかった。本当に難しいことを、自分の力で達成しようとした」
[一体何を……?]
「ねぇ。自分で描いた絵にうっとり出来る芸術家って、いると思う?」
[それは……]
「自己肯定感はもちろん必要だし、自信だってあるに越したことはない。だけど、ヒトの作品を見て感動するのと、自分の絵を見て感動するっていうのは全然違うカテゴリーの話なんじゃないかな」
前者は、問答無用で自分の感性に刺されば達成出来る。しかし後者を達成しようと思うのなら、必要な要素が三つある。
一つ。妥協すること。自分にしてはよく描けたと、甘やかすこと。
二つ。記憶を薄れさせる年月。昔の自分はこんな絵が描けたんだな、と再発見すること。……まぁこの楽園では、ポーテンスフさんでは無理だろう。
三つ。強い自己愛。俺はこんな絵がかけてすごいな、というものだ。別に悪いことじゃない。それは創作のモチベーションに必要不可欠な要素でもある。
だけど彼は妥協しなかった。
そして彼は変わらなかった。
どこまでいっても、自分ではなく美醜を愛した。
そんなヒトが、自分自身を感動させる作品を創り出すことは多分不可能だ。
どうしたって作者は、主観で創り出された自分の作品を客観的に判断出来ない。出来るのはせいぜいが『納得』ぐらいのものだろう。だがポーテンスフさんはその納得すら満足に出来ないという。
そんなヒトが、自分が書いた絵で意図的に感動することは、絶対に不可能だ。
もちろん「自分が書いた絵が好き」という感性はあって然るべきだ。よく書けたな、いい構図だな、我ながらこの色合いは素敵だと思う――――そういうのは全然有り。むしろそれが無いとやってられない。
だけど「なんて素晴らしい絵なんだ!」と絶叫を上げることは、息を止めるような驚きを覚えることは――――それはとてもとてもとても難しいのだ。
彼が人間だったのなら、話しは違っていたと思う。
だけど月眼、美醜の魔王ポーテンスフには「無限の時間」があって、そして「締め切り」が無くて、評価してくれる「他人」がいなくて、そして何より「報酬」が無かった。
時間は無制限。インプットは無し。他人なんか知らない。さぁ自分が感動するためだけの作品を作ろう、だなんて。
出来るはずがない。その目的に必要なのは「今までの経験」とか「生まれ持ったセンス」なんかじゃない。必要なのは――――「妥協」だけだ。
絵を描きました。よく出来ました。わーい。
じゃないと作れない。こだわりを捨てて、ある程度の所で満足しないと、真なる意味での『自己感動』なんて常軌を逸したモノには手が届かない。
得られる物は「素晴らしい物が作れた」という達成感であって、魂が震えるような感動じゃない。
世の中は広いから「自分が感動するための絵」を描いたヒトは居ると思う。だけどそれが成功した人はたぶん、ほとんどいない。感動よりも他の情動の方が強かったはずだ。
ポーテンスフは「絵を見て感動した」。その感動に囚われた。その感動を愛した。だけど彼は「その先」を望んでしまった。
強い自己陶酔や自己欺瞞を用いれば『代用品』は用意出来るが、ポーテンスフという魔王が求めたものはそんな安い価値じゃない。
盲目的に得られる情動ではなく、彼はわざわざ足を止めて、更に目を見開いて得られるモノを欲した。
ついでに言うのなら、彼は「好き」というシンプルな情動を受け入れなかった。その大切な過程をスッ飛ばしてしまっているのだ。とっても難儀で同情しちゃう。好意は無くても愛は――執着の極地は――成立するのかもしれないけど、好意があった方が絶対に幸せだと思う。
感動ジャンキーなんて雑な表現してごめんなさい。
貴方はその『感動する気持ち』を守るために彷徨い続けて、創り続けた。
すがりつくように、わたしという外部刺激を受けて、忌避していた改変に手を出すほどに彼は飢えていた。
それでも彼は、狂乱こそしたけれど、永遠に立ち止まるような真似はしなかった。
「貴方が愛したものでは、貴方は満たされないんだ」
そう告げると、彼は自分の長髪をくしゃりと握りしめた。
[この楽園には、意味が無かったと……?]
「違うよ。そうじゃない」
ここでようやく、わたしは本当に言いたいことを口にすることが出来た。
「貴方の愛は、楽園ごときじゃ作れないんだよ」
[ツッ]
「……例えばだけど『素晴らしき作品で溢れた楽園』を望めば、きっと貴方は満足感を得られたんだと思う。だけど貴方はその役目を楽園に渡さなかった。自分で創り上げると決意していた」
ここは楽園じゃない。
ここは、アトリエと展示会場だ。
「だから、わたしは貴方という高潔な挑戦者を心の底から尊敬しているんだ」
言いたい事を全部言った。
伝えたいことが全部伝わったとは思わないけれど。
ポーテンスフさんは大粒の涙をこぼしながら、うつむいたのだった。