汚染と救済、その違いは。
一枚目のログハウスは燃やされて。
二枚目の花は地面に足跡が残るぐらいに踏み潰されて。
三枚目の猫はかわいそうなことになり。
四枚目のカラフルな円は濁り、汚染され、配列は乱された。
五枚目のリンゴはもちろん腐った。
ポーテンスフさんは大興奮と共に哄笑を上げながら、だけど決してわたしを出口の扉には近づかせてくれなかった。――――全く隙がないのだ。
近づけば腕を取られてしまいそうな。
逃げ出せば足首を捕まれてしまいそうな。
背を向けて走り出せば、首に腕を回されてしまいそうな。
それは月眼の魔王に対する畏怖という感情よりも、もっと身近で生々しい、恐怖という名前の不安。
わたしは彼が歩みを進めると同時に後退せざるを得なかった。
彼の放つ殺気が怖かったからだ。
踏み込めば容易に命が散らされる――絵画にするソレと同じようなテンションで。
そんな未来予測が容易に出来る気配だった。
恐怖で身体が縛られる事なんて、本当に数える程しか経験してない。だからわたしは逃げ出すことも出来ず、彼の進むスピードに併せて後ずさるのがやっとだった。
――――だけどそれは誤りだった。わたしはとっとと逃げ出すべきだった。
何故なら、彼は素敵な絵をことごとく汚して行ったが、最初の方がまだマシだったのだ。
そう。
ポーテンスフは、回数を重ねるごとにその汚染行為を洗練させていったのだ。
そしてその汚染行為は、ある意味で殺戮だった。
生は死へ。彩りは汚濁へ。整然は混沌へ。
改変された絵。上書き行為。それは不可逆の干渉魔法。
白い絵の具に黒を混ぜてしまったら、もう絶対に白には戻らない。ベーコンになった豚は二度と鳴かない。過去は戻らない。死者は蘇らない。……彼が唱えているのはそういう類いの魔法だった。
十二枚目の絵。焚き火を前にして談笑する二人の男性。
[この絵ならば。彼等ならば。……そう、ただ殺すなんてありきたり過ぎる。もっとオカシク。もっと複雑に。美しくて妙に。あははっ、そうだ。これがいい。【貫消】!」
ポーテンスフの独り言は抽象的すぎてよく聴き取れない。理解が出来ない。けれども、彼が指さした絵は如実に改変されていく。
片方の男性は串を持っていた。その先端にはマシュマロが刺さっている。焚き火であぶって、美味しく食べるためだ。そのための串だ。
そしてその男性は、微笑みを浮かべている友達の喉に、その串を突き刺した。
貫かれた男性が浮かべたのは哀しみの表情。
そして刺した方は、憎悪の笑顔を浮かべていた。
[心に残るのは感動か、それとも傷か。痛みか救いか。……心を凍らせる灼熱よ! 全ては矛盾して、意味は異なれど同じ結末を!]
ポーテンスフの言葉はもはやノイズだ。何を言っているのか全然分からない。
全ては絵の中の話しだ。だけど穏やかな微笑みを浮かべていたはずの二人は、もう笑っていない。
――――もっと読み込むのならば、きっと二人は仲良しのオジサンで、それぞれに家庭を持っている。だけど今日は友達二人でのんびりキャンプに来たのだ。いつもはお父さんとしてカッコ付けてる二人だけど、今夜ばかりは旧友と共に童心に返ってマシュマロを焼いていた。そして年甲斐も無くキャッキャとはしゃいでる。きっと近況報告や思い出話で楽しく過ごしていたのだろう。
そんな心温まる光景――――それを、ポーテンスフは描き換えた。
「昔からの友達とキャンプ」という絵は「この日のために復讐の刃を研いでいた男と、復讐に値する罪を犯した男」に改変されたのだ。
そんな残酷な仕打ちを前にして、わたしは恐怖よりも強い嫌悪感で思わず叫んでいた。
「もうやめて!!」
意図せず、声が震えてしまう。
そしてわたしの叫びを耳にしたポーテンスフは、少しだけ首を傾げた。
[やめて。ふーむ。……………………なぜ?]
何故と言われても。
わたしがイヤだから、としか言いようがない。
――――ここは彼の楽園なのに。
わたしはこの楽園を否定する権限を一切持っていない。だから当然のごとく言葉に詰まると、ポーテンスフは首の傾げをさらに大きくした。
[ここにあるのは、もう飽きるほど見てきた絵です。足が止まることもなく、心が動くこともない。……この領域の絵は私にとって最古のモノに近い。ここを訪れたのも本当に久しぶりのような気がします。時間を計ったわけではないので何とも言えませんが]
「でも……でも! 大切な絵なんでしょう!?」
[ええ。大切です。貴重な思い出でもあります。こうやってオリジナルとしての価値が失われることは悲しい]
「だったらどうしてこんな酷い事をするの!?」
[酷い。ふーむ…………酷いことをしてはいけないと、貴女は仰る?]
「そうだよ! もう、もうやめてよ!」
[この絵の所有者は貴女ではなく私ですが?]
「ツッ」
それは、そう。
何度だって繰り返し言おう。ここはポーテンスフの楽園だ。その一切合切が彼のために存在していて、そこに文句を付けるのならば宣戦布告であり、わたし自身への殺害許可であり、自殺志願であり……いずれにせよ、わたしが口を挟んでいい事じゃない。
ついでに言うのならば、ここの絵の価値をわたしは見出せない。普通の絵としか思えないのだ。お父さんが書いた絵ならばまだしも、見知らぬ他人が書いた絵だ。命を賭してそれを保護しようなんて気はサラサラない。
……だけどそれでも、誰かが書き上げた物なのだ。
一生懸命書いたかもしれない。息抜きに書いた程度の物なのかもしれない。片手間に受けた仕事なのかもしれない。ただの練習絵なのかもしれない。
わたしはこの絵のことを全然知らない。
だけどそれでも。
そう、それでも。
「所有者が貴方だとしても、これを書いたのは貴方じゃない……!」
反射的に述べた意見。実際ただの感情論。ここにわたしの正義は無い。
書いた人が偉いのか。それともその絵を買った人が偉いのか。
偉いという言葉を『尊い』と言い換えてもいいかもしれない。
絵は、美術品は、創作物は、創り出した者が絶対なのか? それとも所有者が絶対なのか?
会話の合間、つまりたったの数秒間では出せない答え。
ああ、本当に――――ここにお父さんとカウトリアがいてくれたらいいのに。
でも。そんな内心がグチャグチャなわたしが放った言葉を、ポーテンスフはゆっくりと受け止めた。
[ふむ……]
彼は立ち止まった。笑みを抑えた。
とても真剣な顔をして、自分が改変した絵を見つめた。
[……ふむ…………ああ、なるほど? そういう事なのか? いや念のためもう一度]
わたしの制止を無視して、ポーテンスフは隣りにかけてあった絵に指先を伸ばした。
対象は雪で閉ざされた村の絵。夜と吹雪。そしてわずかに描かれる家の灯火。厳しい自然環境だとしても、確かな営みが続いている。そんな優しい絵。
――――だけどそんな絵は、そんな村は、赤い目をした山よりも大きな一つ目の巨人によって踏み潰されていった。
厳しい冬を耐え抜く家族達。小さな村。家がとても近くに密集している。きっとみんな仲良しで、家族のように過ごしていたのだろう。だけど巨人はその全てを無慈悲に踏み潰していく。
「つっ……」
感情移入が暴走していく。わたしの胸は締め付けられるような感覚を放ち、思わず歯を食いしばった。
そしてポーテンスフは、とても愉しそうに暗い笑みを浮かべた。
彼は絵を見つめ。わたしを見つめ。そして最後に自身の両手を見つめた。
[ふーむ……やはり愉しい……が、しかし。これは…………]
彼は再びわたしを見つめ、そして自分が蹂躙した絵を見つめた。
[ふーむ…………まぁ、試せばいいか]
音も無く。まばたきの一瞬。本当に刹那で目の前の光景がすり替えられた。
「ツッッッ!」
そこは先程見たカタストロフィ地点だった。
静謐な廊下は、死臭のする腐りかけの肉へ。
並ぶ絵は悉くが冒涜的で。
匂いも音も不愉快極まる、罪で煮固められた場所。
こんなに最低の場所にも関わらず、ポーテンスフは平然とした様子だった。
[――――さて。察するに、貴女はここがお嫌いでしょう]
「……そう、だよ……ッ!」
気持ちが悪すぎて思考が乱れる。だけどポーテンスフはお構いなしに言葉を重ねていく。
[ここは醜いでしょう]
「ええ、本当にね……!」
[では問います。よく考えてから答えてください。貴女は何故コレが嫌いなのですか?]
なぜって。……よく質問する魔王だな。なぜ。なぜ。なぜ。まるで子供みたいに。
知らないよ! とわたしは怒鳴り返しそうになった。
けれども同時に、ポーテンスフが口にした言葉が頭の中でリフレインした。
『よく考えてから答えてください』
心を落ち着かせるためのルーティーンである深呼吸は封じられている。ここの空気が最悪だからだ。
でも。それでも。わたしはもの凄く一生懸命に我慢して一呼吸を入れた。
……何故ならば、あまりにもポーテンスフの表情が真剣だったからだ。
匂いを、香りを、臭さを無視して。耳障りな呪音を無視して、吐き気を無視した。
整わない呼吸を繰り返す。そうして、ようやくわたしは言葉を絞り出す。
「……ここが嫌いな理由は、気持ち悪くて、悲しくて、つらくて、苦しくて、ついでに言えば何だかムカムカしてくるからだよ」
そんな内心の吐露に対して、ポーテンスフはあっさりと肩をすくめた。
[つまり自身が不愉快を覚えるからだ、と。……まぁいいでしょう。不愉快を嫌うことは当然です。ですが補足説明を一つ。たとえ貴女が嫌ったとしても、逆にここを好む者もいるんですよ]
わたしはポーテンスフの言葉が理解出来なくてフリーズした。
「ここが、好き?」
[ええそうです。グロテスクを好む者。猟奇的を好む者。死を好む者。狂気を、禁忌を、絶望を、退廃を、混沌を。多くの者が忌避するモノを好む者は確かに存在する]
いてたまるか! という反射的な思考。だけどそれはわたしの喉を震わせない。ポーテンスフの表情が先程よりも強く真剣味を増していたからだ。
そこにはわたしの知らない価値観が、
検討すべき余白が存在していた。
(本当にここを、こんなものを、好きになれるヒトがいるの……?)
心の内に生じた戸惑い。そんなわたしの様子を見てポーテンスフは言葉を続けた。
[貴女は【神理】という概念をご存じですか?]
「……知ってるよ」
[結構。……禁忌の先。本能による禁止制御。普通のモノでは至れない領域でしょうね。ですがたどり着けない場所であり、同時にたどり着いてはいけないはずの場所に手を伸ばしてしまう者の事は知っていますか?]
「……魔王崇拝者?」
[ええ。バグでもエラーでもなくオーバーフロー。システムによる強制発狂。……では問いかけです。なぜそこに至れる人々が存在するのでしょうか?]
「何故って。それは。なぜって言われても。それは」
[それは?]
「それは………………」
もしかしたら思考を誘導されているのかもしれない。
だけどわたしは、ポーテンスフが何を言いたいのかを理解してしまった。そしてそんな心の機微は明確に彼に伝わってしまう。
[私はこう思う。きっと彼等は、そこに愛を見出したのではないか、と]
惹かれてしまったから。求めたから。
ナニカを閃いてしまい、ナニカに気がついてしまい、ナニカに触れてしまって。
そしてその先を知りたいと願ってしまったから。
その願い故に人々は自分が壊れていくことを自認しながらも、歩みを止められない。
魔王崇拝者。神理に触れて、世界から拒絶されてしまった者。あるいは本能を拒絶した者。
だけどそれは……。
わたしは精一杯の勇気を振り絞って、ポーテンスフの言葉を否定した。
「……愛は、言い過ぎだと思う」
そんなわたしの言葉をポーテンスフは[うむ]と頷いて受け止める。だけど、そこからゆっくりと首を左右に振った。
[愛という名称が不適切であるのならば好意、あるいは興味。もしくは好奇心と言い換えましょうか? いずれにせよ、惹かれたから至ったという事実は変わらないのに。……そういう意味では月眼と同じではないですか]
そしてポーテンスフは酷薄に失笑した。
[それとも貴女は自分が想像出来ない愛を、愛とは認められない狭量な人物なのでしょうか?]
最悪の空気。そしてポーテンスフの言葉がわたしを濁らせていく。
気持ちが悪くて、吐瀉物よりも先に涙が出てしまいそうな。
[だとしたらやっぱり貴女は退屈だ]
会話が無駄だとポーテンスフは一方的にそれを打ち切り、目の前の絵に干渉した。
死体の山が描かれた絵が動き出す。
こんな地獄みたいな絵を、いったいどう改変するつもりなのかと、わたしは強く身構えた。
そして絵は胎動する。
――――わたしはその改変の結果を見て、思わず呆然とした。
人々の傷が癒え。血は溶けて消え、炎は静まり、空は澄み渡り、花が咲き乱れ、倒れていた人々が立ち上がった。誰かは抱き合って涙を流し、その隣りでは大きく片手を上げて喝采を上げ始めたのだ。
死体の山は、祝福による復活で歓喜に包まれた。
[ああ……これもまた……良い……]
彼は先程の「美術館」で絵を汚していったのと同じ速度で、この「カタストロフィ地点」の絵を救済していった。
わたしは目を丸くしたまま、言葉を失い続ける。
二枚目。腐乱したモノは新鮮に。
三枚目。無残な死者は元気な生者に。
四枚目。散乱したゴミは整然とした元の形に。
五枚目。奴隷を痛めつける貴族は、心を入れ替えて彼等を救って。
先程の狂乱はどこに行ってしまったのか。
ポーテンスフは粛々と歩みを進め、救い、癒やし、全てを美しく――――喜ばしいモノへと改変していった。
特に五枚目の絵……元々は貴族が奴隷をなぶり殺しにしているような絵……にわたしは見入ってしまった。
魔法のように傷が癒えたのではない。泣きながら貴族が奴隷達に治療を施していた。その表情は悔恨であり懺悔を表している。きっと彼は全ての贖罪を済ませた後に自殺してしまうだろう、とすら思わせるような涙をその貴族は流していた。
美しいか醜いかは判断がつかないけど、心には残る。言語化しにくい感覚。
ふと気がつけば、浄化された絵の周辺の空気が澄んでいた。足元も確かなモノへと変わり、音も静まり返っている。少しずつ心が落ち着いて、絵に集中出来るような。
そんな風にして立ち止まっていたわたしだが、ポーテンスフもまた立ち止まっていた。だけど別にわたしを待ってくれたわけじゃない。
彼は六枚目の絵をじっと見つめていた。
そこに描かれていたのは、魔王。
描かれた殺戮の精霊。瞳はなぜか赤色に染められている。立派な双角を誇っており、彼の背後には死体が点々と転がっていた。
[ふーむ……。さて、問いかけです。この絵に描かれているのはとある魔王さんの日常。貴女はこの絵をどう解釈しますか?]
「…………どう、って」
[私はこの絵を見て、痛ましい、見るに堪えない、不愉快である、といったモノに類する感情を覚えました。総じて『醜い』とカテゴライズしています。理由は自分でもはっきりしませんが]
「………………」
[貴女はどう思いますか?]
「どう、って……」
一歩踏み出して、未救済の絵を眺める。周辺の空気は踏み出した分だけ濁り散らかす。
その魔王さんは前を向いていた。きっと歩みを止めるつもりはない。背後には惨たらしく殺された生き物達。人間。動物。魔獣。魔族。その全てを殺戮していて例外は無い。きっと彼は歩み続けて、殺し続けるんだろう。
他に描かれているものは何も無い。建物も、道も、空も。一本の花さえも。何も無い。魔王さんと死体だけの絵。
この魔王さんはきっと、愛を知らないまま殺し続けるんだろう。
きっと誰も悪くない。この魔王さんは機能を遂行しているだけ。強いて言うならカミサマが悪い。だけどあのカミサマ達を善悪という価値観で判断するのは難しい。
だからこの絵の感想は一つ。
「……救いようのない絵だと思う」
それ以外に、言えることは無かった。
[仰る通り。まさしく救いようが無い。……この魔王さんは月眼に至れないでしょうね。殺戮を愛したのならもっと死体の描きようもあるはずですし]
ポーテンスフは絵から目を離し、わたしを見つめた。
[この絵は不愉快ですか?]
「……不愉快だね。悲しくて嫌い」
[では貴女なら、この絵にどう干渉しますか?]
素早く投げかけられた質問。
答えに詰まるわたし。
「干渉って……あなたがやっていたみたいに?」
[そうです。生憎、私にはこの絵にどう干渉したらいいのか分からないのです]
「……さっきみたいに、死んでいる者達を生き返らせるとか…………」
[表現の一つとしてはありでしょう。ですがその場合、きっとこの魔王さんは振り返って全てを殺戮するだけですよ?]
「ツッ……じゃあ、この魔王さんを五枚目の貴族みたいに改心させるとか」
[殺戮の精霊が改心する……それは、なんのために?]
ポーテンスフは自分の胸に片手を当てた。
[命を大事にする? なるほど言葉としては正しいのでしょう。広い意味で、それは一般的な感性なのでしょう。ですが私には理解出来ないのです]
[どうすれば命を大切に出来るのですか?]
わたしはポーテンスフを理解した。
この魔王は、月眼に至りながら、未だ殺戮の資質が強すぎるのだ。
[この絵に干渉するのならば、きっとこの魔王さんを殺してしまうのが一番手っ取り早い。そしてそれが最も分かりやすい救済だ。人間に書き直させるのならば、確実にその方法を採るでしょう。――――ですが、私もまた彼同様に魔王なのです]
そしてポーテンスフは結論を下す。
[この絵の中の魔王さんは救いを求めていない。だけど彼に先は無い。……つまりこの絵は完成されているんですよ。手を入れる余地が無い]
干渉出来ないと、美醜の魔王はそう言ったのである。
[さてここで再び問いかけです。貴女はこの絵を不愉快だと言いました。だけど彼に殺戮を止めさせる方法はたった一つ。殺すことだけです。……さて、貴女はこの魔王さんを殺戮しますか?]
あんまりな質問に、わたしは思わず眉間を指でつまんだ。
「救いようの無い絵を、さらに救えなくしてどうするのよ……」
[おや。視点が変わりましたね。先程までの貴女は殺された者達を悼んでいたのに、今度は魔王さん側の視座で語りますか]
「だって」
返事をする前に一歩下がる。それだけでずいぶんと呼吸が楽になった。
「……だって、このままじゃ悲しいだけだもの」
[……ほう?]
「わたしは愛の証明として月眼を手に入れた。すごく楽しくて、嬉しくて、最高の日々だった。だから出来ることなら、この絵の魔王さんにも似たような気持ちを味わってほしい」
[ふむ。それが貴女の美ですか。いいでしょう。ですが問題があります。そんな干渉をするにあたって、この魔王さんが何を愛すると思いますか?]
「なにって、それは……」
[殺戮の精霊たる魔王が、その自身の本能に反逆する理由。ふーむ。なんでしょうね。見当もつきませんね。だって我々は彼の名前すら知らないのですから]
「………………」
[例えばですが、貴女が愛したモノと同じモノを愛させますか?]
「………………」
[もしくは適当に花か何かを? いっそ命自体を愛させてみますか?]
「………………」
[確かにこの絵は創作物です。この魔王さんが実在したかどうかすら真偽不明。どこかの絵描きの絶望的なダイイングメッセージなのか、あるいは子供の頃夢に出てきた怖い魔王のイメージなのか。一切合切が分かりませんね。ですが、誰が何をどう描こうと、それはただの絵。その行為は自由であるべきでしょう]
「………………」
「ですが我々魔王にとっての愛とは、人々が歌に乗せて口ずさむような領域には無い。システム、つまりこの世界の在り方から考えると、極めて重大な位置に存在しています。そんな魔王の愛を、それがたとえ紙の上の絵空事だとしても、勝手に決めつけて、押しつけて、施して、そう在るべしと一方的に断じて良いモノなんでしょうか? 少なくともこの絵を描いた者は、この魔王さんを幸せにしたいだなんて欠片も思っていないでしょう]
「………………」
[はて。口数が減りましたね]
「答えづらいもん」
かろうじてそんな返事をして、わたしは身体を守るように両腕を組んだ。
[それはそうでしょうね。何故なら貴女は矛盾している]
「えっ……」
[先程貴女はこのように仰いました。『この絵の所有者が貴方だとしても、この絵を描いたのは貴方じゃない』と。干渉するべきではない、と]
思わず息が止まった。
[しかし貴女の先程までの表情を見れば分かる。貴女は、この領域にある絵の干渉を歓迎している]
そうだ。
わたしは。
ポーテンスフの汚染を批判し、救済を良しとした。
[美しいモノを醜く。醜いモノを美しく。やっている事は等しく干渉。なのに前者は反対し、後者は歓迎していると。――――さて、この矛盾は一つの事実を示します]
ポーテンスフは両手を広げて、愉しそうに嗤った。
[貴方はただの好き嫌いで、私の楽園での過ごし方に口を挟んでいるんですよ]
にっこり。
そんな嗤い方だった。
(やっばぁ。 全然そんな気はない。 だけど。 わたしってばとんでもなく。 致命的な。 宣戦布告してたわけ? どうしよう。 どうしよう)
思考が断片的になる。感情が追いつかない。わたしはただ焦るばかり。
だけど彼はにっこりと嗤うだけ。
その表情の意味が読み取れなくて、わたしは呆然と頭を垂れた。
「ごめんなさい」
謝罪以外に何も出来なかった。
だけど安い謝罪じゃない。
月眼・美醜の魔王から視線を外すのだ。はっきり言えば命がけの謝罪だ。
許されるのか。あるいは殺されるか。いいや簡単には殺されてやらない。だけど一発ならくらう覚悟。
そんなわたしの謝罪に、ポーテンスフは興味を抱かなかった。
[まぁそれはさておき、この魔王さんですよ]
「…………えっ?」
[どうすれば美しくなるのか。全く分からない]
おそるおそる頭を上げると、ポーテンスフはじっと六枚目の絵を見つめていたのであった。
[というかそれが私の命題なんですよね。そもそも美しいとは何か。醜いとは何か。……私は何を愛したんでしょうね……?]
愛を知らない。殺戮の資質が強すぎる。執着が有るようで無くて、だけどやっぱり異様に強くて。わたしの宣戦布告よりも、命がけの謝罪よりも絵が気になっちゃう。
そんな彼のことを理解出来る気がしない。
これが美醜の魔王かと、わたしは反省しつつ震えた。