譲れないモノ
ダニエル・セッツは白馬から飛び降り、真っ直ぐにフェトラスと対峙した。
「……魔王フェトラスッ! 僕の妻に何をした!」
「えっ」
何をした、と言われましても。
攻撃されたからそれの対処に追われて、そして最終的には精神汚染魔法で決着を付けた。それだけのことだ。命のやり取りにまでは至っていない。
(でもコレってわたしが悪いんだろうか……絶対違うと思うけどなぁ……)
そんな素直な感想を浮かべて、フェトラスは首を傾げた。
「ええと……とりあえず酷いことはしてませんが……」
フェトラスはおそるおそるそう言ってみたが、ダニエルは極めて強い興奮状態に陥っていた。呼吸は荒く、目は鋭さを増すばかり。
だがきちんと理性も伴っているようだ。ダニエルはフェトラスに殴りかかるような事はしなかった。
彼はジリジリと距離を詰めてくる。だけどしびれを切らしたのか、やがては滑り込むようにエクイアへと駆け寄った。彼は跪いて、地面に横たわっていた愛しいヒトを抱きしめる。
「エクイア……! ハニー、大丈夫かい? 怪我はしてない?」
[ダニエルぅ……]
「ああ、ああ、こんなに憔悴してしまって……!」
[大丈夫よダーリン、全然なんとも……]
「強がらないでくれ! 僕に嘘をつかないでくれ! 後は任せろ。君が望むのならば、僕は魔王だって倒してみせる!」
[あぁん……]
顔を真っ赤にしたエクイアはくたっと全身の力を抜いた。半分気絶してるような状態に見える。
「クッ……」
エクイア的には颯爽と現れたダニエルにメロメロになっていただけだったのだが、そのダニエルからすれば「こんなフニャフニャなエクイアは初めて見た」と緊張感を迸らせていた。
「おのれ魔王フェトラスめ! この身はただの人間なれど、ただではすまさんぞ! 例えこの命と引き換えにしても、エクイアだけは絶対に護ってみせる!」
「あー……どうぞ……ご自由になさってください…………」
フェトラスは苦笑いを浮かべて天を仰いだ。
「……本当に良い楽園だよ、ここは」
しみじみとそう思う。
エクイアの楽園は、なんというか平和だ。
秩序がある。常識がある。笑顔があって、日常がある。
そして同時に、理解は出来ても共感を覚えにくい、そんなエクイアの愛がある。
「ここに来られて良かった」という思いと「だけどやっぱり、ここに来るべきでは無かった」という反省が胸中で溢れかえっていた。
「いくぞ魔王ッ!」
勇敢なダニエルはフェトラスに向かって拳を振り上げながら突進する。徒手空拳、まさかの非武装である。
「…………」
フェトラスは黙って両手を挙げた。降参のポーズだ。
大ぶりの右パンチが飛んでくる。だけどそれは哀しい程に素人のパンチだった。
少しだけ身体を動かして、肩でその拳を受け入れる。
「……あー」
警戒の、つまりショルダーガードの必要なんて一切なかった。ダニエルの拳では、精霊服の防御を突破出来ない。それを悟ったフェトラスは引き続き両手を挙げ続けた。
(お顔だけはどうしようもないから、それは頑張って避けよう)
「シッ! シッ! うわああああ!」
痛くもかゆくも無い左右のコンビネーション。ボディーブロー。
フェトラスは何となく弟のティザリアの事を思い出した。
彼も幼い頃は、無邪気にフェトラスに挑んでいたものだ。
『えいえい、やー!』
『あらあら。この魔王に挑むなんて』
(反撃として、身体を掴んで逆さづりにするとビックリして泣いていたっけ。ふふっ、かわいい)
ダニエルは必死の形相でフェトラスに襲いかかる。だけどフェトラスは微笑みながらその攻撃を受け入れ続けた。
やがては疲れたのだろう。ダニエルは見た目通りの貧相さを発揮して、両肩を上下させながら荒い息をついた。
「ぜはっ……ぜはっ……くそぅ……余裕ぶりやがって……」
「…………えーと……あの、そろそろお話しを聞いてくれると有り難いのですが……」
「なぜだ、なぜ反撃しない!」
だって攻撃されてない。
――――とか言ったらこの人、怒るかなぁ。それとも心が折れるかなぁ。
そんな感想を隠しながら、フェトラスは「戦う理由がありません」とだけ答えた。
そしてそれを聞いたダニエルが昂ぶりを取り戻す。
「お前には無くとも、僕にはあるッ……! よくもエクイアを!」
「……エクイアさん、ノーダメージですよ…………」
「嘘をつけ! あんなに弱々しいエクイアは初めて見たぞ! 絶対にお前が何かしたんだろ! 許さない……許さないからなッ!」
「…………うーん」
なんかこの人、ちょっと面倒臭いなぁ。
「あの、お話しを聞いてください」
「うるさいっ、お前と話すことなんて何も無い!」
「エクイアさーん。助けてくださーい。そろそろ起きてくださーい」
「お前が如きがエクイアの名を口にするな!」
「普通に失礼だなこの人」
最初は勇敢な人だと思ったけど、もしかすると、もしかして――――この人って、ちょっとおバカ――――いやいやいや、違う、ダメ、エクイアさんのダーリンにそんな感想を抱いたらダメ。
この人はとってもエクイアさんの事を愛してる。言い方は悪いけど、盲信してる。彼女以外は割とどうでもいいみたいだ。
でもそれにしたって、あまりにもヒトの話しを聞かなすぎる。
魔王に素手で挑む? うん、勇敢だと思うよ。でも無謀でしかない。
だったら、その無謀さをエクイアさんのために使えばいいのに。
魔王に殴りかかるのと、その魔王を無視して愛しいヒトを護ろうとする事。危険度で言えばどっちも同じだ。だったら後者を選んだ方がまだ建設的というか、勝ち目があるんじゃないだろうか。見逃してもらえるかもしれないし。
「くらえ魔王ッ!」
ちょっぴり息を整えなおしたダニエルさんが再びわたしに拳を振り上げる。
今度は顔面狙いのようだ。真っ直ぐに殴りかかってくる。
『は? ウチのフェトラスに何さらしとんじゃ、殺すぞ』
ありがとう脳内お父さん。会いたいよ。
わたしはダニエルさんの拳を掴んだ。パシン、なんて乾いた音が響く。
「クッ……」
さてどうしたものか。放すか。握りつぶすか。いっそ精神汚染魔法で大人しくさせるか。
(でもエクイアさんが怒るだろうからなぁ……)
仕方が無い。エクイアさんが起きるまで我慢するとしよう。
苦笑いを浮かべながらその手をそっと放す。
するとダニエルは、何を思ったかフェトラスの股間を蹴り上げようとした。
「!?」
思わず片手でガードする。
相変わらず痛くもかゆくもないけど、驚きでダニエルの顔を見つめてしまう。
「えっ、なんでそんなにデリカシーのない攻撃が出来るんですか?」
「クッ」
「えっ、えっ、やだ、ビックリした。――――あなた正気ですか?」
「ひっ……!」
ダニエルの顔が恐怖で歪む。
威圧なんてしてない。声を荒げたりしてない。怒ってるわけでもない。
ただほんのちょっぴり不愉快な……つまり、イラッとしただけだ。
ドン! という衝撃音が聞こえた。
その方向に目をやると、寝転んだままのエクイアが大地を殴りつけた音であることが分かった。……拳の周囲の土が、ごっそりとえぐれている。
一体何に反応したのやら。
エクイアは鬼の形相でフェトラスを睨み付けていた。
[貴様……ダニエルに……何をするつもりだ……]
「エクイア! 無事だったのかい!」
[ダニエル。そこを動かないで。貴方は私が必ず護る]
「僕も同じ気持ちさスゥイートハニィー! 一緒に戦おう! 僕ら二人だったら、きっと勝てる!」
[覚悟しなさいフェトラス……! 例え貴女であっても、ダニエルに何かするというのなら絶対に許さない……!]
夫婦はそろって並び立つ。
どうやら戦闘意欲旺盛らしい。まるで物語の主人公のような笑顔すら浮かべている。
だからフェトラスは力なく笑った。
「――――ははっ。難儀なシチュエーションだよ」
戦闘力五百倍。
あーはいはい。すごいですね。さぞかしお強いんでしょうね。
でも関係無いかなぁ。
威圧、最大。
フェトラスは双角を伸ばし、魔力を錬り始めた。それと同時に口を開く。
「結婚の魔王エクイア。提案があります」
[……何かしら。自殺でもして許しを乞う?]
「もしあなたがやる気であるのだとしても……ダニエルさんを巻き込むのは本意ではないので、場所を変えませんか」
そう言うと、エクイアは驚愕の表情を浮かべた。
[ツッ!? なんてこと……なんてことなの! やっぱり貴女、ダニエルに懸想を!]
「……けそう?」
[だから……! ようするに、ダニエルのことを好きになってしまったのね! 仕方が無いわ、だって彼は世界一だもの! 分かる、とてもよく分かるわ。でもダメよ! 絶対にダメ! ダニエルは誰にも渡すもんか……!]
エクイアの精霊服が変化する。漆黒の、完全戦闘形態。
そして双眸に宿りし月眼は、まるでビームが撃てるんじゃないかと思えるくらいに輝いていた。
「よしっ! 究極面倒くさい!」
だからわたしは覚悟を決めた。
これが楽園に侵入したわたしへの罰なんだろう。
やっぱり来るんじゃなかったこんな所。もうロキアスさんとは三百年ぐらい口を聞かないぞ。
そんな嘆きと後悔は、圧倒的な覚悟の前で霞んでいく。
戦闘力五百倍? いいよ。上等だよ。やってやろうじゃない。
このヒト達はわたしを馬鹿にしている。
お父さんの事をないがしろにしている。
わたしの愛を、舐めている。
「ダニエルさんを好きにぃ? ――――初めて会って、ろくに会話もしてない人を好きになるわけないでしょうがぁぁぁぁ! おばか! あなた達そろっておばか! 心が狭すぎるッ!」
咆吼。ともすれば銀眼になりそうな程のイラつき。
「だいたい! だいたいさぁ! 見学に来ただけって言ってるでしょーが! ケンカ売ってこないでよ! わたし何かした!? なにもしてないよね!?」
ダニエルはここで尻餅をついた。恐怖で口をパクパクさせている。
「はいエクイアさん! わたしはちょっと怒ってます! それは何故でしょーか!!」
[なっ……怒るのはこっちよ! ダニエルに手を出そうとした! 万死に値するわ!]
「はぁぁぁ! やってないし! そしてやってらんない! 興味無いってさっき言ったでしょ! ちゃんと人の話し聞いて!!」
だいたいッ、と言いながらフェトラスは両手を広げて訴えた。
「わたしが本気だしたら、あなたが本気出したら、この楽園めちゃくちゃになるのを承知の上なんですかぁ!? 頭大丈夫ゥー!?」
ピキピキと、フェトラスの双角が密度を高めていく。
「とりあえず一言いわせてもらうけど!」
戦闘力五百倍? 知らん。
だったらこっちは、一万倍だ。
[わたしがお父さんを差し置いて、他の男の人を好きになるわけないでしょうがぁぁぁぁぁ!]
負けるわけにはいかないのだ。
このヒト達は、わたしが抱くお父さんへの愛を軽んじた。
一回や二回ならスルーするけど、ああもしつこく言われたら、流石のわたしも怒るのだ。
やってやる。やってやるんだから!
[ほら、さっさと行こう! 月眼の間! ここメチャクチャにしたくないし! ごーごー! 見てろ、絶対一泡吹かせてやるんだから! ちゃんと反省して、ごめんなさいしてもらうんだから!]
[………………]
[なに呆けてるの!? 散々わたしを煽っておいて、今更気が変わった!? だったら受け入れるのもヤブサカじゃないけど、まずは謝ってよね!!]
[一つ聞きたいことがあるのだけど]
[なによ!]
[…………お父さんって、どういうことかしら]
[はぁぁ? なに、わたしがお父さん愛してる事になにか異論でもぉ!? そこ踏み込むっていうなら覚悟以上の覚悟をしてもらうことになりますけどー!?]
エクイアは呆然とした表情で言った。
[あなた、その……お父さんと結婚したの?]
[あっ。…………はいはい! 実はまだ結婚してませんー! でもいつか絶対するつもりだから別にいいでしょ! なんか文句でも!?]
[そ、そう……ところで、オトウサンって、なに?]
[はぁ!? ほんっっっとわたしを煽るのが上手だよね! それなんの質問!? いまする意味ある!?]
[いや魔王に父親なんていないでしょ……]
[いーまーすー! この月の輝きが何よりの証拠でしょう!?]
練りに錬った魔力が空気を震わせる。
ダニエルは完全に気絶した。
扉を開ける。
暗い廊下を歩く。
そして再び扉が開かれて、そこは月眼の間。
「はぁ……久しぶりねロキアス。二度と会いたくは無かったわ」
[……まさか君が楽園を出るとはね、エクイア]
開口一番ため息をついてみせたエクイアに、ロキアスは苦笑いを浮かべつつ出迎えた。
「ちょっと確認したいことがあってね。椅子を出しなさい」
[先輩に向かってなんて態度だ]
そうは言いながらも、ロキアスは椅子を作り出した。その瞳は「やべぇ、超愉しい」という輝きに満ちている。
逆にエクイアの月眼は鎮まっている。楽園を出たせいか、あるいはロキアスがいるせいなのか。
[まぁいいさ。ほら、フェトラスも座りなよ]
エクイアの後ろを歩いていたフェトラスにそう声をかけると、彼女は『に、にこり』と笑ってみせた。
[……それで、そこのおてんば娘は、一体何にしょぼくれてるんだい?]
「は? どうせ全部観察してたんでしょうが」
[いや状況は把握してるけど、内面はうかがい知れない。どうかなフェトラス。早速説明してくれると嬉しいんだけど]
「いや……その……あんな風に誰かを怒鳴りつけた経験ってないから、ちょっと自己嫌悪しちゃってて……」
しょぼーんと萎れていたフェトラスは、おずおずとエクイアに向かって頭を下げた。
「あの……ひどいこと言ってごめんなさい……」
だが謝罪されたエクイアはパチパチと瞬きするばかり。
「…………私、何かひどいことを言われたのかしら」
「心が狭いとか……おばかって言いました……ごめんなさい……」
「――――あっはっはっはっは!」
ポカンとしていたエクイアは、やがて大きく笑い出した。
「あーやだやだ。頭を冷やすために楽園から出てみたけど、大正解だったみたい。……こっちこそごめんなさいねフェトラス」
「えっ」
「……たくさん無礼を働いたわ。どうか許してくれないかしら」
「…………別に、いいですけど」
「なら良かった」
少しの沈黙。
やがてどちらともなく「えへへ」という微笑みがこぼれた。
そしてそれに混ざる『ウキウキ、ウキウキ、ウキウキウキウキウキ』という愉悦にまみれまくった、ロキアスのねっちょりとした笑顔。
[ところでお茶でも飲まないかい? 一緒に愉しくお話ししようよ]
月眼の魔王が三体! 三体もそろい踏み! 天外の狂気案件でもないのに! しかも戦闘状態じゃない! これは史上初だぞ! やべー生きてて良かったぁぁ! ――――なんて感情を、彼は隠す気がないようだった。
それを見てエクイアがげんなりとした様子を見せつける。
「とりあえずロキアスに用は無いから、消えて欲しいのだけれども。というか消えなさい。今から女子トークするから」
[はい! はい! 女装出来ます! 女の子っぽく振る舞えます!]
「ロキアスさん。わたしまだティザリアの件を許した覚えは無いんだけど」
[執念ぶかぁい!! もういいだろ! 何年前の話だよ!]
オーバーリアクションを繰り返すロキアスを見て、エクイアは舌打ちを響かせる。
「昂ぶるな鬱陶しい。……お茶だけ置いて早く消えてくれるかしら」
[お願いお願いお願い! 邪魔しないから! 大人しくしてるから! おねがぁぁい……]
「泣くな鬱陶しい! 空間ごと隔離されたくなかったら、とっとと消えなさい!」
しくしくしくなんて言いながら、ロキアスはお茶を淹れ始めた。
どこからともなく茶葉を取りだし、ティーセットを用意して、カップを温め、お湯を用意して、蒸らして……。
その間、フェトラスとエクイアはずっと黙ったままだった。
[……お、美味しいお茶を淹れるには時間がかかる。どうぞご歓談を]
「…………」
「…………」
[無視しないでくれよ。頼むから。お願いだからさ、僕も混ぜておくれよ]
「…………」
「…………」
[……おい、流石の僕も泣くぞ? わめき散らすぞ? 駄々こねまくるぞ?]
「………………」
「………………」
[……っていうか、言われた通りに消えると思うか? この僕が? かじりついてでもこのお茶会には参加するぞ。もう決めたぞ。絶対だ。月眼に誓う。それでも拒否するというのなら、もう思い付く限りのイヤガラセを実行してそれを観察するぞ。凄まじく面倒臭い試練を課すぞ]
「うっとうしすぎる……」
「エクイアさん、諦めましょう……」
こうして二人は共通の敵を前にして、仲良くため息をついたのであった。