月眼に恋する少年・1
後日談であり番外編。
ちょっと未来のお話しです。
それはとても美しい光景だった。
ここは森の中。相対するのは気の狂った魔獣。
そんな恐ろしい存在が、彼女のたった一発の魔法で討ち滅ぼされる光景だ。
春の陽光と、冬の枯れ枝。そんな二つの季節が混じり合う光景の中、舞い散るのは花弁でも雪でもなく、魔法による閃光と血しぶき。
彼女の魔法によって魔獣の巨体が吹き飛んでいく。僕はその魔獣が地面に落ちるよりも先に、その命が終わりを迎えたことが見て取れた。それぐらい彼女の魔法は致命的で、何よりも美しかった。
そして彼女はゆっくりと片手を下ろす。春の陽光を受けた長髪がキラキラと舞って、やがては重力に従って艶やかにまとまっていく。そして一切の音が消えて、辺りには冬の静寂が訪れる。
生を実感する春と、死を象徴するかのような冬。
今まで見たどんな光景よりもそれは美しかった。
魔獣を吹き飛ばした彼女。即ち、月色の瞳を持つ魔王。
人類の敵。最悪の災害。伝説の悪夢。殺戮の精霊、魔王。その極地。
そんな彼女に、僕は怖れるよりも先に、恋をしていた。
さて。少年が恋に落ちた日。その一週間前の出来事から話を始めよう。
「お母ぁさん……」
不満という感情をたっぷりと含ませた声を出しながら少年が居間に入ってくる。歳は十歳前後だろうか。彼は全身が泥にまみれており、浮かべる表情には年相応の幼い『情けなさ』が存分に発揮されていた。
「おかえりさないティザリア。……まぁ、見事に泥まみれね?」
出迎えた母親、ユリファはまるで「泥風呂に浸かってきた」と言わんばかりに汚れた息子に向かってため息を吐いてみせる。
「何があったかは知らないけど、お家の中に入ってくる前にその泥を落とすぐらいの事は出来たと思うんだけどなぁ。……ほら、さっさとお風呂場に行ってきなさい」
「聞いてよお母さん。キトアったらひどいんだよ。僕をドロドロの道に突き飛ばしたんだ」
「なるほど。妹によるバックアタックね。……それで、どっちが悪いのかしら?」
「どっちって、そんなのキトアが悪いに決まってるじゃないか! 僕は、僕は何もしてないのにキトアが!」
興奮のあまり涙声になるティザリア少年。そんな彼に向かって母親のユリファは二度目のため息を吐いた。
「あの子が理由もなくそんな酷いことをするかしら?」
「でも実際、僕はこんなだよ!」
少年は両腕を広げて、自分が体験した惨劇の結果を見せつける。
その際に飛び散った泥が新たな惨劇をカーペットに広げているのだが、ティザリアはそんなことよりも母親に「かわいそうだ」と思って欲しかったらしい。涙を浮かべながら自分に起こった出来事を報告し始める。
「お母さん、本当だよ。僕は何もしてなかったんだ。ただキトアがいきなり後ろから突き飛ばしてきたんだよ。本当だよ」
「分かった、分かったから。とりあえず真っ直ぐお風呂場に向かってちょうだい。すぐにお湯を沸かすから、これ以上被害を広げないで」
「お母さん! ちゃんと聞いてよ!」
泥まみれの息子が感情的になるたびに掃除する部分が増えていく。普段はクールな感じの息子だが、今日は本気で憤っているらしい。そう思ったユリファは至極真面目な顔をして、息子であるティザリアに言葉を放つ。
「一つ覚えておきなさい。相手にちゃんと話しを聞いてほしかったら、まずはきちんと準備をすること。――――今に限らずどんな状況でもね。だってそんな泥だらけの状態じゃ、頭をなでてやることだって出来やしないんだから」
「だってぇ……!」
「それにお母さんは愛するあなた達に誠実でいたいからこそ、トラブルが起きた時は両方から話しを聞くことにしてるの。それぐらい分かってるでしょ?」
「それは分かってる、分かってるけど……僕はこんな状態なんだから、もう少し優しくしてよぉ!」
「なんて正直な息子なのかしら」
珍しく全力で嘆く息子に対してユリファはクスクスと笑い、両手を広げた。
「いいわ。お母さんも泥だらけになってあげましょう。おいでティザリア。久しぶりに抱きしめてあげる。お父さんが一生懸命に働いて買ってくれたこの大切なお洋服よりも、あなたの方が大事よ」
言葉こそ優しいが、そこには「かかって来いよ」という挑発が込められていた。ティザリアはそれを何となく感じ取って「……もういいよ!」と憤慨しながら風呂場へと向かっていく。
「……やれやれ。まぁ、怪我が無くて良かったと思うことにしましょう」
さっさと湯を沸かそう。ユリファは薪のストックの残量を思い出しながら、窓から差し込む西日に目を細めた。
「キトアなんて大嫌いだ」
ティザリアは服を着たまま、水桶に入っていた水を頭から被った。まとわりつく泥は落ちていくが体感重量は増えていく。
「ふ、服が脱ぎづらい……」
お母さんが手伝ってくれればいいのに、とは思うが彼女は現在外で火起こしの準備をしている。余計にイライラが溜まってきたのでティザリアはもう一度「キトアなんて大嫌いだ」と、今もなお外を飛び回っているであろう妹を呪った。
『ティザリアー? お湯がわくまで時間あるけど大丈夫? お水入れちゃったら暖炉の方で暖まってきなさい』
「大丈夫だよ!」
季節は冬が終わる頃。陽差しは温かく、風は冷たい。窓から差し込む西日を一身に受けていたティザリアはため息をついた。本当は寒い。極めて寒い。ただのやせ我慢だ。
苦労しながら服を脱ぎさる。そしてティザリアはふと、自分の細い腕をながめた。お父さんのとは全然違う、ひょろひょろの腕だ。
むん、と力を入れてはみるけれど、見栄えのいい筋肉は見当たらない。
『ティザリアは弱いなー。よし、お姉ちゃんが鍛えてあげよう。まずは腕立て伏せ百回から!』
寒さ以外の理由で「ぶるっ」と身体が震える。
僕に過干渉だった姉は今頃どこで何をしているのだろうか。
料理人である彼女は『ちょっとお仕事に行ってきます!』と言って家を離れ、もう二ヶ月以上が経っている。本格的に春になれば、父親と同じようなタイミングで帰ってくるとは思うけど。
少年は姉のことを思い出しながら、浴槽に水を入れ始めた。腰が浸かるほどの量で十分なはずだ。
「お母さーん。お水入れ終わったよー」
『分かった。だんだん温かくなると思うから、もうちょっと待っててね』
外にいる母の声は柔らかい。ユリファは基本的には厳しいのだが、その裏にある絶大な優しさと愛を息子であるティザリアはきちんと理解している。だから母の声を聞いているだけで自分の中のモヤモヤが晴れていくことを彼は実感した。
心に余裕が戻ってくる。
裸になって泥を落としたので、身も心もすっきりとしていく。
だからこそさっき訪れた悲劇について思いを馳せることが出来た。
夕方になる前に帰らねばと、道を歩いていたら背後から妹であるキトアに襲撃されたのだ。ドンッて。水をたっぷり含んだドロドロの足場に突き飛ばされた。幸い怪我は無かったが、口の中にまで泥が入って散々な思いをしたわけだ。
「全部キトアが悪いんだ……僕は何もしてないのに……」
浴槽に手を突っ込んで、それがほんのりと温まり始める。
グルグルとかき混ぜて「早く熱くなれー」と祈りを捧げる。
やがてティザリアは小さな浴槽にそっと足先を入れた。まだ全然温まっていないが、身体を震わせながらその冷たいお風呂に入り込む。
「うー」
パチパチと火が爆ぜる音が聞こえる。だんだんと水がお湯になっていく。
もっと小さい頃は「このままここにいたらスープの具材になってしまう」と恐怖を覚えたものだが、今ではそんなこともない。自分はあの頃よりも心も身体も成長しているのだ。
『ティザリアは小さいなー。お姉ちゃんの身長わけてあげようか?』
見てろバカお姉ぇめ。すぐに追い越してやる。
そんな気持ちを改めて抱きながら、ティザリアはまだ冷たい風呂の中で震え続けた。
「それで、何があったのかしら?」
ティザリアがお風呂でちゃんと温まったあと。ユリファは柔らかなソファーに身を沈めながら彼にそう尋ねた。
「キトアに襲われたって言ってたけど」
「そうなんだよ! キトアったら、ひどいんだよ! 僕は本当に何もしてないのに!」
ティザリアはユリファの横に座ってプンプンと不平不満を漏らし始める。
「暗くなる前に帰らなきゃって、それでただ道を歩いてただけなんだ。そしたらいきなり後ろから……」
「突き飛ばされる前に、キトアに何かしなかった?」
「何もしてないよ!」
「じゃあ、何か言ったりした?」
「……別に、何も」
少しだけ濁った返答。ユリファはティザリアの方に向き直って、少しのあいだ沈黙した。
やがて、何かを決意したかのように「よし」とユリファは小声でつぶやき、やがて怖い声を出した。
「ティザリア。正確に報告しなさい」
まるで学校の先生みたいな喋り方だ。硬くて強い、有無を言わせない口調。だけどその眼差しは優しくて、戸惑いが産まれる。
「……本当に、何も言ってないよ」
「正確に」
母の声色は変わらない。ティザリアは諦めたようにうつむいた。
「…………定刻の鐘が鳴ったから、お家に帰ろうと思って……それで……キトアに『一緒に帰ろうっ』って言われたけど、何も言わないで帰ったんだ」
「キトアを無視したの?」
「だって……」
「ティザリア。あなたさっき、何もしてないって言ったわよね? だけど実際はどう? 無視はいけないわ」
「……だって」
「はぁ……」
ユリファはそっとティザリアの頭をなでて、ため息をついた。
色んな感情が含まれたような時間が流れ、少年の心は揺れる。
「ティザリア。もうすぐ夕方になるのに、キトアがまだ帰ってきてないわ。探して、一緒に連れて帰ってきて。出来るわね?」
「…………」
「ティザリア。お父さんが出稼ぎでいない間、この家にいる男手はあなただけなの。お姉ちゃんもいないし……だからお父さんの代わりに、ちゃんと家族を護れるわね?」
「…………」
「ティザリア」
怖い声ではなく、優しい声でもない。ユリファは凜とした声で想いを口にした。
「頼りにしてるわよ」
「ツッ…………分かった」
のろのろと少年は立ち上がる。そんな彼にアドバイスを一つ。
「キトアに会ったら、まず最初に『無視してごめんね』って言うの。突き飛ばされた事を怒っちゃダメよ」
「どうして? 僕はあんな目にあったのに……どうしてなの? 僕がお兄ちゃんだから? だから我慢しなきゃいけないの?」
「そんな複雑な話しじゃないわよ」
クスクスとユリファが笑う。その笑みは、息子であるティザリアから見ても綺麗なものだった。
「先に謝った方が、格好いいからよ」
「……そんな理由?」
「あら。とっても大切なことよ」
深い説明は成されなかった。だけどその必要も無かった。納得こそいかないが、母がそうして欲しいと願うのなら、そうしよう。そんなふんわりとした理由で、ティザリアは力強く頷いたのだった。
探しに行くまでもなく、キトアは家の近くにいた。
父の畑で何やら土遊びをしているようだった。
「キトア」
呼びかけると彼女はすぐにこちらを振り向いたが、同じ速度で「ぷいっ」とそっぽを向いた。どうやら無視を決め込むらしい。
(むかつく妹だ)
素直な感想である。
しかし、自分は格好いい事をしないといけないのだ。
「キトア。さっきは無視してごめんね」
言われた通りに任務を遂行する。――――どうだ? 僕は格好いいだろう――――内心ではそんなドヤ顔を決めていたティザリアだが、キトアはブスッとしたままだった。
「あやまるぐらいなら、そもそも無視なんてしないでよ。わたし悲しかったんだから。……なんで無視したの?」
「それは」
それは。……それは。何故かと言うと。
「っていうか、お前も僕を突き飛ばしたこと謝れよ」
「……いやだ! だってお兄ちゃんが悪いんだもん!」
「はぁ!? なんでだよ!」
「わたしを無視するお兄ちゃんなんて大っ嫌い! なんで無視なんてするのよ!」
それは。
(難しくて、上手に説明出来ないんだ)
自分の内情をうまく言語化出来なかった少年は、代わりに怒りを露わにした。
「……なんだよ! 無視したぐらいで突き飛ばすかよフツー!? 僕だってキトアなんて大嫌いだ!」
「だっ……う、うううー!」
やおらキトアは立ち上がり、再びティザリアを突き飛ばしてくる。尻餅をついた彼は、ますます激昂。「なにするんだよ!」と怒鳴りながら、自分より二つ年下の妹を突き飛ばした。
そこからはただの乱闘だった。
つかみ合い、絶叫し合い、畑の上でドッタンバッタン。
その様子に気がついたユリファが表に出てきて、二人が暴れるさまをじっくりと眺めていた。
「髪の毛引っ張るなよ!」
「うううううう!」
「…………」
「えいっ、くそ、このやろー!」
「うわあああああ!」
「…………」
「うぎぎぎぎ!」
「いやあああ!」
「…………」
「このっ……あ」
「……あ」
「…………」
「お、お母さん……」
「お母さーん! お兄ちゃんが、お兄ちゃんが!」
「…………」
「…………」
「……お、お母さん?」
「…………」
『…………』
「…………」
恐怖の沈黙だった。
二人の子供は気まずそうに互いから離れ、ゆっくりと立ち上がる。
そんな子供達を見たユリファは腰に手を当てて、天を仰いだ。
「何か、言うべきことがあるんじゃないかしら」
「…………」
「…………」
「ティザリア。まずはあなたから」
「……ご、ごめんなさい」
「それは誰に、そして何に対する謝罪?」
「……お母さんに対して。また服を泥だらけにしちゃったから」
「……そう。じゃあ次はキトア。何か言うべきことは?」
「お兄ちゃんが悪いんだよ! 本当だよ!」
「キトア。それが貴女の言うべきことなのね?」
「う……だって……だってぇ……!」
「だって、じゃありません。私はあなたが伝えたい事ではなく、言うべきことを尋ねてるの。さぁキトア、出来るわね?」
「…………だってぇ……」
それきりキトアは黙り込んでしまう。伝えたい事は山ほどあるのに、母が求めている『言うべき言葉』が見つからないらしい。
眉間に手を当ててユリファは首を左右に振った。
「お父さんの畑をこんなにしちゃって。休作中とは言え、あなた達に理性というものは無いのかしら」
ユリファの言う通り。畑にはなんの作物も実ってなかったが、そろそろ種をまくために整地されていた。それがグチャグチャになってしまっている。一部だけとはいえ『台無し』であることは間違い無かった。
「お父さん、帰って来たら悲しむわよ」
「…………」
「…………」
「きっと怒らないでしょうけど、すごくすごく悲しむでしょうね。キトア、何故だか分かる?」
「……畑を、めちゃくちゃにしたから……」
「違うわ。あなた達が仲良く出来なかったからよ」
「…………」
「…………」
「……はぁ。やれやれ。後でお父さんの代わりに私がお仕置きしてあげるから、二人ともまずはお風呂に入ってきなさい」
二人の子供はこくりと頷いて、とぼとぼと家屋を目指して歩き始める。
哀愁たっぷりだ。『お父さんが悲しむ』と聞かされて、どうやら本気で凹んでいるらしい。
(さて、どうやって叱ったものか……子育てって難しいわ……)
ユリファがそんな事を考えていると、ティザリアがキトアの手を取るのが見えた。キトアは少し驚いたようだったが、その手を振りほどく事はせず。兄の歩幅に合わせてトコトコと歩くスピードを上げた。
ごめんねの代わりに、手を繋ぐ。
それを見たユリファは思わず破顔して、先ほどよりは幸せなため息をついたのであった。
そしてその日の晩。
家族の間に新たなルールが設けられた。
《ケンカをする時は、あとで絶対に仲直りすると約束してから、ケンカする》というもの。
例えるなら「今からお前を全力で殴るけど、その後で愛情たっぷりにハグして『大好きだよ』と告げるからよろしくな」という事である。
それが一つの契機であった。
冬が去っていき、春が訪れる。その丁度あいだぐらい。
畑主である父親はもうそろそろ帰ってくるのだろうが、時期が訪れたので畑に種を撒く必要がある。そんなわけでユリファ一家は畑仕事に手を出すようになっていった。子供達はまだ幼いが、出来る仕事は意外と多い。なのでユリファは二人に指示を出しながらテキパキと働いた。
先日グチャグチャになった部分の再整地。種と水、そして少しの肥料。この作物の出来次第で生活が変わることは子供達も当然理解している。全員が真剣に取り組み、作業は粛々と進んだ。
「……よし! 本日のお仕事は終わり! 二人ともお手伝いありがとうね」
二人の子供がそれぞれに返事をする。仕事が終われば自由時間だ。キトアは家を目指し、ティザリアはその反対方向に向かって歩き出した。
「あら。ティザリアはお出かけ?」
「うん。森で遊んでくる」
「お友達と一緒に?」
「……うん。そうだよ」
歯切れが悪く、言葉が少ない。少年の言葉には「誰と何をする」という事を口にしなかった。おそらく一人で行動したいのだろう、とユリファはアタリをつける。
(難しい年頃なのかしら)
ユリファは小さな不安を覚えたが、にっこりと笑顔を浮かべてみせた。
「気を付けて行ってらっしゃい。でもルールは守るように」
「危険地帯には絶対入らない。そうじゃなくても危ない場所には近づかない。色んな意味で無理はしない。変なものは食べない」
「よろしい。ああ、そうだ。枯れ枝とかがあったら拾ってきてくれると助かるわ。ストックが少なくなってきたから」
ユリファがそう頼むと、ティザリアは少し考えるようなポーズを取って振り返った。
「だったらバッグを持っていこうかな」
「あら、いいの? 遊ぶのに邪魔にならない?」
「うん。どうせ…………ねぇお母さん。たくさん拾ってくるから、バッグを持ってきてくれない?」
「……?」
「ほら、家にはキトアがいるじゃん。バッグなんて持ち出したら、またウルサいことになるし」
「そうね。きっと一緒に行きたがるわね」
「だから……その……」
「お友達と遊ぶのに、妹がいたら困る?」
「……うん。そう」
ティザリアは最近キトアとあまり口をきいていなかった。
ケンカしているわけではない。むしろケンカにならないように距離を取っているように見えた。
その結果キトアは(口には出さないが大好きな)兄が構ってくれないので、常時不機嫌。ルールに則ってキトアがケンカをふっかけても、ティザリアはスルリとそれをかわしていた。時に冷たく。時に申し訳なさそうに。
ティザリアは妹と過ごす時間を減らし、代わりに何かじっと考えているようになった。一人で遠くを眺めたり、静かに手元を見つめたり。
彼がそんな風になったのは、『ケンカするときは仲直り前提で』というルールが作られてからだ。
もっと本音でぶつかれば、すれ違いが起こることもないだろう。ユリファがそう考えて設定したルールだったが、もしかしたらそれは誤りだったのかもしれない。
彼は妹に本音をぶつけるのではなく「そもそもケンカをしないように振る舞う」という道を選んだのだ。
その結果、普通の会話すら控えているように思えた。クールな性根であろうティザリア。それでもまだまだ子供だったはずなのに、ここ最近はクールを通り越して陰鬱な雰囲気すら放っていた。
そんな彼の真意がユリファには測れなかった。
(二人はあんなにケンカばっかりだったのに、それがピタリと止まったのは何故かしら)
ある意味では「ケンカの許可証」でもあるルール。仲直りするなら好きなだけしなさい、というソレは、彼にどんな変化をもたらしたのだろう。
(ケンカと仲直りをセットにする妙案だと思ったんだけどなぁ……。キトアに本音をぶつけたくないのかしら? そこまでキトアの事を嫌ってるようには見えないけど……)
ティザリアの真意が知りたかった。だけど同時に、彼が何かを一生懸命に考えているようにも見えるので、それを邪魔したくもない。
もしかしたら彼の『真意』はまだ完成していないのかもしれない。つまり自分でも自分の事が分からない状態なのだ。
自分は妹とどう接したらいいのか。その判断がつくまでは、きっとこの状態が続くのだろう。――――そんな仮説。
(もしそうだとしたら、私があれこれ聞くのはウザいわよね)
ユリファはそう考え「分かった、バッグを持ってくるわね」と返事をして息子に背を向けた。
私の視線から逃れたティザリアは、いまどんな表情を浮かべているのだろう。そんな些細なことがとても知りたかったけれども、ユリファは息子のことをそっと見守ることにしたのであった。
森。
この辺りは完全に人間領域なのでモンスターが出没することはほぼ無い。
また危険な動物のテリトリーは森の内部に点在しているので、あまり入り込まなければ問題は無かった。とはいえ、流石に子供一人で森に入ってはいけないのだが、ティザリアはどうしても独りになりたかったのでコソコソと森に侵入した。
ユリファの仮説は概ね当たっている。
ティザリアは、妹との接し方に悩んでいたのだ。
だけどソレを上手く言語化出来ないでいる。自分の感情がとっ散らかっていて、何をどうしたいのかが分からないままだ。
『僕はキトアとどういう関係になりたいのか』
妹のことは嫌いじゃない。だけど、好きという感情と上手く付き合える気がしない。
分からない。自分のことなのに、分からないことだらけだ。
ユリファに相談することも考えたけど「きっと自分の気持ちを伝えたらお母さんは悲しむだろうな」という予感があったのでそれも出来ないでいた。
お父さんがいない今、家族は僕が守らないといけない。
だから僕は格好良くて立派な男にならないといけない。
だけど僕はまだ子供だから、自分がすべき事と、したい事の違いが分からないままだ。
少年は森の木々に囲まれながら、目を閉じて天を仰いだ。
「お父さん……早く帰ってきてよ……」
不安と悲しみと焦りと、謎の怒り。
少年は深いため息を吐いて、歩みを再開させた。
目的地はもうすぐそこ。この先に大きな岩場があって、そこに登ってひなたぼっこをすると気持ちがいいのだ。考え事に最適、ではない。むしろ逆だ。あそこなら何も考えずにいられる。しかしながらその岩場はとても巨大。登るのには一苦労するのでそう頻繁に来ることは出来ないでいる……そんな秘密基地のような場所だ。
やがて木々が途切れ、大きな岩場に到着する。
ここははるか昔、魔獣が住処にしていた場所らしい。どんな魔獣だったのかは知らないが、退治されるまで猛威をふるったそうな。だが今ではただの岩場。自分の家よりも高い場所を目指してロッククライミング。ティザリアは手慣れた様子で岩場の頂上へとたどり着いた。
抜けるような青空。岩肌は陽光に照らされて白く、吹き抜ける風は冷たくも心地よい。
そんなお馴染みの景色に、見慣れない人がいた。こちらに背を向けて座り込んでいる。
「えっ……だ、だれ?」
思わず声が出る。それに反応したのか、その人はゆっくりとこちらに振り返った。
それはものすごく綺麗な人だった。
今まで見てきた人の中で、いっとう綺麗な女の人。
「えっと、あの……こ、こんにちは」
あまりにも綺麗な人なのでティザリアの悩みが吹き飛ぶ。代わりに少年の心は高鳴った。
「こんにちは」
その女の人はそう挨拶を返して「よいしょっと」と言いながら立ち上がる。そしてティザリアを見てニッコリと笑った。
「もしかしてここは、あなたの大事な場所だったりする?」
「えっと、まぁ、そうです。よく来てるんだけど……でも別に僕のものってわけでもなくて……その……」
少年の返事はしどろもどろ。
彼はその女性に見惚れていたからである。
謎の女性。背が高く、細身だ。
艶のある長髪は太陽の光に反射してキラキラと輝いている。それが白いジャケットによく映えていて目を奪われる。黒いスカートと、黒いブーツは、それぞれ色の深みが違っていた。
あと顔がめちゃくちゃ可愛い。見ているだけで呼吸がしづらくなる。動揺のあまりティザリアは「綺麗な人……」と素直な感情を口にしてしまった。
「あは、ありがとう」
まるでヒマワリが咲いたかのような大きな微笑み。ティザリアは自分の顔が真っ赤になるのを自覚した。
「えっと……ここで何を?」
「ここなら村の様子がよく見えるかと思って登ってきたんだけど、あんまりにも陽差しが柔らかくてさ。えへへ、うっかりお昼寝しちゃってたんだ。あなたの場所なのにゴメンね」
見た目はクールな顔立ちなのに、喋り方は柔らかい。少年の警戒心は消し飛んだ。
「いえ、ぜんぜん。むしろ邪魔してごめんなさい」
「えっ、なんで謝るの? ここはあなたの場所なのに」
「……僕が好きなだけで、別にココは僕のものじゃないですよ」
「おぉ~。とっても理性的。普通だったらテリトリーを侵害されるとちょっとイヤな気分になると思うんだけど」
「テリトリーって、そんな。動物じゃあるまいし」
「ふふ、確かに。変な物言いになっちゃった。ごめんね。えーと、何くんかな?」
「ティザリアです」
「じゃあティッ君だ」
気安くあだ名を付けられた少年は本気で照れた。仲の良い友達に呼ばれた事のないそれが、特別な名前のように感じられる。
ニヤケそうになる頬を必死で制御して、ティザリアは勇気を振り絞った。
「そ、それで……お姉さんのお名前は?」
綺麗な女の人は一瞬の間を置いて、困ったような表情を浮かべてみせる。
「ごめんね。実はちょっと事情があって本名は明かせないの……。実は秘密の任務中で」
名前を教えてもらえなかった。それはティザリアにとってちょっぴりショックな事ではあったが、気を取り直して彼女の言葉を拾う。
「任務……あ、王国騎士の方なんですか?」
「――――まぁ、そんなところ。それでティッ君にお願いがあるんだけど……」
「なんでしょう」
「えっとね、まず私と会ったことは誰にも内緒にしてほしいの。秘密の任務中だから」
「……はぁ。別にそれぐらい構いませんけど」
「絶対内緒だよ? それともう一つ。しばらくこの岩場を私が使ってもいいかな?」
「ええ、もちろん」
躊躇いなくそう答えると、彼女は「ありがと!」と満面の笑みを返したのであった。
ずきゅーん。
こうして少年の恋は始まった。
絶対にしてはいけない恋だった。
――――そう、絶対に。