月の証明・前編
本編は完結しましたが、後日談を少々。
俺が旅を終わらせてユシラ領に戻ってから。つまりフェトラスと再び一緒に暮らすようになってある程度の時間が流れた。具体的には季節二つ分ぐらい。
それは秋の終わりを感じさせる、風が冷たい香りをまとい始めた頃。
フェトラスが神妙そうな顔をして、口を開いた。
[月眼をコントロールするための、良いアイディアを思い付いたんだけど]
「ほう」
[毎日牛肉食べたら飽きるんだよね?]
「まぁそうだな」
[だったらさ、私達もめっちゃイチャイチャしたら、そのうち飽きて月眼がコントロール出来るんじゃないかな?]
「……なるほど?」
俺はそう答えるしか出来なかった。
月眼状態のフェトラスは神妙な顔をしていたが、その口元が微妙に笑っているのを俺は見逃さなかった。
「そろそろ収穫だな」
俺は畑を前にして思わず笑顔を浮かべていた。
このユシラ領で本格的に農業に挑戦し始めて、初めての収穫だ。素人でも簡単に作れる野菜ばかりだけど、元気に実ったそれはとても美味しそうだった。
「シリックのおかげで販売ルートのツテも出来たし、これを売って……余ったらフェトラスと一緒に食うとするかね」
――――正直なところ、俺が農業で生きていくのは難しい。
多少は勉強したり、真面目に頑張ってはいるのだけど、そもそも俺は素人だ。カフィオ村で少しは経験を積んだとは言え、その経験とやらはあまりにか細い。畑だって適当な場所に開墾しただけだし、知識も道具もノウハウも完全にルーキーのそれである。
なので当然のことながら、プロの農家の方々が作った野菜には到底勝てそうもない。そもそも野菜っていうのは種をまけば勝手に育つようなモンじゃないのだ。根っこは病気に冒されるし、葉っぱは虫に食われる。嵐が来たらみんな痛んでしまうし、最悪の場合吹き飛んでしまう。そのぐらいあいつらは繊細だし、かなり気を遣わないと立派には育たない。それこそ愛が必要なのだ。
そんなわけで。俺の管理能力の低さも相まって、我が畑はまだまだ小さい。
俺は一生懸命に作物を育てたつもりだが、プロをさしおいて高値で売れるはずもなく。これで生活をするのはかなり厳しかった。
今の俺が野菜を販売して金貨を五枚稼ぐには、三ヶ月~半年程度の時間がかかる見込みだ。
――――だがしかし。犯罪者をとっ捕まえたり、盗賊団を壊滅させたり、危険なモンスターを処理したり、素材が取れる動物を狩るだけで金貨五枚と言わず、その十倍は楽に稼げる。本気になればたぶん移動時間込みで数時間もかからない。
というかザークレーあたりを通じて王国騎士団に「危険な魔王をたくさん倒したから報奨金ちょうだい」と言えば俺はすぐに金持ちになれるんだよなぁ……。悪い意味で有名になってしまうから採用は出来ないけど……。
戦う以外にも、観察眼を駆使して金山や宝石でも見つければその時点で俺は労働から解放されるわけだ。
だがまぁ、そういう生き方は性に合わない。労働から解放されたら俺はずっとゴロゴロしてヒマを持てあますだろうな。考えるだけで退屈だ。
俺は農家に憧れていた。
だから農業をする。
それだけだ。
ただあんまりにも儲からないので、もっと頑張らないといけないのも事実だが。
シリックのおかげでとある食事店に野菜を卸す契約は結べたが、それもお情けというか……まぁ要するに、定期的かつ絶対的な契約というわけではない。
「知り合いが野菜作ったから買ってあげてくれませんか?」
「シリック様がそう仰るなら、適正価格で買い取りますよ」
その程度の内容だ。実績が全然無い俺の野菜が売れるのは味とか質とかの問題ではなく、シリックの『顔』のおかげだ。彼女はこの地において魔王テレザムを討った英雄であり、領主の娘でもあるからな。
ともあれ収穫の時期である。
いくらで売れるだろうか。どれだけ美味しいだろうか。誰かがこれを食べて幸せな気持ちになってくれるだろうか。
たくさんのワクワクと、ほんの少しの不安。なんだか腹の奥がムズムズする感じがするけど、悪い感覚じゃない。
「よし。先方に連絡して、納期の日取りでも決めるとするかね」
そんなことを呟くと、背後からプレッシャーを感じ取った。俺は反射的にそれを処理して、後ろから飛びかかろうとするのがフェトラスであることを知った。
[どーん!]
「よいしょぉぉぉ!」
フェトラスはデカいのである。そんな彼女が飛びかかってくるもんだから、俺は気合いを入れてそれを耐えた。
[お父さんお父さん! お仕事どう? 終わった?]
「おー。終わったおわった。水やりも済んだし、状態チェックも完璧だ」
[むふふー。おつかれさま! じゃあ遊びに行こう!]
「へいへい……今日は何をするんだ?」
[えっとねぇ、うんとねぇ、何をしよっか?]
「お前のしたい事なら何でもいいぞ」
[わーい!]
月眼の魔王は瞳をキラキラと輝かせながら、幼かった頃のフェトラスよりも更に幼い言動で俺に甘えまくった。これが彼女の言っていた「月眼コントロール」のための一環だ。
ギューっと俺を抱きしめながら、えへへと頬ずりしながら、彼女は言う。
[じゃあ遊びに行くんじゃなくて、今日は一緒にお菓子つくろ! それでそれを食べながら、お父さんのしたいことを考えよ?]
「俺のしたいこと?」
[そーそー! わたしばっかりじゃズルいし!]
「別にズルくも何ともないんだが……」
俺は苦笑いしながらそう言って、ようやく彼女を引き剥がした。
そしてそのまま彼女の頭をなでる。よしよし、と。
「お前は今日も可愛いなぁ」
[うえへへへへへ]
(笑い方がユニークだけど)
フェトラスが両手を後方にピーンと伸ばして頭を突き出してくるので、俺はいらんことは言わずにただ彼女をなで続けた。
フェトラスが提案した月眼コントロールのための良いアイディア。それがこの無闇やたらとイチャイチャする事である。
彼女はこう言った。
[今まではそれなりに節度をもって接してきたけど、そういう中途半端な我慢をするからよくないと思うの。ほら、お父さんも言ってたじゃない。毎日牛肉食べたら飽きるって。その理屈に従えば、もうこれでもかというくらい私がお父さんに甘えたら、いつか月眼もコントロール出来るんじゃないかな]
「なるほど」
マジでそう言うしかなかった。
フェトラスがやる気に満ちあふれていたからだ。しかし一つ気になることが。
「中途半端な我慢、ね。……なぁ、ちょっと聞いていいか?」
[なに?]
「お前今まで我慢してたの?」
[もちろんだよ!]
「そうか……」
俺が帰って来てから、今までの鬱憤を全て晴らすかの如く甘えまくっていたと思うのだが、あれで我慢してたのか。そうか。そうなのか。
(アレ以上に、甘えてくるだと……?)
既にほぼ一日中一緒にいるんだけどなぁ。
「お前が我慢をやめるとして、具体的にはどんな感じになるんだ?」
[えっ、具体的って言われると難しいな……]
「例えば俺にしてほしい事とかがあるなら言ってほしい」
[……ね、寝る時にギューってしながら眠るとか?]
一瞬だけ固まる。
むぅ。別にフェトラスに対してやましい気持ちがあるわけでは無いのだが。男は朝方になると生理的な現象がだな。……その辺りを突っ込まれるのは非常にややこしい。フェトラスが小さいころは身長の関係もあって問題なかったのだが。
[お風呂に一緒に入るとか]
更に固まる。
それは気まずいを通り越して、ちょっと無理だ。小さい頃ならいざ知らず、今のフェトラスは大きいおねぇさんなのだから、節度や恥じらいは必要不可欠である。
[あとチューも毎日してほしいかな!]
「それは断る」
俺はその点だけ即答した。何故ならフェトラスが自分の唇を指さしていたからだ。
「頬にする程度なら、別に構わんが」
[むぅ……かたくな……別にいいじゃん。なんで?]
「俺が思い描く『親子』に、そういう風習は含まれないからだ。というわけでこの話を蒸し返すのは禁止な」
[ちぇー。分かったよ……]
特段駄々をこねるわけでもなく、フェトラスは素直に従った。
(だから、ほら。早くお前の本音を言ってみろよ)
そんな独白を隠していると、これまた素直にフェトラスは想定どおりの動きをした。両手を後ろで組んでモジモジとし始めた彼女は、躊躇いがちに口を開いた。
[じ、じゃあね……あのね……]
少し言いづらそうにも見える。……助け船でも出してやるとするか。
「いまお前の願いを断ったから、次のお願いごとはうっかり聞いちまいそうだ。……だから、言いたいことがあるなら言ってみるといい」
俺がそう言うと、フェトラスは身体を小さくさせながら、上目遣いでこう言った。
[わ、私がちょっと子供っぽいことしても……からかったりしないでほしい、かな]
キョトンとなってしまう。
そしてすぐに理解した。
(……そういえば、こいつがデカくなってから、俺の態度も変わってしまっていたような)
昔とは違うのだと。
湯浴みが良い例だ。昔は川で一緒に身体を洗ったり、宿屋なんかではタオルを湯にひたして互いの背中を拭いたりはしていた。
しかしコイツが大きくなってからはそういうこともない。「そのぐらい自分で出来るだろうが」と、(突き放したわけではないが)苦笑いを浮かべて断ることもあった。
風呂に限らず、食事の際に「これも美味いから食ってみろよ。ほら、あーんして」とか、朝方に髪を梳いてやったりとか、悪路で手を繋ぐようなこともほとんどしなくなったように思える。ガキじゃあるまいし、と。
そういった色々なことが、寂しかったのか。
変わってしまった、失ってしまったことが、切ないのか。
……まぁそれもそうか。こいつはまだ五年ぐらいしか生きてない。まだまだ子供なのだ。身体も精神性もとっくに大人のソレだとしても、反抗期すら経験してないお子様だ。
(っていうかコイツの反抗期とか超怖いんですけど)
そんなことを思いつつ、コイツは今更反抗期なんて迎えないだろうという確信もあるのだが。
――――子供っぽいことをしても、からかわないで、か。
きっとフェトラスは今の俺にどうやって甘えたらいいのかが分からなくなってしまったのだろう。
『それはダメだ』
『不適切だ』
『似つかわしくない』
そんなよく分からない言葉と理由で今まで普通にやっていたことを拒絶されて、戸惑っていたのだろう。
ある程度は我慢していたが、ここに来てそれが爆発したということか。
「分かった」
お望み通りに、子供扱いしてやろう。……なんて余計なことは口にしない。
正しい意味で、こいつは俺の子供なのだから。
だから俺は態度で示した。
「おいで」
両手を広げてそう言うと、フェトラスは満面の笑みを浮かべて俺の胸に飛び込んできたのであった。
そんなわけでフェトラスと以前よりも密接に生活する日々が始まった。
もっと具体的に言うならば、俺はフェトラスの「子供っぽい側面」を改めて受け入れたのである。
別けていたベッドを一つにした。
風呂もたまには一緒に入ってやる。(ただしフェトラスに魔法で協力してもらい、すごく広く改築した)
何か良い事をしたら、頭をなでまわしてやった。
「あーん」もしてやるし、してもらったりもした。
……まぁこの辺は分かりやすい。俺はフェトラスを「かつて無人大陸で一緒に暮らしたフェトラス」として扱っただけだ。
その度にフェトラスは「呆れたりしないかな。イヤそうな顔しないかな。ここまで甘えちゃっても大丈夫かな」とソワソワしていたようだが、基本的に俺が何でも許していたら、今ではすっかり幼児退行が極まっていた。
さもありなん。俺と同行しているとどうしたって月眼状態になってしまうので、街に行くときは一人だが、それ以外の時間はべったりと過ごしまくった。
[ねぇねぇお父さん!]
意味も無くくっついて、それから何か理由を探して。
そして結局は充実した無為を過ごしていたように思える。
仕事が一段落したら庭でボールを投げて遊んだりしたし、時にはフェトラスの魔法を使って日帰り小旅行もした。色んな景色を見て、色んなものを食べた。
頻繁に手をつなぐようになって、しまいには腕を組みだした。密着度・大である。
意味も無く抱きついてきた時は抱き返したし、よく頭を撫でたりした。
会話の量も増大して、最終的にはなんか頭の悪い会話を繰り返すようになった。
ケース1
[ぽんぽんぽん、おなかぽんぽんぽん]
「なんだその(マヌケな)歌」
[お腹いっぱいの歌だよ!]
ケース2
[ねぇねぇお父さん! ちょっと思ったんだけど、呼び方を変えてみない?]
「呼び方ぁ? なんだ、どんな風に呼ぶつもりだよ」
[パパ~]
「……落ち着かん」
[お父様ぁ~]
「もっと落ち着かん」
[そっかぁ。じゃあいっそロイルって呼び捨てにしてみたり]
「……俺はお前から『お父さん』って呼ばれるのが一番好きだし、落ち着くんだが」
ケース3
[ねぇねぇお父さん]
「なんだフェトラス」
[呼んでみただけ~]
ケース4
[お父さんはわたしのこと大好きだよね?]
「その通りだが……今更なんの確認だよ」
[ふっふっふ。わたしはその五万倍はお父さんのことが好きだよ!]
「五万倍、ね。……フェトラス。ここにコップがあるな?」
[うん。わたしとお揃いのコップだね]
「ここに一滴だけ水を入れるとする」
[ふむふむ]
「これがお前の言う、五万倍の愛と仮定する」
[ほうほう]
「んで、俺の気持ちはこうだ」(水差しから水を注ぎ込む)
[うわああああ溢れたぁぁぁぁ! えへへへへへへへ]
ケース5
[お父さん]
「なんだ」
[しりとりしよう]
「唐突だな。……まぁ、いいけど」
[じゃあわたしから。――――愛してる]
「そこからスタートなのかよ。えっと……る……ルールブック」
[狂おしい程に愛してる]
「しりとかコレ? ……ルビー」
[びっくりする程愛してる]
「……ルーレット」
[とんでもなく愛してる]
「る……ルーキー]
[君を愛してる]
「る……る……ループ」
[ぷ。ぷ…………うわぁ、わたしの負けだなぁ!]
「もう一回言うけど、しりとりかコレ?」
言動は日々幼くなっていき。
お願いごとのバリエーションが増えていき。
際限が無くなっていって、距離感は大いに狂って、彼女の要求はエスカレートしていく。
しかしその全てを俺が許容するもんだから、フェトラスはますます俺に甘えるようになった。
だからそれは必然だったのだろう。
甘えて、甘やかして、どこまでも続く終わりのない幸福。
もう一度言おう。
それは必然だった。――――簡単に言うと、フェトラスは少し調子に乗ってしまったのだ。
まぁ「ほっぺにおはようのチュー」を許可してしまった俺にも問題はあったのだろうけど。
「ちょっとトイレ行ってくるわ」
[わたしも付いてく!]
ぴょんぴょんと身を乗り出すフェトラス。トイレまでたかだか数十歩の距離なのに。
うっかり「流石にそれはねーよ」と微妙な表情を浮かべてしまいそうになるが、自己暗示に近い制御を俺は行った。
(からかわない。嫌がらない。こいつは子供。五歳児)
俺はニッコリと笑って「すぐ戻ってくるから」とフェトラスを説得した。
[すぐってどれぐらい?]
「お前と過ごした時間に比べたら、一瞬みたいなもんだよ」
[一瞬ですむなら、一緒に行ってもいいよね? ね?]
幼児退行を極めたフェトラスは素直にワガママを言うようになった。どれもこれも些細なことだし、別に本気で断るようなことではない。言ってしまえば「まぁいいか」で済むような話ばかりだ。
だがしかし、流石にどうなんだろう。
いや別にいいよ? 俺と片時も離れたくないって思ってくれるのは、普通に嬉しいよ?
しかし、もう一度言うが、流石にどうなんだろう。
トイレまで一緒って。
「………………」
[お父さん?]
思い返してみる。
この数週間、ベッタベタに過ごした。
二年間ほど会わなかったこともあって、俺としても寂しかったし、罪悪感もあった。
存分に子供扱いして甘やかすことに対して、俺も楽しかったと言わざるを得ない。
ああそうさ。幸せだったさ。
――――でもなぁ。なんか違うんだよなぁ。
俺がそっとカウトリアに手を伸ばすのを見て、フェトラスが目をまん丸にさせた。
[えっ]
「………………」
[お、お父さん?]
「……………………」
[……おとーさーん]
「…………ふむ」
俺はそっとカウトリアから手を離す。
「フェトラス。質問していいか?」
[ど、どうぞ]
「もしかしてお前、まだ気にしてるのか?」
[…………なにを?]
「ムール火山で俺が怒ったことを」
そう尋ねると、フェトラスは少しだけシュンとした。
[…………うん]
フェトラスがカフィオ村で銀眼化して、そしてムール火山で再会した時。彼女は俺の想像を飛び越えて大人の体格へと成長していた。
その時に俺は烈火の如く怒ったのだ。
『勝手に成長しやがって!』と。
フェトラスに対して、人生で一番真剣に怒った思い出だ。
……しかし。俺にとってはただの思い出だが、フェトラスにとっては胸に突き刺さったトゲの一つだったのだろう。
「ここ最近のお前の子供っぽいふるまいは、俺のためにやっていたんだな。……お前の成長を見守れなかった俺に対する罪滅ぼしのつもりか?」
そう言うと、フェトラスは可憐な微笑みを浮かべた。
[バレちゃったかぁ]
「――――そっか。気を遣わせたみたいで悪かったな。だけど改めて言っておくともう怒ってないし、気にもしてないぞ」
[ううん。お父さんに真剣に怒られたのってあんまり無いから、やっぱりどうしても心に残ってて]
「いいんだ。小さい頃のお前も、今のお前も、俺はどっちも大好きだ。そして俺は明日のお前を愛する」
そんな告白をすると、フェトラスは感極まったように少しだけ瞳をうるませた。
[えへ……嬉しい。ありがとう]
「おう。――――だからもう、無理して子供っぽい振る舞いをしなくてもいいんだぞ」
彼女の涙が引っ込んだ。
可憐な微笑み(演技)は消失した。
後に残ったのは[えっ!?]という焦りだった。
[え、えーっと……べ、別に無理してたわけじゃないヨ? わたしにとっては、すごく普通のことだヨ?]
「いやいやいや。そんな事はないだろう。そんな気遣いまで出来るようになったんだ。お前はもう立派な大人だよ。だから無理して子供っぽい真似なんてしなくてもいいぞ」
[いやいやいや。そんなことないよ]
フェトラスは高速で片手を左右に振った。
対して俺はゆっくりと首を左右に振ってみせる。
「いいんだ。お前の優しさは十分に伝わった。俺が失ってしまったと思っていた、子供時代のお前と過ごせたようでとても楽しかったよ。今までありがとうな」
[ま、まだまだこんなもんじゃないよ。お父さんにはまだたっぷりとわたしのアレやコレやを知ってもらわないと]
「十分だってば」
俺は微笑みを浮かべた。
[でも]
フェトラスは食い下がった。――――つまり、彼女の真意が露呈した。
フェトラスは[お父さんのために幼児退行していた]と口にした。(まぁ俺がそう言うように誘導したわけだが)
しかし当の俺が「十分だ」と言っても、彼女はそれを受け入れなかった。
なぜならフェトラスの真意は「ロイルのため」ではなく――――。
「フェトラス」
声質を少しだけ変えて、彼女の名を呼ぶ。
[…………はい]
「そこで引いておけば良かったのにな?」
俺がそう言うと、フェトラスはがくりと両肩を落とした。
[……ば、バレた?]
「流石に気づくわ。調子にのって甘えすぎたな」
月眼のコントロールのために。それは素晴らしい建前である。
俺が失ってしまった、幼きフェトラスと過ごす日々の再現。それは可愛らしい思いやりである。
だが真実、こいつがやってきたのは『幼児退行』である。
頭すっからかんの、お花畑で「わーい」と騒ぐのと同レベルの振る舞い。
それは俺のためにではない。
極シンプルに、フェトラス自身のためだ。
建前も思いやりも、嘘ではないが重要ではない。
――――そう、コイツはただ全力で俺に甘えて過ごしたかっただけなのだ。
ただ、それだけだったのだ。
幼児退行を繰り返して、果てには[あうー]しか言わなくなるまで甘え倒す算段だったのだろうか。……そう考えると、とんでもねぇなコイツ!
「なぁにが月眼のコントロールだ。さてはお前、全然そのつもり無かっただろ!」
[完全にバレたぁぁぁぁ!]
それはただの怠惰である。
いや100%そういう感情で動いていたわけではないのだろうが、こいつは演技までしてその日々を続行しようとした。つまりこの俺を謀ったのである。この俺を。俺様を。お父さんを。
「牛肉を毎日食べ続けたら飽きる……か。実際聞こえはいいよな。俺達がこの気持ちに飽きたら、月眼が鎮まるだなんて」
[……しゅん]
「だがなフェトラス。毎日陽差しを浴びたって、飽きることなんてねぇんだよ」
[……仰る通りです]
「そもそも飽きるとか寂しいこと言うなよ」
[自分から提案しておいて何だけど、それは割と最初の方で言ってほしかったかな]
「反撃してくるとは上等じゃねぇかコラ」
クワッ! と睨み付けるとフェトラスは[きゃー!]と言って扉の影に逃げ隠れた。
そしてひょっこりと、顔と指先だけをこちらにのぞかせる。
[…………ダメ?]
「ダメだな。この生活は楽しいが、楽しいだけだ」
[楽しいだけじゃダメなの?]
「楽しいだけじゃ足りねぇんだよ」
俺がそう言うと、スッとフェトラスの表情が純粋なものに変わった。
[……じゃあ、どうすれば足りるの?]
「全部だよ、全部。つーかそれでも足りねぇ。結局のところ満たされるもんじゃねぇだろ。満ちたり、欠けたり、だけど変わらずに在るもの。そういうことだろ」
[………………残念。とっても楽しかったのに]
そうは言いながら、フェトラスが浮かべたのはとても幸福そうな笑みだった。
こうして、フェトラスの『適当な理由をでっち上げてお父さんと楽しく過ごそう』な日々は終了を迎えたのであった。
「というわけで、ベタベタしても月眼のコントロールは出来ないということが証明されたので、俺達の関係性を改めて見直すとしよう」
[まだ証明には不完全だよ! あと五年ぐらいイチャイチャしたら慣れるかもしれないし!]
「バカめ。五百年やってどうにかってレベルだ」
[人間の限界をあっさり超えようとしてくれてありがとう!]
今度こそ俺は本気のため息をついてみせる。
「実を言うとだな、今までの生活は楽しかったが少しだけ我慢していた事もあったんだ」
[えっ]
「流石にそれは甘えすぎだろ、っていう突っ込みを我慢する日々でもあった」
[……そうなんだ]
「……まぁ、楽しかったけどな?」
[…………なら良かったよ。でも、楽しいだけじゃ足りないんだよね]
「そうだな。それは本気で思う。互いを気遣うことは大切だろうが、たまには本音でぶつかり合おうぜ。そして時々はケンカをしてみるのも悪くない。どうせ仲直りするんだから、時々はそういうのも必要だろ」
[……そうだね! 本音で話すことはとっても大切だよね!]
「おう!」
[じゃあ早速! ――――お父さんはもっと私を甘やかすべきだと思う! なにせ世界を滅ぼせる月眼の大魔王サマなんだから! 私を不機嫌にさせるのは良くないと思うな!]
「最悪の脅迫だな! そんなこと言うフェトラスはちょっと嫌いだなぁ!?」
[えっ、ちょ、嘘です。誤解です。ただの冗談です。……ご、ごめんなさい]
「許す!!」
そんなわけで、今日もまた月眼のコントロールは失敗したのであった。
でも……まぁ、いいか。
俺はそんな風に思うのであった。
そんな日々から数年後。
フェトラスは月眼のコントロールに成功した。