5-24 別れ、育つモノ
[かう、とりあ……]
カウトリア。ああ、そうだ。それは私の名前だ。
「本当なら俺が迎えに行くべきだったのに。ごめん……ごめんな、カウトリア」
ロイルが私の名前を呼びながら、ずっと謝り続けてる。嬉しそうに、悲しそうに、少し怒りながら。色んな感情が溢れかえりすぎて、とても複雑な表情に見える。
「カウトリア……本当にありがとうな」
私の名前だ。……でも、違う?
それは私の名前なのに、その名を呼び続けるロイルは私を見ていない。
私は『演算の魔王カウトリア』。
そうだ。思い出した。取り戻した。私はカウトリアだ。
だけど……ねぇ、ロイル……。
貴方が手に取るのは私じゃなく。
貴方が見つめているのは私じゃなく。
貴方が必要としているのは私じゃなく。
貴方が名前を呼んでいるのは――――。
演算剣の宝玉が光りを放つ。干上がった水路が溢れかえるように。しなびた花が生気を取り戻すように。月が満ちていくみたいに。
「……あの時と違って、お前の気持ちが手に取るように分かるのは、気のせいじゃないよな。そうだろ演算剣」
彼が名前を呼んでいる。
だけどそれは、私を指していない。
だったら私は誰なんだろう。
そしてようやく、ロイルは私を見つめた。
「……演算の魔王」
[……私のことは、カウトリアと呼んでくれないの?]
「――俺にとってのカウトリアは、演算剣なんだよ」
その言葉には、確かな覚悟が含まれていた。
[……じゃあ私は、誰なの?]
わたしはいったいなに?
何か致命的な感覚がズレていく。
私は演算剣だった。私はカウトリアだ。
だけどロイルがそれを否定する。今ロイルは「お前はカウトリアではない」と言ったに等しいのだ。
繰り返す。私の名はカウトリアだ。だけどロイルがそうじゃないと言う。
取り戻したはずの全ての過去が、今の私とズレていく。
そして実際に、演算剣カウトリアがあそこにある。
だったら、私は一体なんなんだ?
瞬間的に恐怖が激増する。
怖い。肘から先がカタカタと震える。
怖い。膝を中心に脚がガクガクと震える。
[私は、貴方のカウトリアじゃないの……?]
じわじわと広がっていく、アイデンティティーの崩壊。
だけど、それを食い止める者が現れた。
[いいや、君はカウトリアだよ。僕が保証する]
ロキアスがふわりと私のそばに寄り添った。
三代目の月眼にして、観察の魔王。
[さて、ロイルがこれ以上【神理】で壊れないように、二人で少しだけ内緒話でもしようか演算の魔王]
そう言ってロキアスは音を遮断した。
この男の目的はいまいちよく分からない。自分が好きそうなシチュエーションを観察することが好きなだけで、そのためにフラフラと行動しているからその行動基準が分かりづらい。
だけど月眼だ。この世で確かなモノの一つだ。彼が口にした言葉は、少しだけ私を安心させた。
[私はカウトリア……かつて演算剣だったもの……今は月眼の魔王……だったら、アレはなに? 私はここにいるのに、どうしてあそこに演算剣があるの?]
[どちらも君なんだ。演算剣カウトリア。その意思が分離して、成長したのが君だ。……いや、分岐したという方が正しいかな]
分岐。
誰が、いつ、どこで、何を、何故、どうやって。
そんな疑問の基礎に言葉を当てはめる。演算するまでもなく明白な答えを。
私が、《いつ》、虚空で、演算剣を、ロイルのために、《どうやって》。
《二つの疑問》には解答することが出来なかった。
いつから私は分岐した? どうやって?
その残った疑問を私は口にした。そして親切なことにロキアスが答えてくれる。
[いつ、というのは明確に定義し辛い。あの虚空の中では時間の概念がない。ただこちら側の時間軸で表すのなら……そうだな、君が【源泉】に触れた時には既に分岐していたはずだ。演算剣の意思が、その身体を置き去りにしたんだよ]
[…………何故……というより、何のために?]
[少々ロマンティックな表現と、推測しうる中で最も可能性の高い事実の提示。君が好むのはどちらかな?]
[後者よ]
[……単純に身体が邪魔だったからだろう。あの虚空の中で活動出来たのは君の『意思』だけだ。そして君は数少ない材料とパスを駆使して【源泉】の波動に触れた。そしてそのまま波動という名の大河を泳ぎ切り、【源泉】本体へとたどり着いたのだと推測される]
[源泉……ああ、アレの名か……]
菱形のアレ。
身体が邪魔だったから、剣としてのカタチを捨てた。なるほど合理的ではある。あそこでは剣のカタチはまったく必要なかった。というか、今だって必要じゃない。
私は肉体を手に入れた。ロイルに近づくための脚を。彼を抱きしめるための腕を。彼を受け止めるための胸を。彼が好きな髪を。彼とお話しするための口を。彼を見つめるための、月眼を。
今の方が剣のカタチよりもよほどロイルの役に立つ。魔法が使える。ロイルの指示が無くても敵を迎撃出来る。彼がいなくても敵を殲滅出来る。彼を、温めてあげられる。なのにロイルは――――。
ロイル。ロイル。ロイル。ロイル。ロイル。ロイル。ロイル。
演算剣がそんなに好きなら、わたしも愛してよ。
……いけない。思考が散らばっている。
私は現状を正しく打開するためのヒントを、ロキアスに求めた。
[なぜ、私と剣は分かれたの?]
[というよりも、分岐したからこそ君は魔王なり得た。君は自分の意識の波長をチューニングして、【源泉】の波長と合わせたんだ]
[…………]
[【源泉】は自動的に君を帰還させようとして、そして君は望んで【源泉】へと向かった。両者の意図は一致していた。――――だけど身体は付いてこれなかったのさ]
[そう。……ちなみにロマンティックな物言いだと、なんて表現になるのかしら]
[君のロイルへの想いが、時空を超えたんだ]
一瞬面食らった。
ここで初めて、ロキアスの顔を私は見た。
彼はとても優しい顔で、私を見ていた。
[……いいわね。そういうことにしておきましょう。じゃあ、ついでにもう一つ教えてほしい。意識が分離したのに、どうしてあの演算剣は発動していたの?]
[分離じゃなくて分岐だよ。……次はロマンティックな物言いと、事実の提示、どちらにするかな]
[ロマンティックにお願い。たっぷり、ね]
かしこまりました、と少しだけおどけた風にロキアスは言った。
[君は魂の奥底からロイルを愛していた。……そして、魂が無くなったぐらいじゃ君のロイルへの愛は止められない]
フッ、と。笑みがこぼれた。認められた気がして、嬉しくなった。
[最高ね貴方]
[お褒めにあずかり恐悦至極]
[あと二つばかり質問したいところだけど、一つにしておくわ]
[そうかい。三つでも四つでも僕は構わないけどね]
[――――私は、勝てると思う?]
[勝て]
予想でなく、応援でもない。それは命令だった。
[君は勝たなくてはならない。じゃなきゃ……ここまでやってきたことは無意味になる]
[…………そう]
[勝ってこい演算の魔王。僕に、君のハッピーエンドを見せつけろ]
[別に貴方のためじゃないけどね、そうね]
そうさせてもらうわ、とロイルに視線を戻す。世界で一番かっこよくて素敵な人へ。
背後からロキアスの声が聞こえた。
[……君に愛の祝福がありますように]
やれやれ。本当にロマンティックな魔王だ。
残しておいたもう一つの質問。
どうしてそんなに私に優しくしてくれるんだろう?
その答えは、後で聞くことにしよう。
――――まぁ、たぶん忘れてしまうだろうけど。
さぁ、勝負よロイル。私は貴方に勝ってみせる。
待ってて。すぐに貴方をメロメロにしてみせるから。
私は彼とハッピーエンドに至るため、その足を一歩踏み出した。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
何やらロキアスと演算の魔王が会話していたようだが、ロキアスの魔法のせいで全く聞こえなかった。だが、それも終わったらしい。
彼女が俺に、歩み寄ってくる。そして俺が手にした聖遺物をじっと見つめる。
[演算剣……そうね。私は、そんなカタチだったわね……]
「…………」
その表情の意味を読み取る。彼女には『余裕』の笑みが浮かんでいた。
「勝算アリ、って顔だな」
[やだ、顔に出てた? ふふっ。でもこれでもビックリしているのよ。……まさか剣のまま虚空に取り残されていただなんて、思ってもみなかった]
「お前がいて、コイツがいる……分離した、いや、分岐したのか?」
そう尋ねると、演算の魔王は少し目を見開いた。
[話しが速いわね。……ああ、神速演算の能力が使えているのね。私という意識が無いのに、まだ使えるだなんて]
「全盛期よりも強いぞ」
[あはっ、それはそうでしょう。カタチはどうあれ、カウトリアはいつだって『今』が最強なのよ]
「…………」
俺は様々な感情を踏み潰して、一歩前に出た。
[えっ?]
「…………」
演算の魔王が理解出来ない、という顔を浮かべる。
[なんで?]
「…………」
[どうして私に、演算剣の刃を向けるの?]
その表情から、余裕が消え去った。
[そんな……何故? どうして? そんなんじゃ、まるで……]
「……ああ。俺はこいつで、お前に挑む」
[うそ]
全く理解出来ない。彼女は全身でそう訴えた。
[違う。違うよロイル。貴方は今から、私と勝負をするの]
「ああ、そうだとも」
[違う。違うよロイル。私は貴方と殺し合いをするつもりなんて、ないのに]
「……勝負するんだろう?」
[違う! 私は、今から、貴方と幸せになるために――――]
会話がズレている。
だから俺は彼女の言葉を遮った。
「構えろ演算の魔王。俺の娘に手を出すやつは、全て俺の敵だ」
絶句。彼女は今、何を思っているのだろう。
だがそんな予想は必要無い。揺るぎない一つの事実が、目の前にあるのだから。
「お前は、俺の敵なんだよ」
キラキラとしていた笑顔が、瞬時に曇る。
[……私はロイルの敵じゃないよ。家族だよ。そう言ってくれたじゃない]
「そうだな。今も……俺は本気でそう思ってるよ」
[だったら]
「でもお前は、フェトラスを殺そうとしている。ならば躊躇いは小さい」
[……どうして? どうしてそんなに、フェトラスが大事なの?]
「理由なんざ一つしかねぇよ」
[……だったら、その理由が無くなったら? そしたら私を一番に愛してくれる?]
「理由が無くなったら……どうなるんだろうな。正直想像もしたくない。でもたぶん……この気持ちが永遠になっちまうような気がするよ」
瞬間、ぞわりと俺の全身に鳥肌が立った。
かつて感じた事も無いほど強大な殺意が俺を包んだからだ。
[ロイル。永遠なんて無いのよ]
「お前にとっちゃそうだろうな」
[ツッ]
「俺がフェトラスを大事に思う気持ち。その理由は一つだ。そしてその理由は、俺が生きる意味であり、俺が努力する理由であり、俺が俺であるために必要なことだ」
演算の魔王から発せられていた殺意が薄れる。
[…………その理由って、具体的になに?]
「もう散々口にした。だからもう、言うまでもないだろ」
グッ、と演算の魔王が涙をこらえる。
[……ねぇ、ロイル]
「なんだ」
[……そこまでフェトラスが大事だってことは分かったよ。でも、どうして? どうしてロイルは……そんなに泣きそうな顔になっているの?]
「お前を殺したくないからだよ」
その言葉を聞いて、演算の魔王は寂しそうに笑った。
そしてこれ以上、会話は必要ではなくなった。
きっと彼女は答え合わせをしたいのだろう。俺ともっと話しをしていたいのだろう。だけど俺達がそれぞれ持っているカードは、もうお互いにバレている。
方や神速演算。方やその具現体。――――だからもう、会話の必要が無い。
だから俺は、一方的に宣言した。きっと彼女もそうするだろうから。
「俺はお前を、殺す」
[私はロイルを愛してるよ]
演算剣カウトリア。
適合型。発動すると、持ち手に「加速された思考」と「肉体加速のサポート」を与える。
発動条件はゆるく言うと「戦いを終わらせてのんびり暮らしたい」という願望を持っていること、だろうか。
そして――――。
俺はまず、彼女が身に纏った精霊服の防御力を計ることにした。
おそらくダメージは与えられない。だけど実際の強度が分からないと、攻め方が決められない。
一瞬で距離を詰めて、剣先を上段から振り下ろす。
たった一発しか放てない不意打ちの一撃だ。
その貴重な攻撃の意図を演算の魔王は正確に予測したのだろう。彼女は魔法でも、回避でもなく、片腕を上げて直接防御の構えを取った。
それは自信なのだろうか。あるいは絶望の提示なのだろうか。
(切断は当然無理だとしても、骨折……それも無理か。だいたい月眼の魔王だぞ? 傷の自己修復もめちゃくちゃ速そうだしな。ただ精霊服を切り刻めれば、やりようは変わる)
演算の魔王は「無駄だから、これで諦めてくれる?」と思っているのだろう。腕で隠されて表情は見えないが、まるで「ここを斬れ」と言わんばかりの構えだった。
どうせ初手で殺せるなんて思ってない。俺はありがたくその提案に乗った。
遠慮無く、全身の力を込めて振り下ろす。
だが返ってきたのは固い手応えではなく、どちらかというと柔らかい手応えだった。
(――――なるほど! 攻撃を弾くタイプじゃなく、受け止めるタイプか! こりゃ無理だな!)
奇襲の一撃は大成功と言えるだろう。知りたいことは知れた。ならば次だ。
加速した肉体をコントロールし、演算の魔王の側面に張り付く。
(では、肉体はどうだ!)
首筋を狙っての高速剣。力よりも速度を優先して、その無防備な急所を切り裂こうと試みる。知りたいのは肉体の強度。あるいはそれを嫌がるというのなら「どうやって防ぐか」を教えてもらおう。
だが、演算の魔王は何もしなかった。ただ、涼しげな顔でその刃を受け入れた。
(……!? だが、それならそれで!)
今更力を込めることは出来ないが、容赦無くその刃を振り抜いた。
だが、その刃は届かない。尋常では無い反応速度を見せたのは精霊服だった。
まるで風が吹いたかのような気安さで、精霊服の襟が俺の一撃を防いだのだ。
(チッ、首筋はダメか。めちゃくちゃだな。顔面しか狙う所がない)
今の所、演算の魔王は迎撃の構えすら取っていない。ただこちらが納得するまでは付き合ってくれるらしい。
(それは余裕か? それとも別の意図が? どっちにせよ、この一撃で答えは出る!)
狙うは顔面。口か、あるいはその月色の瞳か。
最善なのは「舌」だ。発声が不明瞭になれば、それだけ魔法を唱えるのが困難になる。
食らえ、これが俺の隠し技だ。
未だかつて無いほどの力を注ぎ込んでくる演算剣カウトリア。
会話出来ているわけではないが、その意思ははっきりと伝わっている。
これは、それこそ今のカウトリアだから出来る奥義。
ドクンと鼓動が一つ。
演算の魔王がまばたきをする隙間。その瞬間を狙って、世界の時が凍り付く。
だけど刃の流れは止まらない。
俺は演算の魔王の、美しくも愛らしく、柔らかな微笑みが似合うであろう口元に、必殺の一撃を放った。
だけど。
「……!?」
演算の魔王は、スッと首を後ろに動かして俺の一撃を躱してみせた。
それを認識した瞬間に、俺は緊急後退。
能力の反動で心臓が荒れ狂ったが、俺は深呼吸をしてそれをなだめた。
[…………そう。すごいなぁ、とは思ったけど、能力のオーバーロードじゃなくて解放してるのね]
秒でバレた。
「……今のを避けられるって、どういう理屈だよ」
[最初の一撃が速すぎたからだよ。私の知らないスピードで駆け寄ってきたら、そりゃ警戒するよ]
「あれでも加減してたんだけどな……しかし、警戒しててもさっきの一撃は避けられるもんじゃねーだろ」
演算剣カウトリア。発動能力は思考と肉体の加速。
そして聖遺物には、もう一つ段階がある。
それこそが『解放』。聖遺物の真なる力。
[世の中には色々な聖遺物があるけれど、その能力の馬鹿馬鹿しさを把握してる者はほとんどいない。聖遺物自身でも、ね。……だけど推測は出来る。演算剣カウトリアの解放――――それはおそらく、自分を加速させることによる、時間停止のまがい物]
「………………」
[後は、これも推測だけどスタミナの上昇……いえ、消費が抑えられている、というべきかしら?]
「………………」
[その沈黙を肯定と受け取るわ]
「まぁ嘘ついても秒でバレそうだしな」
[一秒もいらないわよ。さて、どうするロイル? もう理解出来た? 諦めてくれた?]
「そう急かすなよ。まだまだ試してみたい事が山ほどあるんだ」
[あら――――]
演算の魔王は安心したかのように微笑んだ。
[いくらその剣を解放させたからといって、不可能を可能に変換させるのは無理よ。貴方の攻撃の全てを予測して、『時間停止される前に回避する』なんて私にとっては児戯に等しいのだから]
「……あの攻撃を、予測出来たのか。そうか。そりゃ無理くせぇな」
俺がやったのは、演算の魔王の言う通りのことだ。
手に取る前から発動していた演算剣カウトリア。そして手にした瞬間、解放したことが理解出来た。理由は知らん。解放条件を満たした覚えも無い。
だけど指先一つを動かすだけで全て理解出来た。それだけの時間を演算剣カウトリアは与えてくれる。会話の必要性が無いというのはそういうことだ。
演算剣カウトリアは解放された。それが事実だ。
まず体力が減らない。不思議な感覚だが、全速力で走り続けても俺は息切れ一つ起こさないだろう。
そしてこちらがメイン。本気を超えたら、俺はほんのわずかな間だけだが、時間を止められる。そして自分だけは動ける。
(ただし、攻撃の瞬間だけは時間の流れが戻る……これは、刃が相手に触れるからだろうか……演算の魔王の言葉通りだな。時間停止の、まがい物)
しかし、しかしだ。ということはあの瞬間に演算剣カウトリアの刃は確かに奴に届いたはずなのだ。薄皮一枚ほどは、切り裂けたはずなのだ。
だったら、その薄皮一枚を、何度だって斬ればいい。
重ね続ければ、いつかそのかすり傷は致命傷へと至る。
だけど。
そうだな。それは無理だな。いくら体力が減らないとはいえ、やはり無理だな。
諦めたわけではないが、想像、推測、予想、推理、仮定、様々な思考形態でモノを考えてみても、攻撃を重ね続けることは無理だ。
かすり傷が致命傷になるまで繰り返す?
それは、演算の魔王が「何もしない」ことが前提条件になる。
そしてかすり傷が切り傷になった時、演算の魔王が無抵抗を貫くとは到底考えられなかった。
[どうしたらロイルは諦めてくれるのかしら? こうすればいい? 【速縛】]
「ツッ!」
魔法が放たれる。圧倒的速度で相手を縛り付ける、拘束型の魔法。本来ならば相手を絞め殺すための魔法の、手加減アレンジ。
だけどそれが届く前に、俺は闇から伸びてきた蔓のような物を切り払った。
[……上手だねロイル。じゃあこれは? 【怪廊】」
空間が歪む。これは、魔王テレザムが唱えた魔法に近い。まるで迷路のように空間が固定されて、俺の行動を制御するための魔法だ。発動が定まれば俺は前にしか進めなくなるザコへとなり果てる。
だったら空間ごと回避するしかあるまい。俺は再び時間を置き去りにして、その魔法が形成したであろう壁が完成する前にその場所から飛び退いた。
[…………速いね]
少しだけ悔しそうに演算の魔王が呟く。だけど、その口元には変わらない微笑みがあった。
[いいよ。根比べだね。ロイルが諦めるまで私がんばるよ]
「お前こそ、俺が諦めるわけないって分かってるだろうが」
[どうかな……私はロイルを諦めなかった。あの地獄の時間に比べたら、今は楽しくてしょうがない。もうすぐ幸せになれるって、確信してる]
モチベーションはばっちりって事かよ……くそ……針一本で大熊と対峙してる気分だ……。
[ロイルは、私の愛を止められるかしら?]
月眼の魔王は微笑み続ける。
俺の幸せを踏みにじって、それよりも幸せにしてみせると宣言する。
勝てない。無理だ。絶対に不可能だ。勝てるわけがない。俺はただの弱っちい人間だ。
――――だから俺は、相棒に語りかけた。
「悪い、寝起き早々に申し訳ないんだが……地獄の果てまで付き合ってくれ、カウトリア」
返答は輝き。
俺はこの刃が届く距離まで駆け抜けた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
また暗くなった。
さっきのは何だったんだろう。
すごく綺麗な光だった。
黄色い光。たくさんの意味と想いが籠もった、覚悟の輝き。
ふと、わたしは自分が思考力を取り戻していることに気がついた。ここにくる直前にかけられた弱体化魔法の効果が、吹き飛んでいる。
「…………いや、そもそもここはどこ?」
先ほど強烈な光が放たれた時、少しだけ見えたものがある。
少しだけ、たくさんのものが見えた。
それはたくさんの武器だった。
剣、槍、弓、斧、ナイフ、鞭、その他にも武器には見えない妙な形をした武器がたくさん散らばっていた。
「武器に見えない武器? なにそれ……」
辺りは再び闇に包まれている。
いくら手を伸ばしてみても、何も掴める様子がない。あんなにたくさんあったのに。
いいや、そもそも……あれ、よく考えてみたら……手が無いぞ……?
「というか身体がない!?」
私はようやく自分の状態を把握した。
視界は闇に閉ざされている。匂いも味もしない。何も聞こえない。身体の感覚が無い。
「なんだこりゃ……」
お父さんの口調を真似してみる。うん、大丈夫だ。私はちゃんとフェトラスだ。
「と、とりあえずここから出なくちゃ」
何が出来るかは分からないが、とにかく現状を把握していこう。まずはそこからだ。
「えっと……明かりよ灯れ」
呪文を唱えてみる。だけど、何も変わらなかった。
「……? 光よ! 照らせ! さっきみたいにバーっと周囲が見えるようになれ!」
呪文を唱えてみる。だけど、何も起きなかった。
「あれぇ……? おかしいな。なんか変だ」
魔法が出ない。何故だ。いつもと同じようにやっているのに。
「……………………あ」
そうだった。わたし、身体が無いんだった。
つまり呪文を唱えているわけじゃなく、呪文を頭で考えているだけに等しい。
声を出した気分になっているだけで、実際は自分がどういう状態なのかも正確に把握出来ないでいる。
「……ど、どうしよう」
参った。困った。どうしよう。どうしようもない。
だけど、だからと言って諦めるわけにはいかない。こうしている間にも、お父さんが大変なことになっているかもしれないからだ。
元いた場所に戻らなくちゃ。
だけどここはどこだろう。
ここに来る前、演算の魔王ちゃんに弱体化の魔法を食らいまくっていたせいか、何をされたのかが分からない。それさえ分かれば何とかなりそうなものだが……。
何も見えない。身体が無いっぽい。魔法が使えない。あるのは「わたしがわたしである」ということだけ。
魔法が使えないことはかなり不便だが、どうにかするしかない。
「とりあず、叫ぶかー! うわああああああ! 誰かたすけてー!」
叫んでみた。叫んだ、つもりになった。
だけど応答は無い。
「んー? さっきの光が出る前、誰かいたよね……その人は私の声? に反応してくれたと思うんだけど……」
あの時は、確かこう口にしたのだ。
「ロイルお父さん!」
いや、口にはしてないのか。
だがキッカケはそこにしかない。なんだ。どうすればいい。どうすれば元の場所に戻れる。どうすれば。
だけどその挑戦的な思考に影がさす。
元の場所。あそこには、演算の魔王ちゃんがいるのだ。
「……あそこに戻っても、私に出来ることはあるのかな……?」
それは演算の魔王に与えられた、敗北の重みだった。
「……勝てそうにないんだよなぁ…………」
負けるつもりはない。だけど、勝てる気がまるでしない。アレは正しく化け物だ。
自分も大概だとは思うけど、それでもあれは化け物としか言い様がない。
「お父さんへの想いが強すぎるんだよ……うう……」
だけど、彼女に機会を与えたことに悔いはない。
あそこまで純粋に、そして熱烈にお父さんの事を想っているのならば、私と同類だ。
そして何より、その泣き顔が耐えきれなかった。まるでお父さんによく似ていたから。
元・聖遺物の魔王――――演算剣。
つまりお父さんとはかなり古い付き合いになる。しかもずっとお父さんのために頑張っていたそうだ。まさしく相棒。私が初めて月眼になった時も、彼女がいなければ私はお父さんを殺してしまっていただろう。
だけど彼女はお父さんを助け続けた。
そんな彼女だったら、お父さんをきっと幸せにしてみせるだろう。
「……だけど」
だけど、負けたくない。
お父さんの隣りに、私はいたい。
「みんなで仲良く暮らせたら、それが一番なのに……」
だけど演算の魔王はそれを否定した。
凍り付いた深海なんかより、あったかいお部屋でお鍋でも食べる方が絶対幸せなのに。
「…………待っててお父さん。もうすぐ、もうすぐ戻るから」
だけど出来ることは何一つなかった。
せっかく戻ったはずの思考力は、己の無力さを実感するためにしか使えなかった。
再び、私の心は昏い絶望へと侵されていく。