5-20 だから私はこの感情を
俺はフェトラスの頭をなで回しながら、ロキアスと演算の魔王のことを見守っていた。
生きているらしいが、ズタボロだ。いきなりフェトラスを殺しにかかる可能性は低そうだったが、起き上がった彼女は一体どんな行動に出るのだろうか。
諦めるのだろうか。それとも、諦めないのだろうか。
願わくば「負けたわ」と微笑んで、俺達を暖かく見送ってほしいのだが。
……それは、甘すぎる幻想だろうな。
きっと俺は改めて、彼女に「ごめんなさい」と謝罪をしなければならない。
俺の一番は、お前ではないのだと。
不安な気持ちはずっと消えない。
だけど、俺がテクニカルに頭をなで回すと「ぬははは! くすぐったいよお父さん!」と奇妙な笑い声をもらしたり。
「あ! 角の付け根は触らないでほしいなぁ!?」と焦ってみたり。
「……むふー」と満足そうなため息をついてみたり。
そんなフェトラスのリアクションがたまらなく可愛いので、俺は不安でありながらも幸せを感じていた。
これからどうするか。
ロキアスの提示した「一人だけ楽園に連れて行ける」という権利を行使するか。
あるいは、諦めることなく、フェトラスを頼りながら「全ての可能性を諦めない」道を模索するか。
(……まぁどちらにせよ、フェトラスが隣りにいてくれるなら大丈夫だ)
そんな確信を持って、俺はフェトラスを抱きしめ続けていた。
そしてロキアスが動く。
[はっ――――はははははははははは!]
そこには、血走った月眼で狂ったように嗤うロキアスがいた。
優しい時間は終了。
フェトラスは音も無く俺から離れ、巨大な盾のごとく俺の前に躍り出る。
[ああ、なるほどなデッドバース! お前の試みは、正しい! そして最高の演出だ! まさかこんな予想外な結末だとは思ってもみなかった!]
なにを、喜んでいる。
[今回の十三番目は空前絶後だ! これ以降の月眼収穫は退屈になってしまうだろうな! だが、それでもいい! 感謝するぞデッドバース! お前は最高だッ!]
誰を、褒め称えている。
[僕もお前を見習い、中立に立つとしよう! どっちが勝っても面白いが、どっちがドラマティックなのかは言わずもがなだ! ははっ、ははははは!]
何かが、始まる。
それをいち早く察知したフェトラスは俺の方に向き直り、優しく、だけど悲しそうに微笑んだ。
[ごめんねお父さん。私、舐めてた]
「な、何をだ……?」
[お父さんを想う気持ちなら絶対に負けないつもりだったけど……どうやら、今回は相手が悪いみたい。ごめんねお父さん。あの子はたぶん、殺すしかない]
フェトラスの背後。遠い場所。倒れていた演算の魔王が、ゆっくりと立ち上がるのが見えた。そして何が始まるのか、嫌でも分かる。
体勢はふらついている。けれどもその身から立ちこめるのは、強い意志。
最後の戦いが始まる。
「どうして……どうして、こんなことに……」
[ごめんね。でも、私は負けたくない。お父さんを心から愛してる。だから……]
フェトラスは片手を俺に差し出して、懇願した。
[私が勝てるように、もう一度応援してくれる?]
「……当たり前だ!」
[ありがとう。それじゃあもう一つ。とても、とても悲しいことをお願いするね。
――――あの子を殺してこいと、私にそう命令して]
ああ。
俺は何てことを、娘に言わせてるんだ。
殺せ。それは、子供でも口に出来る言葉。
口にするだけなら簡単だ。言うだけで済む。
だけどその言葉に感情を込めるのは、難しい。訓練や慣れが必要だ。
そしてそれを命令するとなると、責任が生じる。
俺達の未来のために、殺すべき相手がいる。
そしてその殺害の責任を、俺にも背負えとフェトラスは言う。
いいや、きっと本質はもっとシンプルだろう。フェトラスが全力を出すためには、俺も同じ気持ちなのだと、『俺もあいつの死を願っている』のだと表明する必要があるのだ。
敵じゃない演算の魔王を。味方であるはずの彼女を。
俺の家族を、全力で殺すために。
言うまでも無く、俺とフェトラスは同じ気持ちだ。俺達は同じ未来を望んでいる。
当たり前だ。そんなこと、当たり前のことなのだ。
だけどとても悲しい事なのだ。
娘に、何かを殺せと命令するだなんて。
俺が描いた『理想的な家族』にはほど遠い、容赦の無い現実。
だけど迷いはもう無い。諦めもついた。覚悟は決まってる。
ただ、ただ、悲しい。
頑張れ。負けるな。勝ってこい。終わらせてくれ。
どれもこれも違う。俺が発するべき命令は、ただ一つ。
「おれの代わりに、あいつを殺してくれ」
[……分かった]
こんな結末、俺は望んじゃいなかった。
だけど全てを手に入れることなんて、神様でも無理なのだ。
俺みたいな役立たずに出来ることは、本当にもう何も残っていない。
フェトラスは俺に【次元斬隔】という謎のシールドを張り、歩みを進めた。
かつてティリファやドグマイア達と戦った時に張られた空気の壁とは比べ物にならない程の断絶。俺は世界で一番安全な場所に置かれた。
ロキアスは嗤い続けている。狂っているとしか言いようのない様子で、愉しんでいる。
そしてボロボロの演算の魔王は四肢に力を込めた。
魔力が見えない俺でも絶望的に理解出来る。あれは、今までの比じゃないくらいに強い。
精霊服は見たことないくらいに荒れ狂い、漆黒のソレは演算の魔王の身体のサイズを遙かに超えて成長。それはまるで身の丈に合わないウェディングドレスのようだった。
演算の魔王が負った傷が回復したわけではない。だけど、そのオーラは絶対強者と呼ぶに相応しい圧を放っていた。
フェトラスが歩みを止める。演算の魔王が顔を上げる。そこは、お互いの射程距離ギリギリの位置だった。
ロキアスが音も無く俺の前に瞬間移動してくる。
シールドのせいで横に並ぶことは出来なかったのだろう。見えない壁に背を当てて、その後ろ姿だけを俺に見せつける。
[やぁ、世界で一番の幸せ者]
「……あいつらは、もう殺し合うしかないのか」
[そうだね。もうどっちかが死ぬしかないね]
「……なぜだ」
[どっちも君を愛しているからさ。君はクッキーを完璧に割ることが出来るかい? カケラ一粒の差異なく分け与えることは可能かな?]
「…………完全に同じ量、となると難しいな」
[そうだね。難しいね。でも、所詮は難しいだけだ。クッキーなら等分に分けることも可能かもしれない。――――しかし、気持ちは割り切れないものさ]
感情は不定形。ロキアスの言う通り、ぴったり二つに分ける事は不可能だ。
[彼女達は、そういう分けられないものを欲している。妥協案なんて無い。互いに諦めることも不可能だ。命がある限り狙い続ける宿命だ。……だったらもう、殺して奪うしかあるまい]
そうだ。そうだとも。だから俺はフェトラスに、命令したのだ。
だけどそのフェトラスはまだ動こうとしない。それは演算の魔王も同様だった。まるでお互いに、何かを待っているかのように。
「…………あいつらは、何をしているんだ?」
[あれはフェトラスの意地であり、敬意の表れだろうね。演算の魔王が落ち着くのを待っているのさ]
「意地……?」
[ただ殺すだけじゃ足りないってこと]
分からない。だけど、分からなくちゃいけない。
あいつが殺そうとしているものは。戦うべきなのは。
[彼女達は、どっちの方がロイルを愛しているか、で勝負しようとしているのさ]
「………………」
[だから、フェトラスは待っている。先に手を出したら負けを認めるのと同じだからね]
「………………」
[そんなフェトラスは相当だが、それでも演算の魔王には劣る。彼女は本当にすごい]
それは心からの賞賛だった。
[色々な愛を見てきたけど、彼女のそれは一線を画している。まさしく次元が違う。年期が違う。重みが、違う]
「……お前にそこまで言わせるか」
[僕は彼女を観察した。カミサマみたいにログを詳細に調べる、なんてマネは出来ないけど、推測は出来る。――――そして僕が得たのは愉悦ではなく畏敬の念だ」
畏敬。それは畏れ、敬うこと。
[彼女はね、本当にとても凄まじいんだ。この推測が百パーセント一致しているとは考えていない。むしろ半分でも当たってりゃ十分だ。だってそうだろう? 聖遺物が月眼に至るだなんて]
「……は?」
[……おっと。そうだった。君にはもう残っていない過去だったか。それにしても凄まじい。【神理】にすら該当しないとは。まぁそれもそうだ。こんなケース想定出来るわけがない。エラーでもバグでもないこれを、奇跡と呼ぶのは演算の魔王に対して失礼だろうね]
ロキアスは思いを馳せた。
演算剣カウトリア。上位管理者である魔女に世界から隔離されたが、意地でロイルとのパスを繋ぎ続け、発動し続けた。まさしく一粒の麦で永劫を稼働し続けたわけだ。狂気の沙汰なんてレベルじゃない。一杯の酒で百年酔い続けることは絶対に無理なのだ。
そしてそんな彼女を、フェトラスが食った。そしてその演算剣の力はフェトラスに僅かながら流れ込むことになり、フェトラスはロイルを愛し始める。
そして、おそらくだが、フェトラスは一度月眼に至っている。
感知のしようがない抜け道だ。その月眼は、聖遺物カウトリアが至った境地。その日、そこにいたのは月眼の魔王フェトラスではない。
カウトリアが抱いていたその狂おしい程の愛は、言ってしまえば『ちょっと関わりのある程度』の依り代でさえ月眼に改造してしまったのだ。
――――なんだこの推測。馬鹿馬鹿しくて涙が出る。自分の出した推測ながら、全然意味が分からない。
要するにカウトリアは、ロイルへの愛で、幼い頃のフェトラスを汚染したのだ。
(それで月眼に至るだと? ははっ、スケールが違いすぎる。カウトリアの愛に勝てる者など、この世に存在しない。奴は文字通り、永遠にロイルを愛している)
ちらりと、月眼製造機ロイルを見てみる。
だが全くもって、この呼び方は失礼なものだ。ロイルがどうこうではない。カウトリアが心の底から彼を愛したからこそ、こんな状況になったのだ。
体格は並み。決して強いわけでもない。何かトラウマでもあるのか、本質的に満足することが出来ないタイプの人間だ。ユーモアは持ち合わせているようだが、その心の奥底は荒野にして凍土。決して満たされない渇望を抱いており、そしてそれを自覚出来ない悲しい人間だ。
カウトリアは、一体彼の何に惹かれたのだろうか?
……まぁ、それを推測するのは野暮というものだろう。
愛ってやつは、いつだって他人が完全理解出来るものではないのだから。
短い時間の沈黙。ロキアスは意味深に俺を見つめていたが、やがて視線を外した。
[見ろよ、彼女が身に纏っているモノを。もはや精霊服とは呼べない代物に変貌している]
その声色には確かに尊敬の響きが込められていた。
月眼の魔王が認める、イレギュラーの極地。
「…………あいつは、一体何なんだ……?」
どうして俺を、愛してくれているのだろうか。
愛を知らぬはずの魔王が、どうしてあそこまで。
必死でその理由を探すが、まるで記憶喪失になったみたいに、原因が思い出せない。
それどころか「何を思い出そうとしているのか」さえ分からなくなる。
[ロイル]
「あっ……」
呼びかけられて、ハッと我に返る。俺はいま何を考えていた?
[――――演算の魔王は、可哀相だ。僕は割とロクデナシの部類だろうけど、それでも同情するし、応援したくもなる。はっきり言っておくが、個人的には演算の魔王が勝つべきだとさえ思っている]
「……何故だ」
[彼女は報われるべきだからだ]
分からない。分かりたくない。――――でも、理解しなければならない。
[演算の魔王。彼女は常に、君のために全力を出していた]
「そう、だな……」
[いいや、少し認識を改めたほうがいい。君の知っている全力は、彼女にとって微々たるものでしかないのだから。君が知らない、本気となった演算の魔王。それがあそこに立っている化け物だ]
月眼の魔王に化け物と呼ばれる銀眼。なんだそれは。そんなことがあり得るのか。
[君には見届ける義務がある。一瞬たりとも見逃すなよ。もうすぐ産まれる]
ロキアスはそう言って、魔法を一つ唱えた。
とても簡単な呪文。それは、遠くの音が聞こえるという魔法だった。
静かに演算の魔王がつぶやく。
「……攻撃してこないのは余裕の表れ、というわけではないようね」
その問いかけに、フェトラスもまた静かに頷いた。
[うん。もう準備はいい?]
「あと少しよ。待っててくれてありがとう。優しいのね、貴女」
その言葉を受けて、フェトラスは曖昧な表情を浮かべた。
そして先程行われたロイルとのやり取りを思い出す。
『おれの代わりに、あいつを殺してくれ』
それは命令とはいえない言葉使いだった。
そしてなにより。
(命令して、って言ったのに。あんな顔でお願いされたんじゃ、ね)
殺すしかないという結論は変わらない。
この演算の魔王は危険な存在だ。ただでさえ死の魔法を連発してくるような存在なのに、今や精霊服ですら荒ぶっている。お父さんの側に置いておくことは出来ない。そう考えたフェトラスだったが、初手で殺すことはどうしても躊躇われた。
ロイルのあの、苦悩に満ちた顔。殺すのは嫌だと。死んでほしいわけじゃないと、言葉以外で訴えてきた彼を見て、フェトラスは当然のように思った。
あれを心からの笑顔に変えたい、と。
だからフェトラスは、演算の魔王と真正面からぶつかる事を選択した。
時間が経つにつれて、演算の魔王の傷がふさがっていく。それはきっと回復しているのではなく表面上をとりつくろっただけなんだろうけど、彼女の内側からあふれ出るエナジーは段々と強まってきている。もうすぐ全快に近い状態に戻るだろう。そしてそれを邪魔するわけにはいかない。
(私はお父さんを愛してる。私は強い。だからきっとお父さんを幸せに出来る。そのためには、この演算の魔王を殺す以外の方法でどうにかする。……まぁ策なんて無い。ノープランの、ハイリスク・ハイリターン一発勝負なんだけど。――――でも私にはお父さんがついてる。だから、負けるはずがない)
例え相手が十全でも、絶対に負けない。その自信と確信である根拠は私のそばに。
そんな優越感を抱く自分は「優しいのね」なんて言われるような存在じゃない。
[私は優しくなんてないよ]
――――私は、傲慢だ。
そんな旨の台詞を飲み込んで、フェトラスはただ首を左右にふった。
[今のあなたに勝っても、意味はない。余裕なんてないけど、私はあなたに完全勝利しなくちゃいけないから]
その言葉を聞いて、朗らかに演算の魔王は笑った。
「そう。でもやっぱりありがとう。チャンスをくれて」
[そんなつもりはないよ。絶対負けないから]
二人の会話に敵意は感じられなかった。ただただ静かに、そしてどこか親しみすら含まれているかのように穏やかなものだった。
だけど当然のように、会話に一滴の憎しみが混じる。
「私も負けないわよ。負けられないの。そして――――やっぱり許せない」
[……なにが?]
「貴女は、泥棒よ」
演算の魔王はそう断言した。それを受けてフェトラスは首を左右にふる。
[覚えが無いんだけど。……まさか、お父さんのこと?]
「いいえ。違うわ。貴女が盗ったのは、私の存在意義」
[……よく分からないんだけど]
「既にこの身はシステムに干渉されている。だから、その思い出は私にはもう無い。だけど、考えれば分かることなのよ。どう考えても、どんなに演算しても、この結論しか出ない」
[……つまり?]
「貴女はロイルの娘を名乗っている。……どうしてかしら? 殺戮の精霊である魔王が、こうも容易く人間に懐くはずないのに。何故かしら? 想いが通じるのは同族であっても奇跡的なのに。疑問だわ。そんな短期間で、■を得られるはずがないのに」
[資格って……なんの資格のことかな。あなたの言葉は少し難しいよ]
フェトラスがそう言うと、演算の魔王は軽やかに微笑を浮かべた。
「ごめんなさいね。でも、これは儀式だから。もう少しだけ付き合って?」
[……うん]
「ありがとう。やっぱり貴女は優しいわ。フフッ、絶対に許さないけど」
[……ごめんね、って言った方がいい?]
「いいえ。私は許さないけど、貴女は悪くないわ。これはしょうがないことだったのよ。……それに、何に対して謝罪しているのか分からないのなら、その言葉に価値は無い。それぐらい、分かるでしょう?」
[そうだね。……私はあなたから何を奪ったの?]
「完全なる推測を口にするわ。貴女は、発生と同時にロイルに拾われた」
[そうらしいね]
「貴女は、ロイルを食べた」
[食べ!? いや、そんなことしてないよ]
「いいえ。食べたはずなのよ。彼の肉を、彼の血を、その身に取り込んだ」
力強い断定。それに気圧されたかのように、フェトラスは口元を手で覆う。
[そんなこと…………あ……そういえば、そんなことお父さん言ってたような……食べられそうになってたとか……]
ロイルが『幼少の頃は俺をエサ扱いしていたんだぞ』と言っていた時のことをフェトラスは思い出した。
――――そしてそれは事実である。彼女が発生して一番最初に口にしたのは、ロイルの親指だった。
少し血の気が引く思いをしたフェトラスだったが、演算の魔王がそれをなだめる。
「手近な命を喰らおうとするのは、殺戮の精霊・魔王ならば当然のことよ。まだ自我も無かった頃でしょうし、ただの生理現象。気にすることじゃないわ」
[う、うん]
「だけど食った相手が悪かった。いいえ、良かったのかしら? 貴女はロイルを食べた」
[…………]
「人間を、成人男性を、戦う者を――――貴女は、英雄を食べた」
[…………]
「知らないと思うけど、魔王が始めて口にした情報は、その者の方向性をある程度定めるの。価値観の第一歩。美味しいのか不味いのか、温かいのか冷たいのか、生きているのか死んでいるのか、強いのか弱いのか――――好きか嫌いか」
その考え方を、フェトラスは知っていた。
[……最初の定規]
カフィオ村で戦ったアリセウスという魔族に与えたはずの称号。だがそれは間違いだったらしい。フェトラスはうっすらとそれを自覚した。
「あら、上手な言い回しね。その通りよ」
[お父さんが、私の……]
「英雄を喰らった成体の魔王は数多くいるけれど、産まれて始めて口にしたモノが英雄で、更に生き延びてしまうだなんて。……絶対にあり得ないことだとは思わない?」
[………………そうだね]
産まれたばかりの子猫が空を舞うドラゴンを喰らうようなもの。あるいはイモ虫が獅子を殺そうとするようなもの。そんなことは、あり得ないのだ。
「そして、貴女はそれ以上なのよ」
[どういうこと?]
「ここから先は推測ですらない、完全な決めつけ。強引に削除されたであろう、私の記憶。だけど私は考え続けた。演算し続けた。ロイルに対するこの気持ちは一体何だろう、どこから来たのだろう、と」
[…………]
「答えは一つしかなかった。私は、演算の魔王。空白だらけの身だとしても、その空白にはきっと大切なモノが渦巻いていた。私の出生。今までの行動理念。まるで最初から知っていたかのような、膨大な知識。そして何にも勝るロイルへの想い。こんな贅沢な素養が、ただの魔王に備わっているはずないのよ。――――であるのならば、至れる結論はただ一つ」
どれだけ馬鹿馬鹿しく、空想めいていても、たった一つしか残らなかった結論。ならばきっとそれは真実なのだろう。
「私は発生した魔王じゃない。私は、聖遺物そのものだ」
根拠の無い確信がそこにはあった。全ての可能性を考え、演算し、その上で疑い、そしてようやく導き出した真実であるという自負があった。
消された記憶。奪われた事実。【神理】という、知ってはいけない事柄。
世界に抗い続けた演算の魔王は、その全てを完璧に推測してみせたのだった。
それは途方も無い空論。だけど補完するようにフェトラスは応じた。
[演算の魔王。聖遺物。お父さん。――演算剣]
かつてロイルが語った、相棒の話。
その単語を耳にした演算の魔王は歓喜に打ち震えた。
「ああ、ああ……嗚呼! そう、そうよ! ありがとう。本当にありがとう。おかげで少し取り戻せた。そうよ。私は演算剣! ロイルと共に生き、ロイルと共に死ぬ者! 私は産まれる前から、ずっとずっとロイルの側にいた……!」
涙で震える声。意味不明な仮説。フェトラスは素直に首をかしげた。
[聖遺物が魔王って、どういうことよ……]
「貴女は知らなくてもいいことよ。でも重ねてお礼を。貴女のおかげで、私はまた一つ自分を信じてあげられる。演算剣。そうよ、私は演算する聖遺物だったのよ!」
完全に何を言っているのか分からない。軽く現実味を失ってしまい、フェトラスは思ったままのことを口にした。
[あなたは……とても綺麗に、そして怖い顔で笑うんだね]
こんな笑い方があるのかと、フェトラスは背筋に冷たいものを感じた。
そして演算の魔王は、こうして世界が滅ぶことになった最初の原因を語る。
「フェトラス。貴女はロイルを食べた。英雄を食べた。貴女は――――聖遺物をも食ったのよ」
聖遺物を発動中の英雄。
その肉の一片、血の一滴にはどれほどの情報量が含まれていたのだろうか。
[…………なるほど。そういうこと。能力を発動中だったお父さんを、私は囓っちゃったのか]
発生直後に人間を食べた。それは強い戦士だった。英雄でもあった。聖遺物を発動していた。そんな「通常はあり得ない」とされる事柄が、いくつも積み重なっていた。
こうしてフェトラスは、月眼の魔王ロキアスにさえ「奇跡の魔王」と呼ばれるようになったのである。
「貴女が資格を得られたのはどうしてかしら? 答えは簡単。私を食べたから。私の気持ちを、想いを、積み重ねてきたものを、狂おしいほどの情熱を、貴女は美味しいところだけ持っていった」
[…………]
「ロイルを通じて、私の能力も多少は使えたんじゃないかしら。成長が異様に早かったのはそのせいね。自己領域の最適拡大。貴女は一を知って十を識る者。戦闘能力なんて一ヶ月で普通の人間を超越したはず。……どうかしら。覚えはない?」
[……私は私の事しか知らないから、よく分からないよ]
「なら改めて言ってあげる。貴女の魔王性は異常よ。―――――貴女が使う特殊な魔法が特にそうね。あんなふざけた呪文構成が成立するのは、その組成方法が演算によって圧縮されているから。でたらめにも限度があるわ」
呆れ顔の演算の魔王は、一つの解を提示する。
「言ってしまえば、貴女は魔王のくせに聖遺物を装備しているようなものだったのよ」
[……そう聞くと、なんだかとんでもないね]
「今となっては演算剣の能力も断絶している事でしょう。けれど、そのやり方を貴女はもう知っている。もしも貴女が殺戮の意思に染まっていたら、三日も経たずに世界は滅びていたでしょうね。……そういえば、貴女ってなんの魔王なのかしら?」
[わかんない。私は、ただ、お父さんの娘ってだけだよ。それ以外の肩書きなんていらない]
「そう……まぁ、いいわ」
それはロイルの真似ではなく、純粋な気持ちだった。フェトラスが何の魔王かだなんて、本当にどうでもいいのだ。重要なことは他にある。
「貴女がそこまでの短期間でロイルの隣りに立つ資格を得られたのは、私のマネをしたから。私が歩んできた道のりをたどり、同じ景色を見てきたから」
[………………]
「貴女は私の気持ちを、なぞっているだけ」
すっ、と演算の魔王は片手を上げて、まっすぐにフェトラスを指さす。
「偽物とは言わない。嘘だとも思ってない。だけどそれは借り物なのよ。だから――――返して。月眼は、私のものだ」
月眼を。ロイルの隣りに立つ権利を。彼と楽園に行くための資格を。
自分が失ってしまったはずの■を。
そんな返還要求に対し、フェトラスは至極真っ当な疑問を口にした。
[返せと言われても……どうやって? これはもう、私のものだよ]
「教えてほしいのよ。どれだけ演算しても届かなかったの。だからさっきみたいに、演算剣のことを教えてくれたように、私に教えて。私がかつてどんな気持ちでロイルと共に在ったのかを」
少し長めの沈黙。
正直に言ってしまえば、フェトラスは演算の魔王が何を要求しているのかよく分からなかった。
[どんな気持ちで、って……]
「貴女はロイルのことをどう思っているの?」
[愛してるよ]
即答だった。そしてその解答に、演算の魔王は顔を歪める。
「まさしくそれよ。聞こえない。届かない。理解できない。それは一体何なの?」
[愛とは何か、って聞かれてるの?]
「…………そうよ」
[…………上手く説明できない。とてもシンプルで確かな気持ちなのに、これを説明しろだなんて言われても無理だよ]
「…………さっきロイルは私じゃなくて、貴女を応援したわ。負けるなフェトラス、って」
[……うん]
「でも私は、今だってロイルが裏切っただなんて思っていない。ロイルがフェトラスを選ぶには理由があるはずよ。それはなんだろう。それが知りたい。だから私は、全ての演算能力をそこに集中させた。呪文の研究も、世界の解析も、ロイルを不老不死にする方法も、魔道と物理の掌握も、全部無視した」
[そんなに色々なことを考えていたの?]
「ほとんど無意識みたいなもんだったけどね。でもそんな有り余るほどのリソースを全部つぎ込んだおかげで理解出来たわ。貴女が、私の力を流用していたということに。……ほんと、あり得ないことばっかり。でも仕方ないわね。事実、現状はこうなってしまっているのだから」
演算の魔王は小さく笑う。
「貴女が、太陽に寄り添う小さな星だったのよ」
[……?]
「戯れ言ね……。とにかく、優しい貴女。フェトラス。それを私に返して」
演算の魔王は言葉に殺意を込めた。
「ロイルは、私のモノだ」
その言葉にフェトラスは呼応する。
[全部理解出来たわけじゃないけど、要するに、私がお父さんを愛しているのは自分のおかげだと?]
「…………そうよ」
[あなたはお父さんを想い続けた。そして私がそれを盗んで、自分のものだと勘違いしているのだと。あなたはそう言うのね? そう思っているのね?]
「……そうよ! その花は、私が咲かせるはずだったのに!」
[違うッ!]
拒絶。
[これは私が育てた、大切な気持ちだ! 誰にも譲らない。私だけの、お父さんとの思い出の結晶だ!]
「違う! 私の想いが無ければ、貴女はロイルを、全てを殺すためにしか動けなかった! 貴女はただの殺戮の精霊のまま、その生涯を終えていた!」
[……それはそうかもね!!]
今度は同意。
[あなたのおかげで、私はお父さんと一緒に過ごす事が出来たのかもしれない!]
「その通りよ! だから返して! 気持ちも、ロイルの隣も、ぜんぶ」
[でも! それはただのキッカケだ! 私がいまお父さんと一緒にいるのは、私がそうしたいと願い、そして勝ち取ってきたものだ! 最初の一歩を踏み出せたのはあなたのおかげかもしれない。だけど、今まで歩いてきた道のりは全部ぜんぶ私の意思で進んできた! 今までもこれからも、そうやって私が手に入れたものは、全部私のものだ!]
「ツッ」
フェトラスの強い叫びが、演算の魔王の言葉を遮る。その烈火の如き勢いに、ほんの少しだけ演算の魔王がたじろぐ。それを見たフェトラスは少し落ち着きを取り戻したのか、言葉のテンポを落とした。
[……あなたは忘れてしまったと言っていたけど、きっと教えても無駄だよ。コレは私のものだ。私だけの気持ちだ]
それは否定的なものではなく、優しい喋り方だった。
[あなたのマネをした私の気持ちを教える? そんな複雑なことする必要無いじゃない。私にだってもう分かるよ]
返せ。教えて。演算の魔王はそう訴えているが、とんだ見当違いだ。
資格が無い。――――そんなこと、誰が決めたのだ?
だからフェトラスは今、演算の魔王に告げる。
手にした花束を渡すのではなく、彼女の心に咲いている花を指さす。
[教えるまでもない。――――既にあなたの中にソレはある]
演算の魔王が息をのむ音が聞こえた。
「……私の、中に…………」
[そうよ。昔のことなんてどうでもいいじゃない。私が育てたものじゃなく、今この瞬間、あなたがお父さんに抱いている気持ちが確かにあるでしょう?]
「……今の……気持ち……」
[そこまで熱烈なのに、もうたくさんたくさん持ってるのに、私のを欲しがってどうするのよ]
指差した手を、そっと開いて差し出す。
[あなたが無くしたのは、気持ちじゃない]
演算の魔王が失ったのは。
[あなたが無くしたのは、お父さんを想う気持ちの……名前だけだよ]
不完全な結論。
変化する定義。
正解の無い問い。
完成しない感情。
万能にして無能。
矛盾した真実。
満たされぬモノ。
そういった全てを統べるモノ。
即ち、■。
理解したのではなく、思い出したわけでもなく。
けれども今、演算の魔王から「自分が失った気持ち」への執着が消え去った。
思えば自分が無くした気持ちは、聖遺物の頃のものだ。
聖遺物はおろか、ただの鉄剣ですらロイルには使ってほしくなかった。独占欲、嫉妬、極めて傲慢で強欲な独善的思考。ロイルのためを想うのならば、弓ぐらい許してあげるべきだったのに。
そう。許してあげるべきだったのだ。今の私はそう考えることが出来る。
何故出来る?
自明だ。嫉妬の対象が変わったから。
今の私は聖遺物ではなく、受肉した魔王。
そして同一の存在であるフェトラスに対して、私は強烈に嫉妬をしている。
(そっか……私の気持ちは……フェトラスに奪われたと思っていた気持ちは……もう過去のモノだったのか……)
たぶんそれは、あの頃の自分にとって何よりも大切な気持ちだったのだろう。
だけど今は違う。あの頃の宝物は進化して、別物に成り変わっている。そして手放すことが出来ないくらいに高まっている。
ロイルが生きてくれるのならば、私の隣りにいてくれるのなら、どんな聖遺物だって、どんなボロ剣だって、どんどん使ってくれて構わない。本当は今でもちょっぴりイヤだけど、大したことじゃない。むしろ優秀な武器を用意してあげたい。きっとそうすることでロイルは喜んでくれるはずだから。
(ああ……ほんとうだ……あの頃と全然違う……でも、それが心地良い……)
あの時よりも強くて確かな、この内側で荒れ狂う激情の正体を見た。
過去はどうでもいい。
ああ、その通りだ。
この胸に存在するロイルへの想いは、いつだって今が最新で、最強だ。
(今の私がロイルに抱いている想い……)
それこそが、己が咲かせた花なのだと。
――――蝶を喰らった演算の魔王はいま、サナギから羽化する。
そして、長い詠唱が始まった。
「理解出来なくていい。及ばなくてもいい。至れなくて当然。心の一番近くにあって、手に取ることは出来ないモノ。完璧なのに不完全なモノ。そして完成しないモノ。果てが無く終わりが無く、永遠を誓うモノ」
漆黒のウェディングドレスはその色を変える。
「永遠なんて無いのに、永久だと信じられるもの」
淡い黄色。刹那の地獄を駆け抜けた彼女の、一番最初の気持ち。
「私はそんな理不尽なものを、この不可解な感情を、不完全で、理解出来ない、だけどとても大切なものを、私は守り抜きたい」
そうだとも。この胸には、たった一つの真実がある。
「私は、この気持ちが、ロイルが世界で一番大切」
その詠唱の補佐を、フェトラスが行う。
[みんな違う形をしてて、同じものなんてこの世に一つもない]
「この気持ちは私だけのものなのに、それは言葉では表せないはずなのに」
[形も意味も色も違う。……だけど、みんなはそれを同じ名前で呼んでるよ]
「そうか。そうだったのね。……私が勝手に決めつけて良かったのね」
[そうだよ。その気持ちは、あなただけのものなんだから]
そしてフェトラスは補佐を飛び越えて、答えを導き出す式を演算の魔王に提示した。
[中身があって、ボトルがあって、そしてラベルがある。――――そこに何を書き込むかは、あなたの自由だよ]
それを聞いた演算の魔王は、涙と共に声を震わせた。
「私には感情がある。だから私は存在する。そしてその中でも一番大きな気持ち。ロイルが大好きだってことを、私は誇っていいのね」
もう助けは必要無い。フェトラスは黙って、彼女が宝物を手に入れる瞬間を見守った。
「私は、ロイルが大好き。でもそれだけじゃ足りない。言葉に出来ないのに、確かに存在するこの気持ちを、もっと、もっと、もっとロイルに伝えたい」
薄黄色の精霊服が、祝福するかのように輝く。
「不確かなのに絶対的。私はこの未完成の想いを、この色々な感情の集合体を、一つの名前で呼ぶ」
ほぅ、と淡いため息を一つ。
「これが私の、花なのね」
[そうだよ。私とは違う形と色をしているけど、それがあなたの大切な気持ちだよ。……ね? 返す必要なんて、ないでしょう?]
「そうね。私の方が……こっちの方がいい」
蝶は、花にたどり着いた。
こうして彼女は、殺戮の資質を凌駕したのである。
「――――だから私はこの感情を」
そして最後に彼女は。
[愛と呼ぶことにするわ]
幸せそうに笑ったのであった。