5-6 精霊
黒色、とはまた少し違う。
そこに広がっていたのは闇だった。
果てしない奥行きがあるような、手を伸ばせば壁があるような。ひたすらに不安をかき立てる闇。
足下の闇と、天井の闇は同化している。こんな所に一時間もいたら発狂してしまいそうだ。――――しかし、目の前の扉がそれを和らげる。
真白い扉。金色の模様。
扉の前には階段がついており、何となく数えてみると十三段あった。
はっきり言って巨大だ。お城の正門よりもはるかに大きい。それはとても美しくて、何か神聖さを感じさせるものではあったが、意味が分からなすぎてため息がでる。
「えっと、フェトラス?」
「な、なにお父さん」
いつの間にか手を握っていた我が娘に問いかける。
「これはお前の仕業か?」
「違うよ! っていうか、なにこれ!?」
「世界で一番デタラメなお前がやったんじゃねーのなら、俺に分かるわけがない」
ふと気がつく。ここは闇の中なのに、フェトラスの様子ははっきりと見える。
自分の手足も、何もかもが健在だ。
(目が潰れたってわけじゃなさそうだし……なんなんだコレ……)
動揺は収まらない。
けれど、フェトラスの手を握っている、という事実が俺を安心させた。それはきっと彼女にとっても同じことだったのだろう。俺達は少しだけ取り乱したが、差し迫った危険があるようには思えなかった。
「……てかお前、月眼を鎮めたのか?」
「え。元に戻ってる?」
「おう。銀眼でもない。ただの黒色だ」
「……ふーん。そっか」
「身長は伸びたまんまだけどな」
「あ、あははは……ごめんねお父さん。勝手に大きくなって」
「…………お前が元気なら、それでいい」
慣れない位置にある彼女の頭を、ゆっくりとなで回す。先ほどと違って双角は多少落ち着いており、手の平程度のサイズに収まっていた。
「うきゅ」
彼女は目を閉じて、それを受け入れた。
なんだかさっきまでのやり取りが嘘みたいだ。俺は段々と気持ちが柔らかくなって、何となく彼女を抱きしめた。
「………………」
かける言葉が見つからないけれど、別に言葉はいらない気がした。
ただ俺が抱きしめたかったから、そうしただけだ。
そして彼女は小さく「…………ありがとう」と呟いたのだった。
「さて」
俺とフェトラスは扉の、階段の前に立った。
「ここはどこだ?」
「分かんない」
「この扉は何だ?」
「分かんない」
「というか、お前に分かる事はあるか?」
「なんにも分かんない!」
フェトラスは元気いっぱい叫んだ。
「でも、別にイヤな気持ちにはならないんだよね。お父さんは?」
「同感だ。なんていうか……安心……というか……危機感の欠如? って感じだな。冷静に考えるととんでもなく異常事態なんだろうが、緊張感が持てない」
いきなり知らない空間? に転移? したのだ。
しかもフェトラスのせいじゃないらしい。
なのに俺はもうすっかり平静を取り戻していた。
「ここはどこで、この扉は何なのか……まぁ一番現実的に考えると、聖遺物の能力なのかな」
「聖遺物の?」
「お前、さっきまで月眼だったじゃねーか。どこぞの英雄がいきなり封印をしかけてきたのかもしれんぞ」
「あー。そういうこと。……でも、そんな感じしないんだよね」
「ほう?」
「何となくだけど、これは聖遺物じゃない。どっちかって言うと……」
彼女はモゴモゴと、歯切れ悪く何かを口にした。
「なんだよ」
「……うー。やっぱりよく分かんない。とりあえずこの扉開けてみる?」
「どうやってだよ。こんなバカみたいにデカイ扉」
というかこの扉の裏側はどうなっているのだろう。
俺は裏側に回ってみたが、同じ様に扉があるだけだった。違いがあるとすれば、階段が無い。扉だけが空中に浮いている有様だ。見えない壁なんてものは存在しない。つまりこの扉は、ただ突っ立ってるだけだ。
「やべぇな。超意味不明だ。開けてもどこにも繋がってない扉とか、存在する価値あるのかよ」
「…………【宙宴】」
それはいつか聞いた呪文だった。
空中に穏やかな明かりが灯る。俺の安心ポイントがまた増えた気がしたが、その明かりは闇を切り裂かなかった。
「フェトラス。それ、もっと上に飛ばせるか?」
「いいよ。えーと……【上放】」
明かりはふよふよと昇っていく。
どこまでもどこまでも。何にも遮られることなく。やがて明かりは星のようになった。
「上は果てしない、のか? しかし地面はあるよな。っていうかこれ地面だよな」
俺が足下を触ってみると、そこには何も無かった。
床が無いとか、質感が無いとか、そういう事じゃない。立つことは可能なくせに、俺の手は空ぶったのだ。
「え。流石にちょっと怖い」
座ってみると、ちゃんと座れた。しかし手元で床をさぐっても、身体はどこまでも沈んでいく。だめだ上手く説明出来ない。とにかく意味不明だ。
無明の闇。
生命はおろか、なんの情報も有さない、虚無。
「なぁフェトラス」
「うん……お父さんが言いたいこと、分かるよ」
「そうか」
「このままじゃわたし達、餓死しちゃうね」
「そういうこった。どんな聖遺物か知らんが、中々に凶悪だな」
しかしもしこれが聖遺物だと仮定するのなら、分からないことがある。
何故、人間である俺までもこの領域に囚われてしまったのだろうか。
魔剣ならぬ……魔窟? 魔牢獄?
人間も対象に出来る封印系聖遺物か?
ここにあるのは扉だけ。
「階段昇って調べるしかねーか」
俺がそう提案すると、フェトラスは右手を差し出してきた。
「そうだね」
伸ばされた手を黙って握り返す。うーん。心が安らぐ。
一段、二段……十二段、十三段。
「とうちゃーく」
階段を上りきると、その扉の美しさが際立って見えるようになった。
金色の模様は淡く輝いているように見える。そしてその巨大さ。めいっぱい顔を上げないと頂点が見えない。
「……まるで天国への扉みたいだな」
「てんごく?」
「死んだ後に行く、素晴らしい場所だよ」
「……死んだ後に? なにそれ? 死んだら終わりじゃないの?」
「あー。ん、まぁ、死は終わりじゃない。次へ進むためのステップだ」
「…………」
「死んでも終わりじゃない。そう考えると、希望が持てるだろ?」
「じゃあ死んだ後に、その天国で死んだらどうなるの?」
「……天国じゃ死なないんだよ。たぶん」
「だったら最初から天国で暮らせばよくない? さっきまでわたし達がいた世界って何のためにあるわけ?」
「よぉーし、ここから出られたらちゃんと説明してるからなぁー」
天国と地獄と輪廻転生系の話は、とても難解である。
何故ならそれは、証明が不可能だからだ。
よって、天国を信じてるヤツと、信じてないヤツが討論をするとキリがない。フェトラスがどちらに属するのかは知らんが、今そんな議論をしている場合ではない。
俺はフェトラスに待機を命じて、一人でその扉に触れてみた。
ドアノブがあるわけでもない。開けようと試みるなら、全力で押すしかない。
「んぎぎぎぎぎ」
無駄だった。鍵がかかってるとかそういうレベルじゃない。単純にこのサイズの扉を人間が開けることは不可能である。
「材質が軽い木とかだったらいけたかも分からんが、すげぇ頑丈そうだしな」
コンコン、と扉をノックしてみる。応答は当然ない。
「よし。フェトラス、お前の出番だ」
「魔法で壊す?」
「そりゃ最終手段だな。えーと、ほれ、クリームパスタでやってくれ」
「ああ。アレ」
俺はフェトラスの背後に回り、その後ろ姿を見守った。
(ていうか、こいつマジで身長伸びすぎだろ。せめて俺より小さくあってほしかった……か、可愛げが全然ない……)
どちらかというと、美しい。
その白い精霊服に映える黒髪も、凜とした佇まいも。幼さの消えた顔立ちも。
まるで某国の戦姫のようだ。もしフェトラスが国を建国したら、魔族はおろか人間すら虜にするんじゃないだろうか。
ありかもしれない。だってめっちゃ美人だし。それに月眼状態での迫力は凄まじかった。カリスマ性もばっちりだ。
というか、逆らっても無駄だ。誰も彼女には勝てないのだから、そこに種族は関係無い。一切合切の命が、彼女に全て統べられる。
(フェトラスが王として君臨すれば、俺の敵なんて、いなくなるんじゃないか?)
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フェトラス「みんな、ケンカしちゃダメだよ! 仲良くね!」
世界中『イェーーイ!』
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最高じゃないか。
そんな事を俺はのんきに考えた。
「それじゃ、ちょっと久々に! 【クリームパ」
フェトラスが呪文を唱えきる前に、扉の前に一人の女性が現れた。
「スッ!?」
慌てた様子で呪文をキャンセルするフェトラス。
俺は反射的に腰に手を伸ばしたが、空振り。しまった、テレッサはテーブルに置いてきたままだったか……!
だが身体は動き出している。俺は彼女を護るように、その前に立ち塞がった。
はっきり言って俺の戦闘力は現在皆無だ。それでも懐に忍ばせているナイフをなんとか表に出し、せいいっぱいの威嚇を試みる。
「誰だ」
「……腸シ射頭完advantage乃holy隷……」
耳が腐ったかと思った。
想像を絶する嫌悪感。忌避感。拒否感。俺は生まれて始めて『生理的に無理』という言葉の意味を知った。
「ああ!? なんだって!? いや、それ以上喋るなよ!」
「お父さん、これ誰!? 敵!?」
「じっとしてろフェトラス! これが聖遺物の能力の一つだとしたら、お前の方が危ない!」
改めて、突如空間に浮かび上がった女性を睨み付ける。
地味な青いドレス。肩まで伸びた茶髪。顔色は真っ白で、目が焦点があっていない。俺はとっさに人型のモンスターかと思ったが、相手の正体を見抜けなかった。
そしてそんな女性型が、ようやく俺を見つめる。目が合う。
「――――I am spirit of control――――」
先ほどよりは幾分聞き取りやすいが、意味が通じない言葉。いや、これは言葉か? 綺麗なうめき声にしか聞こえない。
だが次の瞬間、彼女の身体が一度だけ大きく震える。
ビグンッ! まるで跳ね上がるように。
そんな奇っ怪な動作を果たした後に、彼女はとても人間らしく片手を口元に運んだ。
「んんっ、あーあー。あーーー。私……コホン。失礼しました。調整を忘れていました」
それはヴァベル語だった。イントネーションが少し奇妙だが、ちゃんと聞き取れる。
「…………お前は、誰だ?」
「私は、精霊です」
「は?」
精霊。
……精霊!?
実体を伴い、言語を操る、精霊!?
「こ、高等精霊……だと?」
「私は、管理の精霊のサラクルと申します」
「なんだそりゃ。管理の精霊?」
「私は、そうです。管理の精霊です。そちらのフェトラス様による攻撃魔法を感知いたしましたので、止めに参りました」
敵意はないように見えるが、それはとても不気味な存在だった。
精霊は目に見えない。
そして大精霊は目に見える。そして見えるからこそ大精霊とも呼ばれる。
だが、この世界に存在する大精霊といえば、六種類しかいない。炎、水、金、風、土。そして表裏一体であり同一でもある光と闇の精霊だ。
そんな常識をさておき、管理の精霊だと?
「サラクル……って言ったか。俺達に何の用だ?」
「私は、先ほども申しましたようにフェトラス様の攻撃魔法を止めるために出現しました」
「なんでだよ。この扉を壊されたらマズいのか?」
「私は、恐れます。この扉が破壊されることを――――というか、わざわざ壊さずとも中に入ることは可能ですよ」
「は? さっき試したけど全然開かなかったぞ。っていうかそもそもこの扉はなんだよ」
んっ、んっ、とサラクルは小さく咳払いをした。
そして殊更人間臭い様子で「ふぅ」とため息をついた。
「失礼しました。調整完了です……話しを戻します。この扉は、神々の物です」
「神様ときたか……やはり聖遺物、なのか?」
「いいえ。もっと上位のものですね。これを壊すことは不可能でしょうが、計り知れないのもまた月眼の特性。というわけでフェトラス様には攻撃をおやめ頂きたく存じます」
こいつ、フェトラスが月眼だと知っている――――!?
「……重ねて問う。お前は、何者だ」
「私は、神のしもべでございます」
にっこりと、サラクルは笑った。
「立ち話もなんですし、中へどうぞ。お入り下さいませフェトラス様」
そう話しかけられたフェトラスは一歩踏みだし、片手で俺の前を塞いだ。まるで、盾のように。
「お父さんも一緒にいいの?」
「もちろんですとも。そもそも、お二人同時でなければこの中には入れません」
「そうなの?」
「ええ。鍵が無ければこの扉は開きませんので。そしてお二人揃って、一つの鍵なのです」
「……俺達が、鍵?」
「片方だけでは開きませぬ。ささ、どうぞお二人で」
サラクルは優雅に道を譲り、片手で扉を指し示した。
「いや、どうぞって言われてもな……」
この高等精霊とやらが言っていることには、ただの一つとして保証がない。
聖遺物ではないと言っていたが、どう考えても怪しい。扉を開けて一歩踏み出したら、自由落下して死ぬとかシャレにならん。というか絶対罠だろこんなの。
「中に、って言われても困るぜ。中には何があるんだよ?」
「神様がおります」
絶句した。
それでも、何とか言葉を絞り出す。
「あー、うん。神様ね。かみさま。うんうん。知ってるぞ。会ったことはないけど。……会えるのか?」
「はい」
「なんで」
「なんで、と仰いますと?」
「なんで神様が俺達に会おうとする?」
「フェトラス様は月眼であらせられるお方ですので」
「……何のために、神は月眼と会おうとする」
「その説明は困難です。私の権限を越えているように思われます。直接お伺いください」
「断る、と言ったら?」
そう答えると「まぁ」とサラクルは驚いた。
「……フェトラス様はどうお考えでしょうか?」
「わたし? え。わたし別に神様に用事無いんだけど」
「まぁ――――困りましたね」
心底意外だ、という顔つきでサラクルがうなっている。
というか、なんだこいつ。
冷静に考えたら、コイツは胡散臭さの極みに達している。
自称、謎の精霊。
神様に会わせる。
そしてこの異様な空間。
……神様に会える、というフレーズにはそれなりに興味をそそられるが。
だがそれでも、そんな気持ちの悪い罠に乗ってたまるかってんだ。
「俺達は元の世界に帰りたいんだが」
「元の、世界?」
「いちいち聞き返すなよ。どうやって俺達を拉致ったかは知らんが、俺達を帰してくれ」
「それはお止めになられたほうが。貴方の言っている元の世界は、既に手遅れです」
今度は俺が聞き返した番だった。
「は? 手遅れ?」
「あの世界――――セラクタルは、程なく終焉を迎えます」
セラクタルが終わる。
それを聞いて、まっ先に浮かんだのは。
シリックの顔だった。
「おい、フェトラス」
「なにかな、お父さん」
「俺は今すぐシリックに会いたいんだが、お前はどう思う」
「同感だね」
「よっしゃ、どうにかしてくれ」
「――――はは! 無茶言ってくれるよね!」
だが彼女は応える。
ザッ、と片足を踏み出したフェトラスの双眸に、銀色が宿る。
「とりあえずサラクルさん。よく分かんないけど、覚悟してね。わたしはお父さんの願いを叶えるだけだよ」
それはある意味で、宣戦布告だったのだろう。
サラクルの顔が少しだけ怯えの色を浮かべる。
「だめです。いけません。こわいです」
「うっ……なに、その微妙に罪悪感を覚えさせるポーズ……でもダメだよ! ここに、用事は無いもの!!」
そう叫んだフェトラスは、何やら呪文を唱えようとした。
「行くよ! 【捕」
[おーい]
「ツッ!?」
声がした。
少年の声だ。
その声は、いつの間にか開かれていた扉の方から聞こえていた。
[なにやってんのサラクル。早く案内しなよ]
「ああ、ああ、ロキアス様。助けてください。この人達、パターンCです」
[話しを聞いてくれないタイプってことね。へいへい。そんな時のために僕がいますよ……っと]
少年が扉から全身を現す。
俺は今度こそ、驚きのあまり意識を失いそうになった。
[やぁ、初めまして……になるのかな。僕の名前はロキアス。三代目月眼の魔王だよ]
その少年の双眸にもまた、この世で究極の死の気配、月眼が宿っていたからだ。
[中においでよ。一緒にお菓子を食べよう]
殺戮の精霊が、そう言って微笑んだ。