5-3 Who is she
月眼。
それを見て立っていられたのは、俺だけだった。
シリックは膝から崩れ落ち。
ザークレーはネイトアラスを抱きしめて座り込んだ。
カルンは元々だ。
そして演算の魔王すら、尻餅をついた。
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(シリック視点)
いま、自分は呼吸をしてもいいのだろうか。
彼女はそれを、許してくれるだろうか。
そんな事をまっ先に思った。
だけど呼吸を止めることは出来なかった。
私はこの状況を、一切の漏れなく認識し続けれなばならない。
彼女は今、ここにいるのだから。きちんとそれを受け止めなくちゃいけない。
そんな責務としか言いようのない感覚を私は覚えていた。
フェトラスちゃん。
見た目がかなり変わってしまってはいたけれども、違う。
違う。違う。違う――――異なる。
月眼の魔王。
この御方はもう、私の知る可愛らしいフェトラスちゃんではないのだ。
伝説。神域。ドコかの誰かとナニカが積み重ねてきた、歴史という名の重圧。
ただの人間である自分がこの瞬間に立ち会えたのは、奇跡という言葉では生ぬるい。
たった今この世界は、この御方によって証明された。
即ち――――この御方こそが、世界で最も偉大な存在で、それ以外のモノは、塵芥に等しいのだ――――この世界は彼女のために存在していたんだ、と。
自分の命ですら、今はどう扱っていいのか分からない。
保てばいいのか、差し出せばいいのか、投げ捨てるべきなのか。
私は膝から崩れ落ちた。
尊敬でもなく、畏敬でもなく。
ただ王を前にして膝を折るのは、私達にとって当然のこと。いわゆる本能だ。
きっとそこに、理由なんていらないのだ。
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(ザークレー視点)
現実味、という言葉がある。
自分達が普段行っている生命活動。
生きたり、戦ったり、楽しんだり、絶望したり。そして究極的に言えば、死の瞬間。それは確実に訪れる現実なのに、人はその味を想像出来ない。想像したくない。
だけど私は今、そんな自分の命の終わりについて思いを馳せた。今更だがな。
最早現実味なぞとうに失せて、後に残ったのは……なんだろう? 自分でも上手く言語化出来ない。
それほどまでに、あの愛らしいフェトラスは、圧倒的な存在へと変貌していた。
私は現実の先を、『死の先』を見た。
自分が死んだ後の世界だ。
もう何もかもが確定している。終わっている。
月の色。
思い浮かぶのは『今死んでも構わない』という納得。
それは仕方の無い事だ。
だって、こんなにも彼女は尊い。
神なぞ置き去りにしたかのような、圧倒的な真実味。
私は翠奏剣ネイトアラスを懐から取りだした。
今までありがとうネイトアラス。
全ては無意味だったみたいだけど、お前と過ごした日々は辛かったり苦しかったり、何より大変だったけど――――それでも、充実していたよ。
腰を降ろして、改めて月眼の魔王を見上げる。
ああ、なんて――――美しいんだろう。
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(カルン視点)
涙で揺れていた視界が、秒でクリアになった。
月眼。
既に私が語るべき言葉なぞない。
フェトラス様さえ生きていてくれるのなら、他の生命は死滅しても構わない。
だって彼女はこんなにも綺麗で、残酷で、圧倒的なのだから。
(ああ、この世界は……この世界で唯一の我が命は、これを見届けるためにあったのだ)
フェトラス様。
貴女様に殺されたいと願っていた私は、間違っていました。
だって貴女様はきっと、【神すらも殺すモノ】なのですから。
私如きの命なぞ、空気よりも軽い。死にたきゃ勝手に死ねという話しだ。
さぁ、ここから先は貴女様の舞台です。
ご随意に、フェトラス様。
他の一切合切は、無価値なのですから。
貴女様の望む通りにしてください。
私の中の、選択肢は一つ。
一にして全。
まさしく、全てはフェトラス様のために。
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(演算の魔王視点)
ロイルは本当にバカね。こんなモノが娘ですって? あはは。バカ丸出しね。言葉を飾らずにもう一度言うわ。ロイル、あなたどうしようもない愚か者よ。
そういう所も好きだけど、それにしたってこれはあんまりよ。なにこれ。月眼? 本当に月眼? ええ、そうね。疑いようもないわね。これは月眼。
滅びそのモノ。
何もかもが手遅れ。ロイルは死ぬ。正しく言うならば、ロイルはもう死んでる。
こんな波動。
こんな殺意。
余波だけでこのセラクタルは吹き飛ぶ。
彼女が視線を動かし。視界に入れるだけで全ては殺戮される。
どうしようもない。
こんな、規格外で埒外で常識外で、ただただ不条理なものが存在してもいいだなんて。
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(そして彼は――――)
フェトラスが抱いた月眼。
それもう、見事なまでにこの世界の終焉を告げていた。
「おお。なんだそりゃ。確か二度となれそうにないとか言ってたくせに」
[そうだね。でも、必要だったから]
フェトラスの声が響いて聞こえる。
月眼の魔王。
こうして相対するのは二度目だが、一度目とは桁違いだ。
満ちている、と何故か俺は感じた。
あの浜辺で感じたのは絶望。
だけど今は違う。あるのはただ「すげぇな」という感心だ。
彼女は今、三千世界で最も価値が高い。そんな感想を素直に抱いた。
これはどんな種類の圧なのだろうか。
神様かな?
「必要と来たか。しかしなんでまた急に?」
[お父さんが来る前は、ずっとこんな感じだったよ……いや、今の方が明らかに強い、か]
「……ずっと? ずっと月眼の状態を維持していたのか?」
[そうだね]
「なんのために……」
[この世界の仕組みを殺戮するために]
「……ちゃんと説明してくれるか?」
[うん。いいよ。それにきっと今の私なら説明だけじゃなく――――たぶん、何でも出来る]
全能。
ああ。まさしく神様レベルか。
フェトラスはちらりと他のみんなを見渡した。
[わざわざここまで来てくれてありがとう。でも、もう大丈夫だからみんなはお家で休んでて?]
「ここまで来て帰れってか?」
[ちゃんと家まで飛ばしてあげるよ]
「待て待て待て待て」
俺はフェトラスに制止の言葉を投げかけた。
「えーと……ここにいるヤツ等は全員、お前を止め……あ、違うな。こほん。ここにいるヤツ等は全員お前のことが好きなんだよ。心配してたんだ。だからせめて納得させてやってほしい」
[納得。……そうね。大変な旅をしてきたのに、報酬も無いのはやるせないよね。だったら……とりあえず【休憩場所】を造りましょう]
音も無く大地が裂けた。
まるで柔らかい果物に包丁を入れたかのように、地面が正六面体の欠片に切り分けられていく。そして音も無く再配置が行われ、あっという間に椅子が用意された。
細かな欠片がまるで冗談みたいに飛び交い、テーブルを形作り、溶岩製のカップまで作られる。
[雨水くらいしか用意出来ないけど。【どうぞ召し上がれ】?]
瞬間、空の灰色が凝縮された。
雨が浮かび、固まり、雷がそれを清め、冷やされて、音も無くカップの中は水で満たされた。
誰も何も言えなかった。
この星はもう、彼女のための世界だ。
未来永劫、誰も彼女を止められない。
殺戮の精霊。その極地が銀眼だとすれば。
月眼の魔王は、もう殺戮の精霊なぞではない。
それはきっと――――殺戮の先を行く者。
そんな王から、下々の者達に施された甘露。
俺は素直にそれに口をつけ、こう言った。
「冷えてて美味いなコレ」
そしてへたり込んでる俺の仲間達に、ため息交じりにこう告げた。
「お前等さぁ、ビビりすぎだろ」
そんな必要性、まったく無いだろ。
「こいつはフェトラスだぞ?」
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(シリック視点)
「お前等さぁ、ビビりすぎだろ。こいつはフェトラスだぞ?」
その言葉は私にとって、痛いくらいの電流だった。
少しだけ正気を取り戻した私は、バッと顔を上げる。
私はその月色の瞳ではなく、彼女自身を見つめた。
(――――死ぬわけにはいかない!)
死にたくないんだ。単純に、まだ終わりたくないんだ。
私の前に、三つの選択肢が浮かんだ。
1、逃げる――――無意味だ。どこに逃げても、無駄だ。
2、戦う――――殊更無意味だ。勝つとか負けるという問題ですらない。
そして三つ目は――――。
不意に、今までの全ての思い出が浮かんだ。
自分の中の原風景。
自分の育った環境。
自分が目指した目標。
あなたと出会った日。
あなたと笑った日々。
あなたと、共に育んだこの想い。
ああ、フェトラス様。
――――いいえ、フェトラスちゃん。
思い出のあなたと、目の前にいる魔王。
照らし合わせて、一つ言わせもらうね。
「でも……!!」
私はあなたを、諦めない!!
不屈の女は、今ここに至った。
そして、彼もまた発動条件である『魔王』を前にして、まぶたをこじ開ける。
〈我、本気でイヤなんだが〉
うるさいわよミトナス。
黙って私に力を貸しなさい……!!
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(ザークレー視点)
腰を降ろして、改めて月眼の魔王を見上げる。
ああ、なんて――――美しいんだろう。
「お前等さぁ、ビビりすぎだろ。こいつはフェトラスだぞ?」
その言葉は私にとって、残酷な福音だった。
〈――――そうだ。彼女は……フェトラス、なんだ……)
少しだけ正気を、思考する余裕を取り戻した私は、人生において幾度めかの走馬灯を見た。
身体が弱かった幼き日々。
勉強が得意だった少年時代。
奪われたあの日。
新しい環境。
出会った師匠。
巡り会った、相棒。
私の中に三つの選択肢が浮かんだ。
1、逃げる――――もう逃げないと、あの日誓ったのに。
2、戦う――――もう戦いたくなんてないのに。
そして、三つ目は――――。
走馬灯の続きが見える。
その中で私は、良い香りのする料理を、誰かと食べていた。
(――――私はあれを、もう一度、キミと食べたいんだ)
目の前にいるのは月眼の魔王。
この世全てよりも、重要な存在。
「――――――――だが!」
座して死を待つくらいなら、最後まで抗ってやる!
私は必ず、キミとあの店に行ってみせる!
行くぞ、ネイトアラス!
フェトラスを止めてみせるッッ!!
誰よりも不器用な男は、その在りようを貫き通した。
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(カルン視点)
私の中の、選択肢は一つ。
一にして全。
まさしく、全てはフェトラス様のために。
「お前等さぁ、ビビりすぎだろ。こいつはフェトラスだぞ?」
――――そうですね、ロイル。
やっぱり貴方は……すごい人だなぁ。
全てはフェトラス様のために――――だけど。そして、だからこそ。
ねぇ、フェトラス様。
私はもう二度と、貴女様のことを魔王とは呼びたくないのです。
月眼。
世界の規模に対して、あまりにも過剰な力。
「それは果たして、本当に貴女様が望んだ末路なのでしょうか?」
左腕のゼスパが、かつてない程に私と繋がる。
その昂ぶり。弾けそうな憧憬。
黙れクソが。
聖遺物如きが。
貴様は黙って、我に従え――――!!
「……うおおおおおおおお!!!!」
本能を超越したカルンは今ここに、王を諫める真の家臣へと覚醒した。
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(演算の魔王視点)
どうしようもない。
こんな、規格外で埒外で常識外で、ただただ不条理なものが存在してもいいだなんて。
「お前等さぁ、ビビりすぎだろ。こいつはフェトラスだぞ?」
いや、そうは言うけどさロイル。
私――――この子のこと、よく知らないのよ。
でも、そうね。
一応は抗わなくちゃ。
だって。ロイルの全ては私のモノ。
だから世界の死はあなたにあげる。
でもロイルの死は、私がもらいうける――――!
「あああああああああああ!!!!」
演算の魔王は吼えた。
ただただ、吼えた。
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(そして、彼等は)
俺が皮肉を口にしつつ、サクっと水を飲み干すと同時に俺の仲間達は正気を失ったかのような怒号を上げた。
「…………でも!」
「――――――――だが!」
「……うおおおおおおおお!!!!」
「あああああああああああ!!!!」
それは一斉に行われた、襲撃だった。
魔槍ミトナスで月眼の魔王に立ち向かった勇者。
聖剣ネイトアラスで月眼の魔王に挑んだ勇者。
そして、左手を荒れ狂わせた勇者。
最後に、咆吼と共に呪文を唱えようとした勇者。
その悉くが、たった一つの命令で蹂躙される。
[ 【抗うな】 ]
聖遺物であるミトナスが真っ二つに折れる。
聖遺物であるネイトアラスが空高く放り投げられる。
カルンの左手は千切られた。
演算の魔王は、吹き飛ばされた。
[ああ、もう……貴方達、私をあまり刺激しないで]
それは命令だったのか、お願いだったのか。
彼女に挑む権利を誰しもが持っていた。
だけど、彼女を止める資格なぞ、誰も持ってはいなかった。
それを理解した面々は、今度こそ心を折られ――――地面に倒れたまま、空を見上げるだけの存在と化したのであった。