4-32 温泉に入るという事は、つまり
温泉を作る。
カウトリア……いいや、皆がいるからあえてこう呼ぼう。演算の魔王。彼女が割ととんでもないことを言い出したので、俺達は取り急ぎ人里から離れることにした。
「なんで?」
「魔王が魔法を使うってのに、人里に近すぎると危ないだろ……」
何をどうするつもりかは知らんが、ぽいっと召喚出来るはずもなし。
そこはかとなく嫌な予感がしたので、俺達は馬車に揺られている。
「その間に、温泉の説明をしておこう。ええと、あんまり理屈は覚えてないが……不思議なことに、お湯が沸く地域というものがあってだな」
「理屈は分かるよ。地熱で地下水が温められるんだよね」
「地熱? ……よく分からんが、とにかくそれを利用した快適施設が温泉だ」
「知識としては知ってるけど、ふぅん、快適なんだ」
へぇ、と。見た目の幼さに似合った驚き方を演算の魔王がする。
「めちゃくちゃ熱い湯を水で割って、人が入って心地良い温度に設定する。それが温泉だ」
「ふぅん。でも、泥水にまみれるだなんて、豚のようね……逆にそういうのがいいのかしら……」
「いやいや、綺麗なもんだったよ。石の巨大浴槽にお湯と水を流し込むんだ」
「……あー。なんとなくイメージ出来た」
ふむふむと演算の魔王は小刻みにうなずく。
「定期的に湯と水を足したり、あるいは湯を入れ替えたりしてたっけな。たくさんの人がはいると湯が汚れちまうから」
そんな風に、俺が体験した温泉物語を話してやる。
どんな温泉を作る気なのかは知らないが、出来れば俺のイメージを再現してくれるとありがたい。
「そうそう。理屈は知らんが、確か打ち身とかにも効くんだっけか。ザークレーにはいい療養になるかもな」
「――――うむ。温泉は良いモノだ。私も好きだぞ」
「ザークレーさんは入ったことがあるんですね……私は温泉って入ったことないんですよ」
そう呟いたシリック。そういえば彼女は初めて出会った時、川で行水を――――なんでもありません。混浴なんて文化知りません。
「カルンはどうだ? 温泉って入ったことあるか?」
「いいえ。私の部族には入浴という習慣が無いんですよ。熱いのが苦手なんですよね……冷たいのは全然気にならないんですが」
「そんなもんか」
がたごと。がたごと。馬車は揺れる。
前方に人間が乗った馬車が見えてきた。俺はカルンと演算の魔王に声をかけ、一応身を隠してもらう。
「こんにちは」
「こんにちは」
人の良さそうな行商人とスレ違う。挨拶を交わして、だけど止まらずにそのまま行き過ぎる。
「……こんな風に人間に見られる可能性があるし、やっぱり温泉は後日だな。というか、ムール火山だっけ? 活火山があるなら温泉施設もあるかもな」
「――――ムール火山周辺にそのような施設があると聞いたことはないな」
「ありゃ。アテが外れた」
「だから温泉ならワタシが作るってば。ロイルは何の心配もせずに、どんどんワタシに頼るべきなのよ」
甘やかし大魔王かよ。俺は苦笑いを浮かべつつ、演算の魔王の頭をなでた。
「とにかく、目的地まで一週間か。あいつが妙な事をする前に、早く行かなくちゃ……」
「そうね。もう、イリルディッヒがいればあっと言う間だったのに」
確かに。あいつが居ればひとっ飛びだった事だろう。でもその場合、全員は無理だな。俺と演算の魔王で重量オーバーというか、乗るスペースが無くなる。
「そういえばあいつどこ行ったんだろう……」
「分かんない。魔獣の中でも賢い部類にはいると思うけど、所詮は獣ね。何を考えてるかだなんて、見当もつかない」
辛辣だなぁ、と思いつつ、湧き上がった疑問を口にする。
「そういえばお前は飛べないのか?」
「ワタシ?」
「そう。俺を飛ぶように改造するのは難しいだろうけど、魔法で飛ぶのは出来るんじゃないか?」
「……空を飛ぶのって、めちゃくちゃに難易度が高いのよ」
「そんなもんなのか」
「元々翼を持ってるカルンなら出来るでしょうけど、翼無きモノによる飛行は、なんていうか無理があるのよね。ワタシだけ飛ぶとしても、必要な要素が多すぎる。高出力の推進力、それの維持、コントロール、他にも重力制御がいるんじゃないかしら?」
「半分くらい何を言ってるのか分からない」
しかし、カルンなら出来るのか。
俺はちらりとカルンを見た。俺が翼を落としてしまった、隻翼の魔族を。
「私も長距離を飛ぶ際は、魔法による補助が必要ですね。初歩的な重力制御なのですが」
「あっ、今も飛べるのか?」
「いやいや。もう無理ですよ。片翼じゃすぐに墜落します」
「…………すまんかった」
「ははは。デリカシーが無いことへの謝罪、と受け止めておきます」
カルンは苦笑いを浮かべた。
「そういえばフェトラスは飛行をモノにしてるのよね。流石は銀眼と言った所かしら」
「……そうだな」
「どんな呪文なのか聞いてみたいわ……たぶん使えないでしょうけど」
聞いて驚け。呪文は【ステーキとりあえず百人前】だ。
「……というか、魔法ってそもそも何なんだ。同じ呪文を唱えても無理なのか?」
「呪文だけじゃ無理ね。その呪文に対する理解度とか、法則性も知る必要がある。そしてそういうのは本人しか把握出来てない、言語化しにくい事柄だから。――――氷がどれくらい冷たいモノなのか、っていうのは個人によって異なるでしょう? マッチで火傷した人と、火刑に処された人では炎に対するイメージが違うと言ってもいいわね」
「う、うん」
あまり理解が追いつかない。
「魔法っていうのはそういう……イメージを再現するための、世界に対しての命令、かしら? 物理法則とか、質量保存の法則とか、そういうのを全部無視するモノ」
「メチャクチャだ、って事は理解出来た。魔法を使うのに代償とかは無いのか?」
「分かりやすく表現すると、魔力が必要ね。体力とおんなじ意味で捉えてもらって構わないわ。使うと減るし、休めば回復する」
「人間には使えない?」
「無理ね」
その言葉の続きは無かった。それ以上は教えないと、演算の魔王が言外に語った。
「魔女はどうなんだ?」
「あれはちょっと特殊。人間から産まれる人間以外。分類としては魔族に近いわね」
「…………ふむ。そうなのか」
と、ここで。シリックとザークレーが目を丸くしていた。
「な、なんだよ」
「いや……」
「――――お前達、何を話しているのか理解しているか?」
「……世間話?」
「いやいやいやいや」
「――――いま演算の魔王が語ったことが真実なら、全部テキストに載せられるレベルでの知識だぞ」
「えっ、そうなのか?」
「――――魔法に関しての研究は困難を極める。魔王はもちろんのこと、魔族を追求することも叶わないのが現状だ。魔女も、魔法知識の伝播には非協力的だしな」
そういえば、演算剣カウトリアを没収した幻影の魔女エイルリーアも、戦術的な意味での魔法解説はしていたが、魔法そのものの説明はしていなかった。
魔法。
魔の法則。
下手したら頭痛案件だったのだろうか。
人間が知らなくていいこと。それはこの世に確かにある。
よし、話しを変えよう。
「そういえば演算の魔王。お前の名前についてなんだが」
「ワタシの名前? ……ロイル以外は知らなくて良いことだよ」
「うむ。それはさておき、人里に侵入する際、やっぱり呼び名があった方が便利だと思うんだよな。さっきはシリックが機転を利かせてお嬢様と呼んだが……愛称とかほしくないか?」
「ロイルが付けてくれるならなんでもいい!」
満面の笑みで演算の魔王は答える。
「出来れば可愛いのがいいけど、なになに、どんなニックネームを付けてくれるの?」
「…………えーと」
話題を変えるのには成功したが、言葉に詰まる。
「………………演算の魔王だから……」
いや、本名のカウトリアをもじった方がいいのか?
「…………えーと…………」
わくわく。そんな擬音が見えるようなポーズで演算の魔王が待ち構えている。
助け船を求めて周囲を見渡したが、全員から目をそらされた。
『ロイル以外がつけた愛称なぞ、絶対に採用されないだろう』という意思を強く感じる。
だが即興で思い付くものでもなかった。
「…………考えておく」
「うん! 楽しみにしておくね!」
がたごと。がたごと。馬車は進む。
太陽が出ている間は少し急ぎめに。
夕方頃には馬をしっかりと休ませる。
そして夜になると、人の気配に十分注意しながら、演算の魔王が造りだした灯りを頼りに慎重に進んだ。
そして野営を繰り返し、三日が過ぎた頃。
俺達はようやく、温泉を作るに相応しいシチュエーションを発見したのであった。
森の中。そこには大きめの池があった。川から流れ込んで、循環している池だ。
時刻は昼過ぎ。人間が立ち入りそうに無い区画。
「良さげな場所だな」
「そうね。透明度も高いし、いい感じ」
そう答えながら演算の魔王は既に魔法を放つ気配を立ち上らせていた。
「待てまて待てまて。もしかしてお前、この池を熱湯に変えるつもりじゃあるまいな」
「そうだけど? 手っ取り早いでしょう?」
「この池が死ぬわ」
動物たちの憩いの場だぞ。あと、池の中には普通に魚とかいるんだぞ。俺達の憩いのためだけに、全部ブッ殺すつもりかよ。
「そもそもこんなにデカくなくていい。……お前には苦労をかけるかもしれんが、俺の指示に従ってくれないだろうか」
「ロイルの指示には全部従うから、遠慮無くどうぞ」
さぁ、来て。そんな風に手を広げて演算の魔王は微笑んだ。
「えっと、そしたらな」
俺が指示した内容はこう。
・地面に穴を開けて、そこに川の水を流し込む。
・水だけをため込んで、舞い上がった泥が収まるのを待つ。岩を敷き詰めろだなんて贅沢を言うつもりはない。
・お湯にして、完成。
使い終わった温泉はそのまま地面にしみこんで、後に残るのは穴だけ。可能ならば、使い終わった後に埋め直してほしい。
「という具合なんだが……出来そうか?」
「出来るか出来ないかじゃない。ロイルのためにやるだけ」
頼もしい台詞を口にして、演算の魔王は準備に取りかかった。
「とは言っても、呪文を考えるから時間がかかるかも。ロイルはその辺でワタシの応援をしてくれると嬉しいかな」
「任せておけ。お前の勇姿をこの目に焼き付ける」
「…………テンションが上がるわね」
ザワッ! といきなり演算の魔王の気配が変質する。
「では……まずは、地面に穴を穿つ」
ゾワゾワと、淡い黄色をした精霊服が脈動する。
「殺すべきは、この大地」
えっ、なに、なんでそんな物騒な感じなの。
「穿ち、抉り……ああ、全てを焼いてしまえば、泥も沸かない……ならば……爆炎……余波を抑えて……」
魔王の独自言語ではない。だけど、手探りで魔法をさがすその独り言は、そのまま呪文のようであった。
「焼き溶かす、ピンポイントで……そう、火山のイメージ…………【熔岸】!」
見えたのは陽炎。そして次の瞬間。川の岸辺というか、大地が沸騰した。
「ツッッ!」
まるで星の怨嗟が聞こえてくるのではないか、と錯覚するような速度で大地はマグマと化し、あたり一体を灼熱に変えた。近場の草木が全て燃え上がり、派手に煙を立てる。
「ちょ、ちょー! 大惨事!」
そう叫んだが、演算の魔王には届いてないようだった。彼女は真剣な眼差しで、次のステップを模索する。
「次はここに、お湯を貯めるスペースを作る……ううん……一気に冷やして、形状化させましょう……そう、殺すべきは……このマグマ……それを穿つモノ……」
「嫌な予感しかしない! 総員退避! もっと距離を取れぇぇぇ!」
「【氷槍】!」
次に形成されたのは、氷の槍。かなり大きめのサイズだ。
それはマグマの上空に創られ、自由落下を開始する。
マグマと氷が触れた瞬間、氷の槍はズブズブとマグマの中に沈んでいった。凄まじい水蒸気が起こり、その隙間、真っ赤だったマグマがドス黒く変色していくのが見えた。
もうメチャクチャである。ただの災害だこんなもん。
――――やがて水蒸気が収まるころ。森林火災に発展することもなく、辺りは静けさを取り戻した。
「ふぅ」
「ふぅ、じゃねーよ! 怖いわ!」
演算の魔王にかけよって、その姿を改めて確認する。
「怪我とかしてないか? なんかこう、熱いのが飛んできたりしてないか?」
「だいじょ……ああん! 熱かったロイル~~! お手々を火傷しちゃったかも! ふーふーして!」
「自業自得の極みだよなぁ!? 見せてみろ!」
慌ててその手を確認する。
綺麗なものだった。
「…………よし、無事だな」
「えへ。心配してくれてありがとう」
語尾に音符マークが付きそうな様子でカウトリアは微笑んだ。
「ところでどうかしら? こんな感じで大丈夫?」
まだまだマグマ部分は残っていたが、演算の魔王が指さした先にはそれっぽいモノが出来ていた。
ドス黒く変色した大地。氷の槍によって空けられた、ちょっとした穴。溶けた氷が今じゃグッツグツと煮えたぎっている。
「…………う、うーん。俺が知ってる温泉の形状ではないが、まぁ、利用は出来そうだ」
「あれ。期待外れだった……?」
「いやいや。そんなことないぞ。ただ、造り方が物騒だっただけで」
「だってしょうがないじゃない。魔法は、基本的に戦いに用いるモノ……何かを殺すためのモノだもの」
「そっか……」
「先日やった存在量の感知みたいなのは、応用の応用よ。手間と時間がかかりすぎるわ」
だから手っ取り早く、殺すための魔法を唱えた、と。
そんな事をサラリと言ってのける演算の魔王。俺ですら怖いのだ。ちらりと確認すると、シリック達はガタガタと震えきっていた。
その後、何やかんやあって。
安全を確認した後、更に川の水を引っ張り込んで、貯めて、微妙にぬるくなってしまったので再沸騰させて(手加減出来なかった)、水を足して丁度良い温度にして。
ようやく温泉は完成した。
名付けてカウトリア温泉である。
「さすがに! 疲れた! わよ!」
ムキー! と演算の魔王は髪の毛をグシャグシャとかきながら叫んだ。
「繊細な魔法って! 疲れる!」
どこが繊細だったのだろう。とにかく、演算の魔王のそんな様子にほのかなデジャビュを覚える。
確かフェトラスも、似たような事を言っていたな……。
「ここまで苦労して作った温泉! さぁ、ロイル! 入って! そして笑顔を見せて! そして気持ち良かったら褒めて!!」
やたらと興奮した様子の演算の魔王。
俺は彼女をちょいちょいと手招きして、エスコートするポーズを取った。
「お前が造った温泉なんだ。一番風呂は、お前のものだ」
「えっ。……いや、いいわよ。ロイルのために造ったんだから」
「そこまで甘えっぱなしでいられるかよ。せめて、最初に入るのはお前であってほしい」
「別にワタシ、温泉に興味があるわけじゃないし……」
「いやいや。気持ちいいもんだぞ。さっき温度を確認するために片手を突っ込んだが、それだけでもニヤつけるぐらいだった」
「うー。あ! それじゃあ、一緒に入りましょ?」
「……は!?」
「そうよ。別に順番にこだわる必要なんてないわ。そこそこ大きく造ったし」
確かに。カウトリア温泉は大人五人が入っても余裕なくらいの大きさではある。しかし、しかしだ。
「ささ、ロイル。服を脱いで」
「恥ずかしいんだが!?」
「何よいまさら。さぁ。さぁ」
ふへへへと嗤いながら近寄ってくる演算の魔王。
「私、馬に水をやったりしてきますね」
「――――では私は馬車で休ませてもらおう」
「それなら自分は、ちょっと一狩り行ってきます」
「さぁロイル。一緒に温泉につかりましょう」
逃げ場は無かった。
「うおおおおめっちゃ気持ちぃぃ……」
少し熱めの湯。それに全身浸かると、得も言われぬため息が出た。
だらしなく口は開き、湯気の香りが心地よい。
「あー……たまらんなこれ……」
ふと視線をやると、少し離れた所にいた演算の魔王……カウトリアもだらしなく口を開けていた。
「ううん……確かに……これは、シンプルに気持ちがいいわね……」
ちなみに彼女は精霊服を着たままの入浴である。脱ぐ必要性が無い。なぜなら精霊服は超便利だからだ。
「いいもんだろ、温泉」
「うん」
カウトリアは軽くうなずいて、ふにゃりと笑った。
「正直に言うと造るのに手間がかかり過ぎるんだけど……でも、いいね温泉。それにロイルのその顔を見たら、また造らなきゃって思えるかな」
「わがまま言って悪かったな」
「ロイルのわがままを聞くためにワタシは存在してるんだけど?」
うぐ。そういうことを言ってくれるな。罪悪感が沸く。
「はぁ……」
ため息が青空に流れていく。
フェトラス。お前も今度、一緒に温泉入ろうな……。
「というわけで、めちゃくちゃさっぱりした」
ほかほかと湯気を立てながら、俺は馬車で休んでいたザークレーに話しかけた。
「飲料用として、演算の魔王に川の水を冷やしてもらったんだが、もしかしたらエールより美味いかもしれん。何杯でも飲めそうだ」
「――――ゆっくり出来たようで何よりだ」
「お前も入ってきたらどうだ? 打ち身に効くぞ、打ち身に」
「――――うむ……しかし、なんだ。私の身体には治療薬が塗られているからな。既に効力はないだろうが、その薬剤を汚れとして落とすことになる。ならばシリックを先に入れてやるべきだろう」
それは紳士の振るまいだった。
そして、男なら当然すべき気遣いであった。
そうだよ。シリック、元々は貴族のお嬢様なんだよ。
野郎の残り汁になんて浸からせられるか。というかそもそも、こんなオープンスペースな場所に温泉造ってしまったけど、シリックはどうすんだよ。仕切りぐらい作ってやれよ俺。
いやあいつ、普通に川で行水しちゃうような女だけどさ。
ちらりと演算の魔王を見てみる。湯上がりでほかほかしてて、色々とツヤツヤしてる。
『シリックのためにもう一工夫してくれないだろうか』
そんな依頼をしたら、通じるだろうか。また「むきー!」ってならないだろうか。
…………なるな。
俺はしばらく「自分で仕切りを作れないだろうか」などと思案してみたが、材料も道具もないので普通に無理だと気がついた。
ここは辺鄙な場所だから、人間に出くわすのは考えられにくいが、モンスターの襲撃の心配が――――あ。
「演算の魔王。お前って、いまフェロモンって出てるのか?」
「フェロモン?」
「えーと、ほら、魔王の誘いってやつ。モンスターを呼び寄せるやつ」
「ああ。アレ。ほとんど出てないと思うよ。事実ワタシと一緒に過ごしてモンスターに襲われたことないでしょう?」
「だよな。よし、一つばかり頼みがあるんだが」
「なになに?」
「シリックもこの温泉に入れてやりたいんだが、その間の護衛を任せてもいいだろうか?」
「護衛? シリックを? なんで?」
別に聞き逃したわけでもないのに、演算の魔王は三度疑問を示した。
「あいつも疲れてるだろうからな。たまには戦友をゆっくり休ませてやりたい」
「そりゃワタシが側にいればモンスターも近寄ってこないでしょうけど……ま、いいわ。その間ロイルとお話し出来るし。何かあったら対処すればいいのね」
「うん?」
「へ?」
「いや、流石に……あいつが温泉浸かってる横に居座る気はないのだが」
「なんで?」
「……だって、シリック女の子だし……」
「……? それが何か問題?」
あ。ちょっと嫌な予感。これは突き詰めたらダメなやつだ。
「まぁシリックに聞いてみような」
「???」
演算の魔王は本気で理解出来ない様子だった。
(そういえば……こいつ武器には異様に嫉妬するけど、俺が子供を作る事とかには寛容だったっけか……?)
少し気になる所ではあるが、今回に限りそれは大した問題じゃない。
要するに、俺が、間近でシリックの入浴音とかを聞きたくないだけだ。
「シリック、温泉入ってきたらどうだ?」
「わぁ、いいんですか。やった」
シリックは無邪気に喜んだ。
「その間、演算の魔王が護衛をしてくれるぞ。安心だな」
「…………は、はは。そうですね」
「別に護衛っていうほど大したことじゃないわよ。ただ近くでロイルとお話ししてるだけだし。気にせずゆっくり浸かるといいわ」
「とまぁ、こんなん申してますけど」
アイコンタクトの時間である。
(男の俺が近くにいるの嫌だろ?)
(はぁ。でもまぁ、こちらを見ないでくれるのなら、別に)
「んんん!?」
「えっ、いきなりどうしたのロイル!?」
「なんでもなぁい!」
今のアイコンタクトは、失敗したのではないだろうか。
俺は念のためシリックに確認を入れた。
「え、ええと……そういうわけで、俺は背を向けてるから……」
「あ、はい。よろしくお願いします」
快諾だった。なにこの人。恥じらいとかないの。
「……こっちは見ないでくださいね?」
背後でゴソゴソと、装備を外したり服を脱ぐ音がする。
チャプンと、入浴する音がする。
「はぁぁ……」と、艶っぽい声がする。
まぁ、全部演算の魔王の「ねぇねぇロイルロイルロイル」にかき消されたんだが!
ちくしょう。なんかモヤモヤする! かーっ!
「なぁ、ザークレー」
「――――なんだ」
「温泉気持ちいいか?」
「――――少し傷に染みるが……うむ。温泉は良いな」
「そうか。カルンは入らないらしいし、存分に湯を汚して構わんぞ」
「――――痛み入る」
こうして、全員が湯を堪能したのであった。
ちょっとした寄り道。
試行錯誤のせいで時間を取られてしまったけれど、俺達は存分に癒やされたのであった。
更に言うなら、カルンが大物を仕留めてきたので、今日ばかりはゆっくり過ごすことにした。それぐらい俺達は疲れ切っていたのだ。精神的にも、肉体的にも。
「日暮れにはまだ時間があるが……どうせだから夜まで待つか」
「そうですね。夜になったら、演算の魔王さんの魔法で道を照らして進みましょう」
湯上がりの火照りも冷め切っている。俺は大地に寝っ転がって、自分の身体の重さを実感した。
「ロイル疲れてるね。マッサージしてあげようか?」
「……頼んでもいいか?」
「もちろん!」
俺がうつぶせになると、演算の魔王は俺の腰上に乗っかり、えいえいと背中を押し始めた。だが。
(ちから弱っ)
演算の魔王が繰り出すマッサージは、あまり効果が感じられなかった。
「も、もう少し力を入れても大丈夫だぞ?」
「そう? じゃあ、強めに」
えいえいが、えいっ、えいっ、に変わった。
(んー! 弱い!)
だが俺の背中を一生懸命に押さえる彼女は、どうやら本気らしかった。
(そっか……そうだよな……その存在感で誤魔化されてたけど、こいつ……まだ小さいんだよな……)
フェトラスを少女と呼ぶなら、演算の魔王は幼女である。
今のこいつは、魔王ギィレスに比べると格段に弱い。殴り合いをしたのなら秒で決着がつくはずだ。
だがそれでも、戦えば、殺し合えば――――勝つのは演算の魔王なのだろう。
「えいっ! えいっ! ぎゅー!」
とても魔王が発する言葉ではない。
俺はその存在のアンバランスさに言いようのない感情を覚えた。
申し訳なさと、ありがたさと、切なさと、不安。
俺は思考を切って、そのまま身を委ね続けた。
夜が訪れた。
休息は十分。腹も膨れているし、水分補給もばっちりだ。
「よし、全員乗ったな?」
皆の顔を見渡す。
「ちょっとばかり休憩を取り過ぎた。なので、今日の夜間行進はいつもより長めに取ろうと思う」
「はいはーい。それでは【灯影】」
ボッ、と。俺達の進行方向に炎が浮かび上がる。十分な明るさとは言えないが、地面の様子ぐらいは分かる。それは俺達と一定距離を保ちながら、同じスピードで進んでいく。
「シリック、また運転を任せて申し訳ないが、よろしく頼む」
「いえいえ。お気になさらず」
「ザークレー。湯冷めしてないな? 体調が悪くなったらすぐ言うんだぞ」
「――――心配するな。大方回復したさ」
「カルン。人の気配がしたら、いつものように」
「はいはい。布をかぶって荷物と同化してますよ」
そして最後に。
「演算の魔王」
「なーにー?」
「いつもどおり頼むぞ」
「ええ。すぐに灯りは消せるから大丈夫。何かあっても即対応。頼れるワタシに全て任せて」
ぴったりと俺に寄り添いながら、薄明かりに照らされた演算の魔王は微笑んだ。
「さぁ、行きましょう」
どれぐらい進んだのだろうか。
目的地。ムール火山。フェトラスの元へ。
猶予はあるのか? フェトラスはまだソコに留まり続けているのか?
不安は多々あれど、俺達に出来ることは進むことだけ。
俺は疲れていた。――――だから休んだ。
俺は焦っていた。――――だから気がつかなかった。
俺は知っていた。――――はずなのに。
俺達が魔王フェトラスを追うのと同様に。
演算の魔王を追う者もいる、というごく当たり前の事を。
「あはっ、あははははははは! 見つけた。見つけたで……!」
闇夜。天空から絶叫が聞こえてきた。