4-14 そして世界は君を知る
煌々と太陽が輝いている。
だけどその温かな陽差しをもってしても、僕の身体の震えは止まらない。
銀眼の魔王は無言のまま歩き続け、やがて家から離れた所にある街道のど真ん中で立ち止まった。開けた場所だ。……まるで戦士が決闘する場所みたいに。
そして彼女が振り返る。
細く、そして長い黒髪がふわりと舞った。
あどけなさの残る顔つき。禍々しく伸びきった双角。僕たちが纏う黒衣よりも深く、絶対性を感じさせる黒き精霊服。
全てが美しい。そして彼女の持つ最も美しいもの――――二つの銀色が僕を見ていた。
その隔絶した美しさは、死への恐怖にほんのりと高揚を混ぜた。
「……お前の名前は?」
硬い言葉で問われた。ならば答えよう。
「アリセウスです。アリセウス・ゾラル・ユトゥー」
「この村に来た目的は?」
「……魔王様の気配を感じました。その誘いに引き寄せられて」
「魔王の気配。……それは私の気配で間違いないのか?」
「はい。貴方様の気配に相違ございません。とても強く、大きな……。まるで乾燥した砂漠で、オアシスの湿気を含んだ風に出会ったような。水の中に溶けた蜂蜜のような。厚い雨雲の切れ目からのぞいた太陽のような。そんな気配です」
「私の気配に、引き寄せられたと」
「はい」
しっかりと答えると、彼女は目を閉じてうつむいた。
「でもわたしは、シールスさん達に死んでほしくなかったよ」
「………………」
「あなた達を、殺したくなかった」
「………………」
うつむいていた彼女が顔を上げた。銀眼は更に冴え渡り、どんな宝石よりも美しく、そしてどんな呪いよりも禍々しく見えた。
「答えろ魔族。お前は私にとっての何だ」
「…………わか、りません……」
「今の私は何に見える? 魔王か? お前の敵か? それとも味方か? 殺戮の精霊か? 頭を垂れて許しを請わなければならない存在か? 先ほどの魔族のように、見苦しくもすがりつきたくなる希望か?」
「………………」
「答えろ。正直に。そして誠実に」
「……怖い、です」
「ハハッ」
銀眼の魔王は冷たく嗤った。
「その恐怖は何に由来する? 殺されそうだからか? 力の差が圧倒的だからか? お前が恐れているのは私が怖いからではなく『自分という存在が終わってしまうから』ではないのか?」
「もちろんそれもありますが、そうではありません。何というか……そう、きっと全部です」
「全部?」
「なんとなくとしか言いようがないのですが……例えるなら……そう、この世界は最初から間違えている。僕たちにとってこの星は途方も無く大きくて広い。けれども、貴方様にとってセラクタルは箱庭に等しい事でしょう。貴方様の存在は大きすぎるのです。そしてその在りようが、僕はとても怖い」
喋っている間は生きていられるかもしれない。けれど喋れば喋るほどに、僕の寿命がすり減っていくような。いいや、それだけならまだマシだ。――――僕のこの言葉のせいで、この星の寿命が減っていくような気がしてならない。
そんな重圧のせいで、僕の言葉尻はにごり、小さくなっていった。
「箱庭か。……いい例えだ。確かに、この世界の規格に対して、私サイズ感は狂っているな」
銀眼の魔王はふと脇道を眺め、呪文を一つ唱えた。【砕地】。そのダブルワードは地面を途端にひっくり返し、まるで切り拓かれた畑のような有様と化した。
造作も無く世界を塗り替える魔王は、その己が力に苦笑いを浮かべた。
「ハハッ。なんだこれは。あの苦労は何だったんだ」
魔王の自嘲には、誰かの愚かさを罵るような悪意が含まれていた。
「それで、何だったか。そうだ。私が怖いと感じる理由だ。続けろ」
まだ語れと? なんと容赦のない命令か。僕にこの世界を滅ぼす理由の一端になれとでもいうのか。しかし逆らえるわけもなく、僕は再び命令に従う。
「僕が貴方様を怖いと感じるのは……『途方も無い力がこの世には存在する』という事実です。この星がこの星で在り続けるためには――――魔王は、この世に存在してはならない」
魔王否定。
ああ、なんてことだ。僕はいま、何をしてしまったんだ。命令、そうだ。命令に従ったからだ。だから仕方ない。怖いと感じる理由を言えと言われたんだ、だから言うしかないじゃないか。正直に、そして、誠実に。
だから続けろ。命令に従え。
「だってそうじゃないですか。貴方様はきっと、自分が生きる場所さえも殺戮してしまうのだから」
銀眼は嗤った。
「はっ」
銀眼は両手を広げて、嗤った。
「はははははははははははははははは!!」
恐怖は麻痺する。耐性を得る。それが精神活動というものだ。だけど僕の恐怖は色あせない。だって、種類の違う恐怖が無数に襲いかかってくるのだから。
「見事だ。素晴らしいぞアリセウス。褒めてやろう。見事だ」
「……何が、でしょうか」
「私は、産まれて初めて自分という存在が恐ろしくなった」
どくん、と心臓が鳴った。それを自覚した。
「そうか……そうだよな……私は、私みたいなのは、この世にいちゃいけないんだよな……だったらどうすればいい? わたしには何が出来る? 最悪を回避するために、今からどうすればいい?」
私、わたし。入れ替わる何か。音の異なる自己定義。
魔王様のそれは僕への問いかけでは無く自問。
僕が口を挟める領域ではない。
「魔王は自然発生する精霊……なぜだ? なんのために発生する? 殺戮の精霊。何を殺戮するつもりだ。この世界か。なぜだ? なぜ殺戮の精霊は、殺戮しか出来ない? 誰が私を造った?」
口を挟めないけど、止めなくちゃいけないと、僕の中の命がそう叫んだ。
「オトウサンヲマモルタメニ、私ハナニヲ殺セバイイ?」
その瞬間、銀眼の魔王は最悪の気付きを得た。
「…………ああ、だから王なのか? 全てを統べる者。そして殺戮する者」
彼女の中で何かが変わっていく。
「私の出来ることと、私の意思が望むもの。性能と意思、か。――――なるほど。どうりで名前が二つあるわけだ」
とりあえず、と銀眼の魔王は僕を見つめた。
「アリセウス」
「はい」
「私の名前は魔王フェトラス」
「……はい」
「今からお前を殺す」
「…………はい」
「お前は自由だ。戦ってもいい。抗ってもいい。逃げてもいい。命乞いをしてもいい。何をしてもいい。……そう言われて、まっ先に出た願いはなんだ?」
僕の、願い。
「意味が欲しい」
「……ほう」
「僕がこの世に産まれた意味が、ほしいです」
そう呟くと、彼女は驚いたような顔をした。
「…………そうか。綺麗な答えだと思う」
銀眼の魔王は、初めて柔らかく微笑んだ。
「わかった。わたしがあなたを覚えていてあげる」
その瞬間、僕は満足した。これ以上ないくらいに満たされた。
なのに、彼女はこう続けてくれた。
「あなたのおかげで分かったの。わたしがしたい事。そして私に出来ることが。ありがとうアリセウス」
「もったいないおことばです」そんな意味の台詞を口にしようとしたけど、僕は涙が止まらなくてロクに返事をすることが出来なかった。
「あなたを、私の本当の一人目にしてあげる」
きっと本当は言葉足らずだったのだろう。いつもだったら理解出来なかっただろう。でも今の僕には分かる。
この銀眼の魔王は『僕の願い』を叶えてくれるのだ。
なんて優しい殺意だろうか。ああ、僕はこうやって死ねるのか。
「私はこの世界を、仕組みを殺戮する。だからちょっと手伝ってほしいの」
「はい、なんなりと」
「ありがとう。じゃあ――――死に物狂いで抗え、魔族」
「喜んで、フェトラス様……!」
「お前の全力を示せ。全身全霊を賭けて、その自身の弱さを私に見せつけろ」
命令は下った。ならば後は従うだけ。
「お前が私の最初の定規だ」
「……【縛影】!」
僕は開戦を宣言した。
相手の影を縛り、行動力を低下させる魔法だ。これによりどんな強大な敵も、僕たちの素早い攻撃が必要以上に、
だけど彼女はまるで虫を追い払うように片手を振るって、その呪文を阻害した。今のは、彼女ではなく精霊服の加護……?
戸惑ったのは一瞬。そして僕の物理攻撃じゃあの精霊服に全て止められてしまうという確信を得る。だったらやはり魔法しかないか。
「【裂閃】!」
露出した部分、というか顔面を狙った魔法。おそらく先ほどと同じ様に片腕で防がれてしまうだろうが、数秒という貴重な時間を稼ぐことが出来る。
僕は重ねて呪文を放った。偉大な兄が好んで使用していた、やや集中しないと唱えられない、難易度の高い魔法を。
「……【歪身】!」
全身の姿が歪む。増える。幻影魔法だ。これに生来のスピードを合わせて相手を翻弄する。集団での戦いをメインとする僕たち一族だったが、兄はこの魔法で「一人でも敵に勝てる」という特性を持っていた。
そしてここからが、僕の全力だ。
再生能力。これはいわゆる活力に等しい。生きるためのエナジーだ。それを意図的にオーバーロードさせて、全身の筋肉を増強。まさしく命を削った自己強化だ。
相手の首から上を吹き飛ばす勢いで、僕は銀眼の魔王に殴りかかった。
「……【火示】」
ぽつりと、呪文が聞こえた。
視界が燃えた。闇に包まれる。
着ていた服が、肌が燃えた気がした。
死ぬことが理解できた。
僕は意味を遺せただろうか。
まるで枯れ木のようにアリセウスは燃え尽きた。
弱い。弱すぎる。魔族の全力とやらを体感するヒマもなかった。
「……攻撃を食らっておくべきだったかな」
もしかしたら、もしかしたら、傷を負ったかもしれない。
でもどうせ私は負けるつもりがない。今後、誰にも、神にさえも。だったら傷を負わないように振る舞うことも必要な経験だろう。
「ああ……哀しいなぁ……」
銀眼が鎮まる気配は一向にない。だって、まだ敵を倒せていない。それどころか増え続けている。世界中のありとあらゆる者が敵になっていく。
だけどこれは必要なことなんだ。
お父さんを守るために。
お父さんの世界を守るために。
私は、この世界に君臨しないといけない。
ぽろりと涙がこぼれた。
「ちょっとの間、お別れだね。お父さん――――」
“時間が少し戻って。村で一番の巨漢。ムムゥの視点”
魔族が現れたと聞いて、俺は嫁のマーディアを即座に避難させた。俺の宝だ。絶対に奪われるわけにはいかなかった。
避難するために続々と人が集まってきているが、俺は無理矢理マーディアを一番最初の馬車に乗せた。誘導をしていた守衛に、取引を持ちかけたのだ。
「マーディアを先に逃がしてくれ。そうしたら、俺は安心してザークレーさんの援護に向かえる」
「だっ、ダメよムムゥ! あなたも一緒に逃げるの!」
マーディアは泣きながら俺を引き留めたが、そんな可憐な腕では俺を止めることも出来ない。
「頼むよマーディア。このデカい図体はこういう時のためにあるんだから」
「ダメ、絶対にだめ! もう戦わないって、約束したじゃない!」
「……そうだな。でも聞いてくれマーディア。俺は戦うんじゃなくて、護りに行くんだ。ザークレーさんを、この村のみんなを、俺達の家を。お前の好きなものを」
「ツッ! ……詭弁よ、そんなの……」
「ごめんな。でも大丈夫だ。絶対に生きて帰るから」
マーディアは泣きながら俺を抱きしめ、こうささやいた。
「危ないと思ったら、すぐに逃げて。お願い。あなたを失いたくないの」
「分かってる。俺もまだまだ、お前を愛し足りない」
そっとキスをして、だけどそれはどうしようもなく切なくて、やっぱり強く熱いキスになってしまう。
人の目がなんだ。恥ずかしい事なんて何一つ無い。俺は勝利の女神にキスされたのだ。
俺は優しくマーディアを引き剥がして、避難誘導に当たっていた守衛に声をかけた。
「武器と防具を貸してくれ。俺も援護に向かう」
「……ムムゥ、だがお前は……」
「心配すんな。日夜畑やら害獣やらと戦ってきたんだ。技は鈍れど、身体は衰えてねぇよ」
「……分かった。頼りになる。おい! ムムゥに合うサイズの防具を持ってこい!」
先んじて数名の守衛がザークレーの援護に向かっていたはずだが、戻ってくる気配はない。もしかしたら、もしかするかもしれない。けれどもそれは襲来したという魔族とて同じはず。なにせザークレーは英雄だ。きっと、今もなお懸命に戦っているはず。
「逃げるのは女子供が先じゃ! ジジイ共は座って茶でも飲んでおれ!」
肉屋のバリンじいさんが元気よく叫んでいる。
「老いぼれが生き延びてどうする! 順番じゃ、順番! ほれ、出血大サービスじゃ! うちの商品全部タダにしてやるから、大人しく列のケツに並べ!」
「ば、バリン……わし、まだ死にとうないんじゃぁ……」
「アホウ、そんなんワシもじゃ!! だがワシ等はそこそこ長生きしたろうが! きっと十年後にはみんな死んどる! しかし子供は十年後も元気にバリバリ生きるんじゃから、譲れ!」
相変わらず元気のいいジジイだ、と俺は苦笑いを浮かべる。
見習わなくちゃな。俺もあんなジジイになりたいものだ。
そんなバリンじいさんの鼓舞のおかげで、村の男共の士気は高い。男気は感化されて、避難はスムーズに行われている。
「お! フェトラスちゃんも来たか! さぁさぁ、あの馬車に乗るんじゃよ。大丈夫。ちゃーんと安全な所に逃がしてくれるからな。ん? ワシか? カッカッカ。ワシもすぐに逃げるから大丈夫じゃよ!」
それは流石に贔屓だろ、という勢いでバリンじいさんは少女を馬車に押し込んだ。まぁ、あれも取引の一種だろう。避難誘導手伝ってるんだから、自分のお気に入りの少女を優先的に逃がすぐらいしてくれ、というささやかな願いだ。そしてそれに異を唱えるものは一人もいなかった。あの少女は新参者だが天真爛漫で、皆から愛されている。
そして最初の馬車が走り出す。
マーディアはずっと身を乗り出して、泣きながら俺を見つめていた。その姿が小さくなるまで、俺は手を振り続ける。そして、受け取った武装を身に纏った。
懐かしい感覚だ。昔の事を思い出して、少し気が萎える。
だけどあの時の経験が、今を護る力になるのは事実だ。頑張ろう。ただひたすら、頑張ろう。
「……よし! いっちょ行くか! 避難もある程度リズムに乗っている! 人手は十分だろう! 気合いの入ったヤツは俺に着いてこい!!」
守衛でもないのに号令をかけて、道を走り出す。
久々の戦闘に血が騒ぐ、ということはなかった。頭の中にあるのは先ほど別れたマーディアに会いたい、という哀切でいっぱいだった。
だがそれこそが力になる。俺と五人の守衛は、風のように進み始めた。
視線は真っ直ぐ。前だけを見ている。
……だから、誰も気がつくことが出来なかった。
黒色と化した精霊服を身に纏った少女が、上空から森へと突撃することに。
シールスの家が最初に襲われた、という情報は知っている。
だから俺達はシールスの家に近づくにつれて警戒の度合いを強めていった。
「怪しい人影なし!」
「こっちの家も避難済みのようだ!」
やや速度が落ちるが仕方が無い。そして、魔族の姿がないことに安堵する。
「もしかして、ザークレーさんが倒しちまったんじゃないのか?」
「だったら戻って来てもおかしくないだろ」
「……まだ戦ってたりな」
「急ごう。だが、焦らずに行こう」
守衛と言っても、大半は農業を兼任していたりする若手だ。戦闘のプロとは言いがたい。そんな事も含めて、この急造のチームでの最高戦力は俺だ。
だから、というわけではないが、走っていると俺の右足が急に動かなくなった。
「!?」
自分でそれに驚く。
「ど、どうしたムムゥ?」
「何か見つけたのか?」
「いや……」
なぜ俺は止まったんだ? 何か理由があるはずだ。じゃあその理由ってなんだよ。
景色。変わらない。いつも通りだ。もうすぐシールスの家につく。
臭い。特に何も感じない。
気配。そんなもんが感じ取れるほど上等じゃない。
だったら、なんだ。この恐怖は。
「……なんか、ヤベぇ気がする。ただの勘だ。全員気を付けろ」
「む、ムムゥさんの勘とか怖すぎるだろ……」
「だがシールスさんの家まであと少しだ。……十分に気を付けて行こう」
ヒソヒソと、声を潜ませて移動の速度が落ちる。代わりに眼球が忙しなく動く。
どこだ。どこに何がいる。魔族は、ザークレーさんは。
そして俺達はなだらかな曲がり角にたどり着く。
木陰に身を隠しつつ、シールスの家の方を遠見する。
そこには黒い服を着た、子供がいた。
「ヒッ……」
見れば分かる。
そこには、黒衣の精霊服を纏った、魔王がいた。
「ひ、ヒィィィィ!」
守衛の悲鳴に気がついたのだろう。それが振り返ってこちらを見る。
そこには、俺の知らない、伝説がいた。
距離なんざクソくらえだ。その瞬間に、三人が気絶した。
「ぎ…………」
「ん……」
「クソッタレが!」
俺だけが悪態をついた。
「銀眼の魔王……!」
なんてこった、マジかよ、死んだぞチクショウ。マーディア、マーディア、マーディア! 今すぐお前に会いたい! だがここには来るな!! 翼が、翼がほしい! 今すぐマーディアに会いたい!!
かろうじて意識を保っていた二人は完全に腰を抜かしており、逃げることもままならない。俺だけが、俺だけが走って逃げられる。守衛五人を犠牲にして、今すぐマーディアの元へと向かうのだ。
それしかない。チクショウ。怖いなんてもんじゃない。頭の中が真っ白だ。
銀眼? 銀眼ってなんだよ。産まれて初めて遭遇した魔王が銀眼って、何だよ。そんなことあり得るのかよ。ちくしょう、ちくしょう、チクショウ! マーディア!!
そして俺が走り去ろうとする直前。
銀眼の魔王が、寂しそうな表情を浮かべたのが見えた。
……あ?
なん、だ。ありゃ。
まさか。そんな。嘘だ。だって、さっきマーディアと。
「……フェトラス?」
理解が及ぶわけもなく。
だがここに、秘密は露見した。
認識は正された。
フェトラスの敵が、増えていく――――――――。