4-2 覚悟の決め方
ザークレーと共に自宅に戻ると、フェトラスは軒先で地面に絵を描いて遊んでいた。
「あ、お帰りお父さん」
「ただいま。すまんな、腹減っただろ? すぐに飯を作ってやるからな」
「…………ん」
彼女は地面に書いていた絵(なんか抽象的な感じ)を足でザッザと消して、憂いを帯びた瞳で俺を見た。
「何かお話しがあるんじゃないの?」
「…………うーん。あるんだが、飯食ってからの方がいいかと思ってな」
「気になるから、今お話ししてほしいかな」
フェトラスはちらりとザークレーの方を見て、軽くうつむいた。
「……シリックさんが帰ってくるのが、まだかかりそう、ってお話しだよね」
……その程度だったら良かったんだけどな。事態はお前が考える数百倍は切迫している。
不意に先ほどの会話がフラッシュバックした。
『――――では、もしもフェトラスが……良くないモノになり果てた時、お前はどう振る舞うつもりだ?』
どうもこうもない。
どうもこうもないのだが、出来ればそんなモノにはなってほしくない。
だから俺は慎重に言葉を選びつつ、改めて覚悟を決めた。
俺は今から、フェトラスのラベルに、魔王の文字を書き込むのだ。
その結果がどうなるか。
すまんな全世界の生き物諸君。
何やかんやあって、滅んだらゴメンね。
「では、めちゃくちゃに真面目で重大な話しをする。だがその前にいくつか約束してほしいことがある」
「……はい」
「一つ。絶対に冷静さを保つこと」
「はい」
返事が素直なのがちょっと怖いな。
「二つ。何か行動する前に、必ず俺に相談すること」
「はい」
「三つ。……愛してるぜ、フェトラス」
「!」
ぴこん! とフェトラスの背筋が伸びた。そして少しだけ柔らかく微笑んだ後に、彼女は歯を食いしばる様子を見せた。
「……うん。分かった。それじゃあ教えて? シリックさんに何があったの」
その言葉の音色には、覚悟があった。
……思えばコイツと出会ってどれぐらい経ったものか。子供、子供と思っていたが、確実に成長している。この子は将来どんな大人になるのだろうか? きっと超美人になるから、モテるんだろうなぁ。でも嫁にはやらん。
というかコイツを嫁に出来る生命体なんてこの世に存在すんのか? いや別に生命体じゃなく精霊とかの方がいいのかもしれんけど。どっちにせよ並大抵のヤツにはやらん。少なくともフェトラスのためなら神をも殺せる、ぐらいの気概が無いヤツでないと……いかんいかん現実逃避すんな俺。
俺もフェトラスにならい、一度だけ歯を食いしばって、口を開いた。
「落ち着いて聞いてほしい。シリックは今、とある魔王に誘拐されている」
「ゆう、かい」
「……生きているかどうかも分からん状態だ」
「!?」
ざわ、と空気の質が変わった。
ぞわ、とナニカが肌の上を走った。
「誰がやったの?」
「……不明だ。誰が、どうして、今どこに。全てが不明の状態だ」
「上等だよ」
そこには当然のように銀眼が浮かんでいた。
「殺してやる」
ドシャッ、と。背後にひかえていたザークレーが腰を抜かす音が聞こえた。
悪いが構っちゃいられない。狂ったように鳴り響いているネイトアラスの音も無視だ。
「どこのどいつか知らないけど、後悔させる時間なんてあげない。刹那で殺してやる」
「ここで俺との三つのお約束を思い出してほしい」
「冷静に。相談する。愛してる。オーケー。では一つずつ。お父さんから見て、今のわたしは冷静?」
「噴火寸前の火山だな。それを押さえ続けられるかどうか、というのが冷静であるということだ。引き続き我慢してくれると有り難い」
「どうして我慢しなくちゃいけないの?」
「誰にも止められんからだ。そしてお前の本気は、お前自身が後悔する可能性が高い」
「…………わたしがこうなる、ってお父さんなら分かってたよね? ならどうしてシリックさんの事をわたしに教えてくれたの?」
おや意外と冷静。
なーんて思うかよ。さっきからこいつの双角が、どんどん伸びてきてやがる。
精霊服に走っている黒いラインがまるで生き物のようにぞわぞわと蠢いており、フェトラスが発する波動をより不吉なものに見せる。
怖い。本当に。
笑えないこの状況に、膝だけが愉快に爆笑してる。
思考力がフッ飛んで、俺の冷静さが消えていく。
それでも俺は、フェトラスから視線を外さなかった。大丈夫。きっと俺の声は震えない。恐怖こそ覚えてはいたが、俺は取り繕うことなく素直に口を開いた。
「何故シリックの事を教えたかって? ンなの簡単だ。俺がシリックの事を内緒にしてたら、お前が嫌がるだろうな、と思ったからだよ」
「…………ふーん」
彼女は腕を組んで、家の壁にもたれかかった。
「……少しだけ、冷静、って言葉の意味が分かった」
「ほう。どんな解釈だ?」
「色んな事を考えるだけの余裕を持つこと」
「美しい解答だな」
「でも、ちょっと待って。情報量が多すぎる。次の約束、相談を早速させてもらうけど……ああ。とりあえず、深呼吸でもしておくか」
彼女は腕を組んだまま天を仰ぎ、深々と、自分自身にその呼吸音を聞かせるように大きなため息を吐いた。
「相談。とりあえず、わたしはどうすればいいの?」
そんなん俺が聞きたいわ。
チラりとザークレーの方を見ると、彼は気絶していた。ダメだ、役に立たん。でもネイトアラスは鳴り続けていた。まぁ彼のことはそっとしておこう。
「……以前、俺が大怪我した事があっただろ? ミトナスにやられた時」
「ああ。アレか。【天『ちょっと待ったァァァ!』……なに?」
「い、いきなり呪文唱えようとするな。何かする前に相談してくれ」
「ごめん。ぼやぼやしてたら感覚が薄れて呪文が唱えられなくなる。【天視】」
静止の意味は無かった。
彼女の呪文が発動する。
あの時は上手く聞き取れなかった呪文……天の視、か。なんとなく想像するに、上空から地面の様子を見る感じか?
「…………チッ、広すぎる」
フェトラスが苛立ったように舌打ちをする。そして健気にも単独で鳴り続けている翠奏剣ネイトアラスをキッと睨んだ。
「ネイトアラス。鬱陶しいから黙りなさい」
瞬時にネイトアラスは沈黙した。だめだ。こいつも役に立たん。
「それでいい。次の呪文を邪魔したら殺すから」
フェトラスの言葉遣いが荒っぽくなってる、というか、双角の伸びっぷりがヤバい。
これは、あの浜辺の時に匹敵するような。
「・・・―・―――・・・・・」
魔王の独自言語!?
「まっ」
無駄だと知りつつ、俺は再び彼女に静止の言葉を投げかけるが、本当に無駄だった。
「 【顕魂響明】 」
その呪文は命令だった。お前の魂を見せろという、そんな音色だった。
「……見つけた! 【天視開闢】!」
だああああああ! こいつフォースワード連発してるぅぅぅぅ!!
もうダメだ、この調子じゃ【なんかすごい魔法】も飛び出すぅぅぅ!!
あわあわと手を上下に振ってみる。意味は無い。
俺がパニックを引き起こしていると、
「…………んー?」
意外な声色が聞こえてきた。
「なんだこれ」
「いやそれはコッチの台詞だぞ!? ちょ、いいかげん落ち着け!」
俺がフェトラスの両肩を押さえて揺さぶると、彼女は「えっ、あ、う、ちょ、待って」と途絶え途絶えに、存外落ち着いた声を発した。
「あっ……あーあ。切れちゃった。もう、お父さんのせいだよ?」
えいっ、と俺の手を払いのけるフェトラス。
その仕草は、なんか、普通な感じだった。
「もう。せっかく見つけたのに。邪魔しないでよー」
「いや怖すぎるわ! ポンポンポンポンとフォースワード連発すんな!」
「ごめんごめん」
軽く謝るフェトラスだったが、未だに銀眼状態ではある。双角もひどい。俺の手の平よりもデカく育ってしまっている。
「お前……大丈夫か?」
「大丈夫っていうか……なんというか……あ、シリックさん無事だったよ」
「マジでか!!」
俺の目は人生で最も大きく見開いた。
脳みそがカッと燃え上がる感覚。腹の底が冷えて、代わりに手先が熱くなる感覚。言葉に出来ない、喜びと、安堵と、よく分からない激情。
「無事なのか! 元気なのか? 今は危なくないのか!?」
「よく分かんなかったんだけど……なんか、笑ってた。でも怖がってたし、不安もあったし、どうしてシリックさんが笑えてたのかはよく分からない。一番強い気持ちは、たぶん、決意みたいな感じ」
「話しの要領を得んな……何を見たんだ?」
「ちょっと待って。一旦落ち着きたい。一つ目の約束。冷静に」
「お、おう」
「二つ目の約束。相談があるんだけど」
「なんだ」
「……ギュッって抱きしめて、頭をなでてほしい、かな」
「おう」
俺は素直にリクエストに応じた。
「ん…………ふぅー…………」
俺の胸元で深呼吸する愛娘。
「…………三つ目の約束は、お父さんが守って?」
首だけ動かしてザークレーの様子を確認。よし。ヤツは引き続き夢の中だ。
「愛してる。お前のためなら、俺は絶対に死なん」
「……ふふっ。最高の言葉」
その声を聞いた瞬間。俺の耳に葉音が届いた。ザアァァ、と。心が落ち着く日常の音。俺はプレッシャーから解放されていた。
彼女はそっと俺から離れ、銀眼で俺を見つめた。
あれ。
全然怖くない。
慣れたわけじゃないんだろうけど。
ま、いいか。
ニコッと笑ってみせると、フェトラスの口元が緩んだ。
そして、何やら複雑な想いを表情に乗せる。
「どうした?」
「ううん。ただ、お父さんがお父さんで良かったなぁ、って」
「?」
「…………心から、愛してる」
そう告げたフェトラスの眼は、再び黒眼に戻ったのだった。
「おい、ザークレー。起きろ。ザークレーってば」
「――――うぅ……」
「おーきーろー」
べしべしべし。
「――――ハッ!? やめろティリファ! それは水着ではない!」
何度か頬を叩いてやると、彼はようやく覚醒した。錯乱しているが。
「おはようザークレー」
「はっ、ロイル。……世界は滅んだか!?」
「滅んでねぇ」
俺は苦笑いを浮かべながら、親指でフェトラスを指さした。
「うちのお姫様はモリモリお食事中だ」
ザークレーの気絶っぷりが酷かったので、とりあえず俺は飯を作ったのだ。割と簡単なものだけど。
とにかく、俺の話しから「自分がちょっとした時間気絶していた」ということを把握したザークレーは深いため息をついた。
「――――そう、か」
ザークレーはよろよろと立ち上がろうとして、失敗した。まだ全身に力が入りきってないらしい。
「だ、大丈夫か?」
「――――大変だロイル。い、いよいよ私の胃は蒸発してしまったらしい。痛くない」
「俺が口にした例えとはいえ、本気で胃が蒸発したらお前死んじまうぞ」
「――――本当は死んでいるのではないだろうか……」
「生きてる生きてる。お前の分の飯もあるが、食うか?」
「――――いらん。食えるわけがない。こんなコンディションで」
ザークレーは膝をついたまま、地獄のようなため息をついた。
「――――こっ、怖かった…………あの時のフェトラスには殺意がなかったが、殺意を有した銀眼というのは…………筆舌しがたいな……」
「あー。うん。まぁ、な。ぶっちゃけ俺も怖かった」
逃げ出さなかったお前は、とてつもなく勇敢だよ。
だから、そんな勇者に慰めの言葉はかけない。
「!? というか、何故私は気絶しているのだ!?」
我に返ったかと思ったが、実は引き続き錯乱モードらしい。ダメだこりゃ。しばらくそっとしておこう。
「とりあえず、シリックは無事らしい。元気なんだと。だからフェトラスは落ち着いた、という事実をしばらく噛みしめてろ」
ついでに、俺は地面に転がっている翠奏剣ネイトアラスにもそっと触れた。
「お疲れさん。担い手が気絶したったのに、一人でもよく頑張ったな。怖かったろ? うちの娘がごめんな」
それは鈴の音を鳴り返すことは無かったけど、うすらぼんやりと俺の気持ちが伝わったような気がした。
「それで結局、シリックのヤツはどうなんだ?」
フェトラスが食事を終える頃、俺とザークレーは椅子に座り直して彼女に尋ねた。
「んとね、とりあえずシリックさんは無事。怪我とかもしてないみたい」
フェトラスは指を舐めながら、のんきな声を出した。
「まずシリックさんの場所を特定して、そこに……なんていうか、わたしの目を送ったというか、繋げたというか……」
「サラッとすごいこと言うよな……」
まぁ大呪文だしな。常識外の事も出来て当然か。
「どこら辺にいるんだ?」
「説明が難しいなぁ……えっと、この村からセストラーデの距離の、五倍ぐらい?」
意外と近いな。そんな感想を俺は抱いた。
「さっきの魔法を使えば、いつでもシリックの最新位置が分かるのか?」
「う……じ、実はあれ、シリックさんの寿命的なものを縮めちゃうから、あんまり使いたくない……」
「なにしてんのお前!?」
確か呪文は、魂を見せろ、そこはどこだ、みたいな感じだったと思うのだが。まさか対象者への攻撃でもあったとは。
「あっ、あの時は必死だったの! 寿命って言っても三日分ぐらいなんだろうけど。とにかく、もうしたくない」
「ん、まぁ……三日ぐらいなら平気か……あいつも鍛えてるし……でもあんまり焦らせるなよな」
「ごめん。それで意外と元気そうだったから安心しちゃって、集中が解けちゃった。お父さんにも邪魔されたし」
「俺だって必死になるわ。まぁ、とにかく無事で良かった」
ふぅ、と安堵のため息。
そうすると不思議なもので、逆にイラついた。
「結局なんなんだよ。その魔王ってのは何がしたかったんだ?」
「わかんない。周囲の光景とか目に入らなかった。ただ、近くに誰かいたような気はするんだけど」
その言葉に反応し、仮説を組み立てるザークレー。
「――――クラティナか? 既に救出済みだったとか」
「そんな感じじゃなかったような気もするんだけど……よく分かんない」
情報が足り無さすぎる。
しかし、もう一度やれ、というのも難しいだろう。シリックの寿命的な意味でなく、フェトラスに銀眼を抱かせるのが、という意味で。
(そういえば……結局、フェトラスのラベルに魔王の文字は書き込まずに済んだな……)
俺が頼るよりも先に、フェトラスが先走ったというのもあるが。
とにかく、それは俺にとって、とてつもない僥倖であった。
俺は切り札を切らずに済んだのだ。自爆せずにすんだ、とも言うが。
ありがとう神様。ギリギリセーフでした。
「――――とにかく、現状でシリックが無事なのは喜ばしい。現状がどのようになっているかは不明だが、とにかく、良かった」
そう呟いたザークレーは直後に「安心すると胃が」と小さな悲鳴を上げた。
「ねぇねぇお父さん。これからどうするの?」
「どう、とは?」
「シリックさんを迎えに行く?」
「う、うーん……どうしたもんかな……行こうと思っても距離がある。ここで大人しく待っている方がいいと思うが」
「でもでも、ちゃんと帰ってこれる保証はどこにもないよ? わたし達がお迎えに行ってあげた方がいいと思う」
「…………魔法で?」
「うん。何なら今すぐ行きたい」
彼女は黒眼のまま、真摯にそう言った。
「どう思うザークレー」
「――――クラティナ達が動いている。そちらに任せておく方がいいと思う」
「でも」
「――――クラティナは優秀だ。強い。だから安心してシリックの帰りを待つといい。そろそろ畑の作物も花を付ける頃だし、ここを離れるのはお勧めしない」
「花、かぁ……」
フェトラスは壁越しに畑の方を見た。
「……………………」
だが納得は出来ないようだった。
きっと彼女は、シリックのために何かがしたいのだろう。
「……じゃあさ、魔法の練習でもしてみたらどうだ?」
「れんしゅう?」
「シリックの寿命が縮まらない、あいつの安否が確認出来るような魔法を」
「あー! それいいね! やる! 練習する!」
「ついでに、何かあったら飛んで行ける魔法も考えておけばいいさ」
軽い気持ちでそう言うと、ザークレーが死ぬほど切ない表情を浮かべた。きっと意味は「フェトラスの《魔》を鍛えさせるとか正気かよ」という類いのものだろう。
ご、ごめんて。そんな目で俺を見るな。
「わたし、やる!」
もう止まらない。フェトラスは決意したのだ。
「よーし! さっそく考えよっと!」
活き活きとしだしたフェトラスを見て、ザークレーが口を開いた。
「――――呪文の練習、とは? 既に唱えた魔法を改良するつもりか?」
「んとね、わたし魔法って勢いで使ってる所あるから……ちゃんと使えない場合もあるの」
「――――ほう」
「例えば焚き火をする時の魔法とか、今でこそちゃんと使えるけど、たくさん失敗したよ。上手に出来た翌日に失敗する事とかもよくあったし」
「――――興味深いものだ。練習とはどのようにするのだ?」
「成功するまで呪文を唱えるのが一番かなぁ」
「――――暴走したりはしないのか?」
「……い、一回だけ、焚き火どころか森を焼き払いそうになったことが……あります……えへへ……」
「あー。あったな。あの時は俺もめちゃくちゃ怒ったなぁ」
「――――だ、大丈夫なのか?」
「まぁ暴走よりも不発の方が圧倒的に多いかな? でも最近は考えて使うようにしてるから、たぶん大丈夫だよ!」
「――――う、ううん……」
ザークレーはそっと、懐にしまっているであろう翠奏剣ネイトアラスを撫でたのだった。
イリルディッヒはふと顔を上げた。
今、何か感じたような。
「どうしました?」
《ふむ。……何でもない。気のせいだろう》
「そうですか」
《……むしろお前の方が大丈夫か? 顔色が悪いように見えるが》
「そりゃ、まぁ。というかそんな事を言われると、本当に体調が悪くなるような気がします。実際のところ私も疲れているんでしょうけど」
《無理もない》
イリルディッヒは屈伸するように身体を動かし、関節の音を鳴らした。
《まさかこんな展開になるとはな》
「……ははっ」
そう苦笑いを浮かべた人間に対し、イリルディッヒは同情の念を抱いた。
《しかし大した胆力だ。昨今の人間というのは、そこまで精神力が強いモノなのか?》
「いや……どうなんでしょうね……」
《普通の人間だったら、錯乱を通り越して発狂してもおかしくない状況だと思うのだが》
「私だって頭がおかしくなりそうですよ」
相変わらず苦笑いを浮かべている。それがどんな種類のものであろうとも、笑顔が作れることは賞賛に値することなのだろう。
魔獣イリルディッヒは、人間に尋ねた。
《人間。お前の名をもう一度聞いておきたい》
「貴方に名乗るの、これで五回目なんですけど」
げんなりとしたツッコミ。
人間が、魔獣にツッコミを入れたのだ。
改めてイリルディッヒは嘆息した。
《お前は賞賛に値する人間だ。そろそろ覚えるだろう》
「……まぁ、名乗るのにも慣れてきた頃ですよ。
私の名前は、シリック・ヴォール
――――魔王を討つ者、ですよ」
シリックはそう言いつつ、こう思った。
(大嘘ですけどね!! 私はフェトラスちゃんのために生きる女ッ! 貴方達の野望は私が華麗にブッ潰してみせますとも!!)
異常事態のど真ん中にいても、彼女はブレてなかった。
ほぼ同時刻。
「この気配は……!?」
「魔王様……!?」
「まっ、魔王様だ! 我らの新たなる盟主様だ!」
太陽の下。興奮に湧き上がる者達がいた。
その者達の多くは傷を負っていたが、それ故に、見つけた希望に酔っていた。
「ま、待て。落ち着くんだみんな。リーンガルド様の事を忘れたのか!」
「あの御方は狂乱なされた! それに恐らく今頃は生きておるまい。生きておられたとしても我らの事など食料としか見られぬであろう!」
「だ、だがッ!」
「何を迷う? ならば貴様はザファラに戻るがいい! そしてリーンガルド様か、あるいは人間共に殺されてしまえ!」
「貴様! リーンガルド様を何と心得る!」
「我らを食うモノであろう!」
「ツッ」
「だが、次の魔王様はきっと違う。貴様とて先ほどの力の波動を感じたであろう! 我らと共に、この世界を魔で染め上げるに相応しい強者であるはず!」
「しかし……しかし!」
「水を差すなッ! いくらリーンガルド様に近しい者だったとはいえ、今の貴様はただの魔族! いいや、むしろ近しい者であったのにリーンガルド様から逃げた事は、我らの中で最も罪深いことだと言えよう! そうであろう、アリセウス!」
アリセウスと呼ばれた魔族はしゅんとうなだれた。
そうだ。自分は逃げ出したのだ。恐怖したのだ。側近だった自分の兄を喰った、魔王リーンガルドから。
「我らは今から、新たな盟主たる魔王様の元へはせ参じる。魔王リーンガルド様の元へ戻りたければ、戻るがいい! そして死ねッ!」
「………………」
アリセウスはもう何も言えなくなった。
「魔王様!」「魔王様!」「魔王様!」
戻ることは出来ない。
だけど、皆のように新たな魔王様の元へ向かうのも、違う気がする。
だけどやはり、戻ることは出来ない。
進むべき未来が分からない。
覚悟を決めることが、出来ない。
アリセウスは最後尾をとぼとぼと歩き、狂乱する軍勢の背中を眺めつづけた。