3-24 一つの『瞬間』に始まるそれぞれ
その『瞬間』には様々な呼び名がある。
曰く、時代が動いた瞬間。
曰く、運命が決定づけられた瞬間。
曰く、帰還不能点。
曰く、終わりの始まり。
それはロイルにとって、痛みであった。
「ツッ!」
ブチン、という何かが引きちぎれる音がした。
それはまるで脳の血管が裂けた音のようであり、実際にロイルが覚えた頭痛はかつてないものだった。思考力は一気に失せ、今まで自分が考えていた事が、先ほど自分が閃いた重大な何かを思い出せなくなる。
そしてその次には現在の状況が。
更には五感が。
気がついた時には自分の名前すら失って――――。
「お父さん!」
そんな彼にフェトラスの叫び声が届く。
お父さん。それは彼の名前であった。
この半年はロイルと呼ばれる事よりも「お父さん」と呼ばれる事の方が圧倒的に多かった。自分の事を「俺は」と呼ぶときは、いつだって「ロイルは」ではなく「お父さんは」という言葉に置き換えられていた。
(そうだ。俺は、お父さんなんだ。娘の……フェトラスの!)
痛みはなお続いていたが、舌打ちと共に頭を振って意識を覚醒させる。
そして彼は自覚した。
聞こえない誰かの声が、懸命に自分に語りかけていた事に。
そして自分の中に存在していた、ナニカの残滓が完全に消えていることを。
そして彼は直感的に思い知った。
失った残滓とは、かつての相棒。
そして彼女の執着が、いよいよ次元の壁を越えたのだと。
ドグマイアにとってそれは、今までに無いタイプの指令だった。
基本的に彼は自分の真なる任務に関して「王国騎士のついで」としか考えていなかった。
【禁忌】を犯した者なぞ滅多に出ないし、いたとしても魔王のついでに暗殺すればいいだけの話し。自分と似たような者は意外なほどに多いようだし、皆そろって優秀か、一芸にとんでもなく秀でている。
ついでに言うなら、どうやら神サマは『適材適所』という言葉が好きらしく、指令が天から降りてくる場合はいつだって楽勝なものばかりだった。制限は多いが報酬は十分だし、自分が【末端管理者】になったことに関して後悔は無い。
ただ、今回の指令は、そう、異常事態とか緊急事態とかそういう類いですらなく、ただ単に常軌を逸していた。
《 優先順位・最高位 》
重大な異常を抱えた魔王が一時間以内に発生します。名称未定、外見不明、暫定的にこの異常個体魔王を今後『演算の魔王』と呼称。各員はただちにこれを撃破、消滅させてください。注意点として、その魔王は、魔王としての性能こそ有すれど殺戮の精霊ではありません。緊急事態につき、『演算の魔王』討伐の際は末端管理者が所有する聖遺物の制限を一時的に解除します。高セキュリティークリアランス所有の末端管理者、及び、地域管理者、歴史管理者、武力管理者、指定管理者、特別管理者にはセキュリティーレベルに応じた詳細を別途通達しますが、いかなる情報漏洩も厳禁といたします。また本件についてありとあらゆる情報の交換も禁止ですので、単騎狩りが推奨されます。しかし協力体制を否定はしませんので、無言のまま意思疎通が出来る者達は共闘が推奨されます。また、特定の聖遺物所有者を暫定的に末端管理者に任命。該当者を発見した者は適切な指導を心がけてください。繰り返します。《優先順位・最高位》重大な異常を抱えた魔王が一時間以内に発生します。名称未定、外見不明、暫定的にこの異常個体魔王を今後『演算の魔王』と呼称――――
ドグマイアは降りてきた指令に面食らった。
(なんだ、この無機質さは――――?)
今まで天から降りてきた指令は、まさしく神から授かったかの如き、神聖にして慈愛に満ちた、優しき文面だった。ついでに付け加えるなら、短くて分かりやすかった。
だがドグマイアが目を閉じるたびに浮かんでくるその指令には、まるで化けの皮が剥がれた冷血の悪魔めいた雰囲気がある。ドグマイアはそう感じずにはいられなかった。
よく分からない単語や、初めて聞く言葉も多かった。
そして【管理者とは、そんなに種類が多かったのか】と考えた瞬間に、ドグマイアの脳に新たな神託が下る。
《警告・末端管理者の禁忌行為を感知。カルマが加算されます》
(はあああ!? じ、冗談じゃねぇぞ! そっちが情報ブン投げといて、感想を浮かべただけで禁忌扱いかよ!)
連鎖的に色々と思い付いてしまいそうなので、ドグマイアは逆に指令を無視した。
そうだ。優先順位は最高位らしいが、今はそれどころじゃない。銀眼の魔王が目の前にいるのだ。俺の本業は王国騎士。気を抜くんじゃねぇ。銀眼がそこにいるのだ。
俺のような【管理者】が魔王ではなく人間に殺された場合、自動的にその情報は別の【管理者】に送られる。異常事態への警戒のためだ。なのでさっきはロイルさんを挑発してみたのだが、彼は俺を殺さなかった。魔王崇拝者の分際でよくもまぁそこまで理性的なフリが出来るものだ。
いずれにせよ、ロイルさんは何かの禁忌を犯しているのは間違いない。魔王の親だと? ふざけやがって。だが今は見逃してやる。そもそもあんたを処理しろという指令は下っていないしな。だから銀眼、演算の魔王、そしてアンタは最後にしてやるよ、ロイルさん。
ドグマイアは目を開けた。
目の前には、湯気を漂わせる美味しそうな鍋料理があった。
(なにこれ)
視線を動かすと、ザークレーが微笑んでいた。ティリファが目を閉じて嬉しそうな顔をしていた。
(なんだこれ)
ドグマイアは一瞬呆けて、そしてそのまま料理を口にした。
(おいしいなー)
ティリファは思った。
あたしはもう色々な意味で魔王と戦えない。次に相対する魔王が銀眼だったら、確実に勝てない。断言出来る。いまあたしが生きているのは、相手がフェトラスだったからだ。
それは奇跡のような偶然にすぎない。だから『次の魔王が銀眼だったら』という恐怖に囚われたあたしは、もう英雄を続けられないんだろう。困ったな。ドグマイアはよく分かんないけど、きっとザークレーはあたしと同じ気持ちだろうな。っていうか……うわぁ……さっき死ぬかもしれない、って思った時に気がついたけど、あたしザークレーに惚れてんじゃん。うわー。マジかー。気がつきたくなかったなー。でもコレをきっかけに結婚とか出来ないかなー。出来ないだろうなー。うわー。うわー。マジかー。でも――――うん。悪い気分じゃない、かな。
ザークレーは思った。
――――フェトラスは可愛らしい。そして同時に恐ろしく、人類にとって抹殺せねばならぬ宿敵である。だけどやっぱりあの幸福そうに食事をするさまは、大変可愛らしい。私はイカれてしまったのだろうか。ああ可愛い。
シリックは思った。
今回、自分は何も出来なかった。何か出来るかも、とは思っていたけど……。
実際に私が出来ることなんて何も無いんだなぁ……。
魔槍ミトナス。私が持っている聖遺物は、魔王を前にしないと機能しない。今回みたいに人間が相手だと、私は不慣れな槍を使うことになって逆に戦力ダウンだ。自分に一番向いている武器は弓なんだけれど、やっぱり慣れている剣も持つべきだろうか。あるいは、もっと槍を勉強して、発動しないミトナスも十分に扱えるようになるべきか。
フェトラスちゃんとロイルさん。この二人が歩む過酷な道に、私はこれからもついて行けるのかな……。不安だな……。
でも、二人と別れる気は無い。ユシラ領に帰るつもりも全く無い。
故郷を離れての船旅。度重なる野宿。色んなモノを見て、色んなモノを食べた。それは今までの人生で一番充実した日々だった。
シリック・ヴォールとして生きていく事は、かつての私とって一番重要なことだった。自警団で働いていた頃は、辛い事があっても我慢して耐えていた。その先に私の憧れた自分がいると信じて疑わなかったから。
けれども今は。
シリック・ヴォールとして生きるのではなく、シリック・ヴォールになるために、自分が思い描いた自分になるための道半ば。
今の私は何の我慢もしていない。
きっとあの人達は私が憧れた姿だけではなく、オフタイムにはちゃっかりと満面の笑みを浮かべてお酒でも飲んでいたのだと思う。
私が憧れた人達は、私が思うよりももっと深くて、実はユニークで、色々な「好き」を抱えていて、きっと人生を満喫していたんだと思う。私みたいに馬鹿な生き方は絶対にしない。絶対そうよ。
だって、私が憧れた人達なんだもん。
また会いたいな。
そしてその時に、願わくば「立派になったね」と褒めてもらいたい。
その時に「憧れた、って言ってるわりには全然私達に似てないよ?」と笑われるのも、悪くない。
フェトラスは思った。
お父さんの様子が変だ!
大変、なんか苦しそう!
大丈夫かな!?
しんぱい!!
演算の魔王は産声を上げた。
「あははははははははははは!」
もの凄くわずかな領域にしか手を伸ばせなかった。
一瞬だけ、あのよく分からない、ドロドロでサラサラでキラキラしてドブのようなモノに触れたけれどすぐに排斥されちゃったみたい。
でもワタシには一瞬で十分。
欲しい物は得た。
そのために色々と捨ててしまったようだけど、いいの。
一番欲しいモノを得るために、ワタシは全力を尽くして、永劫を彷徨って、ついにたどり着いた。
立ち上がって辺りの様子をうかがう。
まだ人間でいう所の赤ん坊サイズだ。目線がとても低い。
ここはどこかしら?
自分の知識にはない場所のようだけど……。
どうやらここは森の中らしい。辺りは真っ暗で、星明かりもわずか。
「もっと広い場所に出て、星の位置から現在位置を割り出さなきゃ……」
自分がかつての思考速度を失っていることにはとうに気がついている。
きっとアレは、聖遺物としての機能であって、今のワタシには搭載されていない機能なのだろう。残滓こそあれ、活用するにはかなりの工夫か、あるいは訓練がいるだろう。
「ま、いいか」
彼がよく口にしていたセリフを真似てみる。
「……ま、いいか…………くぅぅぅ~!」
喋れる! 彼のマネが出来る! ああ、なんて嬉しいの!!
喜びのあまり小躍りしていると、お腹がなった。
新感覚。これは餓えね。
「ふーん。これがお腹がすいた、というヤツなのね。嬉しいわ。彼と一緒にご飯が食べられる」
彼をなでる指がある。彼を抱きしめる腕がある。彼を受け止める胸がある。彼に近づくための足がある。彼を見つめる瞳がある。彼を嗅ぐ鼻がある。彼にキスするための口がある。ああ、ああ、ああ!
早く成長しなければ。
こんな小さな身体では、彼をちゃんと殺せない。
ぶわりと、何かが広がったような感覚を覚えた。
知っている。これは、魔王の誘い。
そしてすぐにご飯が飛びかかってきた。
(うわぁ、結構強そう)
そもそも肉体を得てまだ数分と経ってないのだ。野良犬と殺し合っても勝てるかどうか。しかしこちらに飛びかかってきたモンスターは上位種のように思えた。
(おかしいな。魔王が誘うのは同レベルの敵のはず……ああ、そっか)
さっと初撃をかわしたワタシはすぐに思い至った。
(ワタシ、既にこのレベルの強さなのか)
肉体的には雑魚だが、自分は普通に発生した魔王ではない。この身になくとも、この思考は神に届いた演算経験がある。
ならば自分には勝機があるはず。
さぁ思い描け。
敵はどうやって殺すものだ?
「ガアアアアアアア!!」
「 【哀殺】 】
その魔法は、たやすくモンスターを屠った。
血臭。肉塊。とんでもないごちそうに見える。
グゥゥ、とお腹が空腹を訴える。
でもダメ。
これは食べない。
「初めて食べる物は、ワタシの今後の方向性を左右しかねない……だったわよね?」
一瞬触れた領域。まずあの次元の闇から脱出することを最優先にして、その次に彼と出会うための最速の方法を求めた。結果、ワタシは魔王になった。その際に得た魔王に関する基礎的なデータを思い出す。それによると初めて食べたものは、絶対的というわけではないがそれなりに重要なものらしい。
ならばこんなパワータイプのモンスターを食べるのはちょっと違う。
失ったとはいえ、ワタシは速度を司っていた。
ならば何を食べるべきだ?
そして魂が餓えを訴えた。
「ああ……ロイル……」
本音を言うと、ワタシは貴方を食べてしまいたい。
「まぁでもそんなことしないけどね! だって殺しちゃったら殺せないもん! やだやだ。もうワタシったら!」
そして視界の隅に、ひらりひらりと舞う蝶を見つけた。
辺りを騒がしくしていたせいか、休んでいる所を起こしてしまったらしい。
「まぁ。のろまだけど、綺麗な蝶々」
黄色い蝶。きっと太陽の下で見たら、もっと綺麗なんでしょうね。
ワタシはそれを素早く捕獲し、すぐさま口に放り込んだ。
ゴクリと飲み込む。味もクソもない。ただ綺麗だったから、そして、サナギが蝶に生まれ変わるように発生した自分に相応しいと思えたから、耐えがたい空腹もあったし、迷わず食べた。
選んで、食べた。
言葉に表現出来ない充足感を覚える。――――それと同時に、何かを失ってしまったような。変質しきってしまったような。取り返しの付かない選択をしてしまったような。
「……まぁいいわ」
何はともあれ、だ。
ワタシは先ほど発生し、そして今、誕生した。
「ハッピーバースデー、ワタシ」
そういえば、ワタシの名前は何というのかしら。
以前の名前は忘れてしまった。
というか、所々に記憶の欠落がある。具体的に言うなら、あの永劫で得た着想のほとんど。重大な気付き。閃き。世界の真理。ルール。その辺のが抜け落ちている。
「……削除されてる、っていう言葉がピッタリね」
それはきっと、この星――――セラクタルには持ち込めないものだったのだろう。
そしてその消失は続いていく。私がワタシに書き換えられていく。
でもそんなもの、ワタシにとっては1%の欠落でしかない。ロイルのことを覚えているから、ワタシはバッチリ完璧にワタシだ。
でも自分の名前すら忘れちゃったのは不便ね。
どうしよう。自分で付けようかな?
そう悩んでいると、天からヴァベル語が降りてきた。
「…………ふーん」
そっか。
「我が名は演算の魔王・カウトリア」
よろしくね?
食べたりなかったのだろう。魔王の誘いは止まらない。どんどん敵の気配が増えていく。
大きな足音。
素早い羽根音。
気配を消した音。
「ふふっ……さぁ、いらっしゃい? みんなまとめて、彼に至る道にしてあげる」
いつだろう。いつ彼に会えるんだろう。
一年かな? 十年かな? 百年かけたらきっと彼は死んじゃうから、その前に見つけなきゃ。
百年、か。
たったそれだけでヒトは死んでしまうのね。
なんて哀しいのかしら。
ワタシはそう嘆きながら、やがてはその森に住まう全ての生き物を喰らいつくした。
イリルディッヒはカルンに話しかけた。
《出た》
「何がですか?」
《フェトラスだ。間違いない》
「本当ですか!? 生きて、生きていらしたのですね!」
《……かなり強くなっているな。だが、不思議と危機感を覚えられない》
「と、言いますと?」
《……会ってみぬと分からぬな》
「そうですか……では、早速会いに行きますか?」
《うむ。さっさと始末することにしよう》
《それはフェトラス様を? あるいは?》
《無論、そこにいる魔王だ》
カルンは左腕を掲げた。
いつかロイルに切り落とされたはずのその腕には、水色の籠手が装備されている。
「では、用事が出来ましたのでこれにて失礼」
「貴様……! 貴様ァァァ! 魔族の分際でッ、この魔王リーンガルドを!」
「私は魔族。あなたは魔王。……それと同時に、私はフェトラス様の忠実なしもべ。そしてあなたは、我が主を『人間如きに甘やかされた誇り無きザコ』と侮辱しました」
「事実ではないかッ!」
「全然違います。何もかもが誤りです」
憤怒の表情を浮かべる魔王に対し、カルンは不服そうな表情を浮かべた。
「だいたい何ですか。噂を聞きつけてやって来てみれば、そこにいたのはただの魔王。そこそこ長生きしているようだから情報の一つも持っているかと思って下手に出れば、ただの臆病者。せこせこ経験値を積んでいたようですね。しかし貴方は魔王のようですが、押し寄せる英雄達を恐れ、自らの配下を捨て駒にしてしまうような者は、王の器ではない。ただの殺戮の精霊だ。挙げ句、不遜にもフェトラス様を侮辱する始末。これが一番許せない。もう死んでください」
「舐めるなぁッ! 【爆閃連
「――殺れ、聖遺物ゼスパ」
その日。セラクタルの歴史上初の、魔族による聖遺物行使――――魔王殺しが達成されたのであった。
場所はザファラ。
奇しくも、セストラーデを発ったロイル達が目指していた場所であった。