月酒花
月に騙されて、目を開けてしまったのが運の尽きであった。
夜の空がもう白み始めている、と思ったのだ。
望月の光とはいえ、朝陽ほどは輝かないのが道理である。
されど、夜半の惚けた頭には判じることも叶わず、男はやすく欺かれた。
月に謀られて、ではどうも癪に障る。
月の誘いに乗せられて、ならば、寧ろ風流というものであろう。
男は、眠るのを早々に諦めて、酒盃を抱えて庭に降りた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
庭は、火を焚く必要のないほど、隈なき月に照らされている。
月の光を浴びて、ぼうっと輝いた花の下に――
――思いがけず、先客が居た。
この世のものとも思われぬ童が、散りゆく花弁の中で静かに舞い踊っている。
咄嗟に、胡蝶の舞を舞う童のようだ、と思った。
彼の日、舞人の童子らは、山吹の枝を手にし、萌え出づる若芽を写し取った色を纏っていた。
その目眩く袖は、舟上で幾度も幾度も翻った。
春の陽光を受け、色鮮やかな作り物の羽根が輝いた。
奏された楽の音も、今ならはっきりと思い出せるだろう。
昔仕えたさる宮の、華やかな暮らしぶりを想起させる童に、男は我知らず見入っていた。
その童は、しかし、思うに任せて舞っているようであった。
胡蝶の舞、迦陵頻、と男が思いつく童舞は数あるが、どれにもない動きをしている。
と、横笛の一際高い音が、月夜を震わせた――
気がした。
懐かしい夢は切り裂かれた。
目の前の童が、派手な音を立てて花の枝を手折ったのが、ほぼ同時であった。
「ああっ」
男は思わず声を上げる。
「おや、山里の主に気づかれてしまった」
童の声は、予想以上に高く澄んでいた。
花盗人、か。と、男が呟くと、童は口の端をゆるりと持ち上げた。
どこぞの宮が、花盗人と謗られても良い、名は惜しまぬ、と嘯いて花を手折った。
邸の主は、断りなく手折るのは、名を惜しまぬだけでなく花も惜しんでいない、と返した。
尤も、その宮は色恋話に事欠かぬ御人で、花というのは女人の例えと見る者もいたが。
そんな都の風流人たちの噂話を思い出す。
花盗人。
そう呼ばれた盗賊も居た。
花以外にも手を出す、本当の盗人だが、風雅を愛する貴族からは妙な人気を集めていたものである。
金目当てではないらしく、美しいものなら何でも盗むと評判だった。
あれは、一体いつの頃のことだったか。
夢か、うつつか。
「燭を背けては共に憐れむ深夜の月」
先ほどからの懐かしさに引きずられ、唐の詩が口をついて出た。
対になるのは、花を踏んでは同じく惜しむ少年の春、という一節である。
童は笑みを零した。
一層冴えわたる月を背にして、その微笑みは男を惑わす。
「文行君の如くにして尚憔悴す 知らず、霄漢何人をか待つ」
果たして、童は男の歌いかけを無視し、最後の節を詠じた。
「これは、なんともはや」
「あの詩の主旨は、君のような人が山に籠ってるなんて、都のお偉方は見る目ないね、どんな人材を求めてるんだよ、ってことでしょ。あなたが詠じた一節は、春の景色の話みたいにも聞こえるけどさ……唐人ってなかなか現実主義で面白いよね」
「まあ、身も蓋もないが、そういう詩だな。……君は、学はありそうだが、風流心というものはないのか」
「ないわけじゃないよ。なかったら、花盗人なんて気取らないもん」
童は頬を膨らませる。
そして、手折った花の枝を、子供らしく無邪気そうに振り回して見せた。
「ねえ、あなたは、何でこんなとこにいるのさ」
枝を振り回しながらも、やはり童の動きは舞のようにしなやかだ。
「惜しんでも、留まらないのが春だけど――」
童は、胡蝶の舞のように花を捧げ持った。
両の袖を開いたり閉じたりしながら、花の木のぐるりを巡る。
丁度、男の正面に帰ってきたところで、童はとんと足を踏み出した。
「春は、またやって来るものさ」
童はそう言って、枝を男の手に差し出した。
男がそれを受け取った次の瞬間、風がどうと吹き荒れた。
童は枝の花もろとも吹き飛んだ――ように見えた。
が、消えたのは童だけで、花はひとひらも散っていなかった。
夢か、うつつか。
はたまたそのあわい、か。
春風我が為に来る、と言うのは流石に自惚れが過ぎるだろう、と男は思う。
けれども、盃のうちにそそぐのは――
――春を懐かしむ泪ではなく、心知る花盗人に捧ぐ酒である。
なんのこっちゃ?と思われた方へ、野暮ながら、紐解く手掛かりをば。
活動報告の、
「女がすなるばれんたいんといふものを」
「漢詩編と大いなる蛇足」
をご覧ください。