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第二十章 困惑(3)

 ドメルトとの密会を済ませ、ヴェルナーはシュワルク区の通りを歩いていた。

 相変わらずの寒々しさ、季節はもう春だというのに陽気な風は一向に吹いてこない。寂れた、暗欝な、全てをどんよりと包み込む空気。ヴェルナーにとってはそれは懐かしいものだった。


 幼い頃、ヴェルナーはこのシュワルク区で過ごしていた。ここはヴェルナーにとっての故郷なのだ。だが、この故郷にはいい思い出も沢山あるが、悪い思い出も山の様にある。飢えて死にそうになったり、寒さで凍えそうになったり、暴力を振われて死にかけたり、数えきれないほどあった。

 正直、もうこの場所には戻らないと思っていたが、まさかこの年になってまたもう一度足を踏み入れる事になるとは思いもしなかった。行けばきっと昔の事を思い出す、だが、いざシュワルク区に舞い戻ってみると、案外懐かしさに感動している自分もいたりするのだ。


 ―――これもサイフォスのおかげだろうか?


 シュワルク区はヴェルナーにとって故郷であり、忌み嫌う場所だ。だが、同時にサイフォスと過ごした場所でもある。だからだろうか、こんな風に郷愁に駆られるのは。最近よくサイフォスの事を思い出すから。

 ぼんやり歩いていると、いつの間にか目的のアパートに到着していた。剥げ掛けた煉瓦の外装に錆びた階段。今にも崩れそうなボロアパートは、かつてヴェルナーがサイフォスと共に暮らしていた場所であり、サイフォスがいなくなった後も、軍学校に入寮するまで住んでいた場所だった。昨日、帝都へ戻ってきてから行くあても無かったので、とりあえずここに戻ってきた。

 二階に昇ろうと建物の脇の階段に足を掛けようとした時、二階の端の窓が勢い良く開かれ、恰幅のいい中年女性が顔をのぞかせた。


「ヴェルナー!」


 女性は下から見てもこめかみを引きつらせ、怒りの形相でこちらを見下ろしてきた。

 ヴェルナーは思わずひくっと喉を引きつらせる。


「お、大家さん。どうかしました?」

「どうかしたじゃないよ!あんたの彼女、朝っぱらから部屋でドタバタ煩いんだよ!近所迷惑だからあんたから注意してやってくれ!」


 彼女と言われて、一瞬ぴんとこなかったが、その時ずんと重い地響きがしてアパートが揺れた。壁の漆喰が砂になってパラパラとこぼれおちる。

 ヴェルナーは急いで階段を駆けあがり、自室の扉を開けた。自室に入って真っ先に目に飛び込んできたのは、こちらに高速で飛来してくるガラスのコップ。


「うわっ!!」


 顔面にぶち当たりかけたのを間一髪で避けると、コップは外に飛び出し中庭の方まで放り投げられ、無残にも粉々になった。


「あ、ヴェルナーか。もう用は済んだのか?」


 割れたコップを茫然と眺めていると、部屋の奥から全身真っ白な長身女性が平然とした態度で姿を現した。


「今、博士に教えてもらった記述術の練習してるんだが、なかなかうまくいかなくてな。一番簡単な、「記述」で物を操る術を試してるんだが、思う様に物が動かせない。」


 見ると女の周囲には、砕けた花瓶や食器、本棚から崩れ落ちた本などで、もはや足の踏み場もない。家具は一応壊れていないが、ヴェルナーが最後に部屋を出た時と比べて、配置も大幅にずれている。

 あまりの悲惨な光景に、ヴェルナーは開いた口が塞がらない。自分が出かける前まで、ここは普通の人の暮らせる部屋だったはずなのに。

 そして何が一番おかしいかと言えば、全くもってこの現状に違和感を抱かない、自責の念も抱かないこの女。さすがのヴェルナーも今日という今日は堪忍袋の緒が切れた。


「うーん。どうもうまくいかない。あ、そうだ。お前から何かアドバイスはないか?記述者のお前なら何かコツとかわかるだろ。」

「ソーフィーア―――!!!!」


 様子を見に来た大家がヴェルナーを抑えてくれなければ、多分ヴェルナーは今日、人生で初めて女を殴り飛ばしていたに違いない。




 さすがのソフィアも反省したのか、部屋はちゃんと片付けると頭を下げてきた。片づけが済む間、隣の大家の部屋に避難していたヴェルナーは、すっかり憔悴しきってテーブルに突っ伏していた。


「まったく、いきなり帰ってきたと思ったら、あんなへんてこりんな彼女連れてきちゃって。あんたちゃんと軍の仕事してんのかい?どこで会ったんだい?」

「してますよ。あと、あいつ彼女じゃありません。ただの腐れ縁です。」


 半笑いでヴェルナーの前にマグカップを置いた大家は、ヴェルナーの言葉を聞いてつまらなそうに眉を下げた。顔にはでかでかと『せっかくからかうネタを見つけたと思ったのに』と書かれている。


「まあ、静かにしてくれりゃなんでもいいけどね。しばらくここにいるんだろ?」

「いえ、明日兵舎に顔を出して、そのまま入寮します。あ、あいつは行くとこないので、しばらくこっちに置いてやってください。」

「何だいそりゃ。まぁいいけど。」


 大家は少し苦笑いで「好きにしな。」と言ってくれた。


 彼女は昔から変わっていない。知り合ったのはサイフォスがヴェルナーを拾ってきてからだが、この人にも色々世話になった。サイフォスが行方不明になってから、食事の世話なんかをしてくれたのも大家だ。家賃代わりにと言って、アパートの台帳記入の仕事を任されて、ヴェルナーに家賃以上の給金を支払ってくれた。ヴェルナーはこの大家にもそれなりの恩がある。


「……大家さんはサイフォスの事、覚えてますか?」


 唐突にヴェルナーは大家に問いかける。大家は洗い物の手を止めて、うーんと唸った。


「ライトロウさん?そうだねぇ、もういなくなって随分経つから。まあ、あんだけ豪快な人は忘れたくても忘れられないってのが本音だけどね。」


 大家は懐かしそうに目を細める。彼女の中にも、サイフォスと共に過ごした記憶がある。決して幻ではない、過去が。


「心配しなくても、あの人の事だからそのうちひょっこり現れるさ。」

「……そうですね。」


 でも彼女は知らない。サイフォスがこの世界を創った記述者テクスターだという事、この世界の神にも等しい存在だという事、そして―――


「さて、私は買い出しに行って来るよ。留守番頼むわね。」


 そう言って、大家はエプロンを外しさっさと部屋を出ていく。一人になったヴェルナーはじっと包帯を巻いた手を見つめていた。


 イザイアの襲撃に遭ってから、ソフィアはパヴコヴィックに記述術を教わりたいと申し出た。きっと彼女なりに奴らと敵対する事の意味を理解したのだろう。だから、ああして無謀な練習をひたすら繰り返している。

 だが、それはソフィアに限った事ではない。


『青年、その術はもう使わない方がいい。』


 昨日、パヴコヴィックと別れる時、彼はヴェルナーにそう言った。


『その術は危険だ。未知数で、君自身すら把握できていないのだろう?そんな力をむやみに使ってはいずれ身を滅ぼす。今回の様な火傷だけでは済まなくなる。君だけでなく、周りの人間を巻き込む事になりかねない。』


 パヴコヴィックの言う事は正しい。船の上で怒りのままにこの力を暴走させた。あの時、まるで自分が自分でなくなったような気がした。何かもっと別の、大きな深い胎動に飲まれるように、あの力を行使した。記述者の力はヴェルナーには相当荷が重い。

 怖い。自分だってそう思う。こんな力もう使いたくない。


 でもその一方でこの力に心酔している自分もいる。

 記述者の力、それはサイフォスが持っていたものと同じ力だ。もしかしたらこれは、サイフォスがヴェルナーに託した力なのかもしれないのだ。彼は言っていた。ヴェルナーがこの力を使って何を成すのか、期待していると。

 手放したい、手放したくない。相反する気持ちがヴェルナーの中で揺り動く。迷っている、だからかもしれない。パヴコヴィックはヴェルナーにこう告げた。


『もし、青年がそれでもその力に向き合いたいと思うなら、私の所に来い。時間がある時でいい。君に記述術の使い方について……その力との向き合い方について教えてやる。』


 ヴェルナーがサイフォスと同じ力を得た事、それに向き合える日が来るのか、ヴェルナー自身にも未だわからない。

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