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第二十章 困惑(1)

 唸り声が聴こえる。それは地響きの如く鳴り響き空気を震わせる。

 怒りが、悲しみが、あらゆる感情がない交ぜになって、うねりを作る。

 人が大勢死ぬ。血を流す。泣きじゃくる子供の声が、怒りに満ちた者の声にかき消されていく。


 町が燃えていく、荘厳な宮殿に火が放たれ、絶えない煙は空を覆う。

 町が飲まれる。この激流はもう誰にも止められない。

 それは古き時代の終焉であり、新たな時代の幕開けとなる。



 同じ国の者同士が、同じ願いを掲げて争う。それはなんて悲しい響きだろう。




 目を覚ますと、アイリは泣いていた。頭を揺り動かすと、頬から落ちた涙が枕を濡らす。

 また何かの夢を見ていた。部屋はカーテンから差し込む光で明るい。天蓋付きのベッドにも温かな陽光が届いていた。もう起きなければ、と、身体を起こすと、途端に全身に激痛が走る。


「……っ、う……。」


 心臓を押さえ、アイリは痛みの発作が引くのをじっと待った。心臓の音が煩い。

 ドクン ドクン

 その心拍に呼応するように、アイリの身体はずきずきと脈打った。身体を収縮してシーツをギュッと握りしめながら激痛が過ぎ去るのを待つ。じっと、息をひそめて―――


「アイリ様!大丈夫ですか!?」


 しばらくそうしていると、聞きなれた女性の慌てた声が耳に入って、顔を上げた。ベッドの傍から使用人の衣服に身を包んだ女性が青い顔でこちらを覗き込んでいる。


「またいつもの発作ですか!?お薬を……!」

「大丈夫、もう治まったから。」


 アイリは無理やり笑顔を作るが、使用人の女性はなおも心配そうにアイリの背を優しくさする。


「今、紅茶をお入れします。アイリ様はもう少し横になっていて下さいまし。御朝食は召し上がられますか?」

「ええ、お願いね、クラーラ。」

「かしこまりました。」


 母と同じ位の年代の女性、クラーラは、そう言って、持ってきたカートの上で朝食の準備を始めた。彼女はアイリがこのライム邸に越して来た時からお世話をしてくれる専属侍従だった。正式な結婚を間近に控え、一足早くライム家で過ごしているアイリにとって、唯一心を許せる女性だ。


「さあ、御朝食の準備が出来ましたよ。」

「ありがとう。」


 アイリはベッドから降りると、猫足の白いテーブルに用意されたパンケーキとオムレツ、そして紅茶というシンプルな朝食を食べ始める。きっと気分がすぐれないのはお腹がすいていたせいだ、と自分に言い聞かせ、温かい料理を口に運んだ。


「ですが、アイリ様。あまり体調がよろしくないようでしたら、軍の記述兵にも診て頂いた方がよろしいのではありませんか?」

「そこまで大事にしたらビルにまた何か言われるわ。それに体調がすぐれない理由はわかってるもの、きっと私が未だに自分の事を受け入れようとしていないからよ。」

「アイリ様……。」


 アイリはメテルリオンから帰還してから、今朝の様な発作を何度か起こしていた。今まで元気だけが取り柄だった様な女なのに、あの日を境にアイリは時折動けなくなるほどの発作を起こすのだ。アイリが軍を退役したのは、何も罪に駆られての事だけじゃない。そんな身体に問題のある人間を軍役に付しておく必要などなく、アイリ自身も身体の変調に違和感を覚え、それで軍を退役したのだ。


 メテルリオンでのあの日、ヴェルナーが刺され消えていなくなった日。あの時見た光景は、それまでアイリが何度も見た悪夢の光景と全く同じだった。予知夢、何故だかわからないが、アイリにはそれが見える。

 メテルリオンの事だけじゃない。あれから、色んな夢を見た。時には誰かが屋敷を訪れる夢、その次の日、その人が偶然近くを通ったから寄ってみたと言ってアポなしで訪問してきた。時には誰かが死ぬ夢、棺桶に入れられるひげを蓄えた老人の夢を見たら、その三日後に有名な劇作家が大往生で亡くなったと報道があった。夢と同じひげを蓄えた老人だったという。

 物事の大小は様々だが、アイリが夢見た出来事は必ずこの世界のどこかで起こる。そしてその夢を見る度に、アイリは発作を起こした。内側から身を引き裂かれるような、熱を押しあてられるような、そんな痛みが身体を襲う。


 それはきっとトラウマなのだと思った。最初に見たヴェルナーの夢が、アイリの中に深く傷を作っているからだと。

 あの時、どうしてヴェルナーが戦場に行く事を止められなかったのだろう、どうしてアイリは怪我なんかしてしまったのだろう、ヴェルナーが死ぬかもしれない事がわかっていたのに、どうしてそれを防げなかったのだろうと、後悔ばかりが溢れていた。だからきっと、同じように夢を見て、その事を思い出して胸が痛くなってしまうのだと思った。


 けれどヴェルナーは戻ってきた。つい先日、インサルーナで思いがけずに再会した。彼の言っている事は半分も理解できなかったけど、彼が消えてから二年間、彼は無事に生活をしていた事を聞いてほっとした。ジュンア家の没落に望まぬ結婚、自分の身の上に降りかかるままならない状況の中で、それはたった一つ、アイリの心に平穏をもたらした出来事であり、たった一つ、アイリの覚悟を揺らがせた出来事だった。

 最後に彼の声を聞いた時、アイリはインサルーナの門前に停まった馬車の中にいた。馬車の外から聴こえた、彼とライムの会話。

 どうしてあの時馬車を飛び出していかなかったのだろう。私なら大丈夫、心配してくれてありがとうと、言えなかったのだろう。せめて大尉昇進の祝辞くらいかけてあげればよかったのに。


 心の底ではわかっている。もしあの時、もう一度彼の姿を見てしまったら、アイリはきっと耐えられなかった。今自分に置かれた立場など何もかも捨てて、逃げ出してしまいそうだった。

 それではだめなのだ。アイリの肩にのしかかっているのは、もう自分の命だけではない。ジュンア家を母を全てを背負っているから、逃げるわけにはいかないのだ。


「―――アイリ様、どうされましたか?」


 クラーラに名を呼ばれ、はっと我に返った。気づくと、考え込んでいたようで、目の前に置かれた朝食はちっとも減っていなかった。


「やはり、お気分がすぐれないのでは?」

「だ、大丈夫!ちょっと寝ぼけてただけよ。―――そうだ、最近帝都で何か変わった事はない?」


 話を反らすように、クラーラに帝都の情勢について尋ねてみた。彼女は顎に手を当て、考えるポーズをとる。


「そうですね、相変わらず、帝都や各地では反政府組織が暗躍していて、軍部は忙しそうにしておりますね。町もなんだかピリピリしていますわ。」

「そっか……、そうだよね。」

「あ、それから、先ほど屋敷の近くの新聞売りに聞いたんですけどね、なんでも昨晩軍港に到着する寸前のヴァイパー号で爆発があったそうですよ。」

「爆発!?」


 アイリは飲んでいた紅茶を思わず噴き出した。クラーラは動じず無駄のない動作でそれを拭く。


「ええ、なんでも蒸気機関の不具合とかで……。乗客の何人かが巻き込まれて亡くなったとか。」


 クラーラは、恐ろしいとばかりに、自分の身体を抱きしめ身を震わせた。アイリもつい先日そのヴァイパー号を利用したものだから、人事とは思えずに身震いする。


「なんにせよ、帝国は不安定な情勢が続きますわ。アイリ様も、あまり出歩かない方がよろしいかもしれません。」

「そうね……。」


 アイリは視線をカップの中の紅茶に落とす。暗い顔をした自分が、不安げな瞳でアイリを見つめ返していた。


 ◆

 部下に少し出てくる、と断りを入れた後、ドメルトは軍の詰所を出て帝都の街へ繰り出した。


 帝都トランベル。北方に位置する山脈を背に幽玄と佇む王城、その麓に広がる城下の街は、古来の貴族や近年幅を利かせてきた豪商たちで賑わっている。昨今の不安定な情勢の中で、ここだけが世の憂いも忘れて華やかな世界を創りだしている。ただし、表面上だ。まるで作られた虚像の様に優美で穏やかな世界の裏には、どす黒い陰謀と犯罪の影が常について回る。

 光と影、その両方の性質を併せ持つ帝都の街。それはいつの時代も変わらぬ情景であったが、ここ最近、どうにもその影の方が活発に躍動を始めている。


 ドメルトは賑やかな大通りを通りぬけ帝都の南部へと足を進めていた。途中、枝分かれした脇道に逸れて回り道をしつつ、通りの果てへと抜ける。

 すると、ある場所を境に通りの情景が一変した。先ほどまでの高級そうな商店やそこに群がる行儀のよさそうな客は姿を消し、寂れた看板に立てつけの悪い扉。はやっているようすの無い商店の奥で、汚らしい麻の服を着た中年の男が、痩せこけた顔で通りを睨みつけている。町の通りの石畳は剥げかけ、通りの隅はごみが堪りすえた臭いが鼻をつく。そんな汚らしい通りにもかかわらず、新聞紙や襤褸布を敷いて寝転がる人々が一瞥しただけでも八人。ドメルトが前を通っても、彼らは微動だにせずただじっと身体を縮ませていた。

 ドメルトは彼らを視界に入れぬようにして、ずんずんと歩を進めていく。だが、奥に入れば入るほど、その現状を目の当たりにし、知らずに舌打ちをした。


 貧民街、シュワルク区。華やかそうに見える帝都の末端は、貧困に飢える市民で溢れかえっている。ドメルトも視察で一度このような地区を訪れたが、シュワルク区はそれより酷い、最下層の貧民街だ。

 何故ドメルトがこのような場所を訪れているかというと、つい先ほどドメルト宛に匿名の通信が入ったからだ。


『シュワルク区 ダイナー通り 酒場にて待つ』


 名前は無かったが、その送り主はすぐに分かった。なぜなら、非常時にはそう送れと指示をしたのは他でもない自分だからだ。

 シュワルク区ダイナー通りの酒場は一つだけ。赤茶けた扉から、昼間だというのにもう酒に溺れる客のだみ声が聴こえてくる。ドメルトはその扉を開けた。

 薄暗い照明に安酒の臭い、店主の厳めしい顔を飛び越えて、ドメルトは店の奥に座る男の元へと向かった。


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