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第十九章 ヴァイパー号の惨劇(1)

 最近娘の事を思い出す。もう何年、あの子の顔を見ていないだろうか。


「では、私はこれで。御出立の準備、よろしくお願いします。」


 目の前に座っていた、シュトラウツァの駐屯兵団長が席をはずし一人になると、パヴコヴィックは盛大にため息をついた。

 まさかこの年になって軍の施設に足を運ぶとは思いもしなかった。それは時勢の上で致し方ない事だと諦観すると同時に、今までの自分の選択は何だったのかとやり切れない気持ちにもなる。本当に自分の判断は間違っていなかったのだろうか、最近よく考えるようになった。そしてその問答を熟考しているうちに、また娘の事に意識が戻る。


 パヴコヴィックの記憶の中の彼女は、母に拵えてもらった真っ赤なドレスを着て、泣くのを必死に我慢している幼い少女だった。また春に戻るよ、と優しく頭を撫でると、「いやだ、いやだ。」とその大きな瞳に涙をいっぱいためてぐずった。


 パパも、ニーナと離れるの辛いよ。でも、お仕事終わったらすぐ帰ってくるからね。


 そう言って、ニーナを抱きしめた。あの頃はまだ、ニーナの小さな身体を抱きしめられるくらい大きな腕があった。ニーナの頭を撫でてやれる大きな掌があった。

 パヴコヴィックは今の自分の掌を見つめる。華奢で小さな子供の手だった。今の自分では、きっともうあの子を抱きしめる事が出来ない。彼女は年齢でいえば、もうとっくに成人を迎えている頃だ。子供もいるかもしれない。大人になって子供もできた彼女を子供の自分が抱きしめる様は何と滑稽なのだろうか。少しずつ肌に張りと潤いが戻っていった時、自分はもう彼女の父ではいられないのだと瞬時に悟った。

 だから身体の異変に気付いてすぐ、パヴコヴィックは妻に連絡して家族との縁を絶った。


 私の事は忘れてくれ。君たちは君たちの人生を歩んでくれ。


 そんな手紙を一方的に送りつけて、パヴコヴィックはそれ以降二度と妻と娘に会う事は無かった。

 辛い別れは早いうちに済ませた方がいい。特に娘はこの事を知らなくていいと思った。仕事で碌に家に帰らない父親は、遠い地で死んでしまったと思ってくれればいい。

 徐々に若返っていく人間が父親など、きっと周りから気味悪がられるに違いない。この先ニーナは結婚して家庭を持つだろう。そんな時、パヴコヴィックの存在が彼女の幸せを邪魔してはいけない。

 そうして二十年間、ずっと一人で生きてきた。家族の事を忘れ、ひたすら研究に没頭する日々。そんな日々を過ごしている間に、誰も気づかぬうちに息絶えていればいい。そう思っていたのに―――。


 パヴコヴィックは目を閉じてソファに身を預けた。

 目を閉じると思い浮かぶ。自分が切り捨てた家族の姿が、幼い頃の娘の姿が。

 もし、自分が真っ当に年を重ねていれば、彼女の成長した姿をこの目に焼き付ける事が出来ただろうか。

 彼女は今、どんな風に成長しているだろうか。素敵な女性になっているだろうか。たとえば、目の前にいる女性のような―――。

 パヴコヴィックはふと我に返って、目を丸くした。先ほど退席した駐屯兵団長の代わりに真っ白な女性がこちらをじっと見つめていた。


「あなたがパヴコヴィック博士ですか?」


 随分不躾な態度だったが、その声は凛と澄んでいた。


「いかにも、私がマルス=パヴコヴィックだが……?」


 君は何者だと、問う前に女性は答える。


「私は書架(ライブラ)の司書です。あなたが本当に記述世界についての認識があるのか、教えていただきたい。」


 茫然とするパヴコヴィックにその女性は教えを乞うような目を向けてきた。


 ◆

 西の玄関ヨドと、東の玄関キルシュ。東西の大陸を横断する際には必ずこの二つの都市を通る航路を経由する事になる。

 通常帆船で渡れば四日、最新の蒸気機関を備え付けた蒸気船なら三日弱。潮の流れは西から東なので、東から西へ渡るより、西から東に渡る時はさらに縮まる。また天候がさほど崩れやすい海域ではないが、一度荒れると航路中央付近の潮の流れが激しくなり、迂回のために大回りしなければならなくなる。そうすれば、さらに所要日数は伸びてしまう。一般市民が船を使い大陸を渡る、というのは、結構な小旅行なのだ。


 だが、実はもう一つ東西をつなぐ航路が存在する。キルシュから地図上で平行に線を結ぶと帝都の外れの沿岸に到達する。その沿岸部に、軍艦のみが常駐出来る軍港があるのだ。キルシュから軍港までの距離は、ヨド間の三分の一。単純計算で航路日数が三分の一になる。

 この軍港は一般船には開放されないのだが、戦時下には特令が発動し、一般市民でも避難のためこの航路を使用する事が出来る。また、平時でもこの軍港の使用を許可されている船が存在する。一つは武器を取り扱う商船、そしてもう一つが、有数貴族や軍関係者を一定の条件の元選別し乗船させる客船だ。唯一の軍港入港を許された豪華客船、それがヴァイパー号なのである。


 現在、ヴェルナーはそのヴァイパー号の一室にて、窓の外を暗い顔で眺めていた。


 最新の蒸気機関を完備したヴァイパー号の内装は、一言でいえば「貴族の趣味を際限なく詰め合わせたもの」だった。内装はこれでもかとばかりに金をふんだんに使用し、調度品も一流のものばかり。広いデッキでは船上パーティも開かれ、一流の料理人が手をかけた料理を食しながら、船旅を満喫できる。客人一人一人に宛がわれた個室も、帝都にある高級宿とさほど変わらない位の豪華さだった。

 要するにヴェルナーの様な庶民には到底肌に合わないものばかりが揃っていた。ゴテゴテした目に痛い金ぴかの装飾も、すれ違う貴婦人の優雅な会話も、貴族が苦手なヴェルナーにとっては五感に触れる度うんざりする。

 ヴァイパー号に乗船して二日目、その空気感はヴェルナーの心を蝕み、すっかり辟易させていた。目に入るだけならまだいい、要はヴェルナーが見ず聞かずを通せばよいのだから。だが困った事に、この船に乗り込んでからというもの、それらが向こうからヴェルナーに近づいて来る事が何度かあった。


「第一連隊長の補佐官殿か。そりゃあ、随分優秀な御仁なのだろうね。」

「まだお若いのに大尉だなんて。きっと佐官の地位も約束されているのでしょう?」


 そんな上っ面の賛辞をすれ違う上等な身なりの連中から延々と聞かされる。どうやら連隊長補佐官に大抜擢された若い将校は、貴族たちの間でも興味の対象になっているらしい。

 あまり無下にするわけにもいかず、ヴェルナーはその度に愛想笑いで返した。が、昨夜船上で開かれたパーティでとある貴婦人に同じように捕まって、話を合わせているうちに、娘を紹介され、ぜひ縁談をなどと言われた時はさすがに泡を食って自室に逃げ込んだ。成程、出世というのは自分が思っていた以上に厄介だという事を痛感した。


 帝都まではせいぜい二日、今日の夕刻には到着する。無駄に外を歩いても良い事は無いだろうと、ヴェルナーは軍港に到着するまで自室の窓から海を眺める事にしたのだった。

 すると、部屋の扉が遠慮なく開かれ一人の少年が入ってくる。


「若いもんがこんな天気のいい日に部屋に引きこもっているとは嘆かわしいな。せっかくの船旅だ。甲板で潮風でも堪能してきたらどうかね?」

「いえ……、俺はもう結構です。この船で人前に出ると色んな意味で疲れるという事がよくわかりました。博士は相変わらず元気ですね。」


 ヴェルナーがげんなりと答えると、パヴコヴィックはにやりと意地悪そうな笑みを浮かべた。


「船内で随分話題になっていたぞ。巷で噂の第一連隊補佐官が乗り合わせているらしいが、なかなか寡黙な方でお話をしてくれないと―――」

「だー!!やめて下さい!!」


 ヴェルナーは奇声を発しながら耳をふさいで、聴こえない振りをした。パヴコヴィックは愉快そうに笑っている。それは十代前半の外見に似つかわしくない深い唸りのする笑いだった。




 パヴコヴィックとこうして船旅をする事になったのは、シュトラウツァで彼と話をしたことがきっかけだった。あの日、ハルトマンに話を聞いてから、パヴコヴィックがいるという応接室に向かうと、そこには何やら熱心に語り合うソフィアと少年がいた。

 ヴェルナーは最初、この少年がパヴコヴィックであるという事に至らなかった。自分の記憶の中のパヴコヴィックはもう少し年上の十代後半くらいだったはずだ。今目の前にいる少年はそれより若干若い。だが、落ち着いた動作や穏やかな瞳はパヴコヴィック博士そのもので、思考が追いつかずヴェルナーは数秒間停滞したままだった。


「なるほど、この世界は核本コアテキストを軸に再現されていたのか。記述者テクスターの存在といい興味深い。では書架の記述書と核本はここに導線で繋がっているのか?」

「はい、全ての記述書に導線というものが備え付けられてあり、そこから記述の内容を核本に発信しているようです。ただ、それによって具現化した核本の記述は幻影の様なもので、―――」


 何やら小難しい事を熱弁しているソフィアに呆気にとられていると、ふと気付いた様にパヴコヴィックがこちらに視線を寄越してきた。


「やあ、久しぶりだな、青年。今このお嬢さんから『記述世界の具現化』についてご教授頂いていた所だ。」


 水を得た魚の様にキラキラとした目で語るパヴコヴィックにヴェルナーは「はあ……。」と、曖昧に返事した。見た目は少々変わったが、この少年は間違いなくパヴコヴィックその人だ。それからしばらく呆けたまま、二人が熱く語っているのを眺めていたが、ふと我に返って、慌てて話に割って入った。


「い、いや。待って下さい、博士。俺あんたに色々聞きたい事が……!」

「ヴェルナー、今良い所なんだ。茶々を入れるな。」

「茶々を入れるな、じゃないだろ。ソフィア!」

「なんだ二人は知り合いか?なら話は早い。青年、私が君に伝えたかった事はそこのお嬢さんが全部知っているぞ、むしろ私より詳しい。」


 伝えたかった事、というのは、二年前にパヴコヴィックがヴェルナーに話そうとして中断された話。という事は、やはりパヴコヴィックは知っていたのだ、この世界が記述によって書かれた虚構の世界であるという事に。


「あの……、その件でもう少しあなたにお話したい事があるんですが。」

「そうか、……とりあえずここを出ようか。私もお邪魔している身だし。準備もある。」


 準備という意味がわからず、きょとんとしていると、パヴコヴィックは先ほどよりさらにわくわくした様子でヴェルナーに問うてきた。


「青年はこの後帝都の方に戻るのか?」

「ええ……、まあ……。」

「ならば共に行かないか?ちょうどここの団長から豪華客船の手配をしてもらった。軍人の君なら一緒に乗れるだろう?」

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