第十七章 二年後、記述暦一八一〇年(3)
夜が更けてからも、ヴェルナーは寝付く事が出来なかった。薄い掛け布団しかない固いベッドに寝転がっているからというのもあるが、それ以上に先ほど別れたアイリの事が気になっていたからだ。
自分はどうするべきだったのだろうか?あの時ロイ=ガルムとして短い生涯を終えるべきだったのか?サイフォスを追って軍人になろうとしなければよかったのか?メテルリオンに行かなければ?―――一体どこで間違えてしまったのだろう。
考えても答えは出ない。恐怖と後悔と懺悔がない交ぜになり胸を焼く。
「俺は生まれてこなければよかったんじゃないのか?」
このまま、全身を容赦なく焼き尽くしてしまえばいい。そして何もかもなかった事にしてほしい。そんな事さえ思ってしまう。そんな時だった。
「少し目を離した隙に随分ネガティブになったな。」
扉の向こうから声がした。身体を起こして格子を除くと、そこに暗闇に浮かぶ白銀の輝きが見えた。
「ソフィア!」
相変わらずの興味のなさそうな、呆れた様な顔をして、ソフィアは仁王立ちで立っていた。
最後に会ってからそんなに立っていないはずなのに、随分久しぶりの様な気がした。
「お前も無事到着したんだな。」
「当たり前だ。お前がこの建物の通りで倒れていた辺りから、私もすぐ近くにいたんだが。お前が知らん令嬢に押し倒されたかと思ったら、いけすかない男に引き連れられて建物の中に入っていくもんだから、出るに出られんかったのだ。」
どうやら通りでの一悶着の一部始終をソフィアに見られていたらしい。それはそれで気恥ずかしくなって、ヴェルナーは目を反らした。
「で、お前はこんな檻の中で何をしているんだ?」
「何してるって……、見ての通り捕まってんだよ。その、色々あって。」
説明するのも億劫とばかりに顔を歪めると、ソフィアは怪訝そうに目を細めた。何故か苛立ったように身体を揺すり腕を組む。
「何故、お前は律義にこんな所に入ってるんだ?さっさと出ればいいだろう?」
「出ればって……。あのな、ここ牢屋なんだぞ?簡単に出れるわけ―――」
「出れるだろう?お前なら。」
さも当然という様に、ソフィアは言った。その意味がわからず、ヴェルナーは首をかしげる。するとソフィアは呆れたと言わんばかりに肩をすくめた。
「あのな、ここは記述世界で、お前は記述者の力を持ってるんだぞ。檻の鍵ぐらい開けられるにきまってるだろう。」
「―――あ。」
ヴェルナーはその発想に行きつかなかった。ためしに、扉の向こうにある錠に向けて、『開け』と念じる。
すると、ヴェルナーの指から湧き出る金糸が扉の隙間に滑り込み錠にとりつき、頑丈な錠は何の抵抗も無く地面に落ちた。
自分のやった事なのに唖然としているヴェルナーに対し、ソフィアは何のためらいも無く牢の扉を開けて、ずかずかと踏み込んできた。
「ばっ……!お前ばれたらどうすんだよ!」
「看守なら来ないぞ。ちょっと眠ってもらったから。」
ソフィアは我が家の如くベッドに腰を下ろすと、とんでもない事を口走った。ヴェルナーは抗議する気も失せ、天井を仰ぐ。
「……で?お前ここから出んのか?」
「出ない。鍵が開いても俺はここから出るわけにはいかない。」
きっぱりと断言すると、ソフィアはぼそりと「律義な奴め。」と呟いた。ソフィアは一体どんな人生を歩んできたのかよく知らないが、ここでヴェルナーが逃げれば罪状がさらに追加される事などわかりきった事だろうに。
「……となると困ったな。お前がいなければ、この世界を自由に動き回れんではないか。」
早急にサイフォスを探しに行きたいのに、という焦燥がありありと浮かんでいる。ベッドを占領され、行き場を失くしたヴェルナーは、渋々冷たい床の上に座り込んだ。
「俺だって苦労したのに、そんなすぐ見つかるわけないだろ。闇雲に探すんじゃなくて、まず手がかりをだな。」
「ほう。ではお前は手がかりになりそうな当てを知っているのだな?」
苛々が頂点に達しているソフィアは、暗闇でもはっきりとわかるくらいこめかみを引きつらせていた。ヴェルナーは努めて冷静に、その子供の様な態度をするソフィアを窘める。
「なんで、そんなに苛ついてんだよ?」
「別に……ここがどこだかわからず、数時間彷徨っていたとか。唯一の頼りがお前なのに、勝手にどこかへ行ってしまったりとか。そういう事に腹を立てている事が苛ついていると思えるのならそうなんだろうな。」
「……要するに、ほっとかれて拗ねてるんだな。」
じと目でソフィアを睨むと、ソフィアは悪びれもせず同じような表情でヴェルナーを見返してきた。
「それで、手がかりはあるのか?ないのか?」
「……一応ある。この世界に住む、マルス=パヴコヴィックという学者を知っているか?」
「マルス=パヴコヴィック……?ああ、そう言えば専門書のどれかにそんな名前が載っているのを見たな。」
ソフィアは書架で見た記述の書の内容を辿っている様だ。
「博士とは一度面識があるんだが、あの人はおそらくこの世界の真相について気づいているかもしれない。」
以前、シュトラウツァを訪れた時、パヴコヴィックはヴェルナーに何かを語ろうとしていた。
『この国を、この世界の根本を覆す事』
彼は確かにそう言った。もし、パヴコヴィックが明かそうとしていた事が、記述世界に関する事だとしたら、この世界で最も真理に近いのは彼だ。
「博士はシュトラウツァという街にいるはずだ。ここがインサルーナなら、今俺たちがいるのは東の大陸の中央部。シュトラウツァは東の大陸の北部。距離もそれほど離れていない。」
「記述世界の人間でありながらこの世界の構造を悟ったものか……。確かに話を聞く価値はありそうだ。」
ソフィアも納得したように頷く。
「問題はお前だな。いつここを出るんだ?」
「……だから、そんなの俺にもわからねぇって。ここで待つのが嫌なら、お前一人で先に行ってきたらどうだ?」
「私にこの世界の常識がわかるわけないだろう。それに金も無いし、地理にも明るくない。」
それはふんぞり返って自慢げに言う事ではないと思うのだが、あくまでソフィアはヴェルナーと共に行かなければ納得しないらしい。
「待ってる間暇なら隣街のユートレイにでも行ったらどうだ?ここより人も多いし、少しは気も紛れるだろ。」
確かインサルーナから馬車で少し西に向かった所に、貴族の享楽の街ユートレイがある。情報を掴むのにも、ここインサルーナにいるより幾分有意義だろう。
「距離はそれほどでもないと思うけど、行き方はここの駐屯兵にでも訊けよ。俺もよく知らないから。」
「……わかったそうする。出発する気になったら呼べ。」
最後まで傲然たる態度のまま、ソフィアは何事も無かったかのように牢屋を出ていった。ヴェルナーはため息をつきつつ、鍵をもう一度元の状態に戻す。
ソフィアは共にサイフォスを探すという目的を掲げる同士なわけだが、あの不遜な態度はもう少し何とかならないものだろうか。彼女は本当にあのサイフォスの恋人だったのだろうか。記憶の中のサイフォスが、あの女と仲睦まじく語らう姿など想像もつかない。
ヴェルナーの見立てでは、性根が冷酷なわけではなく、単に興味の無い或いは信用の無い人間に対して警戒を取っているだけだと思っていたのだが。ヴェルナーに対して、一体どういう見解を抱いているのか、未だに掴めない。
そんな事を考えながら、鍵の外れた錠が元通りに扉を封じていく様を何とはなしに眺めている。
ソフィアと話して疲れがどっと押し寄せてきたせいか、先ほどとは一変して、ヴェルナーはすっかり深い眠りについてしまった。その一点だけはソフィアに深く感謝した。
◆
牢に入れられてから何の音沙汰も無いまま、二日が過ぎた。さすがのヴェルナーも狭い独房に数日は精神的にも辛く、尋問でも裁判でも刑執行でもなんでもいいから、とにかく進展が欲しいと思っていた矢先に、それはやってきた。
「出ろ。」
看守がヴェルナーの牢を開け、短く告げた。開け放たれた牢獄の扉の向こうで、看守ともう一人、軍服を着た若い兵が待っていた。
ヴェルナーはベッドから降りると命令通りに牢を出る。何故か両腕の拘束も無く、完璧に自由の身だった。
「ヴェルナー=ライトロウ中尉ですね?」
近づいてきた若い兵が、ヴェルナーの顔を一瞥し、名を確認する。ヴェルナーが頷くと、兵は自分の後をついて来るよう促した。
尋問でも行われるのだろうか、不安に苛まれつつも、無言で前を歩く兵士の後をついていく。連れられた先の部屋にいたのは、裁判官でも尋問官でも刑執行者でもなく、それはヴェルナーにとって予想だにしない人物だった。
「ヴェルナー=ライトロウだな?」
ヴェルナーの名を呼んだのは、軍服を着こんだ四十代前半の男だった。整った顔立ちに威厳ある体格、胸元にはいくつもの勲章が光っている。
ヴェルナーとは縁のない初対面の人物であったが、その顔は何度か目にした事がある。ヴェルナーは一瞬、目の前に立つこの男は蜃気楼か何かではないかと疑ってしまった。それほどまでに、遠い存在。
「お前は私の顔を見た事があるだろうが、こうして言葉を交わすのは初めてだな?初めまして、ヴェルナー=ライトロウ。私はオルセン軍本部第一連隊隊長、アーロン=ドメルト少将だ。」
突然の大物の登場に、ヴェルナーは息をする事も出来ず、その場に立ち尽くしてしまった。




