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第十七章 二年後、記述暦一八一〇年(2)

 その後、見張りの兵二人に連れられてある部屋に通された。格子のドアに窓の無い部屋。内部には堅そうなベッドと備え付けのトイレしかない。


 囚人用の独房だった。


「処置は追って連絡する。それまでここにいろ。」


 兵は抑揚のない、機械的な口調で告げると、扉の錠をしっかりと施錠し立ち去った。ヴェルナーはそのまま冷たい部屋に一人取り残される。

 ヴェルナーはのろのろとベッドに座り込んだ。顔の痛みはもう幾分か引いていたが、これは当分腫れるかもしれない。天井を見ながら、ふとソフィアの事を思い出した。そういえば彼女は無事記述世界に入れたのだろうか。ヴェルナーがここにいるという事は、彼女も記述世界に入ってこられたと思うが、ここに来てから姿を見ていない。


(―――そのうち合流できるといいが)


 思うものの、ヴェルナーが投獄された以上それも難しいかもしれない。

 ヴェルナーの脳内に様々な思考が浮かんでは消えていく。だが、今のヴェルナーに出来ることといえば考える事だけなのだ。


 メテルリオンでの事、書架での事、記述術の事、サイフォスの事、自分の事。

 二年間の空白、変化した世界、旅の仲間の事―――。


 その時、扉の向こうから規則的な足音が響いて来た。足音は徐々に近づいてきて、ヴェルナーのいる独房の前で止まった。


「……ヴェルナー?」


 遠慮がちな女の声にヴェルナーは腰を上げる。扉の傍によると、格子窓の隙間から外を除く。そこに暗い顔をしたアイリが立っていた。アイリは顔を上げると、ヴェルナーの顔を見て目を丸くする。


「どうしたの、その顔?」

「ああ、……あいつに蹴られた。」


 頬の青あざを見たアイリは悲しそうに目を伏せて「ごめんなさい。」と呟いた。ヴェルナーには正直、何故アイリが謝らねばならないのか、わからなかった。


「お前、ここにきて大丈夫なのか?」

「大丈夫じゃないけど、平気よ。ビルは今この建物にいないから。」


 それは逆に言えば、ライムがいればアイリは自由に動けないという事でもあった。先ほど通りでアイリと再会した時も、アイリは反抗的な態度であるとはいえ、ライムに従っていた。背中まで伸びた髪、動きにくいドレス、薄く化粧を施した顔。どれも記憶にあるアイリには似つかわしくない。彼女はこんなにも華奢な女だっただろうか。この二年で、彼女に一体何があったのか。


「それより、この二年間あんたどこにいたのよ?」


 誤魔化さずに話しなさい、という剣呑な雰囲気が扉越しから伝わる。ヴェルナーは観念して、メテルリオンでの後の事を包み隠さず話した。この世界が本の記述によって構成されているという事、書架ライブラという所で出会ったソフィア、そしてそれを創ったのがサイフォスであった事、自分に記述者テクスターと同じ力が宿っていた事、それを利用してこの世界に戻ったら二年が経過していた事。全てを話し終えると、アイリは少し戸惑ったように口を開いた。


「なんだか、まるで現実味のない話……。本当にこの世界は本の中の世界なの……?」


 いきなり信じろ、という方が難しい話だ。さすがのアイリもすぐに鵜呑みにする事は出来ないだろう。


「それに記述者テクスターと同じ力って……、何だってまたあんたに?」

「それは俺もわからねぇよ。気づいたら出来るようになってたんだ。」


 だが、その力のおかげでこうして戻ってくる事が出来た。それに関して、ヴェルナーは感謝していた。


「でも、サイフォスの事わかったんだ。よかったわね。」


 まだあまり納得のいっていないアイリだったが、小さくため息をつくとほっとしたような柔らかな声で告げる。その言葉にヴェルナーの胸中がチクリと痛んだ。


 実はアイリにも一つだけ告げていない事がある。それはヴェルナー自身の出自についてだ。自分は本当はロイ=ガルムという名前の孤児で、幼い頃に亡くなっているはずだった。それをサイフォスが助けた事によって、記述の内容に誤差が生じている。

 もし、アイリがヴェルナーは存在するはずの無い幻だと知ったら、どう思うだろうか。投げかけてみたいようで、その実どこか恐ろしかった。

 そんな畏怖の感情を打ち消すように、今度はヴェルナーがアイリに問う。


「アイリ、あの後の事教えてくれないか?」


 あの後、つまりヴェルナーが死んだと思われたメテルリオンでの一件の後、世界で何が起こったのか、そしてアイリたちに一体何が起こったのか。

 するとアイリは扉に背を預けて、薄汚い廊下でドレスが汚れるのも構わず座り込む。ヴェルナーも彼女に倣って扉の傍に腰を下ろした。顔は見えないが、扉の下の食事挿入口の格子窓からアイリの手の甲が見える。


「あの後、あんたがいなくなった後、レインもいなくなってあの嵐が消えた。私は命からがら戦場を抜け出した。母さんとバズは他の兵站部隊の人たちと共に、後続部隊に保護されていた。でも、私はすぐに身元がばれて、彼らに連行された。私と母さんはそのまま帝都へ、バズはもう少し療養が必要だったから、メリノのイアーナの屋敷へ運ばれた。」

「バズの怪我は良くなったのか?」

「私が最後に見たのはメリノでの事だったけど、もう大丈夫そうだったわ。動けるようになって、故郷に帰ったんじゃないかしら?」

「そうか……。」


 ヴェルナーはバズが一命を取り留めた事に安堵する。おそらくグリアモに帰っている事だろう。


「その間に戦争も一時停戦が決定し、一応の収拾がついた。帝都に戻った私は、数カ月の間拘留されて審問に掛けられた。職務放棄と帰還命令無視、それから軍の機密事項を独断で公開した事に対しての違反と上官の命を受けずに無断でオルセン軍に追従した事に対しての違反。これらの罪で私は裁かれるはずだったわ。」

「……はずだった?」

「ええ。しばらくたってから、ビルがライム家の名と自身のトランベル本部特務指令執行部兵という肩書を持って私の全ての罪状を帳消しにした。そのまま私は釈放され刑を受けることは無かったわ。ここ、インサルーナを訪れていたのは、それらの細かい事務手続きを済ませるため。」

「どうしてビルはお前を庇うような真似を?」

「さあ、知らないわ。でもビルはその後私を軍から退役させ、正式な婚姻を交わすよう持ちかけてきた。その時点でジュンア家の名声は地に落ちてしまったし、私はそれに従った。」

「退役って……!それに、お前結婚したのか?」


 ヴェルナーは思わず後ろを振り返った。アイリの姿は見えなかったが、下から覗く手は細かく震えていた。


「まだ籍は入れてない。でもあと二月もすれば私は正式にライム家の人間になる。」

「お前あいつの事嫌ってたんじゃないのか?ジュンア家のために結婚するのか?」


 ヴェルナーが問いただすと、アイリは悲痛な声で叫んだ。


「仕様がないじゃない……!ジュンア家の名誉を取り戻すためにはそうするしかない!私がビルと結婚して、ライム家の庇護に入れば、母さんも使用人も皆路頭に迷わなくて済む。これは私がまいた種だから、私が責任取るしかない。」


 アイリの言葉尻が潤む。今どんな顔をしているのか見なくてもわかった。


「元々私、先方から学校を卒業したらすぐ嫁ぎなさいって言われてたの。それを私は無理やり押し切って軍役に付した。母さんは何も言わなかったけど、それからの間もずっと嫌味を言われてきた事も知ってた。それでも、近衛兵団に入って功績を上げて、私も軍の中枢を担える人間だと証明できれば、きっと説得できるって思ってた。……でも、その顛末がこれじゃ、もう何も言い返せなかったわ。」


 その話にヴェルナーは絶句した。ヴェルナーは知っている、彼女が本来軍人としてどんな道を歩むべき人間だったか。名誉首席に選ばれ、近衛兵団にて数々の輝かしい業績を残し、オルセン軍を率いる偉大な将校となる。ヴェルナーが読んだアイリの記述には確かにそう書かれていた。

 それが狂ってしまった故に、彼女は望まぬ結婚を強いられているのだとしたら。それを狂わせた原因がヴェルナーにあったとしたら―――。


「……ごめん。」

「どうしてあんたが謝るの?」


 答える代わりに、ヴェルナーは格子の向こうの細い手を握る。退役して剣を振う事も馬にまたがる事も無くなった彼女の手は細く華奢で、それでも未だに消えないマメや切り傷があった。それは間違いなくヴェルナーがずっと共に旅を続けてきた騎兵アイリ=ジュンアの手だ。

 ヴェルナーはもう一度「ごめん。」と呟いた。アイリの手はびくりと震えたが、やがて優しく手を握り返してきた。同時にパタパタと涙がドレスに落ちる微かな音が聴こえて来た。




「私もう行かなくちゃ。」


 しばらくしてアイリが手を離し立ち上がる。再び扉上部の格子から見えたアイリの顔は目が赤らんでいたが、笑顔だった。


「ね、もし落ち着いたら帝都のジュンア家の屋敷を尋ねて。あれから母さんすっかり気を落としてしまって。あなたが生きてたって事伝えておくけど、やっぱり直接顔見た方が安心するだろうし。」

「ああ、わかった。」


 軽く返事をしたものの、ヴェルナーはその言葉の裏に含まれる事実に気を重くした。

 ヴェルナーがジュンアの屋敷を訪れるようになった頃、おそらくアイリは、もうそこにはいない。

 アイリと面と向かって話す事は、これが最後になるかもしれない。


「じゃあね、ヴェルナー。」


 アイリはそのまま、独房を離れていく。その後ろ姿が悲しげに見えて、思わずアイリを呼びとめた。


「―――アイリ!」

「……なに?」

「……元気でな。」


 この期に及んで、そんな言葉しか出てこなかった。アイリはもう一度悲しそうに微笑むと、今度こそ廊下の向こうの闇に消え、見えなくなった。

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