第十七章 二年後、記述暦一八一〇年(1)
突然、視界が開けた。身体が宙に放り出される感覚。ぶつかる、と思った時には、目の前の視界は地面で埋め尽くされていた。
派手な音と共に、地面に勢いよく突っ込んだ。受け身を取る間も無かった。
「痛ってぇ……。」
全身を強打し、痛みに呻く。ついこの間背中の傷が治ったばかりだというのに。ついていない、とヴェルナーは悪態をつきつつ身体を起こした。
辺りを見回すと、ここはどうやら歩道の一角の様だった。暗い色の煉瓦が規則的に敷き詰められており、その精密さに何故か異様さを感じる。比較的大きな通りであるはずなのに見渡す景色に人の姿は無かった。立ち並ぶ建物からも生気を感じられない。ただ模型の様に佇む建物の間にヴェルナーはぽつんと座りこんでいる。
ここは一体どこだ?寂寞とした街並みは、これまで自分が訪れたどの街にも該当しなかった。軋む身体をゆっくりと起こし、もう一度辺りを見回そうとすると、
「―――ヴェルナー?」
背後から自分を呼ぶ声がした。振り返ると、そこに一人の女が立っていた。
淡い水色のシルクのドレスに裾の広がったペチコートと上等な厚手のショール。肩まで伸ばした髪を丁寧に巻き上げ、同じく淡い色のつばの広い帽子を被っている。上から下まで、見るからに貴族の令嬢然とした風貌の女性。しかし、その表情は真っ青で、まるで幽霊でも見たかのように怯えていた。
帽子に隠れたその顔に何故か見覚えがある。ヴェルナーはもう少し顔をよく見ようと、女に一歩近づいた。ヴェルナーの予想としては、彼女も一歩下がるか、怯えて動けないでいるかのどちらかだったが、驚いた事に近づいて来たヴェルナーに対して、女はさらにつかつかと歩み寄ってきた。
思わずヴェルナーの方が立ち止まった。それでもなお女は歩みを止めず、身体が触れるぐらいの距離まで接近して、ヴェルナーの顔を覗き込んだ。
「……やっぱりヴェルナーだ。……あの時と同じ……!」
「同じって……、お前誰―――」
言い終わる前に、女が思い切り抱きついて来た。ヴェルナーはバランスを崩して、地面に尻もちをつく。女も一緒に倒れ込む形になったが、それでも離れる気配がない。すると、胸の辺りで湿っぽい泣き声が聞こえてきた。
「どこ行ってたのよ……!この二年姿も見せないで!私がどれだけ心配したと思って―――。」
その先の言葉は涙に飲み込まれて続かなかった。取り乱す女を茫然と見つめながら、ヴェルナーはその姿、声、纏う空気にようやくその名が思い浮かぶ。
「―――アイリか?」
名前を呼ぶとアイリは、およそ着飾った令嬢とは思えない慟哭の眼でヴェルナーを睨みつけた。その瞳は涙で潤んではいたが、確かに見覚えのあるまっすぐで純真なあの瞳だった。最後に彼女を見たのはメテルリオンの戦場で気を失った姿。今のアイリは、すっかり元気になった様で、相変わらずの騒がしさでヴェルナーの身体を揺すった。
「どこ行ってたのよ!」
アイリはもう一度叫ぶ。その尋常じゃない気迫にヴェルナーもたじろいだ。
「どこ行ってたって……、いや、まあ、ちょっと……。」
「ちょっと!?ちょっとって何!」
「だからどう説明していいかわかんなくて。……って、お前だってどうしたんだよ、その格好は。」
改めて、ヴェルナーはアイリの姿をまじまじと観察し、うろたえた。ヴェルナーの記憶の中にあるアイリは、髪も肩口までしか無く、何より騎兵らしい細身のシルエットを描く軍服を着用していたはずだ。このような機動性の悪いドレスを着た姿など、見た事も無ければ想像した事も無い。だからこそ、すぐにアイリであるという事に気付けなかったのだ。
「休暇中なのか?近衛兵の制服は?」
「……。」
その問いにアイリは黙りこくったまま動かない。アイリは先ほどとは違った意味で顔を青くし渋面を浮かべている。すると、アイリの後方からまた別の声がした。
「アイリ、何をしている。さっさと中に入れ。」
それは威圧的で棘のある声だった。重圧を含む不快な声、そう、不快だ。ヴェルナーは無意識にそう思った。
その理由はすぐに分かった。近くの建物から顔を出した、気位の高そうな男。軍服を身にまとい、見るもの全てを蔑むような視線でこちらを睨むのは、
「ビルト=ライム……。」
名を口にした瞬間、ライムもヴェルナーの存在に気づいた。ライムはこれ以上ないほど目を見開き、ヴェルナーを凝視したかと思えば、すぐさま怒りと憎悪がない交ぜになった様な、鋭い形相でこちらに近づいて来た。
ライムは無言でヴェルナーと共に倒れ込んでいたアイリの腕を乱暴に掴み立ち上がらせた。アイリは小さく悲鳴を上げ、ライムを睨みつける。だが、ライムはそんなアイリの事など構うことなく肩を引き寄せた。その動作の一つ一つが乱暴な事この上なく、ヴェルナーは思わずライムを睨みつけた。
「幽霊……というわけではなさそうだな。まさか生きていたとは。」
ライムは皮肉たっぷりに鼻で笑った。その言動がかつてヨドで出会った時の事を思い出し、癇に障る。
「わざわざインサルーナに来て刑罰でも受けに来たか?それとも、あの戦いでそんな事もわからない程頭がいかれたか?」
「……よくわかんねぇけど、どっちでもねぇよ。」
立ち上がったヴェルナーとライムはお互いに火花を散らす。一方ライムに拘束されていたアイリは、ライムの腕の中で必死にもがきながら抗議した。
「ビル、待って。彼にも事情があるはずよ。話をさせて。」
「何故だ?お前はもうこの男とは何の関係も無いはずだ。死んだとされた男が帰ってきたところでどうだと言うんだ?」
アイリの懇願をライムは一蹴する。それでも、アイリは強気の姿勢を崩さない。
「そんな事は無いわ。本部はこの人を探す理由があったはず。そして、彼は戻ってきた。事情を聴くのなら、最後にこの人にあった私にもその権利があると思うけど。」
「……屁理屈を。」
「どうとでも言ってくれて構わないわ。私の件の手続きは終わったんでしょう?出発まで日もある。それに、あなたはこの事を本部に伝える義務があるはずよ。」
肝心のヴェルナーは蚊帳の外のまま、二人は睨みあった。
折れたのはライムだった。アイリを解放すると、ヴェルナーに視線を寄越す。
「……ついてこい。洗いざらい喋ってもらうぞ。」
そう言って、ライムは建物に向かって歩き出した。訳もわからず茫然としているヴェルナーをアイリの肘がつつく。
「来て。あんたに聞きたい事が沢山ある。……それから、話さないといけない事も。」
「あ、ああ……。」
流れのままに、ヴェルナーはライムの後をついていく。
アイリとライム。早々に見知った顔に出会った事で、ヴェルナーはここが自分の元いた世界であると実感した。
だが同時に、記述世界に戻れたはいいが、戻って早々なにやら厄介な事態に巻き込まれてしまったと悟ったのだった。
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「それで、後ろから誰かに背中を刺されたかと思えば、意識が無くなって、気が付いたらここに倒れていたと?」
馬鹿馬鹿しい、と語尾につきそうな口調だった。眼前に座るライムは、腕を組んでヴェルナーを見下している。
ここは、調書室の様な所で、机と椅子以外何もあらず、一つしかない窓には鉄格子が嵌められている。ヴェルナーはそこに入れられるなり、冷たい簡易椅子に座らされた。後方の入口には軍服を着用した見張りが二人、ヴェルナーを逃がさんと立っている。ヴェルナーはグリアモからメテルリオンまでの旅の経緯を洗いざらい話した。だが、その直後、あの書架へと飛んで、ソフィアという女性に出会い、この世界がサイフォスという記述者によって創られた記述世界であるという事は隠しておいた。
おそらくそんな事をこの男に話しても、頭の湧いた異常者の言う事と一蹴されるに違いない。だがら、メテルリオンで刺された以降の記憶は無く気づいたらここにいた、という事にしておいた。当然、そんな言い分ではライムは納得しないのだが。
「いいわけにしても始末が悪い。ならばお前はこの二年一体どこにいたというのか?」
「俺がいなくなってから二年が経っていたのか?」
先ほどのアイリの様子といい、確かに最後にこの世界にいた時から妙に様変わりしていた。
記述世界に入るために使用した導線が一八〇八年から一〇一〇年の歴史についての記述であったためだろう。
つまり、ヴェルナーはこの世界を離れてから数日しか経過していないのに対し、彼らはその倍以上の時間をあれから過ごしたという事になる。その間、ヴェルナーは行方不明という扱いになり、ヴェルナーにかけられていた罪状も停滞していたそうだ。
「時間の感覚すらあやふやとなると、どうやら本当に頭がおかしくなってしまったようだな。これでは証言に信憑性が無い。」
「二年の空白はともかく、俺は正常だ。」
「精神異常者は皆そう言うんだよ。なあ、ライトロウ元中尉?」
「なんだよ〝元″中尉って。」
「軍部に指名手配されておきながら、独断でオルセン軍に追従し、あまつさえ行方不明となって姿をくらましたんだ。まさかそれだけやっておいて、軍部が二年もの間、お前をそのままの地位に置いておくはずがないだろう?」
ライムの言い草は皮肉もいいところだったが、そればかりは正論だった。ヴェルナーは押し黙ったまま、視線を床に落とす。
ヴェルナーの処分は降格か、あるいは除籍か。いずれにせよ、もう元いた場所には帰れないのだろう。
「もういい。これ以上話を聞くのは無駄なようだ。……だが、戻った以上裁きはきっちり受けてもらうぞ。奇しくもここはインサルーナ、罪人を裁き刑を執行する刑囚都市だ。お前は監獄の中で打ちひしがれて死んでゆけ。」
もう話す事は無いとばかりに、ライムはヴェルナーの脇をすり抜け入口へと向かっていった。慌ててヴェルナーは引き留める。
「待て、一つ聞きたい。アイリは?あいつはどうなったんだ?」
ヴェルナーは先ほど再会したここにはいない彼女の事を尋ねる。記憶が正しければ、アイリも自分と同じく軍に追われていたはずだ。あの後、彼女はどうしたのか。
その瞬間、ライムの顔色が豹変し、禍々しいほどの殺気をみなぎらせた。忌々しいと言わんばかりの顔で振り返ると、ヴェルナーの顔面を容赦なく蹴り飛ばした。
突然の事に反応できなかったヴェルナーは、思い切りふっ飛ばされ椅子から転げ落ちる。ガラン、と椅子が倒れる音が部屋に響いた。口内に鉄の味が広がり、鼻が焼けるように痛んだ。激痛に顔を歪めてライムを仰ぎ見ると、まるで般若の如き形相でヴェルナーを見下ろしていた。
「お前には関係ない!成り上がりの分際で、貴族の些事に口を出すな!」
それはそれまで抑え込んでいた憤怒の全てを放出しつくしたような捨て台詞だった。反論する間も、抗議する間も無くヴェルナーは痛みに呻いてライムが出ていくのを見守っていた。




