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第十六章 その面影(2)

「それ以来、私はずっとこの書架ライブラで一人で過ごしてきた。外の世界の事はわからず、サイフォスがどうなったのかもわからない。ただ、迎えに来ると言ったサイフォスの言葉を信じて、ずっとここで本を読み続けているのだ。」


 衝撃的な告白に、ヴェルナーは空いた口が塞がらなかった。おそらくこれが、ヴェルナーが知りたかったサイフォスについての最も核心的な部分だろう。念願のサイフォスの情報、しかし感動よりも先に疑惑が浮かんだ。


「一つ聞いていいかな?あんたの話の中のサイフォスって、繊細で大人しそうな人に思えたんだけど……?」

「そうだな、あの人は繊細だった。物腰も穏やかで優しい人だった。」


 目を細めて懐かしむソフィアの顔に嘘は見られない。だからこそ余計に混乱する。というのも、


「いや……、俺の知ってるサイフォスってもっとこう、豪胆で男らしい感じの人だったんだが……。」


 思えば、訓練の度に怪我を負わされるし、問題で間違えると容赦なくぶたれるし、間違えなくても「暇だ。」の一言でぶたれるし、課外授業だとか言って売春宿に連れてかれたこともあった。要するに、ソフィアの言う「繊細で優しい人」とは全くの正反対の人間だったのだ。


「……それはお前の記憶違いじゃないのか?」

「そんなことねぇよ!お前だって長いこと会ってないから美化されてんじゃないのか?」


 しばしお互い火花を飛ばし合うが、ふいに馬鹿らしくなってお互い同時にため息をついた。


「……とにかく、お前の運命が変わったのは、サイフォスが介入したからだな。記述に書かれていない人間が書かれていない行動を起こしたなら、結果が変わるのは当然だ。」

「それが記述者テクスターであってもか?」


 そうだ、とソフィアは頷く。理屈はわかるものの、ヴェルナーは納得が出来ない。


「自分で書いたものに、どうしてそんな矛盾が起こる事するんだよ?」

「それは本人に聞いてみないとわからん。」


 ソフィアは軽く咳払いをすると、ヴェルナーを睨みつけた。


「そもそも、記述者が自分の書いた記述世界に介入する事なんで別段難しい事じゃないぞ。ただ、お前の場合方法が特殊なだけで。」

「特殊?」

「記述者が記述世界の歴史を変える場合、普通はここにある記述を書きなおすんだ。わざわざ記述世界に潜り込んで直接改変するなんてサイフォスは絶対にしなかった。たとえやむなくその方法を取ったとしても、その後で矛盾が起こらないように記述を書きなおすはずなんだが。」

「という事は、サイフォスはここの記述を変えないまま、記述世界の歴史を変えたってことか……。まてよ、それって何らかの理由でサイフォスがここに来れなくなったともとれないか?」


 その瞬間、ソフィアは顔を青ざめさせた。ヴェルナーはしまった、と自分の失言を呪う。


「……いや、別にサイフォスに何かあったってわけじゃなくて。ほら、忙しくて忘れてたってことも―――」

「つまり、サイフォスが私を迎えに来ないのも忘れているだけだと?」


 墓穴を掘ってしまい、ヴェルナーは冷や汗をかく。ソフィアはヴェルナーを絶対零度の瞳で睨みつけた。


「サイフォスの行方はお前にもわからんのだな?」


 串刺しにされるかと思うくらい棘のある声だった。ヴェルナーは思わずたじろいで首を縦に何度も振る。ソフィアは勢いよく立ちあがると、テーブルを越えて部屋を出ていこうとする。ヴェルナーは慌ててそれを引きとめた。


「待て、まだ話は終わってないだろ。どこ行くんだよ。」

「『オルセン帝国』へ……、記述世界へ入る方法を探す。」

「入る方法を探すって……、どうしてお前がオルセンヘ行くんだ?」


 腕を掴まれたソフィアは、不快を隠しもせずヴェルナーを睨んだ。


「言っただろ、ここは記述を守るために世界から隔離された場所だと。ここに外に出る出口はない。方法があるとしたら、『オルセン帝国』を経由して、サイフォスが使っていた接続書を探す事くらいだ。」

「接続書?」

「記述世界と現実世界を結ぶ唯一のルートだ。記述者自身が保管している物だが、探せば記述世界にもあるかもしれない。」


 その接続書を見つければそこからサイフォスのいる元いた世界に戻れると、ソフィアは言う。焦るソフィアの腕をさらに強く引っ張って、ヴェルナーは腑に落ちないとばかりに反論した。


「たとえそれで、元の世界に戻れたとしても、肝心のここから記述世界に入る方法がわからないんだろ?そんな簡単に見つかるのかよ。」


 ヴェルナーだって方法があるなら知りたい。元の世界に帰りたい。それを今、必死に調べているというのに、ソフィアはひどく情緒不安定だった。


「ここにある本のどこかに入口があるかも知れない。接続書が無くても、入れる道がきっとどこかに―――」

「だから待てって!あんたここの本ずっと読んでたんだろ?あんたに簡単に見つけられるくらいならサイフォスだってあんたをこんな所に置き去りに―――」


 するわけないじゃないか。と続けようとして、ソフィアに思い切り胸倉を掴まれた。女の力でそれほど苦しくは無かったが、今にも殺しそうなほど殺気を漲らせているソフィアに気圧される。


「お前に何がわかる!私はずっと一人であの人を待ち続けてきたんだ!ただの記述の具現化であるお前に何がわかる!」

「わからねぇよ!でも俺だって人間だ!お前らにとっちゃただの文字の羅列でしか無くても、俺はお前と同じようにあの世界で生きてきたんだよ!」


 怒り狂うソフィアにヴェルナーも憤慨した。たとえヴェルナーのいたオルセン帝国が、サイフォスによって創られた虚栄の世界であったとしても、ヴェルナーにとっては、あの世界が真実なのだ。

 ソフィアは何も言い返さなかった。代わりにヴェルナーを八つ辺りに突き飛ばした。ヴェルナーは思わずバランスを崩し、背後にあったテーブルにぶつかる。その衝撃で、テーブルの上に置かれていたお茶のカップが倒れた。


「―――あっ!」


 ヴェルナーは思わず声を上げ、カップを掴もうとしたが、時すでに遅く、零れたお茶はテーブルの上に広げていたロイ=ガルムの記述にかかった。

 二人分の息をのむ音がする。ソフィアは血相を変えて、本をお茶の海から救い出した。


「本が……!記述が!」


 ソフィアはパニック状態になり、お茶を掌で拭い去ろうとするが無情にも茶色いシミはジワリジワリと本を侵食し、そのインクを溶かしてしまう。


「馬鹿、そんなこすったら破れるって!」

「でも、本が……!私のせいで!」


 もう読めなくなってしまった本を泣きそうに、いや泣きながら見つめている。ヴェルナーは、ソフィアの手から慎重に本を抜き取ると、中身を確認した。

 ソフィアほどではなくともヴェルナーは焦っていた。記述の一つでも失えば、『オルセン帝国』は大なり小なり瓦解する。そうならないためにこの書架が作られたのだ。もし、ここに書かれた記述が完全に失われれば、ここに書かれた人々は消えてなくなってしまうのだろうか、ロイ=ガルムも、自分も含めて。


 だが、ヴェルナーにはどうしていいかわからない。出来る事はそこに書かれていたロイ=ガルムの記述を思い出す事だけだった。もう一度読めるようにするにはどうしたらいい?どうしたら、記述は元に戻る?


―――その時、異変は起こった。


 ヴェルナーの指先が火を灯したように熱くなった。驚いて手を引っこめようとして制止する。ヴェルナーの指先から奇妙な光の糸が垂れてきたのだ。


「!?」


 光の糸はゆっくりと手に持っていた本の表面に滑り降り、そして、それは意識ある生物の様に文字を書き綴り始めた。

 ヴェルナーは言葉も出せぬまま、その光が文章を、いや、記述を書き記すのを見守っていた。一ページ分の記述を書き終わると、光は浮上して霧散した。後に残されたのは、お茶のシミが広がったページ。しかし、そこには消えたはずの記述が確かに戻っていた。


「お前……、今、記述を書いたのか?」


 ヴェルナー以上に驚愕していたのはソフィアだった。ヴェルナーは自分が何をしたのかもわからず、茫然と本を眺める。


「わからない……、俺はただどうすれば元通りになるかって考えてただけで……。」

「だが、今お前は『記述を書いた』。記述が書けるのは記述者だけのはずだ……。」


 ヴェルナーは自分の指先を見つめた。何の変哲もない手だった。だが、今確かにここから光が発せられたのだ。記述を書く力が、記述者の力が―――。


「なあ、何かいらない紙ないか?」

「……ああ、少し待ってくれ。」


 ソフィアは立ち上がると部屋の棚から黄ばんだ紙束を取り出した。ヴェルナーはそれを一枚テーブルに広げると、先ほどと同じように指先を近づける。何かを念じてみる。例えば、


『お茶を戻せ』


 心で念じると、再び光の糸が現れて紙に綴った。そして、今度はその文字が白い帯状になって、紙から湧き出てくる。


「……!」


 白い帯は浮遊してテーブルに広がっていたお茶に吸い込まれた。次の瞬間、その茶色い液体がまるで生き物の様に蠢き、倒れたティーカップの中に戻っていった。カップも自動的に立ち上がり、テーブルの上はすっかり元通りになった。


 ヴェルナーはすぐさま、次の記述を書く。


「ソフィア、あんたの好きな食べ物は?」

「……蜂蜜の飴菓子。」


 随分可愛らしい物を好むんだな、と内心で突っ込み、ヴェルナーは紙の上に『蜂蜜の飴菓子』と書いてみた。すると。先ほどと同じように白い帯状になった記述は、テーブルの上で形を変える。蠢きが止まった時、その記述は蜂蜜色の透明な飴菓子になっていた。


「これが記述の力ってことか……?」

「同じだ……、サイフォスが使っていたのと。規模はまるで違うけど。」


 二人は共に絶句して、片付いたお茶のカップと飴菓子を見つめていた。物を自由に操ったり、何もないところから物を生み出す力。もし、これで書架にあるだけの書物を書き綴ったら、膨大な世界を創造したら。

 自分自身にそんな力が宿っているなど、想像するだけでも寒気がする。だが、何より不可解なのは、それまで記述を見る事も触れる事も出来なかったヴェルナーが、何故こんな力を手にしているのかだ。思い当たる節が無い。サイフォスが記述者だと言うなら、彼と共に過ごしていた時に、何かを託されたのか。いや、それならもっと早くにこの能力に気づいているはずだ。一体いつ、何から、こんな力を手にしてしまったのか。

 ソフィアはただ黙っていた。いつの間にか先ほどの動揺は消え、冷静になって考え込む。そして、


「……!そうか、導線。」

「導線?」


 またしても謎の単語を発したソフィアは、瞬きもせずにブツブツと呟き始めた。ヴェルナーはそれを黙って見守る。すると、ソフィアは目を輝かせこちらを向いた。


「……出来るかもしれない。」

「何が?」

「お前のその力なら、記述世界に入る事が出来るかもしれない。」


 その瞳は冗談を語っている様には見えなかった。ヴェルナーの中にも希望が生まれる。

 帰れるかもしれない、故郷に―――。

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