第一章 旅の始まり(1)
記述暦一八〇八年 オルセン帝国内 炭鉱の町グリアモ
帝都トランベルと港町ヨドをつなぐ街道の中間に位置するこの町は、古くから鉄鋼採掘と鋳造業で発達した炭鉱の町である。西部の山には脈々と受け継がれてきた鉱脈路が存在し、その麓では鉱石を加工する鍛冶場や、炭鉱夫が副業で営む古い酒場などが軒を連ねる旧市街地が広がっている。
また、帝都と港町の中間に位置するこの町は、帝都へ向かう商人や旅人たちの宿場町となり、東部の街道側の新市街地には宿や旅行者向けの酒場、雑多な市場などが軒を連ねている。大通りから外れやや狭い裏路地へと足を踏み入れると、その軽快な空気が一変し、大通りでは決して販売できないような危険な商品を扱う闇商人、怪しい色香で男を誘う娼婦、目をぎらつかせ横行くものを嬲るように品定めする占い師などが、飢えた獣のようにやってくる客を今か今かと待ちわびている。
余所者が多く集まる町では、その分諍いも絶えない。その上、ここに土着している地元民たちは、力仕事に明け暮れる鉱夫が大半で、血の気が多く気性も荒い連中が多い。喧嘩の仲裁などもってのほかで、むしろ争いに加わっては煽ることがしょっちゅうだ。その町柄も相まって、この町は喧騒の絶えない荒くれ者の町とも称される。
そんな賑やかな町の中心地を、一人の男が歩いていた。
彼の名はヴェルナー=ライトロウ。銀色の髪を持つまだ若い青年で、オルセン軍支給の黒いジャケットを羽織っていた。市場の雑踏から頭一つ飛び出るほど身長の男に、すれ違う人々は彼を見るや慌てて眼をそらし、怯えたように距離をとる。その原因となっているのは、見るものに威圧感を与える、その鋭い眼光だろう。だが、当の本人は気にした風もなく、悠然と町を歩いていく。すると、その背中に、甲高い声が掛けられた。
「あっ!ヴェルナー兄ちゃん!」
慌てたように飛びついてきたのは、この近くの酒場の店主の息子、ジルドだった。
「ジルド、どうしたんだ?」
怯えるようにヴェルナーにしがみつくジルドに、わけを聞いてみる。
「大変なんだよ!父ちゃん、柄の悪い連中に店の中荒らされて…」
すると、ジルドの店の中から、ガラスの割れる音や怒号が断続的に響いてきた。どうやら、酒場で酔っ払いが暴れているらしい。ジルドは父の身を案じて助けを呼ぶために店から飛び出してきたのだろう。ヴェルナーは今にも泣き出しそうな少年の頭をなでてやった。
「大丈夫。今から父ちゃん助けてくるから。酔っ払いなんかに負けたりしないだろ?お前の父ちゃんは」
「……うん」
少し落ち着いたのを確認すると、ヴェルナーは躊躇なく店の中へと入っていった。
「だからよ、酒の料金を決めるのは俺じゃねぇんだ。文句があるなら、グロックさんとこ行きな」
「さぁっきから、何なんだよ、そのグロックって奴ぁ」
客側の男は、日の高いうちからずいぶんと酒を煽ったようで、すでに呂律が回っていない。
一方店主の方も、多勢に無勢に全く怖気づいていないようで、鋭い眼光で酔っ払い共をにらみつけていた。炭鉱夫として働く傍ら、この旧市街地で客商売を始めてから早十年、こういった面倒な「お客様」にもすっかり慣れた店主はこの程度の口論では折れたりなどしない。
しかし、店の外に逃げた息子や奥で隠れている妻のことを考えると、さっさと事態を丸く収めてしまいたいと焦っていた。そんな店主の内心とは裏腹に、今日の奴らはずいぶんと厄介だった。酔っ払い集団のリーダー格、先ほどから酒を煽り続け、部下たちを焚きつけている男は、いかにも成り金が好きそうな光沢を放つ藍のスーツを纏い、この店で一番高い醸造酒を飲んでいた。身なりは上等なのに、その振る舞いは下劣で醜悪。
オルド海港商の社長子息、ジャスティン=オルド。オルド海港商と言えば、巷で手広く武器売買を行う武器商社だ。本来堅実な企業で、武器商社という立場から社長のマーク=オルドは軍からの信頼も厚い男だが、その後継者は随分なドラ息子であるという噂は聞いていた。最近では、金にものを言わせて物騒な連中を従えているという話もあったが、まさかここまでとは。しかも、こんな小汚い酒場に来なくともいいものを。
「とにかく、これ以上店のもんぶっ壊すようなら、自警団呼ぶしかねぇんだがな」
「自警団?駐屯兵じゃなくてか?そんなんで捕まえられるもんなら捕まえて―――」
酔っ払いの一人が再び店主に掴みかかろうとした時、店内に轟音が響き渡った。
「…わりぃ、おやっさん。もう来ちまった」
「ヴェルナー!お前さんが来たのか!?…ええい、もう誰でもいいか、こいつらなんとかしてくれ」
店主は突然割って入った青年を見てにやりと笑った。
酔っ払いたちは、突如現れた空砲を撃った青年を各々訝しげに見つめた。席で高みの見物を決め込んでいたオルドは突然の珍客に顔をしかめる。
「なんだぁ、てめえは?」
「この町の駐屯兵様だよ。とりあえず言い訳聞いてやるから表出ろ」
ヴェルナーと呼ばれた青年は、オルドをはじめ店で暴れていた連中を一瞥するとドアを指さした。
駐屯兵、つまりは帝国に属する軍人。それを聞いて、酔っ払いたちは一瞬ひるんだ様子を見せる。しかし、ただ一人勝ち誇ったように下卑た笑いを浮かべたのは、彼らのリーダー、オルドだった。
「はっ、なんだ。ただの田舎軍人かよ。悪いが手前みたいな雑魚兵に用はねぇな」
「…昼間っから酒かっ食らって人様に迷惑かけてる『馬鹿息子』に雑魚と言われる筋合いはねぇな」
『馬鹿息子』という言葉にオルドはこめかみに血管を浮き上がらせる。つまり、この男はオルドの素性を知っていて、挑発をかましているのだ。その不遜な態度に、さらに顔を歪ませたオルドは近くの仲間に目で合図する。それを受けた男は一瞬怯んだ顔をしたが、ずかずかとヴェルナーに歩み寄り胸倉をつかんだ。
「駐屯兵だか何だか知らねぇが、部外者が首突っ込んでくるんじゃねぇよ!」
そう怒鳴ると、オルドの仲間は眼前の男、ヴェルナーの顔に拳を叩きつけ―――
「!!?」
―――ようとした瞬間、目の前にいた男の身体が一八〇度回転し天地が逆転した。否、ひっくり返ったのは、目の前の駐屯兵ではなく、自分であるということに気がついたのは、背中を固い床にしたたかに打ちつけ気を失う一瞬のことだった。
ヴェルナーが自身に掴みかかってきた男を投げ飛ばした。目の前で起こった出来事に皆茫然と立ち尽くす。だがそれも僅かの時間、状況を把握した酔っ払い共は、仲間を倒されたという事態に、更に頭に血を上らせた。
「だから言い訳は表で聞くって言ってんだろ…」
誰に言うでもなく呟いたヴェルナーは、眼前に迫る無法者たちを外に連れ出すべく、踵を返して駆けだした。
「てめぇ!待ちやがれ!」
「ぶっ殺してやる!」
様々な罵声を背中に浴びつつ、ヴェルナーは走る。酒場からほど近い商店の密集する大通りに出ると、迷うことなくその中に飛び込んだ。一体何事かとヴェルナーを目で追う通行人を横目で流しながら、大通りの突きあたり、広く空けた石畳の広場まで突っ切る。背後で何かがひっくりかえるような音や住民の悲鳴、罵声が耳に入ってきた。
「あとで団長にどやされるかなぁ」
一抹の不安がよぎったが、とりあえず今は気にしないことにした。
町中央の広場までやってくると、ヴェルナーは足を止めた。つられて男たちも追いかけるのをやめる。じりじりと、ヴェルナーを包囲するようににじり寄ってきた。
「てめぇ、覚悟はできてんだろうな」
連中の一人がどすの利いた声でヴェルナーに迫る。その手には、刃渡りの短いナイフが握られていた。軽い踏みこみと共に、男はそのナイフをヴェルナーの鼻先に突き付けた。ヴェルナーは俊敏な動作で避ける。空を切って隙だらけになった男の鳩尾に膝を叩き込んだ。自身の体重と重力でヴェルナーの膝がめりめりと嫌な音を立てて食い込み、男は気を失った。
振り向きざまに、握り込んだ拳を後ろに叩き込む。今まさにヴェルナーを羽交い絞めにしようとしていた男の鼻に拳の骨がめり込んで、ぐぎゃと変な声を出して倒れ込んだ。
さらに向かってきていた二人の男に足払いを掛けると、バランスを崩して折り重なるように倒れ込む。続いて視界に入った男の腕を掴むと、その腕を軸に男の身体をぐるりと回転させた。何が起こったわからないまま、宙に舞った男は、先ほど倒された二人の上に勢いよく落ちて、三人とも動かなくなった。
五人ほど地面に倒れたところで、分が悪いと判断したのか残りの男たちは徐々にヴェルナーから距離を取り始めた。さっきの威勢はまるで見る影もない。
「なんだよ、もうかかってこないのか」
お決まりの挑発を浴びせてやると、一人がヒステリックに叫んだ。
「う、うるせぇ!こっちはただオルドに金もらってただけだ!」
その言葉を皮切りに、男たちは一斉に背を向けて逃げだした。その姿を見て、当のオルドは慌てふためく。
「おい、待て!俺を置いていくな!」
我先にと広場の入り口に駆ける彼らを見ながら、ヴェルナーは特に追おうともせず呟く。
「ま、それで逃げられるほどこの町は甘くないんだけどな」
その言葉を合図にするかのように、突如逃げる男たちの目の前に異形の集団が現れた。全員が全身を真っ黒に染め上げた者たちの集団。深い闇を思わせる黒ずくめの男たちが、まるで一匹の生き物のように彼らを威圧し、蹂躙した。
異様な圧に押され、行く手を遮られたオルドたちはたまらず、後ろへ後退する。しかし、そこにもまた新たな集団が湧きでるように現れた。広場の門前から、路地から、野次馬で埋まった歩道から、まるで一つの大きな塊のようにうねり、男たちの行く手を阻む。銃のほかに、斧や槍など異なる武器を携えた者たち。先ほどの黒ずくめとは真逆の、老若男女問わず様々な出で立ちの集団。しかしその目はどれも共通して、オルドたちを怒号の目で睨みつけている。激情の怪物、それが途端に大きな唸り声を上げると、男たちに襲いかかった。
前後を巨大な怪物に飲み込まれ、成す術もなく拘束されるオルドたち。彼らは知らなかったのだ、この町に存在する二つの強大な『盾』の存在を。
首都トランベルよりほど近い、交易の町グリアモ。日々数え切れないほどの旅人や商人を迎え、時に流浪者や荒くれ者を誘い込む喧騒の町。その町の平穏を守る『盾』こそ、グリアモ自警団『バルドグロック』、そして帝国軍派遣部隊『グリアモ駐屯兵団』である。
◆
「くそっ、何なんだ一体…!」
目の前で仲間たちが次々と拘束されていく中で、オルドは人ごみの中を這うように逃げ回っていた。そもそも自分たちは、偶然目についた酒場で気分良く酒を嗜んでいただけであったのに。店主に絡んで店のものを幾分かぶち壊したが、せいぜい駐屯兵に連行されるくらいで、その後親父の名を使って免罪にしてもらえば万事解決だと思っていた。予想が甘かった。突如現れた謎の二つの集団、膨れ上がるギャラリーの数、明らかに異常だ。
とにかく逃げなければ―――。地を這う虫のような姿は、実に屈辱的であったが形振り構ってなどいられない。ゆっくりと、しかし機敏に前進を続け、ようやく野次馬の切れ目に顔を出した。
―――ガンッ
野次馬の足の隙間から覗いたオルドの鼻先に黒い鉄槌が落とされ、石畳の破片が宙を舞った。
「ひいっ!」
「どこ行くんだよ」
黒い鉄槌の上に見えたのは、悪魔のような面持ちの男。最初に酒場で見かけたあの男だった。凍てつくような銀色の瞳がこちらを見下ろしている。
「仲間見捨ててどさくさにまぎれて自分だけ逃亡か。どこまでも屑の野郎だな」
「だっ、黙れ!」
自分の無様な恰好も顧みず、オルドは男に喚いた。
「悪いが、勝手な行動は控えてもらうからな。大人しくついてくりゃ悪いようにはしない」
どこまでも上から目線で語る男に憤慨する。こんな奴のいいようにされてたまるか―――。
オルドは体を力の限り跳ね上がらせ、野次馬を退けさせた。周りの幾人かが小さな悲鳴をあげ、その隙に踵を返して男から距離を取ろうとする。が、
「だから勝手に行動するなって言ってんだろ」
背後から苛立った声が聞こえたかと思った瞬間、首筋に鋭い衝撃が走り、オルドは意識を失った。