第二十六章 王の願い、語られる頃(7)
思いのほかバルコニーにも客がいた。今日は満月、その美しい夜空を肴に歓談を交わす者も多いのだ。ヴェルナーは出来るだけ人の少ない端の方により、バルコニーの手すりに腰を下ろす。雲一つない、美しい月夜だった。
中よりはマシだが、それでも今日は蒸した。暑くなって袖のボタンも緩めようとしたが手袋をしているので上手く外せない。苛立ったヴェルナーは無意識に口で手袋を引っぺがした。自由になった手で片腕の袖を捲り上げているとバルコニーの下から「きゃあ」と女性の声が上がった。一瞬悲鳴かとも思ったが、どちらかというと歓喜の声に近い。気になって下を覗き込んで見ると、バルコニーの下方で目を輝かせながら歓声を上げている二人組の若い女性を発見した。彼女たちは上方を見上げなんやかんやと騒いでいる。ヴェルナーが彼女たちに気づき目が合うと、何故か一際大きく黄色い声が上がった。
(……俺?)
彼女らの視線の先に映るのが自分だという事に気がついて、ヴェルナーはきょとんとしていたが、そうこうしているうちに、二人は屋敷の中へと走り去ってしまった。
何だったのだろうか?
「……あなたって案外若い子には魅力的なのかもしれないわね。礼儀正しいお坊ちゃんにはそういう芸当は出来ないから、確かにご令嬢たちには新鮮かもしれないわ」
疑問符を浮かべていたヴェルナーのすぐ横で、しみじみと呟く声がした。
ぎょっとしてそちらを向くと、こめかみに小さく青筋の立てたヴェローニカが呆れた顔でこちらを見ている。
「まったく、ホールにいないと思ったらこんな所で油を売ってたのね?」
「ふひひゃへん」
「いいから手袋直しなさい。行儀が悪くてよ」
ヴェローニカに指摘されて、ヴェルナーは慌てて咥えたままの手袋を手にはめなおした。さらにヴェローニカが自身の首元をコツッと叩いたのを見て、緩めていた詰襟も元に戻す。
「逃げてばかりじゃいつまでたっても終わらなくてよ?最低でも後日お話しを聞いてくれるお嬢さんを探さないと」
「ですから自分はまだ結婚は――」
考えてない、と言ったところで言い訳にしかならないだろう。ヴェルナーは深いため息をついた。
「……確かに、将来に関わる重要な選択ですもの。焦って決めても仕方が無いわね」
意外にもヴェローニカが折れてくれて、彼女は肩の力が抜けた様な柔らかい笑みを向けた。
「けれど主人にも言われたはずよ。この先何が起こるかわからないのだから味方は多く作っておかなくては。縁談と言うのはその一番手っ取り早くて効率的な手段なんですから。別に貴族にこだわる理由もないけれどもね」
「……わかってます」
お節介なほどヴェローニカがヴェルナーに娘を紹介してくれるのも、きっとドメルトが必死に言い聞かせたからだろう。最もヴェローニカの本音は、単に若者の仲を取り持つ事が出来て嬉しかっただけ。彼女は真の世話焼き屋であり色恋沙汰に目が無いという事はヴェルナーも知る由もない事なのだが。
「それともあれかしら?もう気になっている女性がいるからノリ気ではないとか?」
「へ?」
ヴェルナーは思わず声を裏返した。見ると、ヴェローニカは貴族の夫人とは思えないしたり顔で、にやにやと微笑を湛えながら、そしてどこか期待するような眼差しでこちらを見ている。
これは、嫌な予感しかしない。
直感で理解したものの、すでにヴェルナーはヴェローニカの罠にはまっていた。恋愛話が大好物という女性特有の罠に。
「あなたちょっと目つきは悪いけど、背も高くて見目は悪くないのだし…、ひょっとして結構女性に言い寄られる方なのかしら?」
「なっ……、そんなわけないでしょう!」
実際本当にそんなわけなかった。軍学校に入るまでは碌に知り合いもいなかったし、入学してからは、最低貧民街からやってきた問題児として扱われ一部の友人たち以外からは遠巻きに避けられていたのが現実だ。正式に軍に配属されてからは毎日忙しくてそんな暇もなかった。
「あら…、じゃあ今の今まで良い仲になった女性はいらっしゃらなかったの?」
「い、いません」
「女遊びは?」
「学生時代に友人に連れてかれるくらいで……って何聞くんですか!?」
真面目に答えてしまって思わず声を荒げ顔を赤らめた。これは完全にからかわれている。最初は純粋で可愛らしい感じの女性かと思ったが、どうやら中身は相当のサディストだ。あの夫にしてこの妻ありか。連隊長の妻も伊達ではないらしい。
「じゃあまだ恋がなんなのかもよくわかってないのね。ふふっ、可愛らしいわ」
「……っ、からかうのは止めて下さい。本当に……」
いい加減たじたじになっていると、ふと楽しそうに笑っていたヴェローニカの笑顔が少し別のものに変化した。同じ『笑っている』でもそれまでとは違う、少し錆びた影のある笑いになる。
「―――なんてね、実は私もまだよくわかっていないのよ」
「……え?」
「恋って何かしら?人を好きになるって何かしら?人の色恋沙汰を聞くのは大好きだし、首を突っ込むのも野暮と知りつつ少し楽しいけれど、私自身の事は正直わからないのよね」
意外な答えにヴェルナーは虚をつかれてヴェローニカを見つめた。その少し寂しげな面影が月明かりの下で淡く映った。
「私はあの人と結婚してもう二十年近くになるけど、未だにあの人の事好きなのかわからないわ」
ヴェローニカはバルコニーの手すりに頬杖をついて、うーんと唸った。
「旦那さんと好きで結婚したんじゃないんですか?」
「違うわよ。だって縁談だったんですもの、結納のために我が家に来るまで顔も知らなかった方よ?」
「顔も知らない人間と、結婚したんですか?」
「そうよ。縁談なんて本来そんなものよ。親が家柄や年頃で決めて娘に宛がうの。全ては家の利益のため、私は家を存続させるための道具でしかないのですから」
ヴェルナーは恋愛経験豊富な方ではない、でも、結婚というのがどんなものかはわかっているつもりだ。貴族は好きでもない見ず知らずの相手と生涯を共にする誓いを結べるのか?それを甘んじて受け入れるのか?
「勿論、好き同士になって結婚する人もいるけど、貴族の結婚は大抵政略結婚ですからね。……だから私はあの人を好きにならないまま家の為に結婚したわ。家の為に子を産んで育てて、それでここまで来た。もうあっという間の事で、好きとか嫌いとかそんな事を考えている暇なんて無かったもの」
「……それであなたは納得しているんですか?」
後悔は無かったのだろうか?自分の意思に関係なく自分の人生を決められるなんて苦ではないのだろうか?
そんな疑問が溢れだす。しかし、ヴェローニカはそれをきっぱりと否定した。
「納得しているし後悔もしていないわ。だって私、あの人の事信じていますもの」
迷いのないまっすぐな言葉だった。
「あの人って口数が多い方ではないし、気の利いた事も言わないし、最初のうちは怖い人かしらってずっと思ってたわ。あなたもそんな事なかったかしら?」
「……実は少し」
軍部の模範、と唄われてきたドメルトは、厳格で規律に厳しい人だと思っていた。彼が部下思いで義理人情に厚い人間だというのは最近になってようやくわかってきた事だ。モーゼンテルの兵舎で語った事、バズの件を義理立てしてくれた事、他にもたくさん。今やドメルトはヴェルナーにとって何より誇れる上官だった。
「最初はずっと怖かったの、いつもびくびくして、あの人と距離を取っていた。でもあの人、何考えてるかわからないけど、私に嘘をついたり約束を破ったりした事は一度もなかったのよ。それこそ『今日は早く家に帰る』とかいう些細な事から全部。それで何年も一緒にいてわかったわ。この人は絶対に私を裏切らない、信じて背中を追っていける。……だから私も決めたのよ、一生この人について行こうって、最期の時までこの人を支えてあげようって」
「……」
「ねえ大尉さん、私は愛とか恋とかよくわからないけど、誰かと添い遂げるために必要な事ってやっぱりそこじゃないかと思うのよ。この人になら命を預けられるって、そんな風に考えられる事が一番大切なんじゃないかって」
ヴェルナーはただ黙って夫人の話を聞いている。彼女は今本当に満ち足りていた。全身で今幸福だと言っていた。
この人は今、本当に幸せなんだろうと思う。晴れやかな女性の姿はそれだけで光り輝くように眩しかった。
「男の子のあなたにはこんな話退屈だったかしら?」
「……いえ、そんな事ありません。参考になりました」
ヴェルナーは率直にお礼を言った。ヴェローニカの話を聞けた事心から嬉しかった。
「……とは思うんだけど、やっぱりあなたには早急に縁談相手を見つけて欲しいのよね。主人と私の為にも」
「結局そこに戻るんですか!?」
ドメルトはともかくヴェローニカの理由はどう考えても『新しい恋愛譚が聞けるから』に違いない。せっかく感慨に打ちひしがれているのに、すっかり現実に引き戻されてしまった。
「でも、焦る事はないわよ。今日がだめでもまた次の機会にじっくり選びましょう。私も手伝ってあげますから」
「……ありがとうございます」
嬉しい様な悲しい様な、複雑な感情を抱えながらヴェルナーは呟いた。
「それでは、私は戻るわ」と、踵を返してホールに戻っていく。その背中を目で追いながら、ヴェルナーはヴェローニカが話していた事をその脳裏に刻んでいた。
「命を預けられる、信頼できる人、か……」
一生を共に生きる人間だ、信用に足る人間でなければきっと務まらない。ヴェローニカは笑みを湛えてなんてことなく言ったが、それは何よりも大切で、何よりも難しい事だと思った。
(……そういえば、あいつはどうなんだ?)
ヴェルナーの頭に浮かんだのは、もうすぐ結婚するアイリの事。
結婚すると告げた時の事や最後に会った時の事から鑑みるに、アイリがライムとの結婚に幸せを感じていなかったのは火を見るより明らかだった。少なくともさっきのヴェローニカの様なキラキラしたあの輝きは無かった。
アイリはライムを信用しているのか?命を預けられると思っているのか?
それとも、結婚した後時間が解決してくれるのだろうか?
そう考えた時、何故かヴェルナーの心臓が針を刺された様に痛んだ。どうしてか、何十年後ライムの事を愛おしそうに語るアイリの姿を想像して、胃を掴まれたような嫌悪感に苛まれる。
(―――俺にはもう関係ない)
ヴェルナーはそう自分に言い聞かせる。
楽団の華やかな音色がホールから聴こえて来た。ダンスの時間だ、いつの間にか周囲に散在していた客たちも屋敷の中へと戻っており、辺り一帯は人気が無くなっていた。
屋敷の中の笑声と鮮麗な音色がどこか薄い膜を張ったように遠い。見えない繭の中に閉じ込められている気がして、ヴェルナーは唐突に心細くなった。
カツッ
その時大理石の床を叩く音がその繭を破った。はっとして顔を上げたヴェルナーは、数メートル近くに一人の老人がこちらを見ているのに気づいた。
顔を皺に覆われた古木の如し老人だった。年は七十代くらいだろうか、音もなく燃える青い炎を思わせる、静かに身を焼き尽くされるかのような威圧感。無意識にヴェルナーの身体は金縛りかけられたかの如く強張った。何故だろう、自分よりも一回り小さく皺枯れた見目の男から目が反らせない。
男はゆっくりとこちらに近づいて来る。歩を進める度に、カツッ、カツッと杖が床を叩く音が響いた。月明かりに照らされた皺の一本一本が凝視できるほど側にやってきた老人は、ヴェルナーが寄り掛かっていたバルコニーの手すりに同じように手をかけて、そして口を開いた。
「ダンスには参加しなくてよいのか?」
低い雷鳴を思わせる響きに、背筋が震えた。責め立てているわけでも叱咤しているわけでもないのに、その言葉にヴェルナーはひどく萎縮する。
「……自分は踊れませんので」
「そうか。……私もああ言った手合の催しは億劫でな、あれが始まるといつもこうしてここへ逃げる。今日はまさか先客がいるとは思わなんだがな」
ここは私の特等席なのだ、そう言って老人は低く笑った。ただ笑っているだけなのに、それが不気味なものに感じてしまって、ヴェルナーは上手く相槌を打つ事が出ない。
この老人は一体何者なのだろう。この舞踏会の常連の様だから、貴族なのだろうがそれにしたってこのオーラは異様過ぎる。
これほどまでの威圧感、皇族の舞踏会に参席していてもおかしくない地位の人間。今日ヴェルナーが気が乗らずともこの集いに顔を出した真の目的。
まさかそんなという思いとやはりそうかという確信がヴェルナーの中で渦巻いている。よく考えればヴェルナーは彼の者の顔を見た事が無い、だが年の頃はまさしく今ここにいる男の頃だったはず。
「あなたは、まさか―――」
カラカラに張り付いた喉を鳴らして、ヴェルナーは尋ねる。今にも卒倒しそうな程目が眩む中で、その老人は静かに答えた。
「余は第二十四代皇帝デモルト=ファルブルク=オルセン=カイザー。……初めまして、若き将校」
その老人、―――皇帝デモルト三世はにやりと笑う。
「せっかくの心地よき夜だ、ここで会ったのも何かの縁。月を肴に是非ご歓談に付き合って頂けるか?」
ヴェルナーは突然現れたこの国一の権力者に、全てを忘れ立ち尽くしていた。




