第七話 嘘
ショタの気がなくとも、誰もが心を許してしまいそうになる程の笑顔。
死霊使い、九十九隼人の笑顔は、一千人以上を殺してきた人間とは到底思えなっかった。
彩香は優香に目配せをして確認を取る。
すると優香は隼人から目を逸らすことなく肯いた。
どうやら間違いや錯覚ではないようである。
と、それと同時に彩香は気が付いた。
優香が隼人から見えないように後ろ手で携帯電話を握っていることに。
どうやら智希を呼ぼうとしているようだった。
「――おばさん、何してるの?」
再び無邪気な笑みを浮かべ、隼人は優香に言った。
「……まだおばさんって年じゃないわよ」
「褒め言葉だよ。僕はおばさんが大好きなんだ。笑顔でお願いすると何でもしてくれるからね。死霊を憑かせて操る手間が省けて助かるよ。あ、もちろん性的にも好きだけど。あの熟れた感じが堪らないんだ」
「良い趣味をお持ちのようで」
「ありがとう」
隼人は皮肉をそのままの意味で受け取ったようだった。
「さて――」
隼人はすっと目を細めた。
「――っ」
その瞬間、何の前触れもなく優香が床に崩れ落ちた。
携帯電話が手から零れ落ち、床に衝突すると同時に滑って行った。
「お姉ちゃん!?」
彩香が優香に駆け寄る。
顔の前に手を近づけると、息はしていた。
意識だけが刈り取られたようで、瞼を閉じ、まるで眠っているようだった。
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。死霊を憑かせて意識を失くしただけだから」
「……死霊はそんな事まで出来るの?」
「死霊を使えば人間を操れる。意識も、自由にね。便利でしょ?」
クスクスと笑っている隼人を彩香は睨みつけた。
「まあまあ、そんなに怒らないでよ。……でもね、お姉ちゃん。そんな便利な死霊――人間を自由に操れる万能な死霊が何故か憑かない人が現れたんだよ」
「…………」
「実はさっきから何回も試してるんだけど……やっぱり憑かない。おかしいなぁ」
「……なら諦めたら?」
「そうは行かないよ。こんなことは初めてなんだ。――今まで人間は出来ないことを出来るようにしてきたんだよ。色々と実験をしてね」
『実験』――その言葉を聞いて彩香は背筋に怖気が走った。
「試しては失敗し、その原因を究明して解決する。と思ったら次の問題が出てきて――まるでモグラ叩きだ。でも、そうやって進歩してきたんだよ。だからさ――」
次の瞬間、隼人の言葉を最後まで聞かずに彩香は走り出した。
逃げる為ではない――敵を退けるために。
一瞬で間を詰めた彩香は隼人の背後に回る。
そして後頭部を狙って手刀を叩き込む。
相手は年下の少年で死霊使いだ。
死霊に頼って戦闘をしてきただろう隼人には到底避けることは出来ないはずだ。
「――え?」
彩香はそう思っていた。
しかし、彩香の手刀は空を切った。
予想外の出来事に彩香は体制を前傾に崩してしまった。
「危ない危ない――昨日のニュースを見てなかったらやられてただろうね。知ってるよ?お姉ちゃん武道が得意なんでしょ?」
そんな言葉は彩香の背後から聞こえていた。
彩香の背中をつっと冷や汗が伝う。
「僕も得意なんだよね」
瞬間、彩香の頭部に強烈な衝撃が走った。
頭が揺さぶられ、次第に目の前がブラックアウトして行くことだけ理解できた。
そして立っていられなくなった彩香は、床に倒れた。
*****
「おい、まだ終わらないのか。いつまでタバコ吸わせる気だ。俺を肺ガンで殺す気か?」
欠伸交じりな理不尽な言葉と共に智希が学食にやってきた。
未だに気を失っている学生たちを踏みつけながら。
一応踏まないで歩こうと思えば歩けるのだが、智希にそんな気遣いの気持ちは一ミリもなかった。
「んお?」
すると優香が床に倒れ臥せっている姿が目に入った。
直後、理解した。
「……ちっ」
あからさまに舌を打ち、しかしそんな状況でも焦らず走らず優香に近づいた。
「俺としたことが……しくったな」
智希はすぐさまに状況を理解した。
九十九隼人がやってきたこと。
そして彩香が連れ去られていること。
「うお」
その瞬間、優香が勢いよく立ちあがった。
それを見て智希はピタリと足を止めた。
「厄介な土産を残しやがって、九十九の野郎……乙姫様だってもうちょいマシな土産物だったぞ」
優香の目は正常なそれとは異なっていた。
動きも緩慢としている。
これは――
「死霊」
智希は口の中で呟くように言った。
「あーめんどくせー」
智希は言霊を発しようとして――やめた。
言霊を使い、例えば優香を凍らせたとしよう。
そうすると精霊と死霊は相対するものだから死霊は追い出され、優香は元に戻る。
これは学生にやったのと同じ方法だ。
しかし優香に後で、どうやって元に戻したかと問われると――面倒臭いことになりそうだった。
「どうするか……」
実を言えば、智希にはこんな攻撃的な方法ではなくとも、死霊を祓う方法があった。
それは言霊精霊を『言霊』として使うのではなく『精霊』として使う方法。
凍らせる、爆発させるという方法は言霊精霊を『言霊』として使い、五感全てに作用させる幻象として再現するもの。
これは言霊精霊にしかできず、他の五感を司る精霊には出来ない、特有の能力。
そして『精霊』として使うというのは、死霊使いのように精霊を憑かせるということ。
死霊の場合は死霊使いが使役している為そのまま操ることが出来るが、精霊の場合は精霊使いと契約――つまり対等な関係のため操ることが出来ない。
しかし死霊を追い出すくらいならば可能だった。
が、これは精霊に『お願い』して出来る事なので多用や連発は出来ない上に時間がかかるため面倒なのだ。
ただこちらに関しては穏便なやり方であり、対象の負担はとても少ないメリットがある。
「……後で厄介な事になるのは避けるべきか」
智希は少しばかり嘆息して、精霊――自らの体内に宿る精霊と対話する。
精霊は死霊と同じように実体を持たない。
しかし死霊とは違い自我を持っている。
そのため死霊のように誰かに憑かせて操るという一方的なやり取りではなく、契約者の体内に宿って初めて、契約者が力を行使できるような仕組みになっているのだ。
智希は精霊と意思の疎通を図り、優香に精霊を憑かせる。
一般人が傍から見れば、この状況は何の変化もないように見えるが、その手の能力を持った人間が見れば精霊が死霊を優香から追い出す様子がはっきりと見えた。
そして無事に優香から死霊が去った。
ふっと力が抜けたように優香の膝が折れ、体が揺れる。
「っと」
すかさず智希は優香を抱え込むようにして抱き留めた。
その際優香の豊満な胸の感触が智希に伝わる。
「おお……これくらいの役得は有ってもいいはずだ、うん」
「……セクハラで訴えるわよ」
「なんだ、起きたのか」
優香が目を覚ましていた。
そして智希の独り言もばっちりと聞いていたようだ。
しかしそんなことで智希が同じたりするはずもなく、平然と応えた。
「『なんだ、起きたのか』って……もう少し気を使いなさいよ」
そう言って優香は智希から離れる。
「ん?」
と、その瞬間智希が優香の変化に気が付く。
「……どうした。顔が赤いぞ」
優香の顔――頬が平常時と比較して大分赤みを差していた。
智希はその理由を察したのか少しばかり厭らしい笑みを浮かべて言った。
「う、うるさいわね。乙女には色々とあるのよ!」
「乙女って歳じゃない癖に乙女みたいな反応して急いで離れることはないだろう。傷つくぞ」
「今あなたの言葉で私も傷ついたわよ!」
三十手前はデリケートなお年頃のようだった。
「それは悪かったな。……にしても処女じゃあるまいし意外な反応だったのは事実だぞ」
「女の子は不意打ちに弱いのよ」
「子……そうか」
智希はツッコミを放棄した。
「ところで、助けてもらったのにこんなこと言いたくはないのだけれど……どうやって私を助けてくれたのかしら?」
智希の予感は的中していた。
そして心の中でニヤリと笑った。
「手間だったが精霊を憑依させて祓ってやったぞ」
「あら、優しいのね」
優香は目を見開いて心底驚いているようだった。
学生たちを嬲るようなやり方をあれだけ見せられていれば、そう思っても仕方がない事だが。
「崇めてくれてもいいぞ。居たかも怪しいキリストやブッダを崇めるより、俺を崇めた方が生きている間は得だろう。俺は確実に、今ここに存在しているからな」
「前向きに善処するよう考えて置くわ」
「そうか」
優香の全くこれっぽっちも考える気のない返事に肩をすくめ、智希は話を先に進めることにした。
「で、一体何があった。まあ大体の事情は分かるが」
「そうよ!こんな事話している場合じゃないの!彩香が九十九に攫われたの!」
そう言って優香は智希に大まかなあらすじを話した。
突然九十九隼人が現れたこと。
優香に死霊を憑かせて意識を失わせている間に彩香を何処かへ連れ去っていったこと。
ついでに九十九の年上好きが判明したこと。
「最後のは余計だが……状況は理解した。ったく、日給五万がパアになっちまったじゃねえか」
智希はそう言ってイラついた様に頭を掻いた。
智希にとって今回最も重要だったのは、九十九を捕えるまで支払われる予定だった護衛費の日給五万円だったようだ。
そんな様子の智希を見て、優香が少し不安そうに尋ねる。
「でも口約束とは言え既に契約済みだし、ちゃんと働いてもらうわよ?」
「分かってるよ、んなこと。こういう得体の知れない世界で働いているんだ、信用がなければやっていけねえよ」
「智希の口からその言葉が聞けて安心したわ」
優香はほっと息をついた。
智希はこの手の現実離れした世界の中でもトップクラスの実力を持っていた。
精霊の強さは基本的に対等であり、精霊使いの強さは、如何に精神力が強いかによって決まる。
自身の中で『世界』に対する確固たる認識と強い信念を持ち、その上で願い、頭でイメージし、そして言葉にすることでようやく現実世界に幻象――幻の現象を起こすことが出来るのだ。
信念が曲がったり、認識がずれたり、深い迷いなどにより精神が揺らいでしまえば、その時点で言霊は使えなくなるだけでなく、精霊に精神を飲み込まれてしまう。
だからこそ智希は強者でいられるのだ――『世界』に対して確固たる認識と、やるべきことだけ行いやらなくてもいいことは一切しない面倒臭がり、言い換えれば合理主義という信念を貫く、揺るぎない精神を持つことで。
「やる、が……割に合わねえな。九十九とこれからやり合おうってのに五万しか貰えないなんて。危険手当みたいのはないのか?」
そして合理主義が故になのか、智希は金にはうるさかった。
「そういうの込みでその値段よ。最初に説明したでしょ?」
「……仕方ねえな」
渋々と言った体で智希は了承した。
五万円。
それは普段の智希の仕事料金からすれば価格破壊もいいところだった。
「で、目星はついているのかしら?」
「まあな。幾つか候補はあるが、大体の見当は付く。恐らく九十九は俺と戦闘になることも想定しているはずだ。ある程度広い場所に移動するはず。しかし九十九の体力では人間一人担いで、長距離移動出来る訳もない。死霊を使えば別だが、幸い、大学内に動ける人間はいないし、彩香自身に死霊を憑けようにも、どういう理由は分からないが憑かない。となると、大学構内にある施設の中で広い場所。そうなると――」
歩き出す智希を、優香が追った。
未だ目を覚まさない学生たちを足蹴にしながら。
*****
「んあ……?」
色気のない声と共に彩香は目を覚ました。
「あれ、いつの間に気を……」
彩香は視線を巡らせ、周囲を見渡した。
辺りは薄暗い。
しかし別に汚いという訳ではなく、むしろ片付けが行き届いていた。
広さもかなりの面積があるように見える。
そんな環境で、彩香は椅子に座らされていた。
(そうだ、私九十九に頭を殴られて――)
ここまでの状況を思い出し、そっと手を頭にやろうとしたが手が動かなかった。
彩香が手に視線をやると、背中の方にあるパイプか何かにロープで縛られているようだった。
そして足も縛られていた。
これでは立つことすら出来ない。
(昨日も捕まったばっかだけど、今日のは比じゃないくらい危なそうな感じね……)
昨日は銀行強盗に。
今日は得体の知れない死霊使いに。
と、
「やあ、お姉さん。目が覚めたんだね」
薄暗闇の中からふっと隼人が現れた。
気配も足音もない登場の仕方に、彩香の心臓は一瞬跳ね上がる。
「目が覚めたんだねって、誰のせいで眠ってたと思うのよ」
「ははっ、それもそうだね。そのことについては謝るよ」
邪気のない、容姿相応の笑顔で隼人は言った。
「でも、いきなり殴りかかってきたお姉さんもお姉さんだよ」
「うっ……」
確かに先に手を出したのは彩香だった。
もしあの時、何も抵抗しなければもっと穏便に事が進んでいたのかも知れない。
そう思うと何も言い返せなかった。
「まあ気にしてないからいいよ、別に。知らないお姉さんに凄い勢いで襲われそうになるなんて経験、そうそう出来ないし」
もしも隼人が交番に駆け込んでいたら、彩香の人生が終わるような言い回しだった。
「さて、お姉さん。本題に入ろうよ」
隼人は彩香の目の前に腰を落とし、椅子に座る彩香を上目づかいで見つめるような体勢になる。
「何よ、本題って」
「お姉さん、何者?僕の死霊が憑かないなんて……精霊使い?」
一瞬スッと目を細め、笑顔で聞く隼人。
「知らないわよそんなの。私だって知りたいくらいよ」
これは事実だった。
彩香にも自覚はないうえに、この道の専門家である智希ですら何も判っていないのだ。
こう答える以外に道はなかった。
「本当に?」
再度、笑顔で尋ねる隼人。
「本当よ。この状況で嘘ついて何のメリットがあるのよ」
少々うんざりしながらも彩香は言った。
すると隼人は顎を撫でながら、
「ふうん。……なら色々と、試してみるかなぁ」
「嘘!今の嘘!メリット超ある!」
彩香は三秒前の自分――あんな言葉を吐いた自分を呪いたくなった。
隼人の発した『試してみる』という言葉の中身に、嫌なイメージしか浮かばなかった。
「……じゃあ何のメリットがあって嘘ついたの?」
隼人が立ち上がり、彩香と同じ目線でグッと顔を近づける。
その顔には、さっきまであったような笑みは露程もない。
取調室で容疑者の嘘を見破ろうとするベテラン警察官のようでもあった。
立場としては犯人に問い詰められていて全く逆ではあるが。
「えーと、そのー……」
彩香は冷や汗をダラダラとかいて、ゴクリと唾を飲み込む。
かろうじて目線は逸らさないでいるが、いつまでもこの状況でいるのは不可能だ。
彩香は脳内コンピュータをフル稼働させ言い訳を考える。
が、
(やばいやばいやばいやばい全くこれっぽっちも思いつかない!)
口は災いの元。
容疑者に対する黙秘権の重要さを身をもって知った彩香だった。
その瞬間、
「お、いたいた」
室内にやる気のない声が響いた。
それと同時にどこからか光が差し込む。
彩香にはその声に聞き覚えがあった。
散々馬鹿にされ、散々振り回された嫌味な人間。
しかしこの時ばかりは地獄で蜘蛛の糸に出会ったような気分になった。
彩香はその方向に視線を向ける。
「よお」
後ろから差す光が後光のようにも見えるが、へらへらとした笑みが有難味を台無しにしている――智希の姿があった。