Beloved
川のほとりを散歩していた。日差しはまだ衰えることを知らず、さんさんと照りつけていた。
少し強い風が麦わら帽子を落とそうと必死に吹いてきたので、わたしはその風に涼みながら麦わら帽子のつばをつかんだ。潔いのか、風はすぐ止んでしまった。まだ風に当たりたかったのに、少し残念。
「まだその帽子を持っていたのか。大切に使ってくれて嬉しいよ」
振り返ってみると、そこには微笑んでいる彼がいた。
「白いワンピース、黒くて長い髪の毛に結構似合うし、俺の目に狂いはなかったな」
「似合うって言ってくれたから、今まで大事にしているんだよ?」
小学校の低学年くらいのわたしはおてんばで、まだ木に登ったり川で泳いだりしていたころ以来、ずっと彼からもらった麦わら帽子を持っていた。小学生になって数年経ったある日、学校の校庭に植えてある木に登っているときに、枝に足を引っかけようとして動かしたら滑って地面まで落ちてしまった。そばにいた友だちは笑ったけど、尻餅着いてとても痛かったわたしは泣きそうになった。
笑っている友だちの中から彼が飛び出して、「本当にばかだなーお前」と言いながらわたしの頭に麦わら帽子をかぶせた。泣きじゃくる顔が見られないようにと、麦わら帽子をかぶせた彼の優しさにときめいた。
いつも冗談言ったり嘘を言ったりする彼なのに、「おー似合う、似合う」と言った言葉には真に受けてしまった。そのときは顔が熱くなるのを感じていたから、顔が赤くなっていたに違いない。でも、麦わら帽子のおかげで、きっと見られなかったと思う。
あのときは気づかれなくてよかったと思ったけど、だいぶ年が経っているんだし、そろそろわたしのこの気持ちに気づいてほしい。でも、まだ気づいていないのは、きっと幼なじみとして、親友として互いに接しているからだと思う。その状況がわたしには耐えられなくて、奥深くで密かに泣いていた。
「そうか、ありがとよ。ところでさ、いったいここで何してたんだ?」
「ただの散歩よ」
「その割には、結構おしゃれしているな。大自然に恵まれたこのド田舎にしてはちょっと不自然だと思うぞ」
「そう? 田舎でこの格好をしている人、わたしは見かけたよ?」
「ふーん? 俺は見かけたことないけどな」
彼との間に沈黙が漂った。でも決して気まずいとは思わない。彼もそう思っていると思う。こうやって黙りながら歩き続けたのはもう慣れていることだし、お互いに知っていることが多くて大して話すこともない。ただ、知らないこともあるし、とても知りたいこともある。
いっそのこと、訊いてみようか。また逢えるかどうか分からないし。
わたしは大きく息を吸って、深く吐いた。
「ねぇ、訊いてもいい?」
「ん?」
ドキドキする。知りたいことがたくさんある中で、特に気になっていることを口に出すのが怖い。
唇が震える。手の震えが止まらない。
なんとか押さえ込もうと手を口元へ移し、ぎゅっと力を入れようとした。でも、なかなか力が入らず、結局口元を隠すような形になってしまった。
ありったけの力を込めて口を動かした。
「なんで……なんで、ここにいるの?」
「へ? なんて言った?」
とてもか細い声になってしまったのか、彼の耳には届かなかった。
呆然とする顔に腹が立ったわたしは、今度はわき上がる怒りと悔いに任せて喚き散らかした。
「大学生になったばかりのころ、土砂降りに雨が降っていて川が増水していた。あなたは川に流されて亡くなったはずなのに、どうしてここにいるのかって訊いているの!」
わたしと彼は高校卒業して、別々の大学へ進学した。わたしは上京して一人暮らしをして、彼は地元の大学に留まった。とても寂しく、辛かった。でも、もうこの世には彼がいないと思うと胸が張り裂けそうだった。いや、いっそのこと、張り裂けたい。
涙が止まらなかった。目頭がとても熱かった。
それでも涙を拭いたくなかった。じっと彼を目で捕らえたかった。目を離した隙に彼がいなくなってしまうんじゃないかと、とても恐れていたから。
でも、やっぱり我慢できず、俯いて手で涙を拭ってしまった。とても情けない。
「じゃあ逆に俺から訊くけど、なんでそんなことを気にする?」
涙のせいでにじむ視界の中に、まだ彼の脚があった。よかったと思う反面、わたしの気にしていることを彼は大して重要視していないみたいで、驚いてしまった。それはつまり、わたしのことを大して想っていなかったって言うことなの?
「まさかお前、俺が死んでしまって、もういなくなったとか言うじゃないよな?」
「だって……だって……」
必死になって声にして伝えようとしても、出たのはその言葉だけだった。
「もう一度訊くけど、どうしてここに——この川に来た?」
どうしてって、わたしは帰省して久々にこの地に訪れた。懐かしの風景を見たくて、ただ散歩しに……。
いや、違う。
ただ散歩したかったんじゃない。彼を追いたくてしょうがなくて、彼が事故に遭ったこの川に入水しようとしていたんだった。
ようやくそのことに気づき、体ががたがたと震えだした。とても暑いのに、急に冬がやってきて寒くなったみたいだった。
「あのお転婆だったころのお前はどこに行ったのやら」
そう言うなり彼は、わたしの両肩に手を乗せた。すると、彼の手の温かさのせいか、震えが止まった。
体を包み込むように抱いてくれたら、どんなに気が楽になっただろうか。それだけでも十分なのに、彼はそうしてくれなかった。わざとしているみたいで、なんだか憤りを感じた。でも、すぐに彼の背中に手を回せるのに、そうしない自分に嫌気を差し、憤りの火は鎮火してしまった。
「お前はそんなに弱くないだろ? しっかりしろ」
彼や風景がぐらりと揺れた。そしてわたしは深く深く落ちていった。
チュンチュンと小鳥のさえずりが窓から聞こえる。
ぱっと目を開いて体を起こすと、肩にかかった毛布が床に滑り落ちた。椅子に座って勉強机に突っ伏して寝ていたみたい。わたしは実家の自室にいた。
母さんが自室をきれいにしてくれたのに、今は物があちこち投げられ散らばっているのを見て、思い出した。
昨夜はたしか彼の知らせで取り乱し、悲しみに暮れたんだっけ。
日が沈みかかったころに実家に着いて、これから彼に訪ねるのは遅すぎるし御法度だと思い、翌日に訪ねようと心に決めていたときに、母さんが残酷なことを言ったので、つい感情に任せてしまった。母さん、ごめんね。
まだ心の整理がちゃんとしていないけど、夢の中で彼と逢ったことによって、だいぶ落ち着いたような気がする。でも、悔しい、悲しい、逢いたいと言う気持ちはあった。
まだその帽子を持っていたのか。大切に使ってくれて嬉しいよ。
彼の言葉がふと頭の中によぎり、体が勝手に動いた。押し入れの中から物を次々と外へ放り出した。アルバム——リコーダー——写真集——おもちゃ——そして、見つけた。彼からもらった特別な贈り物を。
麦わら帽子のふちの裏には、黒いマジックペンで「にしざき こうた」と彼の名前が書かれていた。小さい頃はあまりにもでかくて似合わないのに、大人になったわたしにはちょうどいいサイズだ。
「おい、しっかりしろ」
ふと、耳にこうたくんの声が聞こえたような気がした。だけど、その声はまだ高くて幼い声だった。
「お前は強いんだ。尻を強く打ったぐらいでめそめそするなよ」
わたしは面白おかしく笑った。友だちと別れを告げて、こうたくんと二人きりになった途端に泣き出したんだったね。こうたくんの前ならいいと、安心しきってわんわん泣いたんだったね。そのときの困り果てたこうたくんの顔が、今でも思い浮かべれるよ。
じっと名前を見てそんなこともあったなと思い起こしていると、麦わら帽子の裏側に挟まっている一枚のメモ用紙に気づいた。最近新しく書かれたようにくっきりと文字が書かれていた。黒いボールペンで書かれたその文字が、短い文章だけれど、まるで一生分全てを言っているように感じられた。
さゆりがいてくれて、ありがとう。
傍でこうたくんが囁いているように思えた。まるでさよならと言っているように感じた。脳裏には、わたしが自室から出たときに、こうたくんがこっそりメモ用紙を麦わら帽子に挟んで寂しそうに微笑む姿が思い浮かんだ。
目頭が熱くなり、声を漏らしながらぽろぽろと涙がこぼれた。
こうたくんに逢った夢から覚めたときから分かった。最愛の人が亡くなっても、いなくならないということを。もしいなくなったら、思い出にぽっかりと穴が空いたり、こうやって夢で逢うことはなかった。思い出が——こうたくんと一緒に過ごした思い出が、まだわたしの中で生きている。これらがまだ生きている限り、まだお別れとは言えない。
きっとまた、夢の中でこうたくんに逢える。そのときは下を向いた泣き顔じゃなくて、ちゃんとこうたくんに向けた笑顔を見せつけなきゃ。泣いているわたしを見たこうたくんはきっと心配している。
しっかりしろ。
うん。もうめそめそしないよ。でも、まためそめそしていたら、きっと助けてくれるよね。
麦わら帽子を床に置いて、窓を開けた。すると、透き通る風が部屋の中に入ってきた。お盆なのに季節外れのこの涼しさは、まるで秋だと錯覚させられるくらいに肌寒かった。頬が濡れていたから、余計に寒く感じられた。それでも口の端が上がっている気がした。
今度、こうたくんの実家に行って、この麦わら帽子を返そう。これはもともとこうたくんのものだし、わたしにはこれがなくてもちゃんと思い出せる。ともに分かち合ったことや、逢ったこと、そして泣いたことを。
こうたくんの写真が飾られている仏壇に手を合せにいこう。そしてこうたくんに向かってこう言うんだ。
こうたくん。これからも一緒にいてください。