私を愛してくれている婚約者ですが、どうしても放っておけない女性がいるようです。
「これくらいなんてことない、喜んでくれて良かった」
「デニス、大好きよ!」
すりガラスごしに見えるのは、シルエットのみだが、マリオンの婚約者デニスと女性の抱擁なのは間違いない。
(ああ……やっぱり)
デニスは真面目で寡黙。
客観的に見て彼は婚約者のマリオンを大切にしていたし、それはマリオン本人もそう感じていた。
だから『浮気をしているかも』という不安を告げたのは親友のミーティアにだけ。
悩みがあるのだろうとわざわざ声を掛けてくれた彼女ですら、信じていない様子だったけれど。
「駄目だ、離れて。 ただでさえふたりきりなんだし……大事にしたいんだ」
「デニス……」
「愛してるよ」
他の女性に愛を囁くデニスの声。
──結局、不安は当たっていたのだ。
マリオンは耳を塞ぎ、その場から走り去る。
塞いだ左耳には彼から貰ったブレスレットが揺れる音ばかりが響いていた。
★★★
「マリオン、誕生日おめでとう」
陽冠の月。夏至の夜に生を受けた私──マリオン・ファーバー16歳の誕生日。婚約者のデニス・バーリスはとても素敵なブレスレットをくれた。
「素敵……! ありがとう、デニス」
贈ってくれたのは、ゴールドのブレスレット。
星に見立てた小ぶりのダイヤを中心に草花のモチーフが輪になって連なっており、繋ぐ金具の下で小さないくつもの妖精のチャームが揺れる。
ひとつひとつが精巧であり、控えめだがそれに負けない輝きの土台と宝石。
普段使いできるような可愛らしさがありながら、ドレスアップしても見劣りしない。
宝飾品としても一級品だ。
「こんな素敵なの、見たことないわ。これ、もしかして貴方が?」
そう尋ねると、少しはにかんでデニスは言う。
「うん……君のイメージでデザインを」
所属しているのは騎士科で、普段はペンより剣を持つ方が多いと言うデニスだが、絵画を嗜むことは知っていた。
互いに領地にいて、文を交わすくらいしか交流のなかった14の頃、送ってくれたスケッチは今も大切に取ってある。
デニスはとても絵が上手いので、デザインができることに驚きはないけれど。
(まさか私のプレゼントをデザインしてくれるだなんて……!)
どうしよう、凄く嬉しい。
しかも、こんな素敵な品を。
「作ったのは職人だけど」と照れたように頭を搔いて誤魔化した彼は、何故か少し躊躇う様子を見せ、一呼吸したあとで続けた。
「本当はずっと、もっと仲良くなりたいと思っていた。 その、君といると緊張しちゃって……一目惚れだったんだ」
それは、驚きの連続だった。
なにしろ、私も全く同じだったから。
婚約者として顔合わせした14の時に恋に落ち、15になって互いに学園に通うようになり頻繁に顔を合わせるようになっても、膨らんでいく恋心による緊張から余計に態度を萎縮させ、なかなか距離を縮められずにいたのだ。
彼のためにお菓子作りの練習をするなど、明後日の方向への努力しかできなかった、そんな一年だった。
「その……っ、わ、私もなの!」
「え?」
「コレ!」
素敵なブレスレットのお礼に、すっかり上手に焼けるようになったクッキーを渡す。
「『趣味だ』なんて言ってたけれど、お菓子作りを始めたのはデニスが甘い物を好きって知ってからで……本当はカフェとかにも誘いたかったけど、勇気がなくて」
お互いの不器用さに照れて笑いながら、私達はただの婚約者から、晴れて恋人同士にもなった。
それからは僅かながらに会話も増え、やや一方的だった恋のときめきは、少し焦ったく面映ゆいものに変わっていっていた。
だけど──
「……デニス? どうかした?」
「いや……なんでもないよ」
それからの彼は、度々微妙におかしな言動を取るようになった。
最初は違和感程度で、それが告白されて以降のことだったのもあり、あまりおかしいとは感じなかったけれど。
今思い返してみると誕生日の翌日に休んだ日のあとから、彼は少しおかしかったような気がする。
たとえばなにかを買いに行くとき。
積極的に好みを聞いてくれるようにはなったものの、それを贈られたことはない。
別の似たような物をくれる……それ自体は『サプライズにならない』とか『自分で選びたい』など理由付けはできるのだが、何故か彼は私が答えた物も買っているようなのだ。それも、密かに。
あとは距離感。
急に自然な仕草で手を繋いだと思うと、それに驚いた私に気付いてデニスも驚いたり。
愛情がなくなったと感じたことはないけれど、どこかよそよそしさはあった。
ハッキリとおかしいと感じたのは長期休暇前。
「え。 ど、どうして?」
「ごめん……どうしても調べたいことがあって、この夏は王都から離れられないんだ」
遠出をしようと誘い、予定を尋ねた私への返事はこうだった。
それでも会っていないわけではなくて頻繁に会ってはいたし、彼からの誘いもあった。
ただ遠出は勿論、遅くなるような誘いは断る──常に、だ。
私と会う時以外は、ほぼ王立図書館にいるようであることから『調べたいことがある』のは事実のようだった。
けれどその手伝いを申し出ても、何故か断られるし、一緒には行ってくれない。
家人に頼んで見張って貰ったりもしたが、誰かと会っている様子はなかった。
(やりすぎかしら……でも……)
疑うことへの罪悪感もあった私は、これ以降誰にも相談できなかった。
新学期が始まり、私の様子に気付いたミーティアに促されるまで。
「──浮気?」
「しっ、ミーティア。 声が大きいわ」
「誰も来ないわよ」
オーニングに遮られているとはいえ日射しは強く、人のいないテラス席。
女優帽の大きなつばの下、親友にこれまでの不安を打ち明けた。
「でも彼、貴女のことを好きなように見えるわ。 あっ、庇うわけではないのよ? 客観的評価というか」
「いえ、私もそれはそう思うの……だけどホラ、人によっては一度に複数の異性に愛を向けられるって話だし、彼もそうかもって」
おかしいと思う部分を挙げ列ねても、納得のいかなさそうなミーティア。
(まあ、そうよね……)
そこは最初から諦念しかない。
信頼する彼女にも相談しなかったのは、私の根拠となるものが証拠とはなり得ないことをわかっていたからで。
しかも彼女の言う通り、デニスは私をとても大事にしてくれているのだ。
私が抱いている不安なんて、誰に話したって簡単に理解できる筈などないに違いない。
「──う~ん。 もしかして、デニス様ってヤンデレってヤツじゃないかしら? 勝手に調べたり、先回りして貴女の好きな物を集めたりとか……」
「ええ?! でも、予定のことは?」
「ほら、それは自制心が……とか? 遅くまで一緒にいると気持ちが盛り上がっちゃうかも、みたいな」
ミーティアの言葉は思いもよらぬもので。
私も一先ずそういうことにして笑った。
心配してくれたことは素直に有難かったし、彼女に打ち明けたこと自体が、少しだけ気持ちを楽にしてくれた気がしたから。
だが──疑いが晴れたわけではない。
むしろ疑念は日々、濃くなっていくばかり。
一年の片想い。
ただの婚約者として、それでもその幸運な立ち位置のお陰で、一番近くで彼を見ていた自負がある。
私には今のデニスが以前のデニスとは明らかに違う……その確信があった。
それが誰かに心を寄せているからであることも、漠然と。
やり過ごすように時は過ぎ、なんとか1ヶ月。季節の変わりを肌で感じる、紅葉の月が来た。
「マリオン、送るよ。 それともどこかに寄っていく?」
「デニス……ええ、いえ、今日は帰るわ」
「そうか。 君の好きそうな感じの店を見付けたんだ、今度一緒に行こう」
デニスは物凄く気を使ってくれている。
もしかしたらそれが後ろめたさからの行為であったにせよ、婚約者としても恋人としてもなにも知らなければ理想的なのだろう──
その日の私は、無性に彼が腹立たしく、そんな風に考えた。
おそらくなあなあで過ごすことに、もう限界だったのだ。
デニスのルーティンは把握している。
学園から帰り、図書館に行かない日は足繁く近くの森に入る。
そこでいつも見失ってしまうと言う。
おそらく逢瀬はそこで行われている──私は森の中で待ち構え、彼をつけることにした。
森とは言っても広大な国立公園内の一角にあたり、薬草が採れる場所で人工路もある。
一度、彼と散歩に入ったこともあり、ウチと彼のタウンハウスを繋ぐ近道だとも聞いた。
(あら、本当に近いのね……馬車を待たせる必要はなかったかしら)
もし今日見失ったら、次は徒歩で──などと考えているうちにやってきた彼は、妙に大荷物。
背中にデイバッグ、手にはバスケット。
(本当になにかの研究をしているのかしら?)
それならそれでいい。
罪悪感と不安に駆られながら、足音や気配を気取られないように後を追う。
森の湿度からか徐々に濃くなる靄……彼を見失いそうになって慌てた矢先。
「!」
現れたのは小さな可愛らしい家。
デニスは一切迷うことなく、色とりどりの小さな花が横に植えられた煉瓦のアプローチを歩いていく。
心臓が嫌な音を立てていた。
距離と靄から良くは見えないが、扉から出てきたのは女性。
疑ってここまで来たのに、私は『きっとなにかの理由がある』と矛盾したことを必死で考えながら、よろよろと窓を探した。
窓からは中がよく見えず、シルエットのみ。
ただ、ふたりの様子や会話はハッキリと聞こえてくる。
「いつもありがとう。 でも少し多いわ……太っちゃう」
「太ったって構わないよ。 それより君が痩せてしまわないかと、その方が不安なんだ。 好きな物ばかりを作らせたから、なるべく食べて」
(デニス……)
彼の声は優しく、愛情が感じられた。
まるで自分に掛けられる声のように。
もう見たくはないが目を離せないまま、窓枠の横に張り付く。
デニスはデイバッグを下ろし、中身をテーブルに広げているらしく、女性の嬉しそうな声が続く。
なにか、プレゼントを贈ったのだ。
──彼女のために。
「これくらいなんてことない、喜んでくれて良かった」
「デニス、大好きよ!」
「……駄目だ、離れて。 ただでさえふたりきりなんだし……大事にしたいんだ」
「デニス……」
「愛してるよ」
抱擁と愛の言葉。
もう疑いようがなく、彼は私以外の誰かと通じていた。
言葉から決定的なことはしていないのだろうが、だからどうだというのだろう……声しか聞こえなくともわかる、私よりも親密な空気。
なによりアレは明らかに、私のことを考えての『大事にしたい』ではない。
どう走ったかわからないまま辿り着いた馬車。
素早く乗り込んだ私は、中で浅い呼吸を繰り返してなんとか嗚咽を逃した。
翌日、体調不良を理由に学園を休んだ。
家族にはなにも話していない。
家格は同じ子爵位で経済状況も然程変わらないが、ファーバーとバーリスでは由緒や領地の大きさが違う。
元々、父が友人同士なことから得たご縁であり、異性や社交場に慣れない私を慮ったもの。
ましてやデニスに瑕疵がある……伝えたらおそらく、婚約は白紙か向こう有責での破棄になるだろう。
デニスのことを許せるワケではないが、まだ彼が好きなのだ。
自惚れでなければ、彼も私のことを好きな筈──なのに、どうしてあんな真似ができるのか。
それを直接本人に問わないまま、なにもかもが終わってしまうのは嫌だった。
「お嬢様、バーリス令息がお見舞いに」
「そう……四阿にお茶を」
「お身体は大丈夫ですか?」
「ええ。 少し風にあたりたいの」
想定していた通り、デニスはお見舞いにやってきた。
「マリオン、外に出て平気? 思えば昨日も元気がなかったのに……気付いてあげられなくてごめん」
「そんなことはいいの。 それよりも──」
侍女の目の届く範囲の、ギリギリまで歩く。
問い質そうと思うとどうしても歩みが遅くなっていた。
言いくるめられてしまうのでは、という不安もある。
見切りをつけられる自信はないし、あんな場面を見たのにも関わらず期待もしている自分がいた。
「……見たの、昨日森で。 アレは誰?」
彼は微塵も動じることなく、代わりに悲痛な表情で微笑む。
「マリオン、僕は君を愛している」
返ってきたのは、答えではない答え。
だから私には彼を詰る以外の選択肢がなくなってしまっていた。
「昨日までなら嬉しかったわ……! どの口が、……どの口でそんな!」
「マリオン」
「昨日聞いたもの! アレは誰なの?!」
「マリオン!」
デニスは私をぎゅっと強く抱き締め身体で声を抑えさせ、それから優しく背中を撫でる。
昨日出せなかった分の声を上げて泣いた。
「……マリオン……今はなにも話せないけれど、どうか僕を信じて欲しい」
「そんなの酷い、信じられるわけない」
「ごめん、マリオン。 だけど本当に君が好きなんだ。 誰かと比べるまでもなく、ただ一人、君が」
デニスの胸は心地よく、必死で真剣な声が甘く耳と胸に響く。
私は馬鹿かもしれない。
言いくるめられてもいい。そう思った。
「じゃあ、もう森には行かないで……あの女性には会わないで……」
しかし、現実は残酷で。
「それは、できない」
「……どうして」
彼はこう言った。
「──彼女には、僕しかいないんだ」
必死で真剣な声のまま。
その夜。
声を荒らげてしまったせいで侍女が報告したらしく、夕餉の際に両親に事情を聞かれた。
「なんでもないの、ちょっとした喧嘩よ」
そう返すとそれ以上は聞かれなかった。
私ももう話す気はなく、食欲も沸かなかった。出されたものに無駄にナイフを入れて時間をやり過ごすも、やはり居た堪れずに謝罪して退出した。
──なにも、話せることはなかった。
好きだから、許せない。
好きだから、別れたくない。
『今はなにも話せない』『僕を信じて』
『君が好きなんだ』『彼女には、僕しかいない』
(……信じたいけれど、信じられない)
私の心は矛盾だらけで。
デニスの言うことは滅茶苦茶だ。
なにをどうしていいかわからない。
あれこれ考えた末、ようやく出した答えは結論の先延ばしで。
なあなあでいることが辛くてしたことからの選択がやっぱりなあなあであることに、情けない気持ちになる。
それでも、私には時間が必要だった。
長く感じた紅葉の月は終わり、短い秋と共に星巡の月も去って。
月影の月も半ばを迎えた年末。
冬の休暇を目前に、ふたりで出掛けた帰りのこと。
私は彼に休暇の予定は聞かず、こう告げた。
「──デニス。 少し、距離を置きたいの」
デニスの行動は変わらず、彼はいつもとても優しかった。そしてやはり、欠かさず森に通ってもいるようだった。
きっと、この後も森に行くのだろう。
あの女性に会いに。
「マリオン……僕は」
「ごめんなさい、デニス。 でもあの日と同じ言葉ならもう聞きたくない」
私はデニスとの別れを考え始めていた。
諦められない気持ちは強いが、近くにいたら余計に諦めがつかない気がしたから。
今日の彼は普段より少し饒舌で、普段より更に気遣いを感じさせた。
無理をしている──そう思った。
(彼のためにも、きっと、この方が)
今彼がどんな表情をしているのか。
そこに愛情を感じてしまうのが嫌で俯く。
「……婚約の解消とか、しないよね?」
「それは……わからないわ」
「──」
あまりにも長い沈黙が気詰まりで、顔を上げた私が見たのは、
「!」
デニスの泣き顔。
「…………どうして」
表情は、ない。無だ。
「どうして貴方が、そんな表情をするのよ……!」
今まで見たことがない、あまりにも『絶望』という表現に相応しい表情に、沸き上がる憤り。
「マリオン、好きだ。 僕は、君だけが」
「信じられないわ!」
帰ろうとした私の腕を掴み、デニスは引き止めた。
「忘れないで!」
「──」
「信じて……どうか」
懇願するような声。
虚をつかれた私を逃がすように、彼の手が緩められる。小さく「ごめん」と告げて。
緩まった手ともう片方の手で私の手首を持ち上げると、背の高い彼は跪くように腰を落とし、ブレスレットに唇を落とした。
同時に涙が、掌に落ちる。
(なんで……)
「──もう、行くわ」
「マリオン」
このままじゃ、別れられない。
そう思って背を向け歩き出す。
「どうか忘れないで、マリオン。 信じてほしい、僕の言葉を」
背中に受ける声にギュッとなる胸を押さえた手の下で、ブレスレットがシャラリ、と小さく音を立てていた。
「おかえりなさい……楽しかった?」
家に戻ると、気遣わし気に母が尋ねる。
夏季休暇の際、予定を合わせることができないと告げたデニスに対し、暫くの間父は不機嫌だった。
ただその後は彼が上手く言ったらしく、『遅くに連れ回そうとするよりいい』などと庇うようなことを言うようになったものの、なんとなくふたりはギクシャクしている。
両親にも迷惑を掛けている。
今後のことを考えたなら、本当はもうきちんと答えを出すべきだ。
「……ええ。 楽しかったわ」
私は母にいい加減な答えを返しながらも、決意を固めていた。
デニスを信じたい。
だけど信じられない──それは、私がなにも知らないから。あの日、知ることから逃げてしまったからだ。
(会いに行こう)
はしゃぎすぎて疲れたから、と言って、食事を摂ると早々に自室へ戻った私は、森へと出掛ける支度を整えて部屋から抜け出した。
場所は大体わかる、徒歩でも行ける距離だ。
邸宅の敷地内から出たらつけようと思って持ち出したカンテラが必要ないほどの月明かり。柔らかな闇の森の中を進む。
気が急いているからか、思っていたよりも早くに目的の家に着いた。
何故か半分開いた扉の中からオレンジの灯り。だが、ノックをするも人の気配はない。
「……あのぅ?」
おそるおそる中に入る。
そこは絵本の中から飛び出したような可愛らしい外観に相応しい、可愛らしい内装のリビング。
部屋は着込んできたコートが必要ないほど暖かいのに、やはり人がいる様子はない。
「どなたかいらっしゃいませんか……?」
そう声を掛けた矢先、後ろで扉の閉まる音。
驚いて振り向いたが誰もいない。
怖くなった私はまず外に出ようとした。
しかし玄関扉を開けようとするも──
「開かない……ッ?!」
開かなかった……閉じ込められていた。
恐怖に扉を叩き、何度も押したり引いたりを繰り返す。
窓を開けようともした。
他の部屋にも行った。
しかし、全て無駄な行為だった。
それでも何度も繰り返し、疲弊し縺れた足でリビングに戻ると、いつの間にかテーブルにお茶が用意されている。
……ゾッとした。
「誰?! 誰なの……っ?!」
問うても、返事はない。
代わりに聴こえてくるのは、不思議な音楽。
小さかったそれは徐々に大きくなっていく。
気が狂いそうだ。
「やめて!」
『どうして?』
『ドウシテ?』
『踊ろう、マリオン』
『歌おう、マリオン』
『夏至の夜の子』
『トクベツな、ボクらの愛し子』
(『妖精達の宴』──まさか!?)
『マリオン、君は妖精の愛し子だ』
夏至の夜に生まれた私に誰かがそう言った、幼い記憶。
誕生日に贈られた綺麗な挿絵の絵本。
短い夜の終わらない宴に、招かれる客人の話──
「……出して! 私をここから出して!!」
恐怖のあまり叫ぶ。
怖い。なによりも──
段々と心地よくなる音楽が。
両手で塞いだ耳。
シャラリ。
ブレスレットの音。
「──デニス」
出てきたのは、彼の名前。
「……デニスッ! デニスデニスデニス!!」
私はひたすらデニスの名を呼んだ。
その場にしゃがみこみ、ブレスレットの音だけを拾うように、耳に手を当てたまま。
「マリオン?」
「!」
幻聴かと思った、デニスの声。
「マリオン、いるのか?!」
少し遠かったそれは、扉が乱暴に開け離される音と共にハッキリと耳に届く。
「マリオン!」
「……っデニス!」
音楽はもう、聴こえなかった。
「──ここは? どうして君はこんなところに? パーティーは終わったとはいえ、今夜は特別な夜だろう」
「デニス……」
抱き着いて泣き出した私を遠慮がちに抱き締めた彼は、落ち着いてきた頃合いを見計らってそう尋ねる。
(ああ……)
改めて彼の恰好を見て、私はようやく理解した。
今日は半年前の、夏至の夜。
この家にいたのは私だった。
『落ち着いて』と座らせられたソファ。
横に座るデニスに、私は必死で説明を行った。
これまでになにがあったかを、なるべく細かく──幸いなことにデニスは真剣に耳を傾けてくれていたけれど、それは感情的で、説明としては適していなかっただろうと思う。
だが私はあることがとても恐ろしく、怯えていたのだ。
「『忘れないで』、と。 貴方、そう言ってたの……私、なにかを忘れてしまうのかもしれないわ」
ここにいたら、それもきっとおかしくない。
「僕も子供の頃になにか本で読んだことがあるけれど、忘れるのは『現実世界への未練』というか『帰りたい気持ち』とかそういう感じなんじゃないかな」
「やっぱりそうよね」
「なのに、どうして僕はここに来れたんだろう?」
(私が呼んだからかしら。 でも)
「そういえば、貴方は何故ここに?」
「それは……夜風が気持ち良くて『歩いて帰る』と。 そうしたら君の声が聞こえたから……」
「そう……」
礼を言うべきか、それとも謝罪をすべきか。
一瞬迷ってしまって言葉を詰まらせた私がなにかを言うより先に、「こういうのもおかしいけど」というデニスの朗らかな声。
「人に拐かされたんじゃなくて良かった。 ホラ、パーティーだから今日は丸腰なんだ」
彼には珍しく、お道化たように笑う。
『彼女には、僕しかいない』──とりわけ傷付いた言葉を思い出し、あの時とは全く違う意味で胸がギュッとなる。
「君の話を聞く限り、僕は行き来が許されているんだろう。 そのあたりも含め、調べてみるよ」
(だからあの日の翌日、彼は学園を休んだのね……連日の図書館通いも)
おかしいと思っていた諸々が、まるで答え合わせのように繋がっていく。
デニスは嘘など吐いてはいなかったのだ──それこそ、ただのひとつも。
「……もう、行ってしまうの?」
よくないとはわかっていても不安で彼を引き留めると、少し狼狽した様子で目を逸らしてから、座り直した。
「ごめんなさい」
「いや……不安だよね。 もう少しだけ一緒にいよう」
そう言って微笑むも、ぎこちない。
それは最近よく見る彼の表情で、私はどちらの私に対してかわからないまま安堵をした。
少し余分に一緒にいてくれた彼は、暫く近寄らないようにしていた小さなテーブルの上のお茶を見て言う。
「ここで出てきたものに口をつけない方がいい。 食事や飲み物は、僕が持ってくる」
「試しに一緒に出てみよう」と言うデニスと手を繋ぎ外に出ようとするも、やはり無理で。私だけが部屋に取り残された。
これからはただデニスがやって来るのを待つ日々になる、と思うと寂しいし恐ろしい。
なのに、いつの間にか眠っていて。
翌日の朝。目を覚ましたのは、吹き抜けを通り二階へと続く階段の先にある寝室の、柔らかなレースで彩られた天蓋ベッドの上。
穏やかに小鳥の囀る声。
まるで、それが自然なことのように。
それからは、危惧していた通り私は色々なことを忘れて……いや『忘れる』と言うよりも、『気にならなくなる』が正しいのかもしれない。
覚えていないわけではない。
思い出そうとしなくなった。
ただただデニスとの日々が、楽しい。
小花柄のワンピース。
シルクとオーガンジーを重ねたリボン。
人気作家の未読のシリーズ小説。
彼から贈られた素敵な物に囲まれて待っている時間は、愛おしく心弾む。
そして束の間のふたりだけの時間は、私を素直にさせた。
気恥ずかしくて今まで言葉にできなった気持ちを告げ、甘えて寄り添う。
それに伴い、知らなかったデニスの気持ちも聞くことができ、ふたりの距離は自然と近付いたように思う。
これまでにない甘やかな空気に、私は完全に酔ってしまっていた。
その頃の私がどんな気持ちでいたかを知る、唯一の私自身だというのに。
(怖い)
時折そのことに気付いて、手首のブレスレットを撫でさする。
囚われていることに気が狂いそうになるのなら、その方が余程良かったかもしれない。
私は正気を失っていっているのだ。
知らぬ間に、ゆっくりと。
そんなことすら気にならなくなったある日。
「──くしゅんっ!」
くしゃみで目覚めた私がいたのは、森の中の大きな木の下。あたりは薄暗く、急激な肌寒さに身体がブルッと震える。
立ち上がり、思わず身を縮こまらせた私は、周囲を見渡す前に自身の纏う服装の感触の違和感に気付き、視線を落として目を凝らした。
「これは……」
家を抜け出した夜、着ていた服。
「──……ッ!」
袖口の下で、ブレスレットが揺れた。
遠くから呼ばれた気がして、私はそちらの方向へ走り出した。
「マリオン……!」
「ッデニス!!」
飛びつくように抱き着いた私を受け止める、いつもの暖かい彼の胸。
「ごめんなさい……ごめんなさい……っ!!」
まざまざと甦る自身の苦悩──おそらくそれ以上に苦しんでいたはずなのに、どちらの私にも見せないようにしていた彼に、私は声を上げて泣いた。
「謝ることはなにもない……君が無事で良かった」
「うう……ぐすっ……で、でも私、あ、貴方に酷いことを……」
デニスは「酷いことなんて何もなかった」と優しく私の背中を撫でる。
「行こう、皆心配しているよ」
暫く経っても、ぐずる子供のように泣き止まない私の手を引き、彼はゆっくりと歩き出した。
行先は私の家──ファーバー家のタウンハウス。
家の近くまで歩いたところで、慌ただしい気配。『皆』とデニスが言った通り、待っていたらしい両親が駆け寄って出迎えてくれた。
デニスのお父上である、バーリス子爵まで。
「──半信半疑だったがね」
応接間に集まったあと。
心配そうに寄り添う母の横で、ことのあらましざっくりと話した私に、父がそう言う。
なんでもデニスは当初、これを話していいかどうかで躊躇したそう。
「夏至の日の夜に、森であった不思議なことだ……まず『妖精のなにか』だと考えて調べるのは当然だろう? ただ文献には君の話してくれた『客人』だけでなく『祝福』『贈り物』、或いは『悪戯』と沢山あった。 そもそも相手は妖精で、どういう影響があるのかわからないから困ってしまって」
話すことで、不興を買わないかと心配したらしい。
沢山の本から共通する事柄を中心に特性を予想するも、本は所詮本。どこまでなにを信用していいかわからない。
食料品や水のこともあり、ずっと家に隠し通すのは無理だと感じたデニスは、考えに考えた末、『より上位の存在に縋った』そうで──
「教会の懺悔室を借りることにしたんだ」
まずいつも寄進をしている教会に『人に非ざるモノの話をしたい』と漠然と事情を話し頭を下げて子爵様を呼び出したのだとか。
「私も初めは息子がどうかした、と。 しかし真剣に学園の今後の成績のみならず、嫡男の立場まで引き合いに出されては協力するよりなく……一旦、食料品の持ち出し許可までは許し、試験結果を待ったのだよ」
試験は今までにない好成績。
それ以外に図書館で資料を纏めてきたモノを出してきたために、半信半疑のまま私の父宛に手紙を出したらしい。
話は聞いたものの、子爵様は領地に戻らねばならなかった。そのため父への伝達が遅れたそう。父のデニスへの態度の変化はここにあったようだ。
「無論、手紙だけでなく直接話も聞いたよ。 まさか懺悔室に連れていかれるとは思わなかったが……」
苦笑して父は言う。
私がデニスの後をつけるようお願いした家人は皆、父にも報告していたようで。
別の時に森をくまなく探すも家はなく、『もう信じるよりないと思った』と続けた。
「お母様もご存知だったの?」
「いいえ、私は『暫く見守ろう』としか。だから貴女が憔悴していくのを見て、気が気じゃなかったわ」
「申し訳ございません……」
謝罪するデニスに私と母の「「貴方が謝ることじゃないわ」」という言葉が重なる。
顔を見合せて微笑み合ったあと、母は私を子供のようにギュッと抱き締めた。
話し合いが終わった時間は深夜。
『近いから』とお断りになる子爵様とデニスを説得し、客室に泊まって頂くことになった。
皆に気遣われながら私も自室へ戻り、ベッドに入る。だが妙に目が冴えてしまい、眠るのは難しそうだ。
この夜の私の失踪は、時間にしてみれば一時間ほど──終わってみればそれはまさに、私にとって『一夜の夢』でしかなかった、とも言える。
私は結局眠れないまま。
夜が明けるのを待ってベッドから起き上がると、厚手のロングカーディガンを羽織ってバルコニーから外に出た。
明け方の白んだ空。
中庭に出て冬の透明な空気を吸い込んでいると、そこにはデニスの姿。
「デニス」
「マリオン」
既にきちんと着替えているデニスは、困った顔で微笑み私に上着をかける。
聞きたいことや話したいことが沢山ある。
なのに出てこないまま。
差し出された手を取って、ふたりでただ歩いた。
「──ごめんなさい」
「マリオン?」
「あれはきっと『贈り物』とか『祝福』だったから。 私、幸せだったの」
そう、あの家で私は幸せだった。
自分がそれを責めたことも忘れて。
今だってそうだ。
ふたりの私の間に挟まれながら、デニスがどれだけ私のために動いてくれていたかを思うと、胸が締め付けられる。
だがそれは、決して罪悪感からだけではない。
始まりは誰かのせいとは言えない不思議な出来事だとしても、私には咎がある。
夏至の夜に生まれたことや忘れて楽しんだ時間ではなく、全てを理解した今この時すら、そんなふうに感じることに。
「ねぇマリオン」
懺悔のように訥々と語る私の言葉を遮り、デニスはふっと小さく息を吐いて私の名を呼ぶ。
「考えてみて? アレが妖精の『贈り物』や『祝福』だとして。 夏至の日に貰ったとするなら、それは僕のほう……そうだろ?」
デニスの顔を見る。
目が合うと彼ははにかんで、続けた。
「幸せな時間だったよ。 僕にとっても」
──もし本当にそうだったとしても。
彼はそれだけじゃなかった筈だ。
私は泣きそうになりながら、笑った。
★★★
朝食を終えると、バーリス親子は宿泊と朝食の礼を丁寧に述べ、早々にファーバー家を辞すことにした。
親達が挨拶をする横で行儀よく立っていた子供ふたりだが、別れ際に軽く両手を重ねて少しだけ言葉を交わす。
「ありがとう、デニス」
「君が無事で良かった」
短い距離を迂回し、邸宅に戻る馬車に乗る。
デニス以上に寡黙な子爵が、いつもそれをカバーしてくれる夫人を領地に置いてきたため、他人の家に気疲れしグッタリしている。
そんな父に感謝しながらも苦笑し、窓の外に視線を向けた。
デニスがマリオンの帰還に安堵をしているのは事実だ。
だが今朝彼が、マリオンに言ったことも嘘じゃない。
幸せな時間だった。
マリオンへの献身も、マリオンの嫉妬や不安も……その全てが。
デニスから見た夏至の日の夜に事が起こったのといい、やはりあれは自分への『祝福』で『贈り物』だったのだ。
そう彼は確信していた。
ブレスレットのデザインのために、妖精の資料として借りた本のうちのひとつ。夏至の夜の華やかな宴が大きく描かれる横に、小さく載っていたいくつもの御伽噺。
妖精の起こす不思議な出来事は『祝福』であり『贈り物』であり、また『悪戯』であったりと、様々で。
それをお願いする方法や、逆に身を守る方法も書いてあった。
夏至の日の夜生まれたマリオン。
護符であり目印の役割を果たしたブレスレット。
なくなった彼女の手作りのクッキー。
あまりにピッタリと嵌り過ぎていたからすぐに気付いてはいたけれど、確認をしたのはその翌日。
(僕が引き起こしたワケじゃない)
あくまでもアレは偶然だった。
マリオンからの嫉妬や不安をどこか心地好く思っていたのは事実だけれど、それは彼女に相応しい自信がなく引け目に感じる部分があるせいで。彼女の悲しませることに愉悦を感じていた、というのとは根本的に違う。
本当は残されたマリオンにだって、自分の隣で自然に笑っていて欲しかった。
(未熟だった──でも)
そうは思えど、もし仮にそれを上手くできるだけの度量が備わっていたにせよ、そうしたかはわからない。
マリオンの16の誕生日の、夏至の日の夜。
あの森の家で彼が会ったのは、不安を抱えた半年後のマリオンだから。
夏至の夜に会ったマリオンは『忘れるな』『信じて』というデニスの言葉を不安がったけれど、本当に不安だったのは彼の方だ。
昨日は月影の月、二十一日。
冬至であり、半年前の森の家で、マリオンが『ここに来た』と語った日。
森に行って貰わねば困る。
かといって、森で出会ったデニスを拒絶するようなことになっても困る──
もしまだマリオンが自分を好きでいてくれるなら、きっと彼女は森へ向かう。
意味ありげに事情を匂わせ愛を語りながらも、真意の掴めないデニスのことを知るために。
勝算はある。そう思っても恐ろしかった。
昨日を逃していたら、もしかしたら出られなかった可能性はあったのだから。
その時こちらの彼女がどうなっているのかはわからないが、デニスはどちらかのマリオンを──或いは両方を、失わなければならなかっただろう。
元々が不思議な出来事の、ましてや仮定の話。どうだったのかはわからない。
だが少なくとも、彼はそう考えている。
(『最も短くて、終わらない宴』か)
帰路に着くまでの馬車。
デニスは窓から見える森を眺めた。
きっと今頃あの森のどこかで、自分ではない半年前の自分がマリオンと朝食を摂っているのだ──
そんなことを考えて、デニスは瞑目し声に出さず呟いた。
(さようなら、僕だけのマリオン)
「どうした?」
「いや……なんでもないよ」
馬車から降りると、さも解放されたと言うように思い切り伸びをする父を見て少し笑う。
太陽は既に、大分高い。
デニスも伸びをして、眩しさに目を細めた。




