暗黒の遂行者
クラヴィスとリーゼは、向かい合って手を重ねた。演奏が始まると、自然と足が動き出した。
クラヴィスは、リーゼを見つめた。幼い頃から、ずっと傍にいた相手だった。
手を通して伝わってくる彼女の温もり、繊細な動きと気遣い、そして、目の前で優しく微笑むその顔は、いつだって当たり前の様に存在していた。
そんな二人の間で変わってしまったものは、見つめ合うの目線の高さと、一歩引いたところで通わす心の距離感だった。
手を伸ばせば届くことのできる場所にいるのに、気が付けば知り合った頃よりもずっと離れている。赤の他人よりも、遥かに質の悪い他人行儀――それが、二人の今の関係だった。
(私は、彼女のことを愛しているといえるのだろうか?)
踊りながら、クラヴィスは考えていた。
子供の時分から、いつも寄り添ってくれた。困ったときは、助けてくれた。けれども、そういった二人の時間を重ねれば重ねるほど、恋愛というものからは、少しずつ遠ざかっていく様な気がした。
(当然のことのように、私は彼女の優しさに甘えていたのかもしれない)
自分自身と向き合った結末を恐れていたのだ。だが、心は正直だ。その気がないのなら、はっきりとすべきだった。
いつまでも彼女を曖昧な恋慕の錠前で閉じ込めておいたのは――
(私の悪しき人間性、薄弱な意志の現われに他ならない)
そんな私に向かって、今宵の彼女は素直な気持ちをさらけ出して、微笑んでくれている。恐らくそれは、最後に私に向けられた、彼女なりの精一杯の好意なのだろう。
(心が痛い。苦しく、重く、そして悲しい……)
楽団が奏でる音楽と、ふたりの息の合った動きに人々は感嘆のため息を漏らした。
「何と、お美しい!」
「お二人は、いつ、ご婚約をなさるのか?」
耳に入ってくるのは、残酷な言葉ばかりだ。
(私たちは、あと、ほんの少しで、寄せ合った身体を突き放してしまうのに……)
そのようなことを考えたとき、クラヴィスは、ひとりの男と目が合った。男は笑っていた。
「クヒヒヒヒ……」
笑いながら一歩、また一歩と、歩み寄ってきた。
「クヒヒ、イーヒッヒッ」
笑いながら、目は笑ってなかった。
「皇太子に近づけるなっ!!」
警護役のネルセンが叫んだ。
兵士たちが群がり、頭を地面に押し付けられると、男は悦びの声をあげた――
「イヒーッ、腐っている! 腐っているぞおおおっ!! クヒヒヒ……」
シルフィエッタは、ぞっとした。
(恐らく、魔法薬の過剰摂取による、精神障害だろう……何事もなくて良かった)
そう思った次の瞬間、シルフィエッタは、信じられない光景を目にした。周囲の者たちも皆、動揺した。
先程までクラヴィスと踊っていた筈のリーゼが、クラヴィスに向けて剣を構えていた。
「リーゼ! 何で!?」
(注釈)モブだって、みんな生きている
本編で兵士たちに取り押さえられた男……その名をルゴス・ウエイストという。
若くして、優しくて気立てのいい妻を娶った彼には、公にはできない性癖があった。それは、愛する者を殴りたくなる衝動に駆られるというものであった。
ある日、些細な事で妻に手をあげた彼は、失禁してしまう程の快楽を覚えてしまい、以後毎日のように妻に暴力を振るった。
程なくして、妻は自ら命を絶つ。この時、もう既に精神に支障をきたしていた彼は、変わり果てた妻の姿を見て、叫んだ――
「なんてことだ! 腐っている……腐ってやがるぞ!!」
そして、心神耗弱になった彼は、捨て駒にされてしまうのです。
本編では『ある男』でしかない彼にも人生があり、彼もまたアストライアという大陸の住人の一人なのです。




