哀愁の牛若丸 悲劇の大関大ノ里
令和の大の里が横綱としてクローズアップされている今だからこそ、相撲の神様の異名をとった初代大ノ里のについても知っておいてもらいたく、略記を纏めました。専門家には及ばないまでも、技の解説も入れているので、ビギナーの相撲ファンにも興味深く読んでいただけると思います。
相撲の世界には今も昔も小兵の名人というのが必ず現れ、まさに「柔よく剛を制す」を地でゆく勝ちっぷりで大男を土俵に這わせる胸のすくような一番を披露してくれる。
近年の宇良や平成の舞の海などはその好例で、勝てば勝ったでもちろん盛り上がるが、仮に負けたとしても、恐るべき反射神経とバランス感覚で土俵狭しと動き回って相手力士を翻弄する姿を見ているだけでも十分に楽しめる。
そういう意味では役得といえるかもしれないが、長い目で見れば、所詮土俵の引き立て役に過ぎず、本気で小兵名人に横綱、大関を期待する好角家など皆無に等しい。運よく三役に上がれば儲けもので、上位力士が相手となると下位には通じた奇策もほとんど通じず、ファンの関心事はおおむねどれだけ長い時間土俵に留まっていられるかという一点に絞られる。
ところが大正末期から昭和初期にかけて、一六四センチ九〇キロという力士としては超小型にもかかわらず大関にまで昇進した男がいる。それが”相撲の神様”の異名をとった名人力士大ノ里萬助である。
明治二十五年四月一日、青森県南津軽郡藤崎町で生を受けた天内萬助は、子供の頃から無類の相撲好きだった。しかし、兄二人が大柄だったにもかかわらず、萬助は周囲からからかわれるほどのチビだったため、力士になるなどは夢物語で、小学校卒業後は野良仕事に精を出していた。
ところが同郷の十両響矢が巡業で帰省してきた際、川辺駅で地元の名士たちから取り囲まれて歓迎されているところを偶然目のあたりにし、その颯爽とした姿に見惚れてからというもの、いてもたってもいられなくなった。両親の許可を得て上京した萬助は、無理を承知で若松部屋の門を叩いた。
当時の若松親方は行司の木村一学だった。幸い非常に温厚で人の良い親方だったので、萬助の熱意に押し切られた形で入門を許可してくれた。親方が行司だけに直接相撲を教わることはできなかったが、人の何倍も雑用をこなし、先輩力士の身の回りの世話もまめまめしく行ったおかげで、先輩受けは良く、出稽古先でも「鼠」と呼ばれて可愛がられた。
入門は遅かったものの、相撲勘は良く、序ノ口から幕下までは各段一敗以内で通過し、大正二年一月の初土俵からわずか七場所で十両の座をつかんでいる。
大正五年五月場所、新十両の大ノ里は後に兄弟弟子となる出羽海部屋のホープ、常ノ花、福柳を破る活躍(五勝〇敗二分)で翌場所の番付では三人の中でトップに立った。十両上位でもたついたため、入幕は最も遅かったが、入幕二場所目の大正八年春場所は八勝一敗一預で準優勝し、好角家の間でも小兵名人としてその名を知られるようになった。
その一方で春場所の好成績によって、以前から折り合いが悪かった兄弟子八甲山を番付でも抜き去ったため、余計に部屋での居心地が悪くなり、九年夏場所を最後に、先代若松親方の死後に門下の力士たちとともに受け入れてもらった湊川部屋からも去らざるをえなくなるというトラブルにも見舞われた(八甲山から殴られて負傷したとも言われている)。
移籍先がなかなか決まらず途方に暮れていた彼に声を掛けてくれたのが、元常陸山の出羽海親方だった。若い自分、自身の粗相から部屋を飛び出し、大阪で逐電していたという苦い経験がある出羽海は、才能のある大ノ里が感情的になって自らの前途を閉ざしてしまうのは惜しいと考えたのだ。
大ノ里にとってこの移籍は願ったり叶ったりだった。大錦、栃木山の両横綱に大関常ノ花といった強豪力士がズラリと番付上位に並ぶ出羽海部屋で稽古をつけてもらえたことで、女性人気抜群の男前横綱鳳から金星を挙げるなど大物食いの片鱗は見せていても、上位で安定した成績を残せず伸び悩んでいた小兵力士は、さらに一皮剥けることができたからだ。
大正十年夏に七勝二敗で八枚抜いて初の三役(小結)に昇進すると、翌年春は六勝五敗で関脇となり、そこからはトントン拍子だった。ちなみに大正十一年春場所の番付は、西の正横綱に大錦、張出に栃木山、関脇に大ノ里、小結に大門岩と全て出羽海部屋の力士が独占していた。翌場所に大錦が突然廃業したため、横綱、大関、三役独占は一旦途切れるが、十四年夏場所にも横綱に栃木山、常ノ花、大関に大ノ里、関脇に常陸岩、小結に福柳と再度の番付上位独占を成し遂げている。
大ノ里が大関に昇進したのは大正十三年五月場所後のことである。同年一月場所、七勝二敗一分、五月場所、九勝二敗(準優勝)で大関昇進というのは少し甘いと言わざるを得ないだろう。五月場所こそ横綱西ノ海に勝っているものの、一月場所は相手方の横綱、大関が揃って休場していることを考えると、内容的に物足りない気がする。それでも昇進出来たのは、同部屋の大関常ノ花が一月場所後に横綱に推挙され、大関が一人になったことによるもので、いい巡り合わせだったといえよう。
大関としてはほとんど優勝争いに絡むこともなく平凡な成績に終始したが、この小躯で七年間も大関の地位を守りぬいたことだけでも賞賛に値する。それも三十二歳という高齢での昇進であればなおさらである。
栃木山、常ノ花の両横綱、後の大関常陸岩、三役級の福柳、山錦という強豪が同部屋という恩恵があったにせよ、年を食った小兵力士が大関の地位を守るのは容易なことではない。
小兵の業師は大関になれないというジンクスを破った大ノ里と、関脇止まりだった他の小兵力士との大きな違いは、小型軽量でありながら押し相撲でも他の力士に引けを取らなかった点にある。
これは歴代横綱の最軽量でありながら、太刀山の引退以降は無敵の感があった兄弟子栃木山に稽古をつけてもらったことが大きい。
軽量の力士が重量級の力士の褌を取ると、通常は自分の褌を取らせないように腰を引くか、腰を落として頭をつけるものだが、大ノ里は腕を返して相手の懐に腰をねじ込むように入ってゆくのだ。こうすると相手がいくら体格と腕力で勝っていても腰が伸びきってしまって力が出せない。
部屋のぶつかり稽古でも、大ノ里が右を差したが最後、栃木山でさえ容易には前に出ることができず、本場所では見ることができないこの両者のせめぎ合いは芸術的ですらあったという。
また大型力士に対しては、小兵力士の常で目まぐるしく動き回りながら、はたきやいなし、足技などもよく用いたが、“神様”はこの点においても他とは一味違っていた。
三役あたりまではスピードにモノを言わせた変化技もある程度通用するが、横綱、大関クラスともなると、そのうち取り口を読まれてしまう。そこが多くの小兵力士にとって越えられない壁だった。
ところが大ノ里はボクシングでいうところのウィービングやダッキングをしながら間一髪で相手の攻撃をかわすため、無駄な動きが少なく即座に反撃に移れた。後退しながら攻撃をかわすタイプの力士は、回転の速い突っ張りや速い踏み込みで逃げる方向に追いかけられると、逃げ切れずに土俵を割る危険性と常に背中合わせになるが、大ノ里は最初の張り手や差し手を最小限の動作でかわしてしまうため、相手がバランスを立て直す前にはたき込んだり、側面に回りこんで出し投げを打ったりすることができたのだ。
狭い土俵の中で褌に触れさせずに巨漢力士を翻弄するさまは、まさしく”今牛若丸”だった。
昭和四年春場所、巨漢男女ノ川との初対決では、強烈な突っ張りを首をすくめてかわした直後のはたき込みで秒殺している。この時三十八歳で力士としては下り坂にあったにもかかわらず、この後の横綱に対して通算で六勝五敗と勝ち越しているのだから大したものだ。
「大ノ里関は小兵でありながら押す、はたく、突き落とす、渡し込む等千変万化で正に正攻的な手取り相撲(技の名人の意)であったが、私の敬服するのはそんな変化の早業だけではない。この人の本領は敵のはたきを食った瞬間に必ず首を縮めて対手の虚につけ入って押し進むという-中略-それが何時も判で押したように決まっていた。その妙技はどうにも真似できるものではなかった」―幡瀬川談―
大ノ里の相撲を手本として腕を磨き、後に”相撲の神様二世”と謳われた幡瀬川でさえ、亀のように首をすくめて張り手やはたきをかわす技術だけは真似出来なかったというから、既存の奇手・妙手を自由に操れるだけでなく、こういう他者の真似できない専売特許を持っていたことが、大ノ里と関脇が上限だった他の業師との差だったのかもしれない。
また大ノ里は、前に出てくるのか下がるのか読みにくい力士だとも言われた。
仕切りには時間をかけてじらしながら、結構フェイントもかけてくるため、相手は次第にいらだってくるうえ、変化するのかしないのか考えているだけでも精神的に混乱してしまう。
その一方で相手の出方に対する観察力と読みが鋭く、相手が思いっきり当たってくると確信した時は、その突進力を利用していとも簡単に突き落とすし、相手が変化を警戒して受けて立ちそうな時は、踏み込んで筈押しという得意の体勢にもっていってしまうのだ。
相手の動きが最初からわかっていたかのような余裕たっぷりの引き技がよく決まったのは、押す力が結構強かったからで、変化を警戒して大ノ里の突き押しを受け止めてしまおうものなら、栃木山仕込みの速攻の筈押しで身体が浮いてしまうのがオチだった。
仮に先に差されたとしても、相手の出足に合わせて下がったり、左右に回りこむ足さばきが巧みで、攻めている方が逆に振り回されてしまうようなことがよくあった。直線的な出足の早さは栃木山と互角でも、円を描くようなフットワークは明治期の名人逆鉾と並んで角界随一と言われただけのことはある。
その代わり、読みが外れて相手の突きやぶちかましをまともに受けてしまった時は、軽量ゆえに一気にもってゆかれることが多かった。
対横綱戦に限れば、鳳に一勝〇敗、西ノ海に三勝一敗、宮城山に六勝八敗となかなかの健闘ぶりが伺える一方、先輩大関の千葉ヶ崎には〇勝七敗一分と歯が立たず、三役クラスでも自身と同じく小型軽量の業師である清瀬川(十一勝十二敗一分)や幡瀬川(三勝六敗)には分が悪かったため、一場所に必ず二、三番は取りこぼしがあり、優勝には手が届かなかった。
清瀬川は天敵と言えるほど栃木山を苦しめた力士であったため(大正十年以降はほぼ互角)、取り口が似ているぶん、相性も悪かったのだろうが、大ノ里を手本としていた幡瀬川には取り口が研究されつくしていたため、どうもやりにくかったようだ。
大関在位八年は評価できるとしても、二十四場所中十場所が六勝五敗というぎりぎりの勝ち越しであり、今日では大関陥落となる二場所連続負け越しを二度記録していることからも、強い大関だったとは言い難い。それでも人気があったのは、ファンに相撲の真髄を心ゆくまで味わわせてくれたからに他ならない。
最高成績は昭和二年五月場所、五年三月場所の九勝二敗でいずれも準優勝に終わっている。
昭和七年一月、春秋園事件で東京相撲を脱退すると、盟友天龍とともに関西角力協会を設立し、四十歳の老骨に鞭打って土俵を務めるかたわら、協会取締として運営に尽力した。
しかし、人材不足もあって深刻な経営難に見舞われた関西角力協会は、ついに自力での興行が不可能になり、大ノ里が二十四年の現役生活にピリオドを打った翌年(昭和十一年)をもって、かつて袂を分った東京方に再び合併吸収されることが決定した。
故郷の田畑を含む個人資産のほとんどを運営費用として投入していた大ノ里は、全てを失ったうえ、巡業先の大連で肋膜炎を患い、そのまま現地で療養することになった。煙草好きが災いしたのか病状は一向に回復に向わず、大阪に残した妻子とは別居状態が続いたが、人望の厚い大ノ里の窮状を見かねた東京の力士会が見舞金を送る一方、後援者の出資により夫人が東京の芝田村町で喫茶店を経営することになり、何とか家族の生活のめどはついた。
当時から公然の秘密だったが、病床の大ノ里の生活を支えたのは、大連市浪速町にあった行きつけの料亭『蝶々』の女将、つまり大ノ里の愛妾であった。
昭和十三年一月二十二日の夕方、大連の赤十字病院で『蝶々』の女将に看取られて息を引き取った大ノ里の葬儀は、日本から渡航してきた家族や相撲関係者参列のうえで同地の本願寺別院にて盛大に行われた。
最愛の人を亡くした女将もまた生きる気力を失い、後を追うように数年後にその地で亡くなったという。
初代大ノ里は数奇な運命をたどった末に、四十五歳の若さで異国の地に倒れ、近年では忘れ去られた存在になっていたが、約90年ぶりにその四股名は継いだ二代目が先代の届かなかった横綱となり、久方ぶりに大ノ里の名を世に知らしめた。二代目が土俵で輝けば輝くほど、悲劇的な相撲人生をたどった先代にとっても良き供養となることだろう。
私の親族の中には、相撲好きが高じてとある横綱の仲人を務めた者や横綱と飲み歩いていた者もいたせいか、子供の頃より相撲への関心は高かった。社会人になって親族が著した相撲関係の評論を読んだのを機に、様々な文献を集めて、歴史に埋もれかけた力士のエピソードを後世に残したいと思い立ち、暇にまかせて雑文を書いてきたものがある程度溜まったので、少しずつ紹介してゆければと考えている。