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【第二章:旅の礎】 第三話:踏み出す力

 フェンデリア学術協会の一室を後にしたクララの足取りは、軽やかだった。先ほどまでの緊張が嘘のように、その頬には安堵と高揚の入り混じった笑みが浮かんでいる。


「今後もこのような“自然現象”についての知見をお貸しください。いずれ正式な依頼として提示させていただきます」


 あの言葉が、彼女の胸に今も残響していた。まるで、自分の居場所がこの世界にもあると告げられたようで。霊唱術を学びたい、言葉をもっと理解したい。その思いを口にした日から、ようやく一歩踏み出せたような感覚だった。

 だがその隣で歩くリオは、明らかに落ち着かない表情を浮かべていた。


「……俺も、何か始めなきゃって思った」


 ぽつりとこぼれたその言葉に、クララは目を向けた。


「うん?」

「クララが頑張ってるの見てたらさ、俺も……やれること、やらなきゃって。食費とか宿代とか、なんとなく気になってさ」


 自嘲気味の笑みに、クララは小さく首を振った。


「そんなこと、気にしなくてもいいのに。でも……気持ちは分かるよ」


 この街での生活も、すでに二月が過ぎた。最初こそジルダや他の住人たちの助けに甘えていた二人だったが、少しずつ街の空気にも慣れ、できることも増えてきた。ジルダや宿の住人たちに文字の読み書きを教わりながら、言葉への理解も深まりつつある。クララは読み書きの習得に励みつつ、知識の断片を小遣い稼ぎに活かし始めていた。


 一方のリオは、まだ“自分の役割”を見つけられずにいた。


「戦うのは得意じゃない。でも、荷物運びとか、護衛の手伝いなら……できる気がするんだ」


 リオは、契約従事者連盟で貼り出された依頼書の数々を思い出していた。剣を振るう冒険者ばかりではない。馬車の警護、品物の搬送、使い走り──どれも地味ではあるが、確かに“必要とされる”仕事だった。


 契約従事者連盟──それは、傭兵や冒険者、護衛といった実務従事者たちが所属し、依頼を仲介する民間の職能団体、いわゆる冒険者ギルドである。


「明日、連盟に行ってみる。何かできること、探してみるよ」


 その言葉に、クララは静かにうなずいた。


「うん。リオにできること、きっとあるよ」


 日が傾き始めたサヴェルナの街角。赤く染まる石畳の上を、二人の影が並んで伸びていく。

 それぞれの“役割”を求めて、彼らは再び動き出す。


 翌朝。まだ朝靄の残る時間、リオはひとり連盟の前に立っていた。

 建物の中では、すでに幾人かの冒険者や労働者風の男たちが依頼掲示板の前で集まっている。ざわついた雰囲気に圧倒されながらも、リオは足を踏み入れた。

 掲示板には、今日も変わらず大小さまざまな依頼が並ぶ。その中で、ふと声がかかった。


「おい、そこの若いの。荷運びじゃねえ。護衛の方で、あと一人だけ足りねえんだ」


 声の主は、粗野だがどこか誠実そうな中年の男だった。背後には荷馬車が数台、荷を積んだまま待機している。


「どんな依頼なんですか?」

「街道沿いの村までの往復。荷馬車の警護。道は長いが、急ぎだ。剣が振れなくても構わねえ。目を光らせてくれるだけで助かる」


 逡巡する暇もなく、リオは頷いた。これは、まさに“できそうなこと”だった。

 こうして、彼の初めての依頼が始まった。


 道中は穏やかだった。最初の数日は緩やかな丘陵と広がる麦畑の中を進み、宿場町で一夜を過ごす。

 だが四日目の昼、森を抜ける手前でそれは起きた。


 道の脇から突如として飛び出してきた黒い獣影。牙をむき、荷馬に向かって突進してくる。


「伏せろ!」


 誰かの怒声と共に、仲間の護衛が剣を抜き、応戦に向かう。リオは咄嗟に荷馬の手綱を引き、後退させようとするが、身体が震えて動けなかった。


「シャドウウルフだ! 気をつけろ、あれは群れで来ることもある!」


 護衛の一人が叫ぶ。獣はただの狼ではなかった。毛並みに異様な黒光りがあり、目は血のように赤く、爪も尋常ではない長さ。


 シャドウウルフ──闇に紛れて獲物を襲うことで知られる魔物であり、その俊敏さと執拗さから旅人にとっては悪名高い存在だった。


 護衛たちは善戦するも、獣の跳躍力と敏捷さに苦戦を強いられていた。仲間が二人がかりで連携し、背後を取ってようやく撃破することができた。

 その間、リオは剣も持たず、術も使えず、ただその場に立ちすくんでいた。


(俺……何も、できない)


 その無力さが、胸に重くのしかかる。

 幸い、商人の一行に大きな被害はなく、依頼は継続された。

 帰路の途中、荷馬車の隣で焚き火を囲む静かな時間に、リオは護衛のひとり──初老の男に声をかけられた。


「お前、今日が初めてだったな?」


 リオは頷き、俯いたまま答えた。


「はい……。何もできなくて……ただ怖くて、動けなかったんです」


 男は火を見つめながら、しばらく黙っていた。


「剣が使えねぇなら、それでいい。ただ、動ける体だけは作っとけ。最低限、自分の命を守れるだけの筋力と反射神経。それが“盾”になる第一歩だ」

「盾……」

「そうだ。戦えなくても、人の前に立つ覚悟さえあれば、それだけで意味がある。だがその覚悟を支えるには、やっぱり体がいる」


 リオはその言葉に、初めて自分にも“できること”があるような気がした。


「サヴェルナの連盟には訓練所がある。入門者向けの鍛錬なら、誰でも無料で教えてもらえる。時間があるなら、通ってみろ」


 男はそう言って、手元の干し肉を割きながら笑った。

 契約従事者連盟では都市の規模に応じて訓練施設を併設しており、サヴェルナでは初心者への指導にも積極的だった。


「最初は誰だって怖ぇもんだ。でも、踏み出せば少しずつ変われる」


 焚き火のはぜる音の中、リオは小さく「はい」と答えた。


 翌日、リオは連盟の受付で訓練所への参加を申し出た。


「初級訓練ですね? 体験希望者は午前と午後に基礎訓練があります。空いている時間に自由に来てください」


 職員は事務的ながらも親切で、道具の貸し出しや更衣場所の案内まで丁寧にしてくれた。

 訓練所の広場では、年齢も性別もさまざまな人々が体を動かしていた。剣の素振り、木人相手の打ち込み、そして素手での格闘技。リオは基礎体力の講習を選び、まずは柔軟と持久走、筋力トレーニングから始めた。


 初日は全身が悲鳴を上げるほどの負荷だったが、不思議なことがあった。

 二日目、三日目と通ううちに、明らかに体が軽くなっていくのを感じたのだ。


「おい新人、回復早すぎねえか? もう筋肉痛、引いてんのか?」


 同じ時間帯に訓練していた若者が肩をポンと叩いてきた。リオは驚きつつも照れくさそうに笑い返す。


「たぶん、そうみたい……。自分でも、ちょっとびっくりしてる」


 その若者──背が高く、赤茶の髪を短く刈り込んだ少年は、にっと笑って拳を突き出した。


「頑張れよ、リオ。今日も一緒にやるぞ」

「ああ……ありがとう」


 小さな友情が、そこに芽生え始めていた。


 この地の空気は、リオにとってどこか重たく、肌を撫でるだけで微かな圧と熱を感じさせる。それは高密度のマナに満ちた環境特有のものであり、彼の身体は日々それを蓄積し、変化し始めていた。


 この世界は、リオたちの出身地とは根本的に異なり、空気や大地そのものにマナが常時漂っている。そこへ転移してきた者は、例外なく、乾いたスポンジが水を吸うようにマナを体内に取り込み、内包するようになる。リオもまたその一人であり、今や彼の身体には通常の人間ではあり得ない量のマナが宿っている。


 この豊富なマナの内包が、訓練による筋力や持久力の成長速度を著しく押し上げていた。元の世界では決して実現し得なかった身体能力が、今まさに、彼の内側から築き上げられようとしていた。


 リオの体は、特にこの世界に生まれ育った者たちと比しても、驚くほどの速さで変化していた。

 講師の指導の下、基礎格闘術も始まった。構え、踏み込み、受け身、回避。そして拳の突き方。


「まずは倒すんじゃなく、立ち続けることだ」


 その言葉に、リオは深く頷いた。

 まずは基礎を鍛え上げること──それが何よりも大切だ。そうした信念が、今のリオには芽生えつつあった。


 この日も、訓練が終わった帰り道。夕暮れの坂道を一歩一歩踏みしめながら、リオは自分の掌をじっと見つめていた。

 確かに、変わり始めている。クララのように、今すぐ何かを成せるわけではない。それでも──


「……俺も、前に進めるかもしれない」


 そう呟いたリオの背中には、かすかに迷いがありつつも、確かな意志の光が宿っていた。


 一方その頃、クララはフェンデリア学術協会との連絡を地道に続けていた。

 現地の言語は未だ完全とは言えないが、ジルダや宿の住人たちの助けもあり、文書の読み書きには少しずつ自信が持てるようになっていた。彼女は高校で学んだ物理や化学の基礎知識を活かし、学術ギルドが手を焼いている未解明の自然現象に対して、解釈や仮説の提供、資料への注釈追加といった形で協力していた。


 たとえば、物体を動かす力の計算や滑車・てこの仕組み、重力と加速度の関係といった運動の基礎理論。さらには、水車や風車によるエネルギー変換、鉄の錆び防止や燃焼に必要な酸素の存在など、彼女が高校で学んだ初歩的な知見だった。クララはそれらを元に、鉱山での荷揚げ効率の改善や水車の出力強化、黒鉄製品の耐久性向上といった実用的な助言を行い、小規模ながらも確かな成果を挙げていた。


 その内容は、この世界ではまだ定着していない概念ばかりだったが、学術協会の一部の研究者たちの興味を引き、徐々にクララの名は「異郷の視点を持つ知識人」として知られつつあった。


 ある日、クララが提出した報告書に関して、直接意見を交わす機会が訪れた。対応に現れたのは、学術ギルドの魔導師と名乗る中年の男だった。


「君の理屈は独特だな。だが、構造は整っている。霊唱術でもなく、錬金術でもなく──もっと根源的な法則に基づいているように思える」


 男はそう言い、クララに鋭い視線を向ける。


「雷はどうして生じるのだろうか?」

「……雷って、雲の中の氷の粒や水滴がぶつかり合うと、“電気”というのが発生して──それであの音と光が生まれるのよ」


 思わずクララが答えると、男は目を細めて笑った。


「……“でんき”? 聞いたことのない語だな」


 男は眉をひそめながらも、興味を引かれたように頷く。


「目に見えずとも、力を生む何か──そういう概念か。君の説明を聞いて、腑に落ちたという者もいた。なるほど、確かに理屈はあるようだ」


 そこで男はふと調子を変える。


「ところでクララ。君は“魔法”というものに、興味はあるか?」


 突然の問いに、クララは目を見開いた。霊唱術とは異なる“魔法”──この世界にある術理の別系統。その存在を、クララはこれまで詳しく知らなかった。


「……あると思います。正直に言えば、もっと多くのことを知りたいんです」


 魔導師は満足げに頷くと、彼女に分厚い参考書のような資料を手渡した。


「では、これでも読んでみるといい。君なら、面白い視点をくれる気がする」


 クララはその本を胸に抱え、学びの扉がまたひとつ開いたような予感を覚えていた。


 それからの三か月、リオとクララはそれぞれの道で地道な努力を重ねていた。

 リオは訓練所での鍛錬を続けながら、昼間は軽作業や短期の護衛任務を請け負って銅貨や銀貨を稼いだ。木材の運搬や市場の荷積み、時には町の外れまでの小規模な護送任務も受け、汗をかきながらも誠実に働く姿は、次第に契約従事者連盟内でも知られるようになっていった。


 一方、クララもまた学術協会からの依頼を継続してこなし、信頼を積み重ねていた。物理・化学の基礎知識を応用した実用的な助言に加え、未整理の観測記録の考察や論文草稿の校正といった、より高度な作業も任されるようになっていた。


 二人は生活費を切り詰め、朝はパンとスープ、夜は野菜中心の簡素な食事で済ませる日々を送った。宿も安価な共同部屋を選び、洗濯や掃除もすべて自分たちでこなした。


 リオは週の半分を軽作業に、残りを護衛任務に充て、日々銅貨三〇~一五〇枚程度の報酬を得ながら身体を鍛え続けた。後半には荷馬車の護送や郊外農村までの護衛などもこなすようになり、銀貨一枚前後の報酬も得るようになっていた。連盟の仲介員からは「律儀で働き者」と呼ばれ、信頼を得ていった。


 一方クララは、週五日、午前から夕方まで学術協会の文書整理や実地考察の依頼をこなし、後半には報告書の校正や考察も任されるようになり、報酬は一日あたり銅貨一五〇〜二〇〇枚にまで上昇していた。

 こうして二人は、一枚一枚の銅貨を積み重ねていった。三か月で十三枚の金貨を目標とし、そのうち一枚は制服代や教科書代に充てる予定だった。ジルダの伝手で安価に手に入れた食材を活用し、出費を極限まで抑える生活が続いた。


 やがて──


 ある日の夕暮れ、宿の一室で、二人は小さな木箱を開けて積み上げた硬貨を一つひとつ数えていた。


「……十一、十二……十三」


 クララの声に、リオは深く息を吐いた。


「やったな……」

「うん、ついに……金貨十三枚。入学に必要な額に加えて、制服や教科書の費用も、これでなんとかなるはずだよ」


 顔を見合わせ、自然と笑みがこぼれる。

 地道な努力と節制の末に、ようやく手に入れた成果だった。


 その夜、簡素な夕食の席で、リオがぽつりと呟いた。


「クララが本当にすごいのは、諦めなかったことだよ」


 クララは苦笑しながら頷く。


「それはお互いさま。……でも、本当に、ここからが始まりだね」


 これまでの三か月は、ようやく“踏み出す力”を手に入れるまでの準備期間にすぎなかった。

 そして次なる扉は──いま、静かに、しかし確かに二人の前に開かれようとしていた。


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