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【第五章:深淵を超えて】第四話:やさしき断罪

 出発は、あの夜から一日が明けた翌朝だった。術理学院の講師や生徒たちは、日の出前に〈月影亭〉へと集まり、最後の打ち合わせと準備を整えると、リオたちはそこから一行となって出発した。


 リシュリナとイルザも同行していたが、彼らはファイン家の屋敷手前に待機することとなっていた。学院との連絡を保つための要員として、万が一の事態に備えるためである。二人は魔力通信石を携え、離れた位置から事態を見守る役を担っている。


 ファイン家の屋敷へと向かう道を、朝の光が柔らかく照らしていた。リオとクララの歩調は早くもなく遅くもなく、ただし確かな意志を伴っていた。その後ろには、術理学院の精鋭たち──ルヴェリス、サール、イシュラン、フレア、オルファス──が沈黙のまま続いている。そして、なぜか本来関係のないはずの伊織まで、当然のような顔でついてきていた。


「伊織さん、本当に来るんですか?」と、クララがやや呆れた声で振り返った。


「お守りだ。あれは、妻から預かった大事なもんなんでな。ちゃんと回収せんと……夜も眠れん」


 伊織は半ば冗談のように笑ったが、その目の奥には何か別の決意が見え隠れしていた。


 ファイン家の門は、前回よりもはるかに重々しく、禍々しい気配を漂わせていた。以前リオが斬ったはずの門だったが、まるで断面がピッタリと接合されたかのように、何事もなかったかのように元通りになっている。結界は視認できぬまでも、その場に立っているだけで肌が粟立つほどだ。


「前回よりずっと強い……」フレアが息を呑む。


「けれど、ここを越えなければ始まらないよな」リオは静かに呟き、柄に手をかけた。


 サールとオルファスが小声で結界の性質を解析し始め、ルヴェリスは詠唱の準備を整えた。


「行くぞ──」


 次の瞬間、リオの剣が空を裂くように閃いた。地を踏みしめる足の力、振るわれた剣の速度、そのすべてが結界を貫く意志となって収束し、封印された門が音もなく斬り開かれた。


 だが、その刹那。


 クララの脳裏に、黒い波が押し寄せた。意識が掻き乱され、記憶の底に沈んでいた悲しみや恐怖が浮上する。その闇の中から、どこか懐かしい声が囁いた。


「おかえりなさい、クララ……」

「さぁ、一緒になりましょう……もう、ひとりじゃない……」


 足が止まり、膝が崩れそうになる。

 だが、胸元の矢絣(やがすり)柄の布袋が淡く光を放ち、次の瞬間、精神の波は静まり返った。


「……守ってくれたのね」クララは小さく呟いた。


 リオにも精神干渉が及んだが、心に浮かぶのはクララの姿だけだった。その像を見失うまいとする意志が、暗闇を押し返す。


 ファイン家の内部は静寂に包まれていた。だが、歩を進めるごとに空気が歪み、重たくなる。まるで水中を一歩一歩進むような抵抗感が全身にまとわりつき、衣服が肌に張りつくほどの圧がかかる。


 息を吸い込むだけで胸が軋み、呼気は細く長くしか吐き出せない。リオもクララも、自然と肩で息をしながら進んでいた。


 一行は、長く続く廊下を一歩一歩進んでいた。空気はますます重くなり、足を前に出すたびに見えぬ力が全身にのしかかる。廊下の先に待つ気配は、明らかにこの世のものではない。


 肩で息をしながら、リオとクララは歯を食いしばるようにして前へ進む。仲間たちの足音も、まるで深い水底で響くように鈍い。


 やがて彼らは、ようやくその部屋の前に辿り着いた。


 セリアの部屋──その扉の向こうからは、世界がねじれるような感覚が滲み出ている。


 リオたちがセリアの部屋の前に立ったとき、扉はすでに半ば開いており、その向こうは見るも無残なほどに空間が捻じ曲がっていた。内側では、重力が反転しているかのように床も天井も存在せず、虚無の裂け目のような深い闇が広がっていた。


 中央には、異形のセリアの姿がかろうじて浮かび上がっているが、そこへ辿り着くための足場すら存在しない。何か一歩でも間違えれば、そこに飲み込まれて二度と戻れない──そんな、理そのものが否定された空間。


「クララ……来てくれたのね」


 その声は甘く、胸を締めつけるような懐かしさと共に響いた。


「もう、逃げなくていいのよ。一緒になりましょう……あなたの中に、わたしを迎えて」


 セリアの瞳が細く笑みを宿し、空間に柔らかな圧が広がる。


「他の者たちは要らないわ。邪魔をするなら、潰してあげる──」


 その言葉に、周囲の空気が震えた。だが、ルヴェリスが一歩進み、静かに言葉を返す。


「その声に、クララは惑わされはしない。……たとえ幾重の誘惑で包んでも、彼女の心は、あなたではなく“セリア”の手を取る」


「ここから先は、ワシらの出番だ」サールが小さく言い、オルファス、イシュラン、フレアが頷いた。


 彼ら四人が周囲に魔法陣を描き始める。それぞれが異なる理の力──風、土、火、水──をもって空間の制御を試みる。床に刻まれた陣が微かに光を帯び、空間の歪みが徐々に収束していく。


 ルヴェリスが歩み出ると、霊句を静かに詠唱し始めた。


「我は呼ぶ、静穏の精霊フィルヴァスよ──迷える領域に、調律の調べを」


 その瞬間、空間から音が消えた。息遣いすらも沈むように、青白い光がルヴェリスの背後に立ち現れ、螺旋状の風が虚無を埋めるように拡がっていく。揺らいでいた空間が収束し、いびつな断層が一時的に結ばれた。


 だが、その静寂を破るように、セリア──否、堕界体が咆哮を上げる。


「それがお前たちの“清浄”か……浅ましい。哀れで、滑稽だ」

「我が身を蝕む風よ。祈りの名を騙る愚者ども。何も知らぬくせに、フィルヴァスを語るな──」


「黙れ──その名を穢すな!」


 ルヴェリスの声が空間を裂くように響いた。

 しかし、堕界体の声は止まらない。


「フィルヴァス……“安寧の精”か。ふん……腐った水差しに安らぎを求めるとは、どれほど乾いているのだ、お前たちは」

「精霊に縋ることしかできぬ哀れな人間たち……その魂の芯まで、我が声で濡らしてやろう」


 嘲笑、呪詛、蔑み。堕界体の声は、空間そのものを震わせるように響き渡り、仲間たちの顔にも緊張が走る。


 ルヴェリスは目を閉じ、ただ一言を返した。


「その声こそが、滅びの兆しだ」


 歪んでいた扉がまっすぐに見え、虚無の空間にはいくつかの淡く光る“道”が浮かび、リオとクララはその隙を逃さず、部屋の中へと駆け込んだ。


 その中は依然として異形の空間だった。上下の感覚すら曖昧で、重力の軸が捻じ曲がっている。中央には、かつてと同じ姿を保ちながらも、さらに禍々しさと威圧感を纏ったセリアが浮かんでいた。もはや人の姿とは呼べぬその体は、周囲の闇を吸い込みながら脈動し、まるで瘴気そのものが形を取ったかのようであった。長い髪が宙に舞い、瞳は深淵のように黒く、声なき声が室内に響いている。


「セリア……」


 クララがその名を呼ぶと、わずかにセリアの身体が反応した。だがすぐに、堕界体の意志がそれを押し戻す。


 クララは一歩前に出る。喉の奥が渇き、手足が僅かに震えていた。ぶっつけ本番の具現型霊唱術──成功する保証などどこにもない。


 けれど、ここで怯むわけにはいかなかった。自分を信じてくれた仲間のために。なにより、セリアを取り戻すために。


 不安を押し殺し、深く息を吸い込むと、彼女は霊句を唱え始めた。


「聖なる理の声を携えし霊よ──我が願いに応えよ。

汝が清き手にて穢れを断ち、深淵より這い寄る影を討ち祓え。

我と汝、今このとき契りを新たにし、真なる姿をここに顕現せしめよ」


 その声とともに、クララの体内に秘められたマナが一気に解き放たれた。全身を駆け巡る熱と震動。足元から指先、髪の先にまで広がる感覚は、まさに霊素の波動と同調する兆しだった。


 クララの手元に光が集い、そこから“手の形”をした精霊体が浮かび上がった。それは空間を滑るようにしてセリアへと向かい、彼女の胸元に触れる。


 霊体の手が、セリアの中に巣食う堕界体の力を“引き剥がす”ように働きかけた。クララの腕には鋭い痛みが走り、視界が白く霞む。だが霊精の意志は揺るがず、セリアの口から絶叫が漏れ、空間が再び狂い始める。


 その絶叫はやがて、言葉を持った声に変わっていった。


「やめろ……後悔するぞ……お前の子々孫々に至るまで、呪ってやる……!」

「クララ、私を苦しめないで……そんな目で見ないで……」

「このままでは、セリアが壊れる! お前が壊すんだぞ……!」

「……お願い……やめて……愛してるの、クララ……ずっと……ずっと、あなたのことを……」


 呪詛と懇願が入り混じった声が次々と放たれ、空間のゆがみはさらに強まった。それは堕界体の断末魔か、それともセリア自身の叫びなのか。聞く者すべての心に葛藤と動揺をもたらす声だった。


 だがそのとき、異形の身体の奥から、微かに光がにじみ出した。まるで霧の奥に隠れていた何かが、引き寄せられるように輪郭を得ていく。


 光の中から、クララがよく知るセリアの面影が、ゆっくりと──まるで眠りから醒めるように──浮かび上がってくる。


 その姿は半透明の霊体でありながら、涙を流しているように見えた。


「クララ……ごめんなさい……わたし、ずっと、見てたの……でも、どうしても抗えなかった……」


 霊精の“手”はセリアの身体から堕界の穢れを少しずつ剥がし取り、苦悶するような形で本来のセリアを引きずり出していく。


 だが、それに抗うように堕界体の声はなおも響き続けた。


「騙されるな! それは幻だ! お前が見ているのは夢だ、願望だ!」

「手を止めろ……! 契りを斬るな……! 我が声を拒むというのか……!」

「クララ、わたしを拒むの? あなたがいなければ、わたし……もう、生きていけない……」


 甘さと狂気が綯い交ぜになったその言葉は、耳を塞ぎたくなるほどに鋭く、柔らかく、脳裏に焼きついた。


 その中には、かつての学院で交わした些細な会話や、誰にも明かしていない秘密までもが含まれていた。まるで“セリア”そのものが、クララの心を的確に突こうとしているかのように。


「もう少し……!」クララの額には汗が滲む。


 セリアの中で、ほんの一瞬だけ“クララ”と呼ぶかすかな意志が聞こえた。

 だが、完全には引き剥がせない。霊体の手が途中で止まり、もがくようにしている。


「リオ……お願い、斬って……!」


 クララの声が震える。

 リオは剣を握りしめたが、足が動かない。もし斬ってしまえば、セリアまで……。


「……できない……」


 そのときだった。


「やれやれ、甘ちゃんめ」


 静かに響いた声とともに、背後から伊織が歩み出る。その目はまっすぐセリアを見据え、手にした刀を構える。


「魂と魂の縁ってのはな、そう簡単には千切れんのさ」


 一歩、また一歩と進み、刀をわずかに掲げた。


「南無八幡大菩薩──」


 その声と共に、伊織の剣が一閃した。

 空気が裂けるような音が響き、一瞬の閃光が走る。


 空間を断ち、霊体の手と堕界の穢れの間を見事に断ち切る。その瞬間、セリアの身体が弛緩し、堕界体が咆哮を上げながら引き剥がされた。


「今です、ルヴェリス先生!」


 ルヴェリスが高く手を掲げ、封印の霊句を詠唱する。


「汝が名を呼び、理に還す── 迷いし影よ、深淵に還れ。 光に焦がれしうつろなるものよ、ここにて鎮まれ。 聖なる契約により、万象の理を以って、汝を封ぜん──!」


 その言葉とともに、ルヴェリスの前に展開された魔法陣が眩い光を放ち、堕界体は光の檻に囚われ、咆哮を残してやがて消滅した。


 静寂が訪れる。


 クララは気を失ったセリアをそっと抱きしめようとした──そのとき、セリアの瞼がわずかに震え、細く開かれた目がクララを捉えた。


 その身体がわずかに震え、呼吸が浅くなったかと思うと、微かに唇が動き、かすれた声が漏れた。


「……あなたって……本当に……どこまで優秀なつもりなの……?」


 それは、かつてクララを皮肉るようにして言い放った台詞だった。

 だが今のその声音には、嫉妬も毒もなく、ただ感謝と、安堵と、親愛の気配が込められていた。


 クララが何か言い返す前に、セリアは静かに微笑み、深く目を閉じて眠りに落ちた。

 リオはその隣で剣を収めた。


 伊織は、いつの間にか床に落ちていた矢絣のお守りを拾い、そっと懐にしまう。

 その目には、誰にも気づかれぬ小さな祈りの色が宿っていた。


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