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【第五章:深淵を超えて】第二話:断絶のなかで

 セリアからの手紙を読み終えてから、クララの中で落ち着かぬものが燻っていた。そこに綴られていたのは、恨みでも怒りでもない。ただ、彼女の歪んだ愛情と独白――まるで一人芝居のように、クララとの関係を“過去形”で語るセリアの言葉。


「今すぐ、行かないと」


 その一言に、イルザもリシュリナも頷いた。ルヴェリスもまた、この件をクララたち自身に解決させるべきだと考えていた。というのも、セリアが“堕ちた”理由の根底にはクララの存在があり、彼女がこの問題の鍵を握っているのは明白だったからだ。それに、これはクララ自身がもう一段階成長するための契機でもあると、ルヴェリスは捉えていた。もちろん生徒だけでは荷が重いと見て、彼女は既にクララたちと行動を共にしつつ、術式理論科の主任講師サールに補助を依頼すべく学院に向かうよう促した。


 三人とルヴェリスは連れ立って術理学院へと赴き、サールに面会した。


「そうか……もう行くのか」


 サールは軽く頷くと、すぐに立ち上がった。


「想定される魔術的抵抗は強力だ。最低限の準備は必要だな。話したとおり、堕界体と融合した術者などというのは、初めてのケースだ。魔法道具と補助霊素薬をいくつか用意しよう。あとは……念のため、封術具も持参しようか」


 そう言って手際よく棚を開け、封晶の入った小箱や符を詰めた鞄を取り出していく。ルヴェリスも無言で頷き、術式安定のための霊符を数枚渡した。短い準備時間の中で、必要な道具はすべて揃えられた。

 夕方の光が傾きかけた頃、一行は再び〈月影亭〉へと立ち寄り、支度を整え、ジルダに一声かけた。


「気をつけておいでよ」


 いつも通りの口調でそう送り出してくれたジルダだが、どこかその声に、見送りの覚悟のような重みを感じた。


 ファイン家に近づくにつれて、町の喧騒が遠のく。不自然なほどに静まり返った通り。門の前に立った瞬間、三人の背筋に冷たい何かが這い登る。


 ファイン家の門は、通常の扉とはまるで異なる“何か”に変わっていた。淡く光る文様、浮かび上がる封印術式。だが、それが何の術式なのか、誰がどうやって構築したのか――術理学院で学んだ者であっても一目では判別できない。ルヴェリスもサールも、実物を見るのはもちろん、理論上でも前例のない結界であることをすぐに理解した。


「……外から開けることは不可能だな」


 イルザが険しい表情で呟く。


「でも、誰かが……中に、いる」


 クララはそう言いながら、門に手を触れた。その瞬間、ぞっとするような感覚が腕から胸元に駆け抜け、霊素の奥が何かに引かれるように疼いた。

 その“呼びかけ”が、セリアのものだと気づくまで、そう時間はかからなかった。


 次の瞬間、空間が裂けた。正確には、門の文様のひとつが脈打つように明滅し、クララの掌に反応する形で開口した。誰にも予測できなかった事態だった。


「クララ!」


 イルザの声が届く間もなく、彼女の身体はふっと浮き上がるようにして、結界の内側へと吸い込まれていった。わずかに触れていた霊素が、門の術式と共鳴し、クララのみを“選んだ”のだ。


 光が弾けるように門が閉じると、辺りは再び沈黙に包まれた。イルザとリシュリナが駆け寄るが、門は再び完全に閉じ、今度は反応を見せなかった。ルヴェリスとサールが封晶を構えて結界の解析を始める中、クララは、ただひとり、異なる空間にいた。


 そこは歪んだファイン家だった。先日訪れたときの面影はかろうじて残っていたが、屋敷の様相は明らかに変わっていた。壁は黒く脈打ち、湿ったような呼吸音を立てていた。床には知らぬ文様が脈絡もなく描かれ、空間全体がわずかに揺らいでいる。


 視界は暗く、光源らしいものは見当たらない。それでもどこかから光が差しているように、影ばかりがくっきりと濃く存在し、音もなく蠢いていた。


 耳の奥で、金属を擦るような微細な音が絶え間なく響いている。クララは思わず自分の心臓の鼓動と重ね合わせ、これが内からなのか外からなのかを測りかねた。


 息が詰まる。重力が狂ったかのように足元が揺らぎ、誰の声も届かぬ深淵の底へと一歩踏み込んだような錯覚。

 彼女は、独りだった。


「ようこそ、クララ」


 声が響く。静かで、だが確かに届くその声。

 セリアだった。


 術理学院の制服を纏ってはいるものの、その姿はすでに人のそれとはかけ離れていた。肌は不自然なまでに白く、背には漆黒の翼が広がり、漆黒の瞳には赤い光が灯っている。まるで“堕天使”を思わせるその姿は、先日クララが目にした異形の姿とまったく同じだった。その瞳は涙に濡れ、笑みは柔らかくもどこか壊れていた。


「来てくれて、うれしい……あなたに、会いたかったの」

「セリア……あなた……」


 言葉にならない。悲しさとも、怖さとも違う、どうしようもない違和感が胸を締めつける。


「ねえ、クララ。私たち、ずっと一緒にいたでしょう? なのに、どうして……私のこと、拒んだの?」

「拒んでなんて、いない……!」


 即座に否定するが、セリアはその言葉に反応せず、むしろ微笑んだまま歩み寄る。その手が差し出されると同時に、掌に刻まれた紋章が燃えるように赤く光を帯び、空間がわずかに軋み、霊素が引き寄せられるのを感じる。


「あなたと、ひとつになれたら、どんなに幸せだろうって……ずっと、思ってたの」


 足元の文様が光を放ち、クララの足がそこに縫いつけられたように動かなくなる。


「だから……もう、拒まないで。これで、やっと……」


 セリアの影が歪み、背後から異形の腕が伸びる。彼女の身体は、さらに“別の形”へと変わろうとしていた――。


 空間がねじれた。視界がぐにゃりと歪み、クララの意識が深い霧の中へ引きずり込まれていく。


 足元の文様からは波紋のように霊素が立ちのぼり、クララの身体は見えない糸に縫い留められたかのように動けなくなっていた。霊唱術を試そうにも、術の詠唱そのものが霧の奥に溶けていくようで、声が空間に届かない。まるで術の理そのものが、ここでは拒絶されているかのようだった。


「あなたの優しさは……私にとって、呪いだったの」


 セリアの声が降り注ぐ。静かで、しかし確実に胸に突き刺さる言葉。


「笑いかけてくれた。手を差し伸べてくれた。……でも、私以外の誰にも同じように、それを与えてた」


 クララの心臓が強く脈打つ。セリアの姿は目の前にあるはずなのに、声だけが何重にも重なって、耳元にまとわりつく。


「私だけじゃなきゃ、意味がなかった。私だけじゃなきゃ……愛されてるって、感じられなかったの」


 セリアが近づく。彼女の身体には変化が生じていた。足元から這い上がるように黒い靄がまとわりつき、背にある翼はさらに広がり、より禍々しい形へと変じていく。


 そして、下腹部には不自然な突起が生じていた。まるで異質なものが“新たに”形成されているかのように、その部位は男のものに似た輪郭を持ちはじめ、霊素の赤い脈動がそこを包み込むように明滅している。


 クララは本能的な恐怖に襲われながらも、身体が動かせないまま、それを凝視するしかなかった。

 セリアは、そんなクララの目を見て、微笑んだ。


 その手が、紋章の輝きを帯びながらクララの頬に触れようとする。肌に届く寸前、その指先が微かに震えていた。


「それでも……こんな形でしか、あなたに届かないなんて……」


 その言葉に、クララの胸が締めつけられる。声を出そうとしても、喉が凍りついたように動かない。代わりに、ひとすじの涙が頬を伝った。

 セリアの瞳が、わずかに揺れる。


「……ああ、やっぱり、泣いてる顔も……好き」


 その瞬間、クララの胸元に赤い熱が走る。霊素が逆流し、意識が遠のきかける――。


 * * *


 〈月影亭〉の扉を開けると、リオはすぐにジルダの姿を探した。厨房の奥から現れた彼女は、手を拭きながら眉をひそめる。


「クララたちなら、昼過ぎに出ていったよ。ルヴェリス先生やリシュリナ、それにイルザたちと一緒にね。なにか、深刻そうな顔してたけど……」

「どこへ行ったか、聞いてますか?」


 リオの問いに、ジルダは一拍置いてから静かに答えた。


「ファイン家。……あんたも行くんだろ?」


 リオはそれに応えるように、小さく頷いた。胸の奥に、言葉にできない焦燥が渦巻いている。クララの顔が頭に浮かぶ。あの、何かを決意したような、でもどこか脆く見えた眼差し。


(間に合え……)


 ファイン家へ続く石畳を駆けながら、リオは伊織との稽古で何度も繰り返された言葉を思い出していた。


 “雑念は無用。一切迷わず、無念無想に斬れ。構えた瞬間には、もう振り下ろしていると心得よ。”


 やがて、ファイン家の前にたどり着いたリオは、門を前にして足を止めた。

 そこにはルヴェリスが結界解析の術具を並べ、リシュリナが顔を蒼白にして見守っていた。イルザは封晶を手に、何度も門に干渉を試みていたが、そのたびに術式がはじき返していた。


「どうして、どうして入れない……」


 リシュリナの声が震えている。

 ルヴェリスは術式の編み目を読み取ろうと必死だったが、焦りは隠せなかった。額には汗が滲み、その霊素の流れも不規則になりかけていた。


 彼女たちは、すでに手を尽くしていたのだ。

 そして今、最後の手が、ようやく姿を現したのだった。

 リオは剣の柄に手をかけ、ゆっくりと息を吸い込んだ。


「クララが中にいる……」


 確信に近い感覚が、全身を貫いていた。

 門は完全に閉ざされていた。表面には複雑な術式が浮かび上がり、触れる者すら拒むような威圧感を放っている。リオは一歩、二歩と近づき、門の前に立った。


 ――斬れるのか?


 そんな声が、頭の片隅で囁く。


(いや、斬るんだ)


 リオは剣を抜いた。刃に映る自分の顔が、蒼白に歪んでいた。だがその目は、ただひたすらにまっすぐだった。


 構えは自然と定まる。伊織に教わった型――無駄を削ぎ落とし、意志のみを乗せる剣。

 そして、一閃。


 光が走った。無音のまま、術式が裂け、門が割れた。

 まるでそこに初めから何もなかったかのように、結界は霧散し、空間が開かれる。


 リオは迷いなく、その中へと駆け込んだ。


 濃霧のような霊素の膜を突き抜けた瞬間、リオの五感を刺すような圧が襲った。目の前の空間が、じくじくと滴り落ちるように歪み、耳の奥では金属の軋むような音が響いていた。足元が沈みこむように重く、空気には鉄錆のような匂いが漂っている。空間そのものが息をしているかのように、どくどくと脈打ち、音も色も、すべてが歪んでいた。空間そのものが息をしているかのように、どくどくと脈打ち、音も色も、すべてが歪んでいる。


 だが迷いはなかった。剣を下げることなく、リオはひたすら奥へと駆けた。


 広間に出る。かつてのファイン家の居間だったはずのその空間は、もはや異界の一角となっていた。床一面に走る赤黒い魔法陣の文様。天井は歪み、壁は脈打つように蠢いている。


 その中心に、クララとセリアのふたりの若き術士がいた。

 セリアはクララに覆いかぶさるような姿勢で、その顔を覗き込みながら何事かを囁いていた。クララの身体は硬直し、まるで糸を切られた人形のように動かない。


「私たちは……ひとつになるの」


 セリアの声が、広間に小さく響いた。

 リオがその異様な光景を目にした瞬間、全身の血が逆流するような衝撃が走った。セリアの背の翼は濃い影のように揺らぎ、その手には紅い光を帯びた霊素の紋章が灯っていた。


「離れろ……!」


 リオが叫ぶより早く、セリアが振り返った。

 その瞳。黒く深い双眸に灯る紅い光が、リオを射抜いた。視線を交わした瞬間、全身の毛が逆立つような威圧を感じる。だがリオはひるまなかった。


 剣を構える。


「クララから、離れろ……!」


 セリアは一瞬、その表情を緩めた。


「また、あなた……クララを、奪いに来たのね」


 その声は静かだったが、セリアの周囲に歪んだ気配が広がっていった。


 次の瞬間、リオはクララを包むように漂っていた、薄い膜のような結界に突っ込んだ。剣が閃き、光の弧を描く。その一撃が結界の表面を断ち割り、セリアの手がわずかに弾かれた。


 刃が結界に届いた瞬間、空間がわずかに揺らいだ。まるでそれが“待っていた”かのように、霊素が剣を迎え入れたのを、リオは本能で感じた。


 結界が断たれた瞬間、クララの身体が僅かに震え、硬直が解けた。途端に彼女は身を翻すようにして体勢を変え、自らを守るように両腕を抱えながら、後退った。


 リオは剣を納め、すぐさまクララのもとに駆け寄った。


「クララ、大丈夫か……!」


 クララは微かに頷いたが、目には涙が浮かび、唇はわずかに震えていた。


「……ありがとう、リオ」  震える声だったが、それは確かに、自分の意思で発せられた言葉だった。

 セリアは、二人の姿をじっと見ていた。


「……やっぱり、そうなんだ。あなたの目には、私なんて、映らない」


 その言葉とともに、彼女の周囲の霊素が乱れ、黒い靄が全身を包み込んだ。


「さようなら……クララ」


 そう呟いた声が、霧の中に、消えずに残っていた。

 そして次の瞬間、セリアの姿は煙のように霧散した。


 残されたのは、あまりにも深い余韻と、静まり返った広間だけだった。


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