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【第四章:揺らぐ心、目覚めし影】第五話:翼の生えた日

 〈月影亭〉の共有スペースには、言葉を失った術理学院の生徒たちが肩を寄せ合うように集まっていた。誰もが蒼白な顔をし、ただ静かに時が過ぎるのを待っている。セリアに何が起きたのか、それをはっきりと説明できる者はいなかった。ただ、彼女が“何か”に取り憑かれ、もはや元のセリアではなくなってしまったことだけは、皆が肌で感じていた。


 目を赤く腫らしたクララは、ぼんやりと天井を見つめたまま動かない。彼女の肩を、イルザがそっと支えている。


「……ルヴェリス先生を呼びに行こう」


 そう言ったのは、リシュリナだった。普段は飄々としている彼女の声が、珍しく硬い。誰も異を唱えず、すぐに数人が立ち上がって学院へと向かう。


 その頃、ちょうど稽古を終え、汗と埃にまみれて〈月影亭〉に戻ってきたリオは、共有スペースに異様な沈黙が漂っていることに気づいた。


「……どうしたんですか?……何かあったの?」


 誰にともなく問いかけるリオに、最初に顔を上げたのはクララだった。瞳に涙の跡を残しながら、かすれた声で彼女は答える。


「セリアが……変わってしまったの」


  やがて、誰かが「戻ってきた」と小さく呟いた。入口に視線が集まり、足音が近づいてくる。

 術理学院から戻ってきた生徒たちの姿が見える。その後ろに、静かな気配をまとった人物が立っていた。


 白のロングローブを纏ったルヴェリスが、ゆっくりと〈月影亭〉の中へ足を踏み入れる。その姿は静かだが、周囲に圧倒的な緊張感を漂わせていた。


「詳しく聞かせて」


 ルヴェリスの声に促され、生徒たちはそれぞれ見聞きしたことを語り始めた。セリアの様子、彼女が放った異様な魔力、そして追い出された時の恐怖……。それを静かに聞き終えたルヴェリスは、ゆっくりと目を閉じ、ひとつ頷いた。


「これは……“堕界体(だかいたい)”ね。放っておけば、彼女だけでなく、周囲の人間やこの都市すら危うくなる」


 空気が凍りつく。


「……“堕界体”って、なんですか?」


 リオが恐る恐る尋ねた。彼だけでなく、他の生徒たちも同じ疑問を抱えていたようで、静寂の中に緊張が走る。

 ルヴェリスは視線をリオに向け、そして皆に聞かせるようにゆっくりと言葉を紡いだ。


「“堕界体”とは、かつては精霊だった存在が、強い欲望や破壊的な契約によって堕ちた姿──堕落した精霊のことです。元々は森や水、風に宿るような存在だった彼らが、人間の心の闇と交わり、歪んでしまったのです。

 ただし、“悪”そのものではありません。彼らは自然の一部でありながら、理から外れてしまっただけ。世界にとっては腐敗や混乱をもたらす存在だけれど、その在り様は哀れともいえます。

 見た目や力は個体によって異なりますし、人を“堕とす”のではなく、“自ら堕ちて”この世界に留まっている点が特徴です。

 そして、セリアを蝕んでいる存在──それを引き寄せたのは、“渇きの声”と呼ばれるものの影響かもしれません。

 “渇きの声”は、遥か昔、世界の創世と同時に生まれたとされる破壊的な意思。姿は持たず、囁きや夢の中に現れる。人の欲望や恐怖に寄生し、知らず知らずのうちに心を蝕んでいく。 いくつもの名で呼ばれてきましたが、本質は誰にも掴めない。“名を持たぬ者”と呼ぶ者もいますね。

 今回のように、“渇きの声”に心を開いてしまった人間のもとに、それに導かれるようにして堕界体が現れることがあります。セリアの中に生じた渇き──それが呼び水となり、堕ちた精霊が彼女に取り憑いたと考えられます」


 沈黙が、いっそう深くなる。


「でも、まだ手はある。……急ぎ、備えを整えましょう」


 ルヴェリスは静かに言ったものの、その声にはいつになく重たい響きがあった。


「ただし、これは大変に難しい状況です。時間が経てば経つほど、彼女は戻れなくなるのです。わずかな手がかりと、わずかな希望にすがる形になるかもしれません」


 そう告げると、ルヴェリスはすぐに学院の術士たちに連絡を取るよう生徒に命じた。その表情に、わずかながら決意の色が浮かんでいた。


 その日、術理学院と〈月影亭〉の間に、重く静かな夜が落ちた。


 夜も更け、〈月影亭〉の奥から足音が近づいてくる。木の床板が軋む音とともに、稽古着の上に羽織をかけた南雲伊織が姿を現した。


「おいリオ、風呂、すげぇ湯だったぞ。ああいう風に蒸気を逃がす工夫が……」


 そう言いかけた伊織だったが、視線の先に立つルヴェリスを見た瞬間、言葉を失った。彼の動きが止まり、濡れた髪の一房が肩に滑り落ちる。


 ふと、息を呑むように伊織の表情が凍りついた。

 まるで時間が止まったように、視線がルヴェリスの横顔に釘付けになる。

 ──長い耳、金髪、青い瞳、すらりとした体形。

 過去の幻が、一瞬その姿に重なった。


「……そんなはずは……」


 ほとんど無意識に、胸の奥から漏れたその言葉は、かき消されるように静かだった。

 低くつぶやくその声には、かすかな震えがあった。目の奥には、遠い記憶をたぐるような翳りが走る。

 リオが不思議そうに見つめる中、伊織は一拍置き、すぐに咳払いしてごまかした。


「なんでもない。似たような顔を知ってただけだ」


 ルヴェリスは伊織に一瞥を向けたが、特に反応は見せなかった。


 「……あの人、美人ですもんね」


 リオが軽く笑いながらからかうように言ったが、伊織はそれに反応せず、聞こえなかったふりをした。目の奥にはまだ、拭いきれぬ何かが揺れていた。


 その静かな間に、ルヴェリスは再び学院へ戻る支度を始める。彼女の後を追うように、クララやリオも立ち上がる。状況は深刻で、悠長に休んでいる余裕はなかった。


 術理学院に戻ったルヴェリスは、夜の校舎を静かに歩きながら、目指す一室の扉を叩いた。室内から落ち着いた声が返る。


「……開いている」


 そこにいたのは、術式理論科主任講師・サールだった。白髪交じりの黒髪を整え、赤茶色のローブに身を包んだ中背の男。彼は机の上に積まれた巻物と羊皮紙の束を一瞥すると、立ち上がることもなくルヴェリスを見つめた。


「こんな時間にどうしたのかね。顔色を見る限り、ただ事ではなさそうだが」


 ルヴェリスは頷き、要点を端的に説明した。


「堕界体が、術理学院の生徒──セリアに憑依した可能性が高いのです」


 サールの眉がぴくりと動く。


「……渇きの声か」


 それきり、室内はしばしの沈黙に包まれた。

 やがてサールは静かに言った。


「論理に従えば、解はある。堕界体そのものなら、封印や追放の術式で対処は可能だ。

 だが今回は、術理学院の生徒の肉体がすでに乗っ取られている。……これは想定外だ」


 サールは腕を組み、ゆっくりと言葉を選ぶ。


「精霊の力を帯びた存在が、人の身に融合してしまったとなれば、単なる封印では術者ごと閉じ込めることになる。つまり、救出と排除の両立──矛盾した術理が求められる。常識的な術式理論が通用しない事態だ」


 ルヴェリスは言葉を継いだ。


「それでも、誰かが対処しなければ。私はイシュランとフレアにも協力を要請するつもりです」


 翌朝、ルヴェリスとサール、イシュラン、フレアの一行は、学院を出てファイン家の邸宅近くまで足を運んでいた。


 邸の外縁には、わずかに精霊結界の名残が漂っており、それがイシュランの感覚を刺激した。

 イシュランは翡翠色の瞳を細め、立ち止まって周囲の気配に意識を集中する。白く長い髪が、朝の微風に揺れた。


「……精霊の波長が、歪んでいます。完全に堕ちた個体かと。屋敷の結界に微かに共鳴しているようにも感じられます」


 その言葉に、フレアが驚きの表情を浮かべる。栗色のセミロングの髪を揺らしながら慌てて手元の文献をめくった。


「この記録にある“封じられた古霊障”と、状況が似ているように思われます。精霊と術者の関係性が断絶した結果、封印が必要となった事例です……」


 そばかす混じりの、笑顔が消えたフレアの横顔に、ルヴェリスは静かに頷いた。


「術者の命を代価とする術式も、最終手段として視野に入れざるを得ません……。けれど、それはあまりに重い。ほかに何か手立てがないか、考えなければならないわ」


 サールはゆっくりと歩を進め、ファイン家の高い門を見上げながら口を開く。


「この件、王立学術会議にも報告が必要だ。だがまずは、精霊側との“接点”を確保するための準備を優先しよう。相手が堕ちたとはいえ、元は理を共有していた存在だ。完全に断絶する前に、何か手段があるかもしれん」


 ルヴェリスは東の空に霞む朝日を見上げた。

 セリアを救う道は、まだ閉ざされてはいない──だが、それは細く脆い、踏み外せば破滅に至る“刃の道”だった。


 * * *


 その少し前、クララが屋敷を出た直後のこと。

 執務室の奥で帳簿を睨んでいたファイン家の当主が、机を叩いて立ち上がった。


「……あの娘、学院で何をしているのだ……! 今度という今度は許さんぞ……」


 苛立ちを抑えきれぬまま廊下を進み、使用人たちの視線を無視してセリアの部屋の扉の前に立つ。


「開けろ、セリア。話がある」


 返事はない。


 強くノブを握った瞬間、異様な熱が掌を焼いた。だが構わず扉を押し開ける──次の瞬間、眩い閃光と共に、部屋の中から重苦しい気配が溢れ出した。


 扉の内側は、異様な静寂に包まれていた。空気が濁り、光の屈折が歪んで見える。そこに──セリアが立っていた。

 だが、その姿は──


 顔は確かにセリアだった。だが金髪だったはずの髪は漆黒に染まり、蒼く澄んでいた目は、血のような赤を孕んだ闇色に変わっていた。涙がこぼれているのに、それがかえって不気味だった。


 背中からは黒い翼が伸びていた。まるでこの世界に属さぬ存在の証のように。そして両手の掌には、燃えるような紅の紋章が浮かび上がっていた。


 父は言葉を失い、足元が崩れるように後退した。


「……貴様は、何者だ……セリアはどこにいる……」


 その声に反応するように、空間が脈打つ。そして、見えざる“何か”が、部屋の奥から伸びるように出現した。黒い瘴気の触手のようなそれは、父の身体を貫くのではなく、内部から締めつけるかのように絡みつく。


 「ぐ……うっ……な、なにを……ッ」


 全身の筋肉がひきつれ、骨が軋みを上げる。目を見開いた父の口から血が滲む。だが、それでも彼は叫びを上げることすら許されなかった。


 彼の身体は浮き上がり、壁に叩きつけられる。続いて床へと叩きつけられ、さらに天井へ。無数の“見えない手”が彼を嘲るかのように弄び、最後には部屋の隅へ投げ捨てられた。


 壁に擦り付けられた顔面からは血が流れ、片腕は不自然な角度に折れ曲がっていた。呻き声すら出せず、嗚咽のような息だけを震わせている。


 その囁きは誰にも届かず、次の瞬間、空間が軋むような音と共に、周囲に激しい衝撃が奔った。

 轟音とともに床が揺れ、壁という壁にひびが走る。天井からは粉塵だけでなく、砕けた漆喰が崩れ落ち、床には異様な符が浮かび上がった。屋敷の魔術障壁が内部から破られたのだ。


 使用人たちの悲鳴が屋敷の各所から響き、いくつかの燭台は倒れ、絨毯が焦げるような臭気が立ち込める。セリアの部屋を中心に、周囲数間が黒い靄に包まれ、視認すら困難な領域と化していた。


 そのとき、廊下の奥から駆け寄ってきたファイン家の夫人──セリアの母が、何事かと顔を出す。


「セリア、あなたなの? 何が……」


 だがその声を最後に、突如として部屋の扉から迸った見えざる力が、母の身体を弾き飛ばす。壁に激突した彼女は呻き声を上げ、意識を失った。


 屋敷の主人に続いて倒れた奥方の姿に、使用人たちは顔を青ざめさせ、誰一人として近づこうとはしなかった。

 もはや、セリアの部屋は“誰のものでもない場所”と化していた。


 そして──その空間の中心で、セリアは静かに涙を流していた。だがその瞳には、哀しみと共に、ぞっとするような妖艶な笑みが浮かぶ。


 彼女はひとつ息をつき、その吐息からは黒紫のもやのような瘴気が静かに広がった。まるで内から染み出す呪詛のように、空気を重く淀ませる。ゆっくりと歩み出る。


 黒く染まった髪が揺れ、背中の翼がかすかに広がるたびに、周囲の空気が粟立つように震えた。

 姿を見た使用人たちは、あまりに美しい黒翼の姿に目を背けられなかったが、やがて言葉もなく逃げ出した。悲鳴すら上げられないほどに、その異形の美しさと恐怖に支配されていた。


 足音が廊下を満たすころには、屋敷はほぼ無人となっていた。

 ファイン家に残っていたのは、倒れ伏した父と母、そして静かに微笑むセリア──ただ、それだけだった。


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