【第四章:揺らぐ心、目覚めし影】第三話:縁(えにし)の食卓
サヴェルナの街並みに、午後の光が柔らかく差し込んでいた。季節は夏の盛り。石畳の道を歩く人々の装いは軽やかで、街角の屋台には果物や冷たい飲み物を求める列ができている。
リオ・ナカムラは、まるで旅の行商人のような風貌で宿屋〈月影亭〉へと戻ってきた。頬はわずかに痩け、腕や頬には日焼けの跡と小さな傷がいくつも刻まれている。
宿の扉を開けたその瞬間、ロビーの奥から声が飛んできた。
「リオ!? 本当に……リオなの?」
声の主はクララ・モリスだった。机の上に本を広げたまま、彼女は椅子を蹴るようにして立ち上がり、駆け寄る。
「な、なんとか……生きて帰ってきたよ」
リオは苦笑しながらも、どこか誇らしげな面持ちだった。だが、クララはその様子を見て、ふいに顔を歪めた。
「三か月近く、何も言わずに……! どこへ行ったのかも、何をしているのかも分からなくて……ずっと、ずっと心配してたんだから……っ」
声が震え、涙がこぼれる。クララは拳を握りしめ、リオを睨むように見上げた。
「もしかして、依頼に出て命を落としたのかもしれないって……本気で思った。ずっと、帰ってこないかもしれないって……」
その言葉に、リオは目を伏せ、深く頭を下げた。
「……本当に、済まなかった」
その声は、どこまでも真摯だった。
「連絡の取りようもなかった。厳しい師のもとで……ただ、剣の修行をしていた。それだけなんだ」
しばらくの沈黙の後、クララがふっと笑った
「……何よ、その格好。野宿でもしてたの?」
「ああ、ほとんど毎日。食料は自分で取って、川で水浴びして。あとは、ひたすら木を……立木を殴ってた」
「……それだけ?」
「本当に、それだけ」
そのとき、リオの背後から、もうひとつの影がゆっくりと宿屋〈月影亭〉の中へと足を踏み入れた。
伊織――南雲伊織は、腰に佩いた刀に片手を添えながら、物珍しそうに内装を見回していた。粗末な造りの床板に目を細め、壁に掛けられた草花の飾りに一瞥をくれる。その姿は、異世界にあってなお古武士然とした風情を保っていた。
宿の者が一瞬たじろぐように目を向けるが、伊織は誰にも構うことなく、リオの隣へと静かに並ぶ。
そんな異様な雰囲気に気づいたクララが、伊織の姿を見て、わずかに眉をひそめた。
「……あなたは?」
伊織は一拍置いてから、静かに応じた。 「伊織だ――この若造の、師だ」
簡潔ながらも威厳を帯びた名乗りに、クララは思わず姿勢を正した。
伊織はリオに顔を向け、ぽつりと呟く。
「良い宿だな。風通しがいい」
そう言いながら、共有スペースの椅子にどっかりと腰を下ろし、腕を組む。まるで、そこがかつてからの馴染みの場所であるかのように。
そんな彼らの姿を横目に見ながら、クララは呆れたように頭を抱えた後、ため息混じりに言った。
「ひとまず、公衆浴場に行ってきなさい。話はそれから」
リオと伊織は顔を見合わせ、軽く頷き合った。
「行きましょう、先生。ここの湯は、たぶん森の川よりはずっと温かいはずですから」
リオの言葉に、伊織はふっと笑った。
「湯か……そういえば、こっちに来てから一度もまともに浸かっていないな」
そう言って腰を上げると、ふたりは連れ立って〈月影亭〉の玄関を出た。
湯から上がったリオと伊織が宿へ戻ると、すでに連絡を受けて駆けつけていたジルダが共有スペースでクララと談笑していた。
夕暮れ時、食卓には湯気を立てる大皿料理がいくつも並んでいた。香草で焼いた白身魚のソテー、干し肉と豆の煮込み、野菜のグリル、そしてふっくらと炊かれた麦と根菜の雑穀粥。パンとバターも脇に添えられ、食欲をそそる香りが部屋を満たしていた。
中央の壺には、琥珀色の液体――地酒〈ヒンヴェルの霞〉が注がれた陶器の瓶が置かれている。伊織の前には、それがなみなみと注がれた杯。
「酒か……熟れた果実の芳香が漂っているな」
伊織は酒を口に含み、わずかに目を細めた。口中に広がるふくよかな甘みと、のどを滑る柔らかな熱に、ほんのりと頬が紅く染まる。
「何ヶ月ぶりだろうな……こうして、座して飲む酒は」
ぽつりと漏れたその言葉には、心からの満足がにじんでいた。
食後、香り高い茶を湯呑に注ぎながら、クララが口を開いた。 「そういえば、先生との修行のことなんだけど……成果はどうだった?」
リオは少し肩をすくめ、どこか照れくさそうに苦笑した。ごつごつと硬くなった手のひらを開いて見せると、その表面には木刀を握り続けた証の豆がいくつも盛り上がっていた。
「ひたすら木を打ち続けた。毎日、朝から晩まで、立木に打ち込み続けて……」
目を丸くしたクララとジルダが、互いに顔を見合わせる。
「でも、それは“絶対的な一撃”を得るためなんだ」
「絶対的な……?」とジルダ。
伊織が代わって口を開いた。 「防御も、体捌きも、策もある。だが――一撃で終われば、要らん」
あまりに単純な答えに、クララとジルダは呆気にとられた。
「そ、そんなことでいいんですか……?」
「俺も最初はそう思ったよ。でも、実際に先生と木剣で立ち会ってみたんだ。どう攻めようとしても、一手もかすらせずに打たれた。まさに“一撃”だった」
リオは自嘲気味に笑った。
「……実力が違いすぎた。手も足も出なかったよ」
リオが苦笑しながら肩をすくめると、クララはふと思い出したように微笑んだ。 「そういえば、あんたが修行してた間に、私にも少し進展があったのよ」
「進展?」
「水晶を使ってレンズを作るっていうアイデア、フェンデリア学術協会には持ち込まなかったの。どうも、あそこに出すと安く買いたたかれそうな気がして……。だから代わりに、市内の〈レネシュ商会〉っていう工房付きの商会に相談したら、老眼鏡と望遠鏡として商品化してくれることになって」
「レンズ……そういえば、その手があったか」
「販売価格の十五%を、私に払ってくれるって。だから、資金にはすごく余裕が出てきたの。それで、魔法の勉強も続けてるのよ。今では基礎魔法くらいは行使できるし、霊唱術の安定性もずいぶん上がったの」
クララは少しだけ胸を張って言った。それを見て、リオは自然と顔をほころばせた。
「それは頼もしいな」
隣で酒の残る杯を傾けていた伊織が、ぼそりと呟いた。
「……俺にも、そういう知恵がありゃあなぁ」
火の灯る食卓に、穏やかな笑い声が広がった。
「そういえば、先生」
リオが茶を一口すすると、ふと思い出したように言った。
「以前、トルグさんが“百年以上前に頼まれた仕事”っておっしゃってましたけど……先生は、一体どれくらい生きていらっしゃるんですか?」
「ん? そうだな……百五十年くらいは経ってるんじゃないか」
「百五十……!?」
リオもクララも、声を揃えて絶句した。
「ここは“あの世”なんだろう、多分。だから、歳を取らないのさ」
「え……いや、でも、怪我すればちゃんと痛いし、ご飯は美味しいし、眠くなるし……それって、生きてる証拠じゃ……」とクララ。
「まだ私は死んじゃいないよ!」
ジルダが強く突っ込み、場が少し和んだ。
そのとき、伊織がふとリオがテーブルに立てかけてある剣を指さした。 「……ところで、その鍔。どこで手に入れた?」
「これ? 曾祖父からずっと受け継がれてきたものだって、父さんが言ってました」
「そうか……」
伊織は短くつぶやき、視線を逸らした。
クララが不思議そうに首を傾げる。
「このパーツが、どうかしたんですか?」
「いや、な……」
伊織は杯の中を見つめたまま、ぽつりぽつりと語り出した。
その鍔は、幼なじみから貰ったものだった。
剣の稽古も、勉強も、遊びも、何もかもを共に過ごしてきた男。所謂“竹馬の友”というやつで、心の底から信じ合える相手だった。
だが時代が変わり、立場が変わり、いつしか敵味方に分かれることになった。 最後の戦いの前夜、二人は密かに落ち合い、生前の形見としてそれぞれの品を交換した。
彼から渡されたのは、脇差――少し小ぶりな剣だった。リオやクララには聞き慣れない言葉だろうと、伊織はそう付け加えた。その脇差に付いていたのが、まさにその鍔だった。
それを今、目の前の若者が持っている。
「……こんな訳の分からん世界で再びソイツに出遭うとは、これも何かの“縁”なのだろうよ」
“縁”という言葉に、クララとリオが同時に首をかしげた。ジルダもまた、不思議そうに伊織を見つめる。
「“えん”? それって、どういう意味なんですか?」とクララ。
伊織は少しだけ口元を緩めて答えた。
「たとえば、友達と偶然に再会したとか、まったく知らなかった人と出会って、その人が後々自分の人生に深く関わってくるとか。そういうのを……俺たちは“縁”って呼ぶんだ」
「偶然の再会や出会いが、意味のあるものだったって思えること……ですか?」
「ああ。そういうものさ。縁があれば、人は何度でも巡り合う。たとえ、それが世界をひとつ越えてもな」
クララが静かに呟いた。
「縁……私やリオがこの世界に来たのも、そしてジルダと会ったのも、全部“縁”ってことなんですね」
伊織は、まるで娘を見るかのような優しげな目でクララを見つめ、ゆっくりと首肯した。
「そうだ」
クララは伊織の話を聞き、ふとしばし言葉を失い、手元の茶碗を見つめた。
──セリア・ファイン。
術理学院での彼女は、最近ますます元気を失っているように見えた。授業中も口を開くことが減り、同級生たちと談笑する姿もほとんど見かけない。実習では失敗が重なり、講師の中には彼女を一般クラスへ転籍させるよう、ルヴェリスに進言する者もいるらしい。
元々、ちょっかいをかけてきたり、皮肉を言ったりと、厄介なところはあった。だが、どうにも憎めない性格で、むしろ放っておけない気持ちにさせられる。
心配で、目が離せない。けれど、声をかけても、彼女はいつも強く拒絶してしまう。まるで、誰にも頼りたくないとでも言うように。
どうして、あの子のことがそんなに気になるのだろう。
……もしかすると、これも“縁”なのかもしれない。
伊織の言葉が、静かに胸に落ちた。
だからこそ、クララは思った。
彼女に向き合うことをやめるつもりはない。もし本当に困っているのなら、どうにかして手を差し伸べてやりたい。
それが“縁”というものならば──受け止めて、応えるべきだと、そう思えた。
茶を飲み干したジルダが、ふと問いかけた。
「ところであんた、今夜はどこに泊まるつもりなんだい? また野宿とか言わないよね?」
伊織は既に頬を赤らめ、すっかり上機嫌だった。
「気に入った。この宿、気に入ったぞ。今日からここに住む!」
「いや、いやいや……ここ安宿だけどさ、持ち合わせはあんのかい?」
ジルダが呆れたように問い返すと、伊織はずしりと脇に置いていた背負い袋を開き、中身をごそっとテーブルの上にぶちまけた。
転がり出たのは、魔獣の角らしきもの、金属の破片に見えるが複雑な紋様の刻まれた板、鈍く光る紅玉のような結晶、古代語が刻まれた小さな石版など。
「こいつは……!」 ジルダが目を見開き、素っ頓狂な声を上げる。
「とんでもないお宝ばっかりじゃないか! どこで拾ってきたんだい……! 全部売ったら、エテルノス金貨で何百枚にもなるよ!」
「魔獣の腹の中とか、崩れた塔の地下とかだな。だいぶ前の話だが」
「エテルノス金貨って?」
クララがぽつりと尋ねた。
ジルダは興奮気味に声を上げた。
「エテルノス金貨ってのはね、稀少金属オリカリウムで出来てるんだよ! あんたが学費に払ったソラリス金貨の一〇〇枚分の価値があるんだ!」
あっけに取られたリオが小声で呟く。
「すげぇ……」
そして勢い込んで、隣に座る伊織に身を乗り出すように尋ねた。
「先生! 僕も、僕もそんなふうに稼げるようになりますか!?」
伊織は満面の笑みで、まるで当然のように答えた。
「造作も無い」
リオは目を輝かせたまま、拳を握りしめて感動の声を漏らす。
「すごい……! 本当に、そんな未来が来るのか……!」
その様子を、クララとジルダは呆れたように顔を見合わせていた。
「単純すぎない?」「ほんとにね……」
夜が更けていく中、〈月影亭〉の共有スペースには、奇妙な出会いと再会と、縁が織りなす静かな時間が流れていた。




