【第四章:揺らぐ心、目覚めし影】第二話:忍び寄る闇
アストリア術理学院の朝、深い霧の中で小さな騒動が発生した。 霊唱術実習棟の一角。精霊との共鳴を行う訓練場で、突如として精霊の暴走が起きたのだ。
その発端は、セリア・ファインが行った霊唱術《枝葉の使い》によるものであった。彼女自身は、その時自分が術を発動させたことをまったく覚えていないという。
「森の使いよ、姿を見せよ――」
術理記録石が記録していたのは、確かにセリアの声で詠唱された霊句だった。 通常であれば、小型の木属性精霊が穏やかに現れ、簡易な操作指示に従う程度の術である。だが、その日現れたのは『風理』に属する中位精霊──暴風を纏った精霊たちだった。
霊素の流れが乱れ、風の精霊たちは旋回するように教室内を飛び交い始めた。彼らは異様に高揚しており、周囲の空気を巻き込みながら小さな竜巻のような気流を生み出した。その勢いは軽量な実習装置を持ち上げて壁へと投げつけ、棚に保管されていた結晶標本を砕き、机を跳ね上げるほどだった。
近くにいた生徒数名が転倒し、腕や額に打撲を負ったが、幸い重傷者はいなかった。
だがセリアは、その場で呆然と立ち尽くしていた。 彼女の口元は震えており、視線は焦点を結ばないまま宙をさまよっていた。
「……私、何が起きたのか……」
彼女は記憶の一部を曖昧にしており、事故当時の状況をまるで把握していない様子だった。
だがその直後、生徒たちの間から口々に非難の声が上がった。「またファインか」「危なっかしくて近づきたくない」――そんな囁きが、訓練場の空気を冷たく変えていく。
度重なる失敗を繰り返すセリアは、もはや“優秀な生徒”とは見なされておらず、選抜高位クラスの中では徐々に“お荷物”として認識されつつあるようだった。
「彼女のせいじゃないと思う。私は、セリアを信じるわ」
そう口にしたのはクララだった。彼女の言葉に、周囲の空気が一瞬和らぐ。しかしその言葉が、セリアの心には別の形で届いてしまう。
「……そうやって、上から目線で私を見下ろすのね」
彼女の視線の奥で、何かが軋み始めていた。 心の奥から、かすかに響く声がある。“渇きの声”。 その声は以前よりもずっと近く、そして明瞭に彼女の耳を打っていた。
「目覚めよ。我はお前の影。干からびた魂に甘露を与えるもの」
セリアはその言葉に怯えながらも引き寄せられるように訓練場を後にし、その日はそのまま帰宅した。
玄関を入ったところで、ファイン家の使用人が顔を上げる。 「お帰りなさいませ、どうしたんですか、こんなに早く?」
セリアはその問いかけに答えず、無言のまま早足で自室へと向かおうとした。
偶々在宅していた父親が出迎える。 「今日は随分と早いな。まさか、さぼったりはしていないだろうな」
冷ややかな声音。セリアは無理に笑顔を作り、「もちろんそんなことはありませんわ、お父様」と泣きそうな声で応じ、そのまま足早に自室へと戻った。
通常の親であれば、その声色の裏に潜むかすかな震えに気づき、娘が発しているSOSに気づくものだろう。 だがこの家では、それは望むべくもなかった。父の関心は常に、家の名誉と外聞、そして“優秀な娘”という看板にのみ向けられていたのだから。セリアの言葉は、彼にとってはただの“報告”にすぎなかった。
それからというもの、セリアは毎晩、夢の中でその“声”と対話を繰り返していた。
「お前は弱いのではない。縛られているのだ。あの娘の影に」
クララという存在が、自分を曇らせる霧のように感じられる。 現実でもその思いは日々濃くなり、魔法実習の最中に突発的な事故が起きてしまった。
ある夜、入浴を済ませたセリアがふと、鏡の中に浮かび上がるもう一人の自分――赤い瞳の幻影を見た。見てしまった――。
「……あなたは、誰……?」
その問いに、鏡の中のセリアは微笑む。
「私はお前の中にいたもの。ずっと、お前と共にあった」
鏡の中の“彼女”は、セリアの姿を模していた。けれどもそれは、どこか異様だった。 真紅の瞳、墨のように黒く滑らかな髪、背中からは闇を思わせる黒い翼が生えていた。肌は透き通るように白く、その容貌は美しいが冷ややかだった。
その異形のクララは、静かに涙を流しながら、セリア自身に向かって囁き続ける。 「私にはお前の気持ちが分かる。私はお前、お前は私なのだから」
鏡の中のその言葉は、呪いのように何度も繰り返され、セリアの心を柔らかく蝕んでいった。
その異形のクララは、まるで慈母のように微笑みながら、甘く、柔らかな声音で言葉を紡いでいた。
「もう大丈夫。私はずっと、あなたを見ていたわ」 「つらかったでしょう。誰にも分かってもらえなくて、ひとりで、必死に頑張って……」 「いいのよ、もう。あなたはそのままでいい。私は、あなたのすべてを愛しているから」
その語りかけは、毒のように甘く、蜜のように優しく、セリアの心をそっと包み込んでいく。そして次第に、それは囁きへと変わった。「……ああ、可哀想なセリア。お前を本当に愛するのは、私だけなのだよ」
この囁きこそが、“渇きの声”と呼ばれるものだった。 それは原初より世界に存在する、形なき破壊の意思。姿も名も持たず、ただ“囁き”や“夢”を通して人の心に干渉し、恐怖や欲望に寄生する。 その本質は決して掴めず、各地で様々な名で語られてきたが、霊唱術士たちの間ではあえて“名を持たぬ者”として記録されている。
この渇きの声は、人を堕とすのではなく、既に揺らいでいる魂を導く──深淵へと。 鏡の中に現れた異形のクララは、その導きに応じて現れた“堕界体”だった。
堕界体とは、かつては精霊でありながら、強すぎる欲望や破壊的な契約によってその理から外れ、七理の循環を拒んだ者たちの末路。 彼らは単なる“悪”ではなく、歪んだ自然の一部として存在し、時に混乱と腐敗をもたらす。
鏡の中の異形のセリアは、セリアの心が作り出した象徴でありながら、実在する堕界体であった。 それは契約も召喚も介さず、セリアの中にある“渇き”に反応して自ら現れたのだ。
精霊の名残をとどめつつも、人の心の奥深くに語りかけ、優しさに似た言葉で寄り添い、そして静かにその魂を蝕んでいく──まるでそれこそが、自然な流れであるかのように。
“セリアの形”は、セリアの嫉妬と羨望が具現化させた姿。 だがその内実は、渇きの声に惹かれ、己の意思で堕ちた精霊の末路──堕界体そのものであった。 それは彼女の心の奥底に巣食い、決して癒えることのない“渇き”を、さらに深めていくのだった。
* * *
森の中、朝の光が葉を透かす。
その朝、伊織は、斜面の中腹に姿を止めたかと思うと、リオの方を振り返って言った。
「まずは──お前が今までに習っていた剣を見せてみろ」
そう言って、近くの茂みから姿を現した一頭の中型獣──“ツァーグリフ”を顎で示す。「あれを斬ってみろ」
ツァーグリフは、鹿に似た四肢と狼のような顎を持つ雑食の獣で、俊敏さと攻撃性を兼ね備えていた。
リオは頷き、迷いなく地を蹴って跳び出した。獣がこちらに気づいて唸り声を上げるも、その一撃目を躱し、剣を走らせる。軽やかな足運びとともに数手を重ね、鋭く斬り付けた。
やがて獣は呻き声とともに地に崩れ落ち、動かなくなった。
「……ふん、なるほどな」
伊織はそれだけを呟き、背を向ける。「こっちへ来い」
促されるまま、リオは後に続く。 そこには、幹の途中から裂け、ほとんど枯れかけたような大樹が立っていた。
イオリはその足元から握れるほどの丸太を一本拾い上げると、それを右肩の上に掲げ、まるで野球のバットのように構えた。
そして次の瞬間、イオリはおもむろに十メートルほど下がると、裂けた大樹に向かって全力で駆け出す。
「キャアァァァァアッ!!」
耳をつんざくような甲高い叫び声を上げながら──その勢いのまま、右、左、右と、丸太で幹を力任せに打ち据えた。
乾いた衝撃音が森に響き渡る。さらに左右から何度も、何度も。まるで何かに憑き物が憑いたかのように振り下ろす。
リオはその場に立ち尽くした。目を見開いたまま、呆然とその光景を見つめていた。
やがて、ひとしきり打ち終えた伊織が丸太を下ろし、リオの方へ振り返る。
「……これをやれ」
「……は?」「朝に三千、夕に八千。立木を打て」
その一言に、リオはさらに目を見開いた。
(──いや、無理ムリムリ! 三千って何だ、八千って何だ!? 腕がもげるだろ!?)
リオは言葉も出ずに呆然と伊織を見つめた。 そんな彼の反応など意に介さず、伊織は無造作に、持っていた丸太をリオの胸元に突き出した。
「ほら、持て。やれ」
丸太を握りしめ、大声で掛け声を発しながら、左右交互に立木へと打ち込む。 意味があるのかも分からぬまま、ただ無心に。
千回も打っただろうか── 腕は鉛のように重く、肩から先が自分のものではないように感じる。 声も枯れ、リオはしゃがれた声で呻いた。
「くそ……腕が、もう動かねぇ……これが剣術か? こんなのが、本当に役に立つのか?」
その瞬間、伊織の鋭い拳が容赦なくリオの脳天に炸裂した。 ゴンッという鈍い音が響き、リオは目を白黒させながらその場に崩れかけた。
限界寸前の中、伊織がぽつりと呟いた。
「姜子牙は針なき糸で天命を釣り、吾は木を打って一太刀を磨く。共に時を待つなり」
「……何言ってんのか、さっぱり分かんない! 誰だ、キョウシガって!?」
リオは悲鳴にも似た声を上げ、手を振りながら抗議するように叫んだ。
伊織は静かに口を開いた。
「姜子牙は、古老の物語にある仙人だ。渭水の畔で、まっすぐな針を釣り糸に付け、川に垂らした。魚など釣れるはずもない、曲がった針ではないのだからな。だが、彼が求めたのは魚ではない。天下を治める天命、時機の到来だ。焦らず、準備を重ね、機が熟すのを待ったのだ。
俺が木を打つのは、ただの稽古ではない。一太刀に魂を込め、心を磨き、敵を倒す瞬間を待つ修練だ。機を見極め、一撃で全てを決する。姜子牙が天命を釣ったように、俺は一太刀の極みを求め、時を待つ。
お前も剣を握るなら、ただ振り回すな。心を静め、技を磨き、己の『時』を待つのだ。わかったか?」
「……はい……いや……分かりません」
リオが恐る恐る答えたその瞬間、再び伊織の拳が容赦なく脳天を直撃した。 鈍い音が響き、リオは悶絶しながらその場に蹲った。
──そして、それから数ヶ月が過ぎた。
季節は夏へと移り変わり、サヴェルナの町にはじっとりとした熱気と虫の声が満ちていた。
サヴェルナ北東の森からは、毎朝毎夕、木材を打ち据えるような乾いた音と、奇妙な叫び声が聞こえてくるという噂が、町のあちこちで囁かれるようになった。その音と叫びは、日を追うごとに長くなっていき、まるで何かが“育っている”かのようだと、住民たちは恐れを口にした。
「恐ろしい魔物が北東の森に巣食っているに違いない」
住民たちはそう口々に語り、不安げな面持ちで北門を通りすぎるようになった。 やがて契約従事者連盟でも、その出所の確認と討伐依頼の是非について、正式な議題として取り上げられるほどになった。
そんなある晩のこと── 暮れなずむ空の下、北門に姿を現した二つの影があった。
ボロボロの服と、擦り切れた手のひら。肩で息をし、両腕をだらりと垂らした青年──リオ。 その数歩後ろ、疲れた様子も見せず、ゆったりと優雅な足取りで歩く男──伊織。
「朝に三千、夕に八千。……出来るようになったじゃないか」
伊織がニヤニヤと笑いながらそう言った。 リオは顔をしかめ、言葉にならない声で「んぴょ……るぇ……」と呻き、魂が抜けかけたような目で彼を睨んだ。
門に立っていた衛兵は、汚れた服の人影に眉をひそめ、警戒するように足を踏み出した。
「おい、そこ! 物乞いは城門から離れ──」
言いかけたところで、相手の顔に見覚えがあることに気づいた。 「……えっ、リオか?」
顔見知りの青年が、ボロボロの姿で立っているとは思わなかったのだ。
リオは力なく頷くのが精一杯だった。返事すら口から出てこない。 震える手で身分証を取り出し、老人のような動作で衛兵に見せると、トボトボと宿屋の方へ歩いていった。
衛兵は伊織の方を見ようともしなかった。ただ、通り過ぎるのをじっと待つ。 ──君子危うきに近寄らず。そういう態度だった。
リオは力なく頷くのが精一杯だった。返事すら口から出てこない。 震える手で身分証を取り出し、老人のような動作で衛兵に見せると、トボトボと宿屋の方へ歩いていった。 衛兵は伊織の方を見ようともしなかった。ただ、通り過ぎるのをじっと待つ。 ──君子危うきに近寄らず。そういう態度だった。
その様子を見ながら、伊織は口元を覆い、肩を震わせるようにして笑った。 「くっくっく……」
まるで、噂の“魔物”が誰かを知っているかのように。




