【第三章:風は北東より】第五話:囁きと歪みの予兆
街を覆う夕靄のなか、橙と藍が入り混じる空の下を歩いてくる人影がひとつ。埃をかぶった旅装に、使い込まれた長包み。リオ・ナカムラは、ようやく日常の地に戻ってきた。
契約従事者連盟から受けた遠征依頼──山間の古い街道沿いに現れた魔物の討伐と、交易路の安全確認。報酬はよく、だが気の抜けない任務だった。仲間たちと分担しつつ、何とか二週間で片をつけ、今こうして、懐かしい石畳の路地を踏みしめている。
宿──〈月影亭〉の看板が見えると、自然と歩が速まった。重たい扉を押し開けると、なじみの香りと、微かに耳に馴染んだ紙を繰る音。
共有スペースの隅、窓辺の席に腰掛けていた若い女性が、リオに気づいてぱっと顔を上げた。
「おかえり、リオ!」
クララ・モリス。白く透き通るような肌に、金糸のような髪を束ねたその姿は、学院の制服の上に淡い色のショールを羽織って、少し大人びて見えた。
「ああ、ただいま」
リオは歩み寄りながら微笑み返し、肩から荷を下ろす。クララは厚い術理の教本を閉じ、ホッとしたように息を吐いた。
「ずいぶん“学院の顔”らしくなったんじゃないか?その本の厚さとか、目の下のクマとか、特に」
「失礼ね。これは努力の証なんだから」
言葉ではそう返しながらも、クララの表情には笑みが浮かぶ。どこか張り詰めたような空気が、リオの一言でほどけていくのが見えた。
「霊唱術と魔法、どっちも中途半端にならないようにって必死。でも、頭が回らなくなる時もあるよ。詠唱文が混ざって、炎を呼ぶつもりが足元が軽くなったり」
「それ、危ないやつだな……」
二人の笑い声が、静かな共有スペースにさざ波のように広がる。リオは椅子を引き、クララの向かいに腰掛けた。
「でも、ちゃんとやってるんだな。前よりずっと頼もしく見えるよ」
「……うん。ありがとう。まだまだだけど、少しずつ前に進めてる、気がする」
クララはそう言って、手のひらを見つめた。精霊との交感のときに感じる、微かな温もり。授業の中で確かめた、自分の中の霊素の流れ。それは、彼女がこの世界で居場所を得つつある証だった。
ふと、リオが言葉を継いだ。
「そういえば……俺、今回の遠征のあとで推薦を受けて、連盟の等級が上がったんだ。シルバーを飛び越えて、ゴールド級になった」
クララの瞳がぱっと見開かれる。
「えっ、本当に? すごいじゃない!」
「まあ、正式な認可は来週だけどな。今回のパーティの隊長から推挙されて、連盟本部の査定員と面接までさせられたよ。運が良かっただけさ」
「運も実力のうち、って言うじゃない。リオ、本当に頑張ってるんだね」
リオは照れたように鼻をかきながらも、どこか誇らしげに肩をすくめて笑った。
「まあ、お互いにな」
ふたりの間に、静かな安堵の気配が漂った。宿の外では夜風が軒先の風鈴を小さく鳴らし、街路にともる灯りがゆらゆらと揺れている。リオはマグの中のぬるくなった湯を一口飲み干して立ち上がった。
「じゃあ、荷物だけ片付けてくる。また後でな」
「うん、おかえりの続きは、それから聞かせて」
リオが部屋へ向かって階段を上るのを見送りながら、クララは静かに息を吐いた。
──自分だけじゃない。皆、それぞれに背負って、進んでいる。
胸の奥にそう言い聞かせるようにして、再び術理の教本を開いた。
* * *
学院では、クララに対する注目が日増しに強まっていた。
霊唱術と魔法の両方に高い適性を示し、講師陣からも一目置かれる存在。その力と努力は認められていたが、一部の生徒たちにとっては“異質”でもあった。
「クララって、どこ出身なんだろうね」「なんか、“人間”の常識がちょっとズレてない?」
そんな囁きが、廊下の陰や教室の片隅でひそやかに交わされる。
だが、クララ自身はその空気に気づきながらも、表向きは変わらぬ笑顔を保っていた。
サヤやイルザ、リシュリナたちとの交流は穏やかで、実験や演習の合間に笑い声も聞こえる。それでも、全員と打ち解けられるわけではない。
選抜高位クラスの空気は、成果と評価を常に求められる緊張感に満ちていた。
学院の中庭。昼休みの時間帯、石畳の上を軽やかに歩くクララの姿があった。手にはノートと筆記用具、肩には緩やかな風を感じさせる薄手のマント。陽光の下でその金髪は揺れ、好奇の視線が彼女に静かに集まっていた。
通りすがりの下級生が小声で囁く。
「あれが、あのクララって人?魔法科にも出てるって……」
「異世界から来たって噂、本当なのかな」
その声を聞きとがめたのは、霊唱術科二年生、一般クラスのティオだった。たまたま近くの水盤で手を洗っていた彼は、顔を上げてそちらを振り向いた。
「お前たち。そういうことは本人の前で言えるか?」
二人の下級生は、はっとして目をそらす。
「……ごめんなさい、そんなつもりじゃ……」
「噂はどこにでもある。けどな、努力している人間に陰口叩く暇があるなら、自分の術でも磨いてろよ」
ティオの声は柔らかくも、揺るぎなかった。その一言に、下級生たちはぺこりと頭を下げて小走りに去っていった。
「まったく……」と小さく呟いたティオは、ちらりとクララの背中を見やった。
クララは表情を崩さぬまま歩みを進めていたが、その背中はほんのわずかに硬くなっていた。
ティオは、その様子に気づいていた。遠目にしか見えなかったが、彼女の肩がわずかに強ばっていたこと、背筋が少しだけ張り詰めていたこと。
(……無理して笑わなくてもいいのに)
そう思った。だが、それを言うことも、支えることも、今の自分にはできないとわかっていた。
胸の奥に、微かな焦がれるような想いが残る。
(いつか、あの笑顔を本当の意味で守れるようになれたら──)
ティオはそっと息を吐き、黙ってその背中を見送り続けた。
時が少し流れ、クララは食堂で仲間たちと昼食を囲んでいた。リシュリナやイルザ、サヤたちとは自然に言葉を交わせていた。とくにイルザの奇抜な実験話は、いつも話題を呼んだ。
「この前の『爆ぜる苔』、また失敗したでしょ?」
「いや、あれはな、霊素の流れが不安定だったんだ! 次はうまくいく、たぶん!」
「“たぶん”が怖いのよ」
リシュリナが表情を崩さずに言うと、クララは小さく吹き出した。だがその笑顔の裏でも、ふとした瞬間に浮かび上がる“よそ者”としての孤独が、胸の奥に静かに沈殿していた。
周囲の一部の視線──それは、観察するような、あるいは距離を置くような眼差しだった。親しみや尊敬ではなく、「異物」を測る目。クララはそれを痛いほどに感じ取っていた。
けれども、彼女は足を止めない。止まってしまえば、何もかもが崩れてしまいそうだったからだ。
クララを遠巻きにする生徒のなかでも、特に苛立ちを募らせていたのが、セリア・ファインだった。
ファイン家は高貴な血筋を誇り、代々著名な魔導師や政治家を多数輩出してきた家系である。セリア自身もまた、常に首席であれと厳格な父から厳しく育てられてきた。成績が良ければ、父は満足げに頷き、まれに微笑みさえ見せた。だが少しでも順位が下がれば、まるで娘など存在しないかのように冷ややかに沈黙し、視線すら合わせてこなかった。
一方、母はというと、社交の場にしか関心がないようで、娘の勉学にも心情にも口を挟むことはほとんどなかった。日々、名門貴族のご婦人たちとの会合に明け暮れ、セリアが家にいてもいなくても、気にも留めないような態度だった。
だからこそ、セリアにとって“父の笑顔”は唯一の愛情であり、それを失うことは何よりも恐ろしかった。努力と成果を重ねてきたのは、誇りや野心ではなく、ただ愛されたかったからだった。
そんな彼女にとって、クララの存在は焦燥の火種でしかなかった。
実技演習で同じ課題に取り組むたび、技の精度も展開速度も、明らかに自分が劣っていると突きつけられる。それだけではない。講師たちの視線──本人たちは意識していないつもりかもしれないが、クララに寄せられる期待や関心が、何気ない授業のなかにもはっきりと感じ取れた。
ほんの一言の指導、何気ない頷き、彼女の報告に返されるわずかな笑み──それらの全てが、セリアには見えてしまう。
そのたびに、胸が詰まる。学院で、誰よりも努力してきたのは自分のはずなのに。
そんな毎日に、セリアは徐々に耐えられなくなっていた。
(なぜ……あの子は、あんなにすんなりと……愛されるの……?)
(私だって……ずっと、頑張ってきたのに。見てほしかっただけなのに……)
周囲からの「クララに追いつけ」という無責任な言葉も、激励ではなく呪いのように心にのしかかる。
そしていつしか、セリアは自分でも気づかぬまま、クララに対して奇妙な感情を抱くようになっていた。
時おり、クララがふと笑うたびに、胸がちくりと痛んだ。あの笑顔が、自分だけに向けられたものだったら──と、そんな空想が頭をよぎることさえあった。けれど、そんな想いを自分自身が許せなくて、無意識に爪を立てるような言葉や視線で、クララを突き放してしまう。
誰かがクララの私物に“うっかり”手を伸ばしてしまった日もあった。筆箱が床に散らばり、彼女が慌てて拾い集める姿を見ながら、セリアは遠くから目を逸らした。あれが自分の仕業だったのか、もうよく思い出せない。ただ、胸の奥にざらりとした後悔が残っていた。
(もっと近づきたいだけなのに。話して、笑って……ただ、それだけだったのに)
けれど、近づこうとすればするほど、心が拒絶する。まるで、自分の中にもう一人の自分がいて、クララを遠ざけようと唆しているかのようだった。
ある夜。うつらうつらと眠りについた彼女の耳に、ふと“声”が囁いた。
──求めよ……渇きを……満たせ……
それは夢か、現か。黒い霧が胸の奥に忍び込んでくるような、ぞわりとした感覚だった。
目を開けても、誰もいない。
だがその夜以降、セリアは誰かに見られているような感覚を拭えなくなる。
(……わたし、おかしいのかな)
そう思いながらも、誰にも言えない。言った瞬間、何かが崩れてしまいそうな気がした。
そして、自分でも訳が分からないままに、涙が止めどもなく溢れ出し、枕を濡らしていく。声を殺して嗚咽を漏らしながら、セリアはただ、闇に向かって震えていた。
その胸の奥底には、自分でも説明のつかない異質な何かが、静かに芽吹いていた。それは確かに“自分”の一部であるようでいて、どこか異なる、冷たい感触だった。
それは、凍った棘のようなものだった。誰かを傷つけたいわけではない。ただ、この痛みを誰かと分け合いたい──そんな錯覚とともに、心の奥にゆっくりと根を下ろしていく。
(……何?これ……私、どうしちゃったの……?)
その正体も意味も分からないまま、セリアはただ、ベッドの中で身を縮めるしかなかった。
* * *
数日後、リオはいつもの鍛冶屋──トルグの店を訪れた。
「よう、剣の調子はどうだ?」
トルグが豪快に笑いながら受け取り、刃を確認する。
「少し研ぎが必要だな。芯の部分が若干ズレてきてる」
「頼みます」
トルグは刃を眺めながら、ふと思い出したように口を開いた。
「そういえば、前にした男の話、覚えてるか?あの妙に細かい仕様を求めてきたやつだ」
リオが目を細める。
「……ああ、覚えています」
「先週な、その男がふらりと現れたんだ。あんまり喋るやつじゃなかったが、遺構に行ってきたらしい。収穫は乏しかったと、少し愚痴っていたよ」
トルグの手が一瞬止まり、ふと顔をしかめるようにして付け加える。
「そういえば──妙だよな。あれは確か、百年ほど前の話だったと思うんだが」
「……百年ですか?普通の人間じゃ、そんなに生きられませんよね……?」
リオの問いに、トルグは刃を拭いながら苦笑した。
「……ああ。今さらながら、よく考えたらおかしいよな。俺も最初は深く考えなかったが、人間のはずなのに、百年前と寸分違わぬ姿で現れたんだ」
「普通の人間には思えません」
「それでも、どう見ても老いも衰えもなかった。ただの人間にしか見えなかったんだ。何か……妙な力でも宿してるのかもしれんがな」
トルグの「収穫は乏しかった」という言葉を聞いた瞬間、リオは食い気味に尋ねた。
「……どこの遺構に行かれたのか、仰っていましたか?」
「北東の、岩棚の奥にある精霊遺構だと聞いた」
その答えに、リオは眉をひそめた。
あの遺構──まるで刃で断ち切られたような、異常な切断跡。
(やはり、あれは……その人の技か)
胸の奥に確信が走る。
「トルグさん、その方、何ていう方でしたっけ?どこへ向かったのか、覚えていらっしゃいますか?」
「名前?“イオリ”だよ。前にも話しただろ。行き先までは聞いてねえが……」
リオは目を瞬かせて頷いた。「……ああ、そうでした。失念していました」
あの斬撃の主が確かにこの地にいたのだ。
未知の力を目の当たりにし、その背にあるものを知りたいという欲求が、胸の奥に熱を灯す。強くなるためには、ただ剣を振るうだけでは足りない──そう確信する。
「……トルグさん。もし、その人がまた現れたら、俺に知らせていただけますか?」
「ああ、わかった。次に来るのはまた百年後かも知れんが、気にしておくさ」
トルグの厚い掌が、研ぎ石に滑らかに剣身を走らせる音が、工房に心地よいリズムを刻む。
リオは深く一礼し、工房を後にした。
その夜──。
〈月影亭〉の共有スペースには、夜の静けさとランプの光が漂っていた。クララは一日の勉強を終え、ほっとしたように椅子にもたれかかっていた。
そこへリオが戻ってくる。
「おかえり、リオ」
「ただいま。少し話、してもいいか?」
彼女はうなずき、二人はまた向かい合って座った。
「……俺、自分がまだまだだって思い知らされたんだ。だから、もっと強くなりたいと思ってる。守るためにも、進むためにも」
クララは静かにリオを見つめる。その瞳には、言葉以上のものが宿っていた。
「うん、私も……誰かに勝つためじゃなくて、自分の足で立つために、強くなりたいって思ってる」
二人の間に流れる沈黙は、心地よいものだった。
だがその裏で、暗がりの中。
セリア・ファインは、再び声を聞いていた。
──満たせ……飢えを……力を……
鏡に映る自分の瞳の奥に、揺らめく何かを感じながら、セリアは目を閉じた。
心のどこかで、それが間違いだと分かっていながらも──その声が染み入るように、心の底へ溶けていくのを止められなかった。




