【第三章:風は北東より】第三話:交錯する歩み
春の陽射しが、学院の尖塔を柔らかく照らしていた。クララ・モリスはその朝も、宿から術理学院へと向かう石畳の道を静かに歩いていた。
かつては節約のためにリオと共同で宿の一室を借りていたが、今はそれぞれ個室に移って久しい。もっとも、資金には余裕があるにもかかわらず、二人が今も変わらぬ宿に滞在し続けているのは、ただの慣れや便宜の問題ではなかった。古びた木造の宿には温かな気配があり、世話焼きのジルダや風変わりな宿泊者たちとの交流も、クララにとっては日々の安らぎとなっていた。
しかし、学院での日々は忙しさを極めていた。クララは今春、無事に一年次を修了し、現在は術理学院の二年生として霊唱術科・選抜高位クラスに在籍している。春学期は始まったばかりであるが、霊素の操作に長けた者の中でも、クララの適性と成長速度は際立っていた。
彼女の膨大なマナ内包量は、講師陣の間でもしばしば話題に上っていた。とくに霊唱術科の最先任講師、ルヴェリス=エル=アリューンは、クララの資質を高く評価し、その力をより高次の術理──すなわち具現型霊唱術へと導くべきではないかと、春学期の始めに他の講師たちへ相談していた。
しかしその場では、霊唱術と魔法を同時に習得するなど聞いたことがないと強い反発もあり、議論は紛糾した。伝統的な術理の枠組みにとらわれるべきではないという立場と、慎重を期すべきだという意見がぶつかり、喧々諤々の議論が交わされた末、最終的には「少なくとも本人に魔法科の授業をいくつか聴講させ、その反応や適応を見たうえで判断してはどうか」という妥協案に落ち着いた。
こうして、魔法科の講師フィネアがクララへの魔法教育を提案し、限定的な導入が決定されたのである。
魔力変換という概念──マナを個人の内的回路で制御・加工し、術式として放出する技法──は、クララにとって未知の領域であった。霊唱術が精霊との交感を前提とする“協奏”であるのに対し、魔法は“単独奏”のようなものである。
魔法科の基礎講義の受講を打診されたとき、クララは素直に頷くことができなかった。ルヴェリスから告げられたその提案は、あまりに唐突で、自身の歩んできた霊唱術の道とあまりに違っていたからだ。
「魔法……ですか?」
講師室での面談の場、クララは戸惑いの声を漏らした。
「霊唱術とは性質が違いますし、私には……適性があるかどうかも分かりません」
静かにそう告げると、ルヴェリスは微笑みながら言葉を返した。
「適性の有無は、歩み出してみなければ分からぬものです。だが、クララの中にはその可能性がある。私だけでなく、魔法科の講師もそう見ているわ」
その場にはフィネアの姿もあり、彼女はやや鋭い眼差しで言葉を継いだ。
「“可能性”ってのは、行動で証明するもの。霊唱術と魔法、どちらにも通じる者なんて、確かに例はない。でも、君の中のマナは常軌を逸してる。制御のためにも、魔法を試す価値はあると思う」
クララはしばらく言葉を失った。自分が未知の領域に踏み出すべきなのか、それとも専心すべき道を深めるべきなのか。胸の奥に不安を残したまま、それでも──どこかで好奇心がそれを上回った。クララは小さく頷いた。
「……分かりました。まずは、聴講という形で……」
はじめは戸惑いが先立ったものの、クララは魔法科の基礎講義への出席を決意した。ある日の午後、彼女は魔法理論の教室で一人の生徒と出会う。
「ねえ、クララでしょ? 霊唱術の天才って噂の」
そう声をかけてきたのは、魔法科のダークエルフの少女、サヤだった。黒髪のショートカットに緋色の瞳、いたずらっぽい笑みを浮かべたその少女は、魔法陣の描写にも長けた幻惑術の使い手であった。
本来、彼女は魔法科の二年生なので、魔法初心者として一年生の講義を聴講しているクララとは別の教室で学ぶべき立場だった。だがこの日、わざわざクララの初回の聴講を見物しに来たのだという。
「講義、わかんなかったら教えてあげる。──そのかわり、面白い話、聞かせてよ?」
サヤの緋色の瞳がすっと細まり、まるでクララの反応を探るように間を置いてから言葉を継いだ。
「……あ、そうそう、セリア・ファインとは、その後どう?」
不意に名前を出され、クララは瞬きした。「ええ……まあ、相変わらず」
言葉を濁すと、サヤは唇の端を少し吊り上げて笑った。「あの子って、ちょっと張りつめすぎてるからさ。もう少し、肩の力抜いた方がいいのにね」
その笑みには、どこか含みがあった。そしてクララはふと、昨年の講義中に起きた、セリアの巻き髪が宙に浮かび、ピンク色の煙が立ち上った出来事を思い出す。魔法的な害はなく、周囲は風のいたずらか香料の実験かと笑っていたが──あのとき、後ろの席にいたのは、確か……
(……まさか、あれ、サヤ?)
心の中で小さく呟いたクララに、サヤは無邪気な表情を浮かべたまま、椅子にひょいと腰かけた。
サヤの明るく奔放な性格は、物静かなクララにとって最初は驚きでもあったが、不思議と波長は合った。以来、クララは魔法科の教室でも幾度か彼女と同席し、幻惑系の呪文の構造やイメージ制御の手法について教えを受けることになる。
魔法において最も重要なのは、イメージ制御──術者自身の術想である。術想とは、術者が心に思い描く明確かつ強固な観念像であり、魔力の流れと術式の形を定める源である。魔法の発動はこの術想に大きく依存し、術者の意志が揺らげば術もまた崩れる。
これは、術者と精霊との交感によって自然の理を揺り動かす霊唱術とは本質的に異なる点である。霊唱術では、詠唱や精霊の協力が術を安定させるが、魔法は術者ひとりの術想の強度にすべてが懸かっている。
ある日の講義後、二人は人気のない渡り廊下に腰かけて、ノートを広げていた。
「この前の“影映の戯曲”、イメージがうまく掴めなくて、発動しなかったの……」
クララがそう打ち明けると、サヤはくすりと笑いながら首を傾げた。
「それ、失敗っていうより“真面目すぎ”だと思うよ。幻術ってさ、ちょっとくらい自分でふざけてみないと、面白くならない」
「ふ、ふざける……の?」
「そう。たとえば、先生の背後に『小さなサヤ人形が踊ってる幻覚』とか、イメージできる?」
思わず吹き出したクララに、サヤは満足そうに頷いた。
「今の、それ。想像した瞬間に、もう術想の半分はできてるってこと」
サヤの言葉に、クララは小さく頷いた。霊唱術の厳格な調和とは違って、魔法の“軽やかさ”には、なんだか不思議な魅力があった。
だが、霊唱術と魔法の両立は想像以上に過酷だった。朝は霊唱術の実技、午後は魔法の基礎講義、夜は課題と瞑想──そのすべてをこなしながら、クララは学院内で着実に存在感を増していった。
すでに講師陣の間では、彼女の具現型霊唱術への適性について活発な議論が交わされていた。自然現象の変化にとどまっていた従来の霊唱術を超え、“かたち”を与える段階に至る可能性が語られていた。その革新性とリスクを巡って、講師たちのあいだでは慎重ながらも期待が膨らんでいた。 なかでも魔法科講師のフィネアは、魔力の運用において術想が中心的な役割を果たすことから、霊唱術でも“かたち”を得ようとする過程には、魔法的技術との相互理解が不可欠であると主張していた。すなわち、具現型霊唱術の習得には、魔法の知見が有効に働く可能性があるという考えである。
しかし、周囲の注目が高まるほど、クララには新たな負担がのしかかる。とくに貴族出身の同級生、セリア・ファインは、クララに対し露骨な敵意を示すようになっていた。
「あなたって……本当に、どこまで優秀なつもりなの?」
冷ややかな言葉をかけられるたび、クララの胸には鈍い痛みが走った。努力は認められつつも、それが誰かの反感を招く。そんな現実を、彼女はまだ受け入れきれずにいた。
セリアは何かとクララの行動に干渉し、講義中にわざと質問をかぶせたり、演習では彼女の隣の席を奪ったりと、妙なほど“距離を詰めて”くることがあった。ある日、クララの提出物の上に押し花がそっと添えられていたことがあった。だが、その花は黒ずんで乾ききっており、インクを滲ませ、文字を読めなくしていた。
誰の仕業かは分からなかった。だが学院内では、クララの周囲で“少し変わった出来事”が起こるたびに、セリアが不自然に話題から目を逸らしたとか、いつになく無言になった──そんな目撃談が囁かれていた。
そうした噂が囁かれる中で、クララのまわりでは不可解な出来事が相次いだ。廊下の壁際から突然香の強い花束が倒れてきたり、セリアの机の脚に謎の滑り粉が塗られていたりと、何かしらの“返礼”が発生することが多くなった。
(また……サヤさん、かな)
そう思いながらも、確証はない。ただ、セリアが舌打ちしながら顔をしかめる様子を見て、クララはほんの少しだけ、胸の奥が軽くなるのを感じていた。
だが、ある日の実技演習中、セリアが霊唱術でクララの足元にわざと風を吹かせ、呪文の詠唱を妨害しようとしたその瞬間だった。
風が逸れて教室の床を滑り、何かに触れたかと思うと、突如、空間がざわめくような気配に包まれた。
光も音もなく、だが明らかに“何か”が怒っていた。
セリアの術式がねじ曲がり、逆流するようにして彼女の手元に弾け返った。
「きゃっ──!」
霊素の奔流が手首をかすめ、セリアはその場に膝をつく。精霊の怒りを買ったのだと、クララは直感した。
「セリア!」
咄嗟にクララは詠唱を開始した。
「風よ、乱れし契約に静穏を。怒れる声を、森の囁きへ還せ──《和風の謡》!」
術が発動し、涼やかな風がセリアの周囲を優しく包み込む。乱れた霊素は鎮まり、傷口には癒しの緑光が灯る。
息を呑む教室。セリアは何とも言えない表情でクララを見上げた。
怒りとも羞恥ともつかぬその顔に、クララはただ、静かに微笑んでセリアの手を引いた。
その場には、イルザやリシュリナの姿もあった。イルザは目を見開きながら息を呑み、すぐさま駆け寄るとセリアの肩に手を添えた。
「大丈夫……? 何をしてるの、セリア……」
リシュリナも顔を曇らせ、怒りを抑えた声で言った。
「術を妨害するなんて、いくらなんでもやり過ぎよ。クララに怪我でもさせたら、どうするつもりだったの?」
セリアは何も言わずに俯いたまま、唇を強く噛みしめた。だがその頬は、羞恥と怒りにわずかに震えていた。
そんな彼女を見て、クララはそっと言葉をかけた。
「セリア、無事でよかった……。本当に、心配した」
セリアははっと顔を上げ、その目に怒りとも困惑ともつかぬ色を宿した。
「……なによ、それ……」
震える声で呟くと、彼女は黙ってその場を立ち去った。リシュリナが驚いて追いかけようとしたが、イルザが小さく首を振って制した。
クララは二人の反応に驚きつつも、どこか胸の奥が痛むような、けれど確かに温かいものを感じ、小さく頷いた。
* * *
夕食後の宿の一室。課題の魔法書を閉じ、クララはふと窓の外に目をやった。空にはまだ淡い陽が残り、どこか遠くで鐘の音が響いていた。
リオの姿を、ここ数日見ていない。
契約従事者として町を離れているのだと聞いてはいたが、それでも彼がいないというだけで、宿の空気はどこか物足りない。
以前は毎晩のように、宿の食堂で顔を合わせていた。訓練の愚痴をこぼし合い、ときにはくだらない笑い話で夜更かしもした。──そんな時間が、いまは静かに、遠のいている。
そのとき、軽いノック音とともに扉が開いた。
「クララ、ちょっといいかい?」
ジルダだった。クララが頷くと、彼女は湯気の立つハーブティーのカップを手渡してくれる。
「ありがとう、ジルダ……」
クララの声には、どこか翳りがあった。それを察したように、ジルダは椅子を引いて腰かける。
「寂しいのかい?」
「……少しだけ。リオ、頑張ってるんだろうなって分かってるんだけど。なんとなく、取り残された気がして」
「そうだねえ。あの子も、ここでは“よそ者”だった。でも、そんな彼が今は町のために動いてる。自分の居場所を見つけようとしてるんだと思うよ」
クララは小さく目を伏せた。「私も、頑張らなくちゃだね」
「うん。あんたたちは違う道を歩いてる。でも、どちらも“自分の道”を見つけようとしてる。それって、寂しくなるくらい真剣ってことさ」
ジルダの言葉に、クララは小さく笑った。
「……ありがとう、ジルダ」
霊唱術と魔法、二つの術理を操る者として、今後どう在るべきか。今はまだ、その答えは出ていない。
けれど、歩みを止める気はなかった。
その先に何が待っているのか。それを知るために──
彼女は再び魔法書を開き、頁をめくった。
いつかまた、リオと語り合える日を信じて。




