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【第三章:風は北東より】第一話:時は流れ、深まりゆくもの

 アストリア術理学院の中庭には、秋の風が落ち葉を巻き上げ、石畳の隙間に入り込んでいた。


 夏の名残を残しながらも、木々はすでに紅や黄に染まり始めており、学院の高塔には薄く朝霧がかかっていた。クララ・モリスは制服の外套を整えながら、石畳を歩いていた。これが秋学期の始まりだ。


 選抜高位クラスの講義は、午前からルヴェリスの指導のもとで始まっていた。霊唱術科における基礎理論を超え、高位精霊との交信や古式霊句を取り入れた実習が中心となる。クララは最前列に座り、集中したまなざしでルヴェリスの手元の構式を見つめていた。


 なお、霊唱術において用いられる詠唱文は一般に「霊句れいく」と呼ばれ、術者の内的な意志と精霊との共鳴を媒介する重要な要素である。


「意識の芯を保ったまま、言葉を“内なる流れ”に乗せる……その上で、精霊への祈願を交えよ」


 ルヴェリスの声は静かでありながら、教室全体に澄み渡るように響いた。クララは指先に微かな緊張を宿しながらも、正確な霊句で応じ、霊素の反応を引き出す。


 彼女がこの日用いたのは、初歩ながらも実践性の高い霊唱術――《癒和の詩》だった。


「芽吹け、小さき命よ。精霊の息吹、我が掌に宿れ」


 クララの声に呼応して、精霊の気配が教室の空間に静かに満ちていく。彼女の掌の上、空気が淡く揺らぎ、小さな緑光がほころぶようにきらめいた。淡い光はやがて霧のように舞い、ひとひらの若葉が芽吹く幻影を残して消えていく。


 教室の後方では、同じく選抜高位クラスのイルザが机の上で何やらごそごそと試薬瓶を並べていた。


「イルザ、危険物の持ち込みは禁止されているわよ」


 セリア・ファインが冷ややかに注意するも、イルザはにっこり笑って首を振った。


「いや、これは“試薬”じゃなくて“共鳴媒質”さ。霊唱との反応性を調べてるんだ。ちゃんと学院の資料にも――」


 その瞬間、教室の一角で白煙と軽い爆音が立ち上がった。


「うわっ!?」「またか……」「三週連続じゃないか……」


 煙の中心に現れたのは、煤にまみれたイルザだった。咳き込みながら立ち上がる彼女の前髪は、見事に縮れている。


「く、くぅ……霊素濃度、予想の三倍……いや、四倍か……」

「先週は赤煙、今週は白煙か。来週は何色かな」


 誰かの小声に、教室の一部でくすくすと笑いが漏れる。

 ルヴェリスは顔色ひとつ変えず、指を鳴らして簡易浄化術を発動し、煙を払った。


「イルザ、次回は構式を提出してから実験を行いなさい。火薬反応は理論演習には含まれません」

「はい、先生……」


 教室の空気が緩やかに戻り、生徒たちはそれぞれに笑ったり、呆れたり、肩をすくめたりしている。

 クララは思わず吹き出しそうになるのをこらえながらも、イルザの顔を見てつい口元を緩めた。

 実習後の休憩時間、クララは構内の中庭に出て、ベンチに腰掛けていた。手帳を開き、今日の霊句と精霊の応答について簡潔に記録していく。


「“芽吹け、小さき命よ”……応答時間、約二秒。反応精霊はおそらく命理系の下位存在……」


 その横から、背後の植え込みをかき分けるような音がして、イルザがひょこっと顔を出した。


「よっ、クララ。やっぱ君、すごいよな。あの応答速度、完全に“祈歌”級だよ」


 霊唱術には段階的な修練の過程があり、最も初歩の「初唱(しょしょう)」から始まり、「祈歌(きか)」「紋唱(もんしょう)」「響導(きょうどう)」「無言(むごん)」、そして伝説的存在とされる「霊謡(れいよう)」へと至る。それぞれが霊精との共鳴の深さと技量を示す階位だ。


「そ、そんなことないよ。ただ、集中してただけ」


 クララは照れくさそうに微笑んだ。


「……にしても、僕の実験、また失敗しちゃってさ。次は霊素と鉱石の共鳴波長、もっと正確に測りたいんだけどなぁ」


 イルザは懲りずに頬をかきながら、自作の装置らしきスケッチを取り出した。

 そこへ、リシュリナが静かに歩み寄ってきた。彼女はクララの反対側に座り、小さく頷くと、簡潔に言った。


「……あの霊句。強かった」

「えっ、ありがとう……」


 リシュリナはそれ以上何も言わず、ただ空を見上げる。褐色の肌に秋の光が差し込み、白銀の髪がそよ風に揺れていた。


 その沈黙が、クララにはなぜか心地よかった。

 だが、その空気を破るように、少し離れた場所から高い声が響いた。


「……精霊って、誰にでも応えるわけじゃないのよ?」


 セリア・ファインだった。中背で白い肌と長いブロンドの巻き髪、碧眼を持つ。洗練された物腰と上品な装いが、貴族階級の出自を感じさせる。ベンチから距離を置いた石畳の上に立ち、彼女はわざとらしく髪を払いながら続けた。


「上手くいったからって、調子に乗ると、あとで痛い目を見るわ。精霊は……気まぐれだから」


 その視線は明らかにクララに向けられている。

 クララは一瞬だけ視線を合わせ、すぐに手帳に目を戻した。

 イルザは眉をひそめながらも、何も言わず、自分のスケッチに集中し始めた。

 リシュリナは目を細めて、ただ一言。


「……弱い音ほど、遠くまで届くのよ」


 セリアは少しだけ眉を寄せたが、それ以上は何も言わず、踵を返して去っていった。

 クララの中で、霊唱術への理解と関係性の輪郭が、少しずつ広がりはじめていた。

 この頃から、クララの霊唱術への理解は深まり、教師たちの間でも彼女の存在が注目されはじめていた。


 特に術式理論科の主任講師であるサールは、クララの構式理解に強い関心を示していた。術式理論科とは、学院で全課程を修めた後に進む研究専攻課程であり、実技から離れた高度な構式解析や術理設計が日々行われている。そこに所属する者は、すでに学院を卒業し、霊唱術や魔法をさらに深く探究したいと願う者ばかりである。


 術式理論科に所属する教員は、伝統的にやや暗めの赤茶色の衣を纏っており、霊唱術科や魔法科とは一線を画する存在である。


 中背で白髪交じりの短髪、深い皺を刻んだ面差しの老術師サールは、元・王立学術会議の主席理論家であり、その知識は学院でも一目置かれている人物だった。


 授業後、サールはクララを個別に呼び出し、静かな語り口で霊句に内在する構式や精霊との位相同期について問いかけた。


「君の霊句には、無意識下の数理的調律がある。これは……教わったものかね?」


 彼の指先は空に数式を描きながら、確かな重みを帯びていた。


「……いえ、多分、ただ……感覚で」


 クララの答えに、サールは小さく微笑んだ。


「感覚。それもまた、理論の外にある“真”のひとつだ」


その言葉に、クララはぽかんと口を開けかけた。頷くべきか否かも判断できず、何とか微笑みを浮かべようとしたが、その笑顔もどこかぎこちない。サールの言葉の意味は、彼女にとって哲学的すぎて、完全には咀嚼できなかった。


 また、霊唱術科の講師ネリオも、クララの実技に関心を示す数少ない教員の一人だった。理論を重視する傾向が強いが、クララの構式運用に潜む精密さを見抜き、時に無言で補足構式を示すこともあった。


 選抜高位クラス内でも、クララはイルザやリシュリナに加えて、ノアやミレリスら上級生と自然に言葉を交わすようになっていった。特に理知的なノアは、クララの術式設計に対して助言を与えることも多く、クララもその冷静な洞察に助けられていた。


 だが、順風満帆とはいかなかった。ごく一部の生徒から、クララに対する敵意が徐々に表面化していた。


 ある講義中、クララが霊唱を始めようとしたその瞬間、胸元に針で刺すような違和感を覚えた。すぐに集中を取り戻し、霊句を唱えきったが、術の反応には一瞬の遅れが生じた。


(……誰かが、干渉した?)


 視線を巡らせても、誰一人として不審な素振りを見せない。だが、霊的な干渉の“気配”が、術場の空気に薄く滲んでいた。


 その場の近くには、魔法科の二年生であるダークエルフの少女・サヤがいた。いたずら好きとして学院でも知られる存在だ。霊唱術科の講義に出席しているはずもなく、彼女は噂に聞く“強大なマナを内包する新入生”──クララ・モリスを一目見ようと、偶然を装って教室近くを訪れていたのだった。幻惑魔法を得意とする彼女は、マナの揺らぎから霊的干渉を読み取る技術に長けている。


(今の……明らかに意図的。それもかなり繊細)


 緋色の瞳を細め、教室の一角に目を向ける。その視線の先には、無言で席に座る生徒――セリア・ファインがいた。


(やっぱり……あの子か。予想通りね)


 サヤはその事実をクララに告げるつもりはなかった。むしろ、楽しむように唇の端をわずかに上げるだけだった。


(隠す気もないなんて、ふふ……面白くなってきた)

(だったら、少しお返ししてあげようかな)


 ──その翌日、講義が始まる前の教室でちょっとした出来事が起きた。


 教卓の上に整然と並べられた教材の中に、一冊だけ見慣れない赤革装丁の書物が紛れていた。セリア・ファインがふと気づき、それを手に取った瞬間、本の表紙がぱかりと開き、濃いピンク色の煙が「ぽふっ」と音を立てて彼女の顔に吹きかけられた。


「きゃっ……!? 何これ!」


 教室がざわめく中、煙の中からはほのかにバラの香りと、羽根が舞うような淡い光が立ち昇った。魔法的な害はなかったが、セリアの金髪が一瞬だけふわふわと膨らみ、まるで菫色の光輪でも乗せたかのような見た目になっていた。


 セリアは赤面しながら急いで手ぐしで髪を整え、辺りを睨みつけた。

 一方、サヤは窓際の席でひとりくすくすと笑っていた。ノートの隅には、例の幻術式──《イリュージョン》と軽い香気術を組み合わせた小細工の構式が、丁寧に描かれていた。


(害はないけど、あれで少しは反省してくれればいいわね)


 いたずら好きの彼女らしいささやかな警告だった。もちろん、クララには何も告げていない。


* * *


 季節は巡り、春の気配が学院の石畳や庭木に淡く差し始めた頃、ある出来事が学院内に静かな波紋を広げた。


 その日、選抜高位クラスでは中級術《炎の環》の実技が行われていた。各生徒が順に霊句を紡ぎ、火の精霊との共鳴を図る。


 クララの番が来たとき、教室内は一瞬張りつめた静寂に包まれた。


「灰より昇れ、環となりて包囲せよ」


 クララの声は、霊素が染み入るように滑らかに空気を震わせる。だが、その瞬間、放たれた火精の現れは、通常の火輪とは明らかに異質だった。


 火花が弧を描き、宙にゆらめく赤熱の環となって広がったかと思うと、円環の一部が鋭く尖り、まるで槍の穂先のように結界へと収束していった。炎は術者の意志に反応するかのように揺らぎ、“貫こう”とする明確な意図を帯びていた。


 講師席から立ち上がったルヴェリスが、すぐに構式を解き、干渉を遮断する。


「……収束、終了。クララ、いまのは……?」


 クララはわずかに目を見開き、困惑したように答えた。


「ごめんなさい……ただ、炎が“刺さる”ような姿が浮かんで……」


 その場にいた数名の教師と生徒たちは、明らかにただの“強調された霊唱”ではないと直感した。

 霊素が、意志によって形を成していた。


 その日の実技講義後、講師陣が集まる小会議室では、ルヴェリスがひときわ静かな声で語った。


「……具現型霊唱術に、踏み込ませるべきかと考えています」


 その言葉に、周囲の空気が一瞬静まり返った。


 具現型霊唱術とは、霊的意志を明確な形として顕現させる高度な術である。通常であれば十年以上の修練と、精霊との深い信頼関係を築いた者のみが許可される領域だ。

 ネリオが腕を組みながら低く応じた。


「……早すぎるとは思わんのか?」

「思います。しかし、クララには“すでに見えている”感覚がある。構式ではなく、意志として霊素を動かしている」


 ネリオは目を細め、言葉を飲み込むように小さく頷いた。

 サールもまた、机上に広げた霊素解析表を指で叩きながらつぶやく。


「論理では説明がつかん……が、こういう現象こそ、理論が追いつくべきものなのだろうな。いつもながら後手だが」


 彼はそう言って静かに眼鏡を持ち上げ、光の反射で目元を隠しながらも、どこか愉しげな声音で続けた。


 そして、ごく少数の教師たちは、その名を口にすることなく思っていた──彼女は“学院の枠を超えた存在”になるのかもしれない、と。

 サールがふと、思案顔のまま口を開く。


「だが、ひとつだけ気がかりがある」

「……というと?」


 ルヴェリスが問うと、サールは指先で霊素波形の記録をなぞるようにしながら答えた。


「クララの術式……いや、霊唱に必要とされる霊素量が、常人とは桁違いだ。彼女の内には、なぜこれほどのマナが備わっている?」


 講師陣の間に、沈黙が落ちた。

 その中でルヴェリスが、言いにくそうに一度息を整えた後、静かに言葉を継いだ。


「……あくまでも予想ですが、クララはエルフの言葉で言うところの“越境者”ではないかと」

「越境者……?」


 サールが眉を寄せた。


「異界、つまり我々のこの世界とは異なる世界から渡ってきた存在。かつて神代の記録において、ごく少数ながらそのような例があるとされている」


 ネリオが重く頷く。


「確かに、常識に収まらぬ術の在り方を見れば、その可能性は否定できん」


「精霊との結びつきの強さも、我々の常識の範疇を超えています。もし越境者であるなら……」


 ルヴェリスの言葉に、室内の空気がさらに引き締まった。

 誰も断定はしなかったが、すでにその想定は静かに共有されていた


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