【第二章:旅の礎】第四話:新たなる門出
朝の空気には、ほんのりとした湿り気と、どこか新しい始まりを予感させる緊張感が混じっていた。クララは深く息を吸い込み、胸元に手をあてる。目の前には、アストリア術理学院の壮麗な門がそびえ立っていた。
リオと並んでここに来たが、今日からは別々の道を歩む。リオは軽く頷き、いつもの調子で言った。
「ま、楽しんでこいよ。妙な魔物でも出たら叫べ。すぐ駆けつけてやる」
「魔物は出ないでしょう、学校なんだから……たぶん」
クララは思わず笑ったが、手のひらは汗ばんでいた。
学院の門をくぐると、石畳が整えられた中庭と、三階建ての本館が目に入る。建物の外壁は白を基調とし、荘厳なアーチや尖塔が高く空を突いていた。広場には既に多くの新入生が集まっており、人間だけでなく、褐色肌に銀髪や黒髪のダークエルフ、小柄なドワーフの姿も見える。金髪で月光のような白い肌を持つ純血のエルフの姿もわずかにあったが、彼らは文明社会にあまり関わらず、学院に在籍しているのは極めて稀である。
異なる文化、異なる種族が交わるこの空間に、クララは圧倒されると同時に胸を躍らせていた。
新入生たちは皆、学院指定の制服に身を包んでいた。深い群青を基調としたローブジャケットに、銀と白の刺繍が静かに光を反射している。クララの制服は一年生の証である白の襟縁が目を引き、左胸には「星と樹と書板」を象った学院の紋章が誇らしげに輝いていた。袖口には霊唱術を象る精緻な刺繍が施され、内側の呪符ポケットには、リネアから贈られた守護札──月光色の小さな水晶が編み込まれた札──が大切にしまわれている。
ロングスカートの裾は足捌きを妨げぬよう切り込みが入り、軽やかに風をはらんで揺れていた。足元の黒革ブーツのつま先には、学院名を刻んだ古文字が薄く光っている。
その日は、入学オリエンテーションとして教員の紹介と規則説明が行われた。
教員たちは皆、白を基調とした長衣をまとって壇上に整列していた。生徒の制服と似た意匠構造を保ちながらも、清浄さと威厳を備えたその装いは、ひと目で“導く者”であることを印象づける。最も目を引くのは、肩掛けに施された光糸の刺繍である。三本線は上級講師、四本線は学院長──そんな階位の象徴が、金や淡青の光で静かに輝いていた。
白いローブの胸元には、それぞれの専門分野を示す文様が縫い込まれており、霊唱術の教師は淡い青の紋を身に付けていた。左胸には術理石を埋め込んだ楕円のブローチが光り、教員ごとの認証符として機能しているらしい。腰には式杖を収めた革製のホルダーが見え、儀式時にはさらに金糸で縁取られた外套を羽織るとの説明もあった。
簡易的な魔力量の測定と、霊唱術の適性を診るための儀式的な試験が行われた。
クララが測定台に立った瞬間、すでに数名の教員が小声で何かを囁き合っていた。その理由は明らかだった──以前学院を訪れた際、彼女が内包し周囲を取り巻く異常なまでのマナ濃度に、複数の職員が動揺を隠せなかったという経緯がある。
改めて測定が始まると、その現象は再び起きた。与えられた霊句──霊精との交感に用いる詠唱句──を声に乗せた瞬間、空気の密度が変わる。風の精霊が即座に反応し、教室の窓がかすかに震えた。彼女の髪が揺れ、足元に淡い風の輪が描かれる。
試験官は測定器具を手にしたまま言葉を失い、ようやく絞り出すように呟いた。
「……やはり、間違いなかったか。この適応力……いや、霊素の共鳴が早すぎる」
他の教員も数名、計測結果の数値を覗き込んでいる。
クララは彼らの反応に気づきつつも、ただ静かに頭を下げた。
その後、午後に行われた初期クラスの振り分けでは、クララは同学年の中でも、理論と実践に加え、特に霊素との高い親和性や術理理解の素養が認められた生徒を集めた選抜高位クラスに選ばれた。各組は十五人ほどの少人数制で、講師が個別に指導できるよう配慮されている。
教室は本館二階の角部屋にあり、高窓からは街の屋根と遠くの山並みが見えた。クララが席につくと、すぐ隣に座っていたのは、小柄で丸顔、濃い茶色の短髪にそばかすを散らした少年だった。黒い瞳が印象的で、どこか素朴な雰囲気をまとっており、クララに気づくとにこりと笑う。
「初めまして。僕、ノーム族のイルザです。風の霊と少し話せるんだ。君もそう?」
「うん、クララって言うの。少しだけど、風が返事をくれたの」
「へえ、やっぱり! 今日の適性試験で君の番のとき、風が動いたの、感じたよ」
イルザは少年らしい好奇心を隠さず、身を乗り出すように話した。その様子に、クララの緊張もやや和らいでいく。
教室の片隅では、他にもダークエルフの少女や、眼鏡をかけた人間の少年などがそれぞれに話し始めていた。誰もが少し不安を抱えながらも、この新しい環境に期待を寄せているのが伝わってくる。
「なんだか、すごく楽しみになってきたね。僕たち、案外すごいコンビかもね!」と、イルザは笑った。
クララは胸の内で、そっと言葉を唱えた──“ここから、始まるんだ”と。
なお、授業や実習の合間には自習や文献整理の作業も任されるようになり、クララはある日、提出資料の誤記を見つけて教員に直接修正の助言を行った。以前であれば“ミリアの印”に頼っていた内容理解も、今では自らの読み書きと理解力で対応できるようになっていた。そのことにクララ自身も驚き、教員のひとりが「……君、異国語話者とは思えんな」と軽く笑ったとき、彼女はようやく実感として“自分の力で学んでいる”と思えたのだった。
翌朝、選抜高位クラスの初回講義として『霊唱術入門』の授業が開かれた。講壇に立ったのは、学院でも数少ない純血のエルフである講師、ルヴェリス=エル=アリューン。彼女の名に含まれる“エル”は、古の一門を示す印であり、続く“アリューン”がその家名にあたる。
エルフ社会では通常、個人名のみで生きるが、精霊との特別な契約や特異な霊素の血統を継ぐ一族にはまれに家名が与えられ、これを“家名持ち”と呼ぶ。その中でも、一門名を冠する者はさらに稀であり、それは特別な霊契や霊統を守り継ぐ一族に限られた名誉である。すなわち、家名と一門名を併せ持つ者は、エルフの中でもごく限られた高貴な存在──“ハイエルフ”として認識されるのだ。
一般的なエルフの寿命は八百年から千二百年程度とされているが、ハイエルフに関してはその限りではない。不老不死とも噂される彼らの寿命は、実際には七千年を超えるともいわれており、その長命ゆえに伝説的存在として語られることも少なくない。
アリューンの家系は、古代において風霊との神聖な誓約を結び、代々その契約を守り継いできたことで知られる。彼らの血には、特に風属性の霊素との親和性が強く宿るとされ、その存在自体が精霊にとって“共鳴の印”ともなる。ゆえにアリューンの名を冠する者は、自然と術理の高位へと導かれ、同族の中でも一目置かれる存在であった。
長身にして端正な顔立ち、月光のように白い肌と金糸のような長髪を腰の下まで届く三つ編みにしており、その姿は見る者の視線を引き寄せる。
彼女は静かに教壇に立ち、まず淡い声で名乗った。「私はルヴェリス。霊唱術科の最先任講師を務めています」
その声には奇妙な響きがあり、教室に流れる空気をわずかに震わせた。
「今日は、霊唱術と魔法の違い、そして“マナ”と“霊素”の基本的な定義について話しましょう。皆さんの理解がこれからの術理のすべての基盤となります」
壁際に掲げられた黒板には、彼女の指先から光が走り、「マナ/霊素」という二つの語が浮かび上がった。
「マナは世界に偏在する流動的な魔力源です。術を動かすための“燃料”であり、魔法や一部の霊術では、その操作と消費が重要になります。これに対し──霊素は“精霊と通じ合うための波”のようなもの。量ではなく質で評価され、精霊の側が“応答するか否か”を決定します」
クララは息を呑んで聞き入った。まさに、昨日の試験で起きた現象がこの理屈で裏打ちされている。
「霊唱術においては、“マナを流し込む”ことではなく、“霊素を通じて呼びかける”ことが核となります。大声で命令するより、小さな囁きが届くこともある──そういう術なのです」
その言葉に、教室内には微かなざわめきが広がっていった。
同じ講義の後半では、霊唱術における“言葉と想念”の重要性が取り上げられた。「霊唱術において、声に出す言葉は儀式ではなく媒介です。本質は“想い”──想念の明確さと精度が、霊素を通じて精霊に届く鍵となります」ルヴェリスはそう語ると、いくつかの霊句を板に示し、それぞれの言葉が持つ響きと意味、そして発する者の心がどれだけ術に影響するかを示す簡易実験を行った。
午前の講義を終えたクララは、学院の食堂で昼食を取るために並んでいたところ、同じ選抜高位クラスの少女と初めてまともに言葉を交わすことになった。彼女はダークエルフの少女で、白銀の髪をポニーテールに結っており、華奢な姿をしていた。名をリシュリナという。
「……クララさん。今日の授業、すごく静かに聞いてたのに、すごく理解してる感じで……それが、すごいなって」
声は控えめだったが、まっすぐな瞳でクララを見つめてくる。
「ありがとう。リシュリナさんも、霊句の理解、すごく早かったよ。私、驚いたくらい」
互いに照れ笑いを交わすと、その空気はどこか柔らかいものに変わっていた。
午後は学院内の施設紹介が行われ、案内役の上級生とともに学舎を巡った。中央棟の食堂では、種族に応じた食材や香辛料が並び、誰もが安心して食事を取れるよう工夫されている。図書館は三層構造で、初級から上級までの術理書が収められ、魔法・霊唱術に関する文献の一部は閲覧申請が必要とのことだった。また、屋外には霊唱術専用の練習場も整備されており、木立に囲まれた円形の空間で精霊との交信練習や簡易唱術の実演などが行われるという。
クララはそのすべてを、新しい世界への入り口として受け止めていた。
加えて彼女は、学院外の活動として、フェンデリア学術協会からの依頼も少数ながら請け負っていた。以前この世界に来た直後に、高校で学んだ知識をもとにした提案──鉱山の換気構造の改善、てこの原理を利用した資材運搬の効率化、水車機構の出力効率向上──が一部の技術者たちの目に留まり、実地検証と改良の末、産業発展に大きく寄与する見込みが立っていた。これによりクララは、改良提案という“知的貢献”に対し、定期的な報奨金を得ることとなり、次学期以降の学費や生活費について、当面の心配が不要となった。
講義と霊唱術の修練に全力で取り組むことができるという安心感が、彼女の表情や立ち居振る舞いにも、わずかずつだが確かに影響を与えていた。
その頃、リオは街の南にあるギルド訓練所で、引き続き修練に励んでいた。体術の基礎を身につけてから三ヶ月、今では格闘術に加えて短剣や棍棒、さらには護身用の刃物など、さまざまな武器の扱いにも手を伸ばしている。
この日は模擬戦形式の実践訓練が行われ、彼は訓練士との一対一の攻防のなかで、回避と反撃の流れを見事に決めた。その動きを見ていた年配の教官が、ぽつりと呟いた。
「……体の芯が通ったな。無駄な力みが減った」
リオは息を整えながら礼をし、武器を納めた。まだまだ完璧ではないが、かつての“見よう見まね”の動きから、ようやく“自分の型”を作り始めている実感があった。
連盟からの評価も少しずつ変わってきており、簡単な荷運びや伝令の仕事だけでなく、最近では短距離の護衛任務にも、単独での同行を打診されるようになってきている。
街に出て三ヶ月、彼自身もまた、この世界での手応えを確かに掴み始めていた。
季節が少しだけ進み、ふたりがそれぞれの生活に没頭する日々が続いた。クララは講義と課題、リオは修練と任務の合間に、ジルダの手伝いや街の仕事にも奔走していた。ときには言葉を交わす暇もないまま夜を迎えることもあったが、それでも毎日が確かに積み重なっていた。
やがて、ふたりがこの街で過ごしてから二ヶ月が経ったある夕暮れ、ようやく少しの余白が訪れた。リオとクララは並んで街の坂道を歩いていた。 講義のことをひとしきり話し終えると、クララは胸元に手を当てながら言った。
「思ったよりも、ちゃんと授業が“聞こえる”の。精霊の反応も……少しずつ、分かるような気がする」
「そっか。俺の方は、ようやく“避け方”のコツがつかめてきた。殴るより、避ける方が難しいってことが、今さら分かってきたけどな」
二人はふと顔を見合わせて、笑い合った。かつての不安ばかりだった日々と比べれば、言葉の調子も、歩く速度も、どこか落ち着きがある。
学院の高塔には、夜間講義のためか明かりが灯りはじめていた。遠くからでもわかるその淡い光が、街の石畳を照らす夕陽に交じって揺れていた。 リオはふと足を止め、塔を見上げる。
「……クララには敵わないな。金を稼ぐ才能ってやつは、鍛えられないのかなぁ」
そう言って肩をすくめると、クララは小さく笑った。
「それでも、ここまで来られたのはリオのおかげ。私、ほんとうに感謝してるんだよ」
その言葉には、照れ隠しも誇張もなかった。ただ真っ直ぐに、リオに向けられた思いだった。
「ここで……やっていけそうだな」
クララは頷き、静かにその言葉を胸に刻んだ。




