【序章:夢の残響】
夢を見ていた。けれど、それはただの夢とは違った。リオにはわからなかったが、それは記憶だった。自分のものではない、誰かの、深く胸にしまわれた記憶。
風が吹く。竹林を駆ける二人の少年。片方は小柄で俊敏、もう片方は背が高く、やや不器用ながらも力強い。
「おい、また先に行っとな」 「わいが遅かだけじゃろ」
互いの名前は、聞こえてこない。ただ、日本語らしいが、方言がきつくて意味はよく分からない。
ふたりは木刀を手に、地面を踏みしめ、型を取り合う。風が吹き抜け、竹の葉が擦れる音だけが響く。
景色がぼやけ、やがてまた新たな光景が浮かび上がる。 蒸し暑い夏の日。ふたりの少年が滝に打たれて笑いあっている。濡れた道着が肌に張りつき、手足に泥が跳ねる。
「なあ、わいはさ、ほんのこて……強うなったどな」 「そうけ? わいん方が、よっぽど剣ん才があっ」
そのやりとりには、羨望と尊敬が交じっていた。
やがて場面は滲み、再び移ろう。 雨の気配がある午後、濡れた地面に木刀で立木を叩く音が響く。
ふたりの少年は、もはや少年というより、鍛えられた若武者のようだった。
顔つきも言葉も変わっていたが、ふたりは順番に、大きな掛け声を上げながら木刀で立木を叩いていた。その一撃ごとに、地面がわずかに震え、雨に濡れた土が跳ねる。剣を振るうその動きだけは、あの頃と変わらぬ息の合い方を見せていた。
「……わいん剣は、迷いがのうなったな」 「わいん方こそ、一撃が重うなった。音を聞いただけで、木がはじけそうやったじゃ」
ふたりは、ふっと笑い合う。柄にもなく互いを褒め合ったことに、どちらも少し気恥ずかしさを感じていた。照れ隠しのような笑いだった。土砂降りの気配が近づいていたが、どちらも気にしていない。
「わい、家に来んか? おっかんが飯を作って待っちょい」 「そんた……良かね。馳走になりけ行っか」
木刀を納めたあとは、ふたり並んで歩き出す。土の匂いと雨の気配が混じる夕暮れの中、肩を並べたふたりの背に、どこか安心したような静けさが漂っていた。
そして、記憶は霞み、声も姿も霧に溶けていった。
リオは、ゆっくりと目を開けた。胸の内に残る、妙にリアルな感情と感触。
誰かの名も知らぬ記憶。しかし、それは確かに、彼の夢の中で生きていた。
夢の中の男たち。
あれは誰だったのか。
なぜ、あの声が自分に問いかけてきたのか。
リオ・ナカムラは、濡れた額に手を当てながら、何度も深く息を吐いた。
ただの夢……。
そう思おうとするたびに、あの光景が脳裏に浮かんでくる。
竹林を駆け、滝に打たれ、木刀で立木を叩きながら掛け声をあげるふたりの若者。名前も顔も知らない。
剣を交え、笑い合い、肩を並べて夕暮れの小道を歩いていた。
誰の記憶なのか。
なぜ、自分がそれを見たのか。
リオはゆっくりと体を起こした。寝具から出ると、部屋の空気がひどく冷たく感じた。デジタル時計に目をやる。まだ午前四時過ぎ。街は静まり返っている。
階下のキッチンに降り、コップに水を注ぐ。冷たい水を喉に流し込みながら、額をもう一度拭った。
夢――ただの夢のはずだ。だが、あまりにも鮮明だった。
木々の音、土の匂い、掛け声、木刀が手のひらに伝える重み。あれは本当に――誰かの記憶を覗き見たのではないだろうか。
夢と言うには、あまりにもリアルすぎた。
思わず口に出た呟きに、答える者はいない。ただ冷蔵庫のモーター音だけが、一定のリズムで鳴り続けている。
しばらくして、リオは窓の外を見つめた。薄明かりのない夜空の中に、月はひとつだけ静かに浮かんでいた。
彼は、もう一度大きく息を吐き、空になったコップをシンクに置く。
リオ・ナカムラの曽祖父は、太平洋戦争中に南方戦線で戦った旧日本軍の兵士だった。
終戦後、遺品の一部はアメリカ兵によって持ち帰られ、戦後数十年を経て、家族のもとへ戻された。
祖父の代に一家はアメリカ本土へ移住し、言葉も文化も異なる地で長い時間をかけて定住した。
暮らしは決して裕福ではなかったが、慎ましく安定していた。
リオはその三世代目として育ち、学業に秀で、努力の末に州立大学へ進学した。
現在は夏季休暇のため実家に戻っており、今日は曽祖父の遺品が展示される特別展の初日だった。
その鍔は、地元の博物館に貸し出された品のひとつ。
展示協力者として名を連ねたリオは、来賓の一人として会場に足を運ぶことになっていた。
博物館には、もう一人リオの知人が関わっていた。クララ・モリス。リオと同じ大学で日本史を専攻している同学年の女性で、学外の研究発表の一環としてこの特別展の翻訳補助と解説パネルの作成を担当していた。
クララは日系ではないが、江戸期の武家社会や明治維新に関心を持ち、リオとも歴史講義で知り合った仲だった。快活で議論好きな彼女は、展示準備の過程でリオを何度かからかいながらも、真剣にこの催しに向き合っていた。
その日、彼女もまた、博物館の開会式に立ち会う予定だった。
やがて夜が明けはじめ、リオは寝ぼけた頭を冷やしながら、身支度を整え始めた。シャツを着替え、髪を整え、リビングに戻ってテレビの天気予報をぼんやり眺めていたところで、スマートフォンが震えた。
クララからの着信だった。
「おはよう、寝坊してないでしょうね? 準備できてるなら拾ってあげる。博物館行く前に朝ごはん行こうよ」
通話口越しに、彼女らしい勝ち気な声が響く。リオは少し面食らいながらも、素直に返した。
「え? 別々に行くつもりだったけど……」
「いいの。車出すから、そのかわり朝食おごってね」
強引な提案に、リオは小さくため息をついたが、断る理由もない。何より、こういうところがクララらしいとも思っていた。
それから二人は、クララの車で近くのダイナーへ向かった。店は昔ながらのスタイルで、赤い革張りのブース席と銀のカウンターが朝日を反射している。
メニューを手に取りながら、クララはすでに話を始めていた。
「今回の展示に出てる日本兵の遺品、鹿児島あたりの出身者のものが多いって話よ」
「へえ、なんで分かるの?」
「出征旗に出身地が記されてたり、写真の裏書きや持ち物にヒントがあるの。文献的に確証とは言えないけど、地域的な傾向はあるかなって感じ」
リオは感心したように頷いた。「なるほどな、そんなとこまで見てるんだな」
「まあ、私としては鹿児島出身の資料を見るとワクワクするのよ。だって、当時の米軍が鹿児島弁を暗号と勘違いして、現地にいた日系人に解読させたってエピソード、知ってる?」
「知らない。マジで?」
「本当よ。鹿児島弁があまりに通じなくて、通訳まで『これは暗号です』って言ったらしいの。そりゃ戦地で混乱するわよね」
リオは吹き出しかけた。「それ、むしろ兵士の地元言葉に気づいた人がすごいな」
「そうそう。だから最初、リオの曽祖父って聞いて、ハンジロウ・ナカムラの末裔かと思ってたんだけどなあ」
「誰、それ?」
「えっ、中村半次郎、知らないの? 明治維新の頃の薩摩藩士よ。めちゃくちゃ強くて、西郷隆盛の右腕みたいな人。西南戦争でも最後まで戦ったし、名前も『半次郎』ってかっこいいでしょ」
「ふーん……知らなかった」
「ハンジロウ・ナカムラ。語感もいいから、勝手に妄想してたのに」
「いや、うちのルーツは鹿児島じゃないよ。アメリカに移民してきた祖父は東京出身だけど、その父親――つまり俺の曽祖父は大阪生まれらしい」
「残念」
クララはそう言って、コーヒーをもう一口飲んだ。リオは苦笑しながら、その明るさに少し救われる気がした。
「日本も暗号には苦労してたのよ。アメリカ軍がナバホ族の言葉を使ってたの、知ってる?」
「コード・トーカーってやつ?」
「そう。それが本当に解読できなかった。日本の暗号部隊が全力で解析しようとしたけど、言語としての基礎すら分からなかったの。部族語って、文法も語彙も独自でしょ」
「鹿児島弁が暗号扱いされたのと、ちょっと似てるな」
「そう。方言や少数言語の“通じなさ”って、戦争では逆に武器になるのよ。歴史って皮肉だよね」
クララはカップを置き、すっと視線を窓の外に向けた。一瞬の沈黙ののち、低い声で話し始めた。
「……私の曾祖父はね、海兵だったの。硫黄島から帰還した数少ない兵士のひとり」
唐突に語られた言葉に、リオは少し驚いて彼女を見た。
「多くの仲間を失って、地獄みたいな戦場だったって。でもね、日本兵のことを決して悪く言わなかった。むしろ、互いに死力を尽くして戦った“敵”として、敬意を持っていたのよ。彼、晩年までその話だけは変えなかった」
リオは何も言えずに、ただ頷いた。クララは柔らかく笑って続けた。
「だからかな。私は“あの時代”を一面的に見たくない。血と泥にまみれていたけど、人の誇りや矜持も確かにそこにあったはずって思ってる。曾祖父のこと、尊敬してるの」
リオは、クララがただの歴史オタクではないことを改めて感じていた。その語り口には、感情の深みと個人的な記憶が滲んでいた。
クララはふと、リオの顔をじっと見つめた。
「ねえリオ、あなたって……たまに、本当に“今”の人に見えるなって思うの」
「……どういう意味?」
「悪い意味じゃないよ。なんていうか、あの時代の武士とか、明治維新の人たちと比べると、ずっと柔らかい。線が細くて、剣よりも本を取るような人」
リオは少し目をそらして、照れたように笑った。
「それ、褒めてるのか?」
「半分はね。でも……あなたって、あの時代に生きてた人たち――曾祖父や、戦場を生きた人たちとは、きっとまったく違う価値観の中で育ったんだと思う。
それって当然なんだけど、ふとした時に、不思議な気持ちになるの。まるで、すごく遠い場所から来たみたいに見えることがあるのよ」
「……そうかもしれないな」
少し沈黙ののち、リオはふと顔を上げた。
「じゃあ、クララ。君は“戦場を生きてきた人”なのか?」
クララは一瞬まばたきし、それからわずかに目を細めて笑った。
「違うよ。私はただ、あの時代に生きた人たちのことを理解したいだけ」
リオは、バターがゆっくり溶けていくパンケーキを見ながら、その言葉の重さを反芻していた。
店内には、穏やかな時間が流れていた。
隣のテーブルでは、新聞を広げたビジネスマン風の男が、スクランブルエッグをフォークで崩しながらコーヒーをすすっている。記事の見出しを眉をひそめて追う彼の姿は、まるで世界の終わりでも予言されているかのようだった。
カウンター席には、いつもの老人がいた。シワだらけの手でマグカップを握りしめ、カウンターの中にいる若い店員と、昨日の野球の話で盛り上がっている。店員は笑いながらも慣れた手つきでベーコンを焼き、話を聞いているのかいないのか、ちょうどよい距離感を保っていた。
厨房の奥からは、小さなラジオのカントリー音楽が聞こえてくる。油の匂いと混ざり合いながら、店内の空気に静かに溶け込んでいた。
すべてが、変わらない朝だった。何も起こらず、何も変わらない――そんなはずの朝だった。
そんな風に、思えていた。
あらかた食べ終えたあと、二人はゆっくりとカップの底を見つめていた。コーヒーの温度はすでに失われ、パンケーキの端にはシロップの輪郭が乾き始めている。
「……ちょっと早いけど、そろそろ行こっか」クララが言った。
リオは頷き、財布から数枚の紙幣を取り出して、テーブルの端にチップを置いた。席を立つと、革張りのブース席がわずかに軋む音を立てた。
ドアを開けると、朝の光が差し込んできた。空はすっかり明るくなっていて、駐車場のアスファルトも微かに温かみを帯びていた。
クララの車に乗り込むと、車内には彼女がいつも聴いているプレイリストが流れていた。静かで、旋律が淡々と流れるインストゥルメンタル。エンジンがかかり、ゆるやかに車が発進する。
車は、朝の光に包まれながら、静かに街を走り出していった。