8 呪われた過去、焼印
「それを見かねて声をかけたのがあたしだった」碧が言う。
彼女は夏南の向かいにまたあぐらをかいて座り、ビールを飲む。そしてひとしきり夏南の反応をうかがったあと、話をつづける。
「でも残念ながら、あたしが声をかけてもあんたは無視したよね? 何を言ってもいつもどおり下を向いて、ただただみんなとの壁を必死に作ってた。それか、自分の内側にケンメイに引きこもってた。その様子を見てさすがのあたしも仲良くなるのは無理だとあきらめた。だって投げたボールが全然返ってこないんだから、どうしようもないって。
でもあとで知った話だけど、カナは下田にくるまでずっと、クソみたいな父親にギャクタイされてたんだってね。どんな内容かまでは知らない。でもその経験がカナの人格形成に一種の『ゆがみ』を生じさせたんだとあたしは思ってる。それでそのギャクタイに気がついた母親が、我が子を守るためにあんたを連れて下田にある自分の実家に逃げるように駆け込んだ。そのころにはカナは自身を守るためか他人を遠ざける空気をまとうようになり、近所でも『不気味な子供』だとかげでウワサされてたってわけ。
でも時が経つにつれて、カナは徐々にではあるけれど、人と話せるようになってきた。たぶん下田にあんたの父親が現れることはなかったから。だからカナもここなら安全だとわかってきたんだろうね。あんたの親父も、弱い子供にあたるようなろくでもない奴だから、きっとほんとはゾウリムシみたいに気が小さくて、結局怖気づいたんじゃない? どのみち単身下田に乗り込んでくるほどの度胸はなかったってわけだ。
嫌な因果だけど、うちなんて両親共にいないじゃん? だから結局のところ、改めて話してみるとカナとは次第に打ち解けていって、しまいには意気投合したよね。カナを守ってやりたいとも思ったし、それに心が通じ合えるっていうか――。まあ、あたしは容姿もイケてるし、気も強かったから、いつだって女子の中心人物――リーダー的な存在で、野暮ったいあんたとつるむのをまわりはキミョウに思ってたみたいだけど。でもそんなのおかまいなしでお互いの家を何度も行き来したよね。一緒に海で泳いだ。水族館にも行った。楽しかったな。高校は別々だったけど、それでもちょくちょく会ったり、ケータイで連絡を取り合って、カナは一方的にあたしのグチを聞いてくれた。ただ気に食わないのは、あんたは一切弱音を吐かないんだな――ただの一度も。すぐにおろおろするけど、その内面は他の誰よりも意志の強い子だったよ。あんたが今の実家の家族に迷惑かけないために、人知れず努力や我慢をしてたのは、近くで見てきたあたしが一番に知ってるつもり。
べつに恩を着せるってわけじゃないけどさ、あたしら二人けっこううまくやってたじゃん。それでもカナ、あんたはあたしとも距離を取りたいって言うわけ?」
夏南はその場にドサッと倒れ込む。
自分の知らない自分自身の過去の話を色々と聞かされて、話の途中から情報が堰を切ったみたいに溢れ出して意識が混濁し、朦朧として、目の前が暗くなっていく。まるで夜の帳が下りていくみたいに。迷惑をかけちゃいけない。必死に我慢するものの、こらえ切れず突っ伏して、そのまま畳の上で意識を失う。
たとえどんな過去だろうと俺が全部受け止めてみせるよ、と男は言う。そのあと少し気恥ずかしそうに安物の指輪を差し出す。セックスのあと、男は決まって裸のまま煙草を吸いながらベース・ギターを指で巧みに弾く。まるで古来よりつづく神聖な儀式であるかのように。その音色が――かつて心地よかったはずの音色が――いつからか不快に思えてならなくなる。定時より早く仕事から帰宅すると、男は毎度知らない女を部屋に連れ込んでいる。その都度、ドアをそっと閉め、近所の公園のブランコに座り、気持ちを落ち着けようとする。草むらの陰で愛おしそうに我が子の毛を舐める野良猫の母。柵の上でひたすら警告するように鋭く啼くカラス。手で塞いでもやまない耳鳴り。気持ちの整理なんてつけようがない。ただどす黒い感情が、重油みたいにどろどろと心の奥底に溜まっていくだけ。君だけを愛するよと誓っていたはずなのに――全部嘘っぱちだ。
この世界は、どこもかしこも嘘だらけ。
安物の指輪をそっと外し、公園内の噴水に思い切り投げ入れて何事もなかったかのようにマンションに戻る。もう少しで帰宅する、と男の携帯電話にメッセージを送りスーパーマーケットに寄ってから。そうして嘘にまみれた日常に戻っていく。でももうこれ以上は、何者にも、騙されたくはない。
せめてこの手には、ほんの一握りでもいいから、真実をください――
暖かい手のひらによって、頭をやさしく撫でられている感触がする。目が覚めると夏南の網膜にはやがて夢依先生の穏やかな顔が体をなす。夏南は夢依先生の家のリビングのソファに横になっているのだとわかる。夢依先生に膝枕をされながら。
「あら、目が覚めたかしら?」夢依先生が尋ねる。
「あ、はい」夏南は答える。まだ頭がぼおっとする。「どれくらい気を失っていましたか?」
「二十分くらいよ」
リビングは妙にしんとしている。テレビもついていなければ、音楽もかかっていない。静寂だけが聞き耳を立てるように物陰に潜んでいる。
「私、どうしてここに?」
「岩田さんが夏南ちゃんをおぶってうちの診療所の門を叩いたのよ。びっくりしちゃった。でも、いい子ね、あの子。本気であなたを心配していたわ」
「アオイ――岩田さんはどこに?」
夢依先生は言う。「大丈夫だからって安心させて家に帰したわよ。夏南ちゃんが目を覚ますまで、子猫を見守る母猫みたいにずっと付き添っていそうだったから」
「そうですか」夏南は申し訳なさそうに言う。
「明日は大事を取って夏南ちゃんは仕事をお休みしましょうか」
「え、でも、私なら大丈夫です」
「心配しなくていい」夢依先生は夏南の顔を覗き込む。そしてしっかりと眼を合わす。「京華ちゃんだっているんだし、あなたはもっとまわりの人を頼ることを覚えなさい」
夏南は洗面所で服を脱ぎ、それを軽く畳んでバスケットに入れ、浴室に足を踏み出す。シャワーの勢いと湯の温度をちゃんとたしかめて頭から一気に浴びる。そして自身の身体を隈なく(性器の中でさえ)繰り返し何度も点検する。父親による――あるいはかつて父親だった者による――虐待の形跡が残っていないかを調べるために。でもその肌は少女の肌のようにただきめ細かくつるりと滑らかであることを訴えるばかりで、どこにも異常は見当たらない。鏡に映してみてもいつもの彼女だ。母が虐待に気づくまでに期間があったことを考えると、痕が残らないような方法で痛めつけられたのかもしれないと夏南は思う。どこまでも臆病かつ狡猾に。
でも夏南は自身の股の内側のつけ根に焼け焦げたような一点のしみを見つける。それはよく観察しないと気がつかないくらいに霞んではいるが、おそらく煙草による火傷痕だ。火傷痕を見つけた瞬間、彼女は背筋の凍る思いをする。紛れもなく呪われた過去の証だから。こんなところに自らの痕跡を残すなんて、私の父はまともではない。夏南は失意の中、火傷痕らしきものを何度もスポンジでこすって落とそうとする。でもその行為を嘲笑するかのように火傷痕が消える気配はない。まるで前時代の罪人が押された焼印のように。
夏南はしばらく前のめりに崩れ落ちる。後頭部にはシャワーの湯が勢いよく飛沫を上げ、首の裏側から首筋にそって湯がつたい、目線の先に滴っている。
誰か、助けて――
夏南が何とかパジャマに着替えて歯を磨いてからリビングに行くと、夢依先生が読書灯をつけてソファに座りレイモンド・チャンドラーの「ロング・グッドバイ」を読んでいる。彼女は夏南に気がつくと分厚い文庫本に栞を挟んで顔を向ける。
「シャワー、長かったわね、気分はどう?」
「わかりません」夏南はぼそりと答える。
「これは提案なんだけれど、一度設備の整った大きな病院で診てもらわない?」
夏南は首を振る。「精密検査なら、下田にくる前に徹底的に受けました、結果、原因不明だって。それにここを離れたくありません」
「そう、困ったわね」夢依先生は天井を見上げる。
「今日はもう休みます」
夢依先生は顔を戻して頷く。「そうね、まずはゆっくり休んでから考えましょう。何か異変があったらすぐに相談するのよ」
夏南ははっきりと頷く。でも彼女の中ではすでに異変なら起きている――そしてそれを押し隠す。万が一、入院なんてことになったら、今の――夢依先生との――生活が終わるかもしれない。それこそ彼女の一番望まぬことだ。口の中が微妙に乾いている。夏南はゆっくりと喉元に唾を送り届ける。
「おやすみなさい」夏南が言う。
「おやすみなさい」夢依先生が言う。
カーテンの隙間から日が差し込み、窓の外では、雀が囀りあっている。その向こうでしきりに鳴く蝉の声はさざめくようだ。
翌朝、夏南は快調に目が覚める。カーテンを開き、朝日を浴びながらうんと背伸びをしてみると、身も軽く、呼吸も深い。全身にほとばしるほどの精気が還っている。もう大丈夫、と夏南は何度も自分に言い聞かす。
彼女がリビングに行くと、キッチンでは紺のエプロンをつけた夢依先生が鉄製のフライパンでマッシュルームとエリンギのオムレツを焼いていて、ほどよく焦げたバターの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「おはよう、夏南ちゃん」夢依先生は言う。「よく眠れた?」
「はい、お蔭様で」夏南は首の後ろをさする。
「もうちょっとで朝ご飯ができるから、ゆっくりしていてくれる?」
夏南は申し出る。「お手伝いします」
「大丈夫」夢依先生は熱したフライパンを濡れた布巾の上に置いて微笑む。「あまり誇れることじゃないけれど、私はこれでも独身歴は長いんだから」
調子がいいので今日も仕事に出られるという夏南の意見は通してもらえない。それどころか原因が判然としない以上、無理は禁物よと夢依先生は釘を刺す。でも一応彼女には夏南が気を失ったメカニズムに心当たりがある。ただそれを本人に伝えるには今一度設備の整った病院での精密検査が望まれる。
朝食を済ますと、夢依先生がてきぱきと片づけをし、悠然と仕事に行く支度をする。夏南はすることもなく、食卓の席についたままその様子をじっと観察している。出掛けに夢依先生は玄関で、見送りにきた夏南の方を向いてじっくりと瞳を覗き込む。
「いいこと? 今日はしっかり静養するのよ」
「はい」夏南は答える。「いってらっしゃい」
「いってきます」
夢依先生は口角を上げて手をひらひらと振る。そのまま菫色のフレアスカートの裾を翻して一階への階段を下りていく。
その後ろ姿を見届けると、夏南はパジャマ姿のまま、リビングのソファに仰向けに寝転ぶ。考えてみれば、この「山本診療所」にやってきて以来、ひとりで休日を過ごすのは初めてだ。一体何をすればいいんだろう。彼女はそう思い、旺盛な蝉の声を聴きながら、しばらく天井を眺める。耳を澄ますと色んな蝉の鳴き声の中に、つくつく法師の鳴き声が混じっている。思い返せば初夏に夢依先生との共同生活が始まって、もうすぐ夏も終わろうというのだ。この穏やかな暮らしが、いつまでもつづけばいいのにと彼女は思う。夢依先生と一緒にいられるならば、失った過去の記憶なんて、もはやどうでもいい。
そうしてしばらくのあいだ彼女は、クーラーのきいた部屋で、賑やかな蝉の合唱を聴くともなく聴いている。
午後一時半ごろに、誰かが一階から二階の住居への階段を足早に駆け上がってくる音が聞こえる。
夢依先生の足音ではないのが夏南にはすぐにわかる。夢依先生の生活音はもう正確に耳に記憶してあるから。いつだって所作が小川のせせらぎのように淀みなく静かなのだ。夏南はパジャマ姿のままソファに寝転んでテレビのワイドショーを観ていていたので、慌ててリモコンでテレビを消し、居住まいを正す。そして何者かの到来に備える。来院者が間違えて二階の居住区に入ってこないように、玄関扉にはしっかり鍵がかけてある。それに今の時刻は診療時間外だ。その鍵がカチャリと音を立てる。そして勢いよく玄関のドアが開く。考えてみれば、来客はこれまでに――夏南の知る限り――一度もない。夏南は息を呑んでそれを見守る。緊張して、赤いハート型のクッションをひしと抱きしめながらも。